第八話(最終話)
この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。
◇
「栄養失調だそうですね?」
郁海は、病院のベッドでもりもりとご飯を食べている吉野を見て瞳を眇めた。
そう、倒れた原因は栄養失調。
目が覚めた時、目の前には白しかなくてビックリした。天井も壁もカーテンもベッドも白。その白は病院の白だ。
耳にずっと残っている自分を呼ぶ郁海の悲痛な叫び。「吉野さん!吉野さんっ」と、手を握って彼女が俺の名前を何度も何度も呼び続けているのが記憶の片隅に残っている。
なので、目が覚めた時に看護士さんが呆れたように「栄養不足ですよ、吉野さん」と言った時には正直に言って、違う意味で眩暈がした。仁王が再臨すると‥‥‥
そして、想像通り目の前には背のちっちゃい仁王が立っている。
「はい。その通りです」
吉野の返答に郁海の眉根がぎりっっと寄る。
「入社してから一ヵ月半もの間、ずっっと昼はサラダバーで、夜はカップラーメン‥‥‥?」
食べていたデザートのバナナをそっとテーブルに置く。そして口の中の物を慌てて飲み込んだ。
ヤバい。これは相当、怒っている。
この時間に来てくれたということは、きっと彼女は昼食も摂らずに駆け付けてくれたのだろう。この病院は会社から歩いて十分程の、郁海の家とは反対の方向にある。
郁海の手は真っ白になるくらい握り締められている。
「吉野さん、中学生の時に家庭科を習いましたよね?」
「はい、習いました」
「ちなみに、朝ご飯は?」
「あ‥‥‥の‥‥‥」
「あの?」
口調が切れかかっています。低音です。
「た‥‥‥食べてません」
言ったと同時に般若が郁海の背後に浮かんでいる錯覚が見えた。錯覚だ錯覚。錯覚であってくれ。般若と仁王のコラボレーションなんて本当に勘弁だ。
「あなたは社会人として、自分の体調管理もできないんですか? もともと体が弱くて、どうしても自己管理が難しい人も世の中にはいます。でも、自分の体調を考慮して、ベターな状態で働けるように調整するのは大人として当然のことです。それなのに、朝は抜いて昼は煮た物よりも栄養価の少ない生野菜に、カロリー・塩分ばかりが溢れ返ったマヨネーズたっぷりのポテトやマカロニのサラダだけ? 夕飯もカップめん‥‥‥どうせ卵を入れたりキャベツを刻んで入れたリなんて工夫もしていないんですよね?」
ギロリと睨まれる。
どうしてこいつは心配をしていると目つきが悪くなって睨んでくるんだ‥‥‥
「まったくもって、弁解のしようもなく」
「横領した銀行員のような返事はけっこうです」
郁海が持っていた目安カバンからばさりと紙の束を取り出した。
「見て下さい」
中から出てきたのは食堂に関する改善提案ばかり‥‥‥
「今日は吉野さんの代わりに畠山さんに回ってもらいました。ちなみに、今日は滞りなくどこの部署も仕事が回っていますよ。畠山さんも清水さんも出社してくれています。私が連絡したら、父親を甘やかし過ぎだと怒られてしまいました。ええと、話を戻します。そうしたら、食堂に関する意見がこんなに!」
『サラダバーを毎日食べている人がいます。彼らの栄養が心配です』
『値段の割りには量が少ないです。サラダバーしか食べない人がいるのはそのせいだと思います』
『サラダバーをなくして、煮物バーにして下さい』
『サラダは健康に良さそうに思えますが、あんなにマヨネーズがたくさん入ったポテトサラダばっかり食べていたら返って体に悪いのではないかと思います。食堂をもう少し改善して下さい』
どれもサラダバー関連。
「これだけ意見が統一されているのはおかしいと思って、少し調べてみました‥‥‥これらは全て『よっちゃんの食生活を守ろうの会』のみなさんのご意見だそうです」
「は?」
「吉野さん‥‥‥ご自分が社内で有名人なの、知らないんですか? 開発部の清水さん達が好意で作った会だそうです」
