第七話
この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。
◇
「北条さんが、社内のパソコンからネット通販?」
運用管理部の曽我氏は以前から北条のさまざまな不正に気付いており、息子を通して社長にリークをしていたのだという。曽我親子は社長親子に協力的で、今回の件も内密で調査してくれていた。
役職の高い曽我氏が社長に近付くよりはと、息子を通して指示をやり取りしていたという。二人は郁海に対してもやさしくて、図書室では顔色の悪い彼女を曽我氏が心配をしていたのだと言う。
北条さんはあの通りの人なので、たっぷり郁海に嫌味を言ってきたそうなのだが‥‥‥
郁海が口元に手を当てて眉をひそめる。
「弱くありません?」
その質問に社長と曽我は互いに視線を交わして、同じタイミングで肩を竦めた。
社内のパソコンから外部のサイトにアクセスするのは匠工業では基本的に禁止されている。誰がどのパソコンからどんなサイトを閲覧したのか、誰が誰に宛ててどんな内容のメールを送ったのか、サポート室ですべて把握をしているのだ。
「彼を弾劾するならば、弱いだろうね。だが、私は北条さんをこの会社から追い出すつもりはないんだ」
社長の言葉に吉野は瞳を丸める。
「一度の失敗で会社を追い出されるのなら、誰だって新しいことに挑戦しなくなる。彼はどんな悪事がバレたのか知らない。証拠がこちらの手に入ったものはネット通販だけだが、他にもいろいろ就業規則違反や不正はしているはずだ。それを改めて、仕事に励むなら今回は許してもいいんじゃないかと思う」
父親の言葉に郁海はやさしく笑って「お父さんはやさし過ぎます」と呟いた。
それは会社で聞いたことのないようなやわらかな声。
「まあ、給料が払えないなんていう最悪の事態は回避されたんだから、北条さんをあまり責めることはできないな」
曽我さんは朗らかに笑って冗談口調で「いっそ、助けなければよかったのにって思わないの? 郁海ちゃん」と、穏やかじゃないことを言う。
「ダメですよ。給料日は、会社にとっては毎月の繰り返しでしかありませんが、受け取る人からしたら生きていく上での糧なんです。こちらの都合で一日だって遅らせてはいけません」
「郁海の言う通りだ。給料は働いた報酬だけではない。給料日は、毎月起こるハッピーであって、迷惑なサプライズであってはいかんのだ」
父親の言葉に郁海はやさしく微笑む。
いろいろな誤解が解けたのだろう。
「吉野くん、悪いけど郁海を家まで送ってくれる?」
曽我と話していた社長は不意に顔を上げて吉野を見上げる。
「郁海は本当だったら今日は休みなんだからさ、帰ってのんびりしてろ」
父親の顔をして社長が笑う。
「でも」
郁海が言い淀む。
「明日も申請通り休むか?」
郁海は困ったような父親の顔を正面から見据えて、そして花がほころぶように嬉しげに笑った。
「私に出社して欲しいですか?」
「欲しいです」
「どうしても?」
「どうしても!」
まるで年の離れた恋人同士のような、甘い言い合いに吉野は苦笑を零す。社長、娘に負け負けです。
「じゃあ、出社します。でも、今日はお言葉に甘えて帰りますね。この格好でいるの、想像以上に恥ずかしいです」
郁海は両頬に手を当てて身を小さくする。
「似合ってるのに〜!」
社長が嬉しそうに親指を立てる。
それに合わせるように曽我さんが「そうだよ。もっと郁海ちゃんもおシャレしなよ」と笑う。
「会社には会社服でくるのが私のルールなんです! こういう可愛い服は、自分へのご褒美なんですよ」
郁海はスカートを軽く持ち上げてくるりと回って見せた。そして、すぐに、自分のした行動に恥ずかしくなったのか両手を口元に当てて壁に向かって固まっていた。
「はっ」
それを見て社長が声を上げて笑う。
「その服って、ローズガーデンファクトリーですよね?」
吉野が首を傾げた。
「嫌いじゃないんですか?」
吉野の言葉に郁海が振り返った。
「確か前に社長が、ローズガーデンファクトリーに郁海さんを連れていったらピンクが着たかったら自分で着ろって‥‥‥」
「あれは、お父さんの言い方が悪いんです!会社で着るなら買ってやるって言うんですよ。小さな頃からローズガーデンファクトリーは私の憧れで、初任給で買うんだってずっと決めていたんです。だから‥‥‥」
郁海はまた壁に向かってしまう。
「に、似合わないのはわかっているんですけど、どうしても欲しくて、今日は雪花お姉ちゃんと選んでいる時に父が来て‥‥‥」
今度は壁に額をくっつけてしまう。
耳や首筋まで真っ赤だ。
「社長、なにをしたんですか‥‥‥?」
曽我が社長を見やる。
「‥‥‥あんな、恥ずかしいっ」
「社長」
郁海が羞恥に全身を震わせ始めた時、明るいあっけらかんとした声が響く。
「ショッピングモールの真ん中で愛を叫びました!!」
いえい♪ と言ってポーズを決めるな、この子持ち!
