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ハンカチは何の迷いもなく森の中を進み、時々方向を変えながら飛び続けていた。
しばらくすると、わずかに水音が聞こえ始める。スイは思わず拳を握り締め歓喜した。飲み水に適しているかはわからないが、水源を発見したというだけで生存率は格段に上がったと言える。
導かれるままに茂みを越えると目の前に川が現れ、驚いたことに川岸に小屋がぽつんと建っていた。
一晩過ごせる場所があればと思っただけでまさか本当に見つかるだなんて……。空き家だったらさらに嬉しいけど、家主がいるかもしれないからここは慎重に行こう。寝床が確保できなくてもせめて飲み水くらいは手に入れたい。
わずかな望みを抱きつつ小屋のほうへと向かう。先を行くハンカチも小屋を目指して飛び、一足早く到着すると小屋の玄関前でクルクルと旋回していた。
木々のさわめきや川のせせらぎが心地よい。パシャリと水が跳ねた音がしたほうを見る。もしかしたら魚がいるのかもしれない。
しばらく感じていなかった自然の息吹が身近にあるというだけで、知らず知らずのうちに緊張感がほぐれていった。
小屋の前まで来ると、思っていたよりかなり立派な家だというのがわかった。すぐ隣の大木との対比でこじんまりとして見えただけで、小屋自体は決して小さくはなかった。それに玄関先に色とりどりの花が植えてあり、誰かが住んでいることを知らせている。
スイは旋回しているハンカチを回収するためにさらに一歩前に踏み出した。
その時———。
「あら、誰かと思ったら……久しぶりね!」
勢いよく扉が開いたかと思ったら、現れたのは髪の毛を頭の高い位置で結えた快活な少女であった。
ニコッと笑う彼女に呆気に取られ、一拍置いてからスイは「あっ」と声を上げる。
「お婆さんに変装してた人!」
「うっ……確かにそうなんだけど、なんかちょっと嫌な思い出され方ね……」
少女は笑顔を引き攣らせると軽く咳払いをした。
「それで? ここへ一体何の用かしら?」
「用というか……飲み水を少し分けてもらえませんか? できれば食料も」
「やだ訳ありなの? まぁこんなところに来る時点で何かしらの事情があるわよね……。ちょっと待ってて。先生に確認してくるから」
少女は腕を組みスイのことを軽く観察するとくるりと踵を返した。栗色の毛先が空を薙ぎ、小屋の奥へと引っ込んでしまう。
先生というのはこの小屋の主人のことだろうか? 何にせよ生き延びるために最低限必要なものを分けてもらえるなら文句はない。ついでに一晩泊まらせてくれるなら万々歳だが、そううまくいくかどうか……。
自然と出るため息が川のせせらぎにかき消される。
何気なく来た道を振り向いてみた。背の高い草が森の木々とこの場所を分断するように囲んでいる。この小屋はまるで隠れ家みたいだった。
俺も隠居したらこういう所に住もうかな、などと考えていると突然後ろからフードを引っ張られた。
「っ⁉︎」
慌てて小屋の方を見ると、そこにはしかめっ面の年配の女性が立っていた。
「お前さんフィーリスじゃないね? 一体何者だ? どうしてここにいる? その衣はどうやって手に入れた? 理由次第じゃ死んだ方がマシだと思う目に遭わせるけど覚悟はできてるのかい?」
元々ある顔のシワをさらに寄せて矢継ぎ早に質問と恫喝めいた言葉を浴びせてくるので、スイは瞬きするのも忘れて硬直してしまう。とにかく圧がすごい。
「あぁ? まさか口がきけないわけじゃないだろうね? 何でもいいけど頷くなり首振るなりしたらどうだい? ほら、さっさと返事しな。私も暇じゃないんだよ」
「あっ、あの! 水と食料を分けてもらえませんか⁉︎」
「本当にそれが用事かい? そんな格好しておきながらそのためだけにここへ来ただなんて冗談にしては笑えないね」
あまりの勢いと圧力に圧倒されつつも何とか絞り出した要望は、さらなる圧力でねじ伏せられた。乱暴な手つきで胸ぐらを掴まれ、そのまま力任せに引き寄せられると、春の新芽を思わせるような鮮やかな緑の眼球が鋭くこちらを睨んだ。
「拷問は得意じゃないんだよ。できることなら私の手を煩わせないでほしいね」
ピリッとした空気が二人の間に流れる。
嘘など言ってはいない。ここへ来たのは偶然だし、水と食料を分けてもらう以外に用事などないのだ。
「こ、ここにあなたが住んでいることを俺は知らなかったし、あなたが誰なのかも知らないんです。だから何か意図があって訪ねたわけじゃなくて、この森を抜けるために水と食料が必要だから分けて欲しいだけなんです。確かに俺はフィーリスじゃなくて、この服は今は借りてるだけというか……。一から話すとそれなりに長くなりますがそれでもいいですか⁉︎」
こうなったら全部話して信用してもらうしかない。何せ事情が複雑すぎる。いろいろありすぎて、この人が納得するようなかいつまんだ説明をできる気がまったくしないのだ。
監視役のフィーリスから借りてきたこの服も、フィーリスじゃない俺が着ていることが問題らしい。たぶん俺よりもフィーリスについてよく知っているのだろう。そんな相手に俺の今の状況を隠したところですぐに気づかれてしまうし、現に今拷問されかかっている。
今優先すべきは拷問回避だ。
「ふざけんじゃないよ。手短に話しな!」
「そんな無茶な……」
どう頑張っても手短になんて無理だ。これまでの経緯もなく、フィーリスの庁舎から逃げてきましただなんて言おうものならもっと誤解が深まりそうだ。しかもラオザームのこともある。
言葉は慎重に選ばないと拷問まっしぐらだ。
スイが知恵を絞ってなんとかしようと試行錯誤していると、小屋の奥から声がかかった。
「ねぇ、いつまで玄関先で話してるの? お茶の用意できたわよ?」
最初に出てきた少女が不思議そうな顔をして腰に手を当てている。スイが胸ぐらを掴まれているこの状況に動じる様子は一切なく、早くしてよねとだけ言うとまた小屋の奥に引っ込んでしまった。
呆気に取られていると、ふいに胸元が解放されて少しばかり後ろによろめく。
「話の続きは中で聞くよ。さっさと入りな」
彼女は鋭い眼光でスイを一瞥すると吐き捨てるようにそう言った。
誰もいなくなった玄関のドアは閉じられることはなく、お茶の用意もあるらしい。これは招かれていると思っていいのだろうか……?
怒涛の展開に頭が追いつかないが、とりあえず言われた通り中に入ることにした。