額にわざとらしく手を当てて郁海がはあ、と溜め息を吐く。
「もともと、サラダバーで飢えを凌ぐ若い社員がいることは把握しておりました。ですが、食堂を委託している業者と折り合いが悪く、代わりの業者も見つからなかったので業者変更を先伸ばしにしていたのですが‥‥‥本格的に動くことを先程の役員会議で決定致しました」
「‥‥‥はあ」
「とりあえず、今から社長の家に行って下さい」
「は?」
「いくら即時退院が許可されたといえ、あなたを栄養素のある食糧がまったくないアパートに帰らすわけには参りません! 今日は即刻我が家に行って、栄養のあるものをたっぷり食べていらっしゃい!!」
「え?」
「四の五の言わない!反論は認めません。家には既に連絡してあります。祖母が料理を作っていますから、そのからっ空で背中とお腹がくっついちゃいそうな胃を美味しいご飯で埋めて下さい。あと、ほがらか園にも連絡は入れてあります。妹さんと弟さんも社長宅で待っています」
「‥‥‥」
もう、黙るしかなかった。
郁海はそれだけ言うと踵を返し、病室から出ていこうとする。だが、振り返ってにっこりと笑った。寒っ。
「それから、新聞取扱店の店長の大江氏には一か月後の退職を伝えておきました」
「うげ」
そこまでバレてますか。
「店長さんは快く了承して下さいましたよ。代わりの方はこちらでも探しています‥‥‥今回だけは弟妹を思うやさしい心根に感動したということで不問に処しますが、次に就業規則違反をした場合は覚悟しておいて下さい」
ふっふっふ。という低音の笑い声が怖い。
「す、すみません」
「『すみません』という言葉は、社会人が使う謝罪の言葉ではありません」
そういえば、曽我さんも注意されていたっけ。
『すみません』という言葉は、日常でも頻繁に使われる。ちょっと誰かにぶつかった時、扉を開けてもらった時、落とし物を拾ってもらった時。本来なら『ありがとう』が正しい場面でも『すみません』は使われる。だから、『すみません』は謝罪の言葉であっても、軽く、会社で失敗をした時に用いる言葉ではない。
英語で言う『アイムソーリー』を社会人が日本語で言う時は『申し訳ありません』になるのだと‥‥‥言ってしまえば相手が『すみません』と言っている時は本当に謝罪はしていないかもしれないと考えるべきなのだと郁海から聞かされたことがある。
日本語って難しい。
さらに余談で、海外で日本語と同じ感覚で『アイムソーリー』を言ってはいけないという。『アイムソーリー』は『自分に非があります。申し訳ありません』という意味なのだそうだ。
へえ。
「も、申し訳ありません。ごめんなさい。許して下さい」
うううう、と思いながら思い付く謝罪の言葉を口にする。
「郁海、あんまり苛めるな」
「苛めるなんて人聞きの悪い!」
「昨夜からずっと顔を見るまで心配だって言っていたくせに、いざ本人を目の前にすると小言が出てくるんだから‥‥‥」
「社長っ!」
郁海が真っ赤になっている。
扉を見ると、そこには社長が立っていた。後ろに妹の桜良と弟の祥真がいる。
「お兄ちゃん!」
二人が走り寄ってくる。
「社長、書類は?」
「これから一緒に帰って、やろうな?」
社長は真っ赤な郁海の頭をがしがしと掻き回す。
おお、郁海がおとなしく頷き返すだけだ。
「で、俺から郁海と吉野三兄弟に提案があるんだが」
「「「「提案?」」」」
見事に声がハモった。
「吉野三兄弟。うちに、丁稚奉公に来ない?」
にこっと投下された爆弾発言に部屋の中の未成年が全て固まった。
「丁稚奉公って、なんですか?」
「ああん!そこから説明しないとダメなの? 丁稚奉公って言うのは、子供が親元から離れて商人の家でたくさんの奉公人、その商人の家で働いている人達ね、と一緒に生活を共にしながら雑役なんかをして、将来自分でも店を開けるように修行することだよ。吉野くんは時代劇とか見ないの?」
「僕、知ってる〜。園長先生は大岡越前がもう一度やらないかっていつも言ってる〜」
祥真がにこにこと笑いながら言う。その頭をがしがしと撫でてやりながら吉野は社長を見上げる。
「それは、俺だけじゃなくて桜良と祥真も一緒ということですか?」
「社長、寝言は寝ている時だけにして下さい」
郁海さん、言い回しがお局ではなくオヤジくさいです。
「え〜〜。だって、ずっと綾子さんがひとりなのって心配だし、桜良ちゃんと祥真くんが先に帰って綾子さんと一緒に居てくれたら助かるじゃん。あ、桜良ちゃんと祥真くんは別に働かなくていいからね。でも、お手伝いはしてもらうよ。そうすれば郁海と綾子さんの家事負担も減るし、郁海が先に帰る時には吉野くんにボディーガードになってもらえるし、吉野三兄弟は一緒にいられるし、もちろん、吉野くんの栄養失調も二度と起こらないし」
「いい大人が『だしだし』言わないで下さい」
「お願いします!」
郁海が顔をしかめているのが目に入ったが、吉野はかまわずに叫んだ。自分の力だけで三人が一緒にいられる道を探そうと思っていた。でも、正直に言って無理だというのが社会人になって実感している。
学歴も普通課の高卒。なにか特別手当がつくような技能も持っていないし資格もない。一年後の昇給もそれ程期待できない。
「社長! どうか、よろしくお願いします!!」
俺はベッドの上で頭を深々と下げた。
「わたしも! わたしからもお願いします!! 兄弟三人で暮らせるようにご支援下さい」
ほら! と促して弟の頭も下げさせる。
真摯な顔をして頭を下げる三人を見て無下にできるわけがない。郁海は痛む頭を指先で押さえて嘆息を吐いた。
彼の履歴書を見た。
総務部部長がアパート賃貸の後見人になったことを知った。
そして秘書室に彼が来た。
この時から周囲が自分を除いて、悪だくみをしているのではないかという確信はなんとなくあったのだが‥‥‥
「郁海さん! 郁海さんはイヤ? わたし達と同居はしたくない?」
吉野に似たふわふわの髪の毛、大きな色素の薄い瞳をしている少女。この子がよく吉野さんの話に出て来たローズガーデンファクトリーが好きな、彼の大切な妹。その少女が瞳を揺らめかせて見つめてくる。
秘書にするならばもっと相応しい人材はたくさんいた。
―――確信した。
父の狙いはこの子だ。
悪い意味ではなく、私に年上で社会人以外の同性の友達を作らせようとしているのだ。
なんてありがた迷惑な『故意犯』。
だが、しかし、残業で遅くなることの多い自分達のことを考えると祖母の傍に誰かがいてくれるのは嬉しいし、助かる。きっと祖母は彼らが同居することになったら喜ぶだろう。基本的には人の世話を焼くことが好きな人だから。(‥‥‥でも、吉野さんの同居は反対するかもしれない。男女七歳にして席を同じうせず。などという昔気質な人だから)
それに、この三人はなにも悪くない。
むしろ同情すべき人達なのだ。
溜め息を飲み込んで、瞳を一回だけ閉じた。
そして開く。
「かまいませんよ。私も祖母の傍に誰かがいて下さるのは安心します」
営業スマイルを浮かべてみせる。
その表情を見て、桜良は花がいっきに開くかのような満面の笑顔を浮かべて郁海に抱きついた。
「郁海さん、ありがとう!!」
ぎゅうぎゅうに抱きついてくる桜良の背中をぽんぽんと叩きながら吉野を見ると、彼は(本当にいいのか?)という色を瞳に浮かべていた。本当に感情を隠すのが下手な人だ。
だから、素の顔を浮かべて頷いた。
きっと、今の自分は困ったような呆れたような、でも泣きそうなくらい嬉しい顔をしていると思う。
社長である父の取った、ひとりの社員を優遇する甘い手段。でも、こういう甘さのある人だから憎めないし嫌いになれないし、本心を言うなら好きなのだ。
吉野は妹の桜良に抱き締められている郁海を見て瞳を丸める。突然三人も居候が増えるというのに、彼女は驚いていた割りにはなんというか予想をしていたような態度を取る。
予想?
吉野は社長を見上げる。
社長は吉野の視線に気がついて近付いてきた。
「社長って‥‥‥変に頭が回りますよね」
溜め息を吐く。
この人は、自分と娘の仲を引っ掻き回すことのできる存在を探していたのではないだろうか‥‥‥
郁海と年が近く、会社というしがらみを知らない、しかも郁海よりひとつ下の妹がいる俺という存在。
思い返してみれば、匠工業の就職試験を受けてみないかと誘ってくれた恩師は、ほがらか園の園長とも仲が良かった。
「ほがらか園の園長さんは、俺のダチのオヤジなんだよ」
ニヤリと笑って見せる。
「全部、社長の思った通り‥‥‥ですか?」
「まさか。予想外のことばっかりだ」
と飄々とした笑顔で答える。本当にこの社長は胡散臭い。
「吉野くん、知ってる?」
こういう、先に「知ってる?」と聞いてくる言い回しが親子そっくりだ。
「は?」
「社長はヒーローでなければならないんだ」
突然のぶっ飛んだ発言に俺はぐうっと思わず唸ってしまった。傍で社長を見上げていた祥真がびっくりしている。
「現実をわかっていても、いつだってヒーローのように気高い思想と理想論と正義を叶えるために奔走しなければならない。理想を掲げず私利私欲のために邁進する社長がトップの企業は、優秀な社員から見限っていく」
確かに、北条さんのような人が社長だったら、いろいろな人が‥‥‥特に優秀な女性社員がどんどん次から次へと辞めていくだろう。
「妹と弟のため奔走する若手社員を優遇するのって、美談だよね?」
俺は息を呑んだ。
目が怖い。
なんというか、太刀打ちできないと心底実感してしまった。
そして、思う。
この人を助けたい。この人の力になりたい‥‥‥郁海と同じように。
まあ、前提として脱走しないとか仕事をちゃんとやるならば、という仮定がついてしまうのだが。そして、その仮定は無理だと自分でもわかっている。
「祥真、内緒の話を教えてやる」
「ないしょ?」
「この人はね、王さまなんだよ」
「おうさま?」
「お兄ちゃんは、この王さまの下で働いているんだ。だから、あの、お姉ちゃんはお姫さま」
にこにこ笑って告げると、祥真は笑ってすごーーい!! と叫ぶ。郁海と桜良はふたりして吉野を怪訝そうに見ている。だが、社長は瞳を微かに見開いて苦笑を浮かべた。
「本当に、予想外だよ、吉野くんは」
肩を竦めて笑う。
そして、顔が近付いて耳元に囁かれた。
「但し、俺のお姫さまに手を出そうとしたら覚悟しておけよ」
うわ。
親バカ炸裂。
しかも俺の気持ちなんて筒抜けですか。
さすが社長。侮れない。
「善処します」
俺の返答に、社長は苦笑を返す。
郁海が言っていた。会社で使われる「検討致します」「考えさせて頂きます」「善処致します」はどれも返答としては否を表していると‥‥‥
郁海が桜良に抱きつかれたまま小首を傾げた。
「宣戦布告ってことかい?」
ふっと社長が大人の笑みを浮かべる。
余裕のある大人の、自信満々の笑み。その笑みを浮かべられるようにしたのは誰のおかげだと思っているんですか? と一瞬嫌味にそう思ったが、だが、きっとこの社長のことだ。俺がいなくたって、娘の気持ちにいつかは気付いていただろう。時が早かったか遅かったかそれだけの違い。
でも、その時間の違いは‥‥‥大きな違いではある。
娘と自分の間に、俺という石を投じる。そこから起きる波紋、それが彼の狙ったもの。
そんな手段を講じる男に宣戦布告なんてまだ早過ぎるし、だいいち自分の気持ちだって、はっきりしているようで曖昧な部分も多い。
吉野は自社の社長を見上げて破顔した。
「そうしたい気持ちもかなりあるんですが、困ったことに俺はおふたりの姿を見ているのも好きなんです。なので、いつまでもバカップル親子でいて下さい」
社長とお局は顔を見合わせて、片方は瞳をぱちくりと瞬かせ、もう片方は声を上げて笑った。
「お父さん、吉野さん、なんの話?」
「内緒です」
俺が笑って答えれば、十五歳のお局はぷうっと頬を膨らませた。
でも、黒縁眼鏡の奥の瞳は今はやさしく笑っている。
おしまい
読了、ありがとうございます。
目指せビジネス小説だったのですが、ホームコメディになってしまったような気がします。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しく思います。