吉野は、想像するのを辞めた。郁海のこの真っ赤っか具合からして、そうとう恥ずかしい台詞を叫んだのだろう、この人は。
「もう、あのローズガーデンファクトリーには行けない‥‥‥」
なんだか郁海が壁と一体化してしまいそうだ。
吉野は社長に向き直ると「では、壁と一体化する前に郁海さんを送って行きます」と告げる。社長は陽気に「おう!頼んだぞ」と、笑った。
なんですか、このバカップルみたいな雰囲気は。世の中には友達親子という母と娘の関係を指す言葉があるらしいが、このふたりは強いて言えば『バカップル親子』かもしれない。
「郁海さん、行きますよ」
「あ、はい‥‥‥では、お先に失礼します」
郁海は丁寧に振り返ってお辞儀をする。
でも、顔は真っ赤だ。扉を開けて先に彼女を通して俺も一礼をして出ていく。
廊下に出ると、郁海はまだ真っ赤な頬を両手で押さえていた。
「郁海さん、よかったですね」
しみじみと言うと、郁海は顔を上げて、眉根を寄せながらも幸せそうに照れて見せた。
「どんな愛を叫ばれたんですか?」
悪戯心で尋ねてみれば、彼女は本当に綺麗とはこういう表情を指すのだというような、雲ひとつない澄んだ青空のような、澄み切って底がどこまでも見える海のような顔で微笑んだ。
「秘密です」
胸の中の小さな宝物を大事に抱えているような幼い子供の笑い方。
ああ、よかったと心の底から思ってしまう。
もう、あんな号泣をすることはないのだろう。よかった。本当によかった。
「了解です」
笑って返せば、郁海は頬に手を当ててまだ照れている。こいつ、本当に可愛い、と単純に思う。
階段を降りて外に出ると、初夏の風は爽やかだった。
が、ひらひらとした薄手のシフォン生地のワンピースの郁海は寒そうに両腕を押さえた。会社から社長の家までは歩いて十分程はかかる。俺は背広を脱ぐと彼女に差し出した。
「着ます?」
俺を見上げて郁海は小首を傾げた。
「寒いんでしょう? 風邪をひかれたら社長に俺が怒られます」
冗談めかせて言えば、郁海は申し訳なさそうに俺の背広に手を伸ばした。
「では、申し訳ありませんがお言葉に甘えてお借りします」
「あ、じゃあどうぞ」
背後に回って俺の背広を彼女の肩にかけると、肩幅が大き過ぎる。袖に腕を通しても手が出ない。
そういえば、百五十センチないんだっけ。俺と三十センチ以上違うんだ。なんというか雰囲気がデカいので普段は気にならないが、こういうなにか比較するものがあるとよくわかる。
「まるで、中国の人みたいです」
郁海は笑って両袖に手を入れて持ち上げて顔の前で一礼する。中国の歴史映画とかに出てきそうな袖の垂れ具合。
「吉野さんは寒くないですか? 大丈夫ですか?」
寒さに負けて借りたものの急に心配になったのだろう。郁海は吉野を見上げる。
「あ、俺は大丈夫ですよ。筋肉があるんで、冬のがすごしやすいくらいなんです」
「筋肉ですか‥‥‥やっぱり私も、もう少し運動をして筋肉をつけた方がいいのかもしれません。冬は寒くて寒くて。指先が冷えて仕方がないんです」
珍しく、郁海が世間話に答えてくれる。
彼女の中で、今はプライベートということなのだろう。口調も社内よりも子供っぽい。話している内容はババくさいが。
社内から出て、ガードレールのない幹線道路に出る。吉野は振り返って確認をして、車道側を歩く。
そんな吉野を見上げて郁海が微笑んだ。
「吉野さんは父と同じことをします」
「社長と?」
「今、車道側を歩いているでしょう?」
アスファルトに走る白いラインを指差して郁海が言う。
「どれだけ頑張っても、自分はどうせ守られる側だと感じてしまうなんて‥‥‥せっかく守って下さろうとしているのに、バカですね、私は」
ふるふると首を振って郁海が微苦笑を浮かべる。
「郁海さんは、社長にそんなにピンクが好きなら自分で着ろって、言いましたよね?」
吉野の質問に郁海は「はい」と小さく肯定する。
「たぶん、俺も社長と一緒なんですが、こう‥‥‥フワフワしてたりヒラヒラしてたりピラピラしてるピンクとかオレンジとかの可愛いものが好きなんですよ。でも、それは好きであって、自分が着たいわけじゃないし似合いもしないってのは自覚してる。だいいち、俺や社長がそんなの着てたら犯罪です」
「‥‥‥犯罪にはならないと思いますが、確かに社内でもピンクのワイシャツって少ないですね」
「だから、そういうのが似合う人がいたら着てくれたら嬉しいし、見てて幸せだな〜とか思うんです。俺も、妹が可愛い服を欲しいと言ったら頑張って働きますからね」
俺は頭をガシガシと掻いた。
「まあ、俺は未だに妹の好きなローズガーデンファクトリーの服はプレゼントできないんですが」
郁海は黙って吉野を見上げるだけ。話を急かしたり、勝手に納得してこうなんでしょう? と決めつけることなどしない。ただ、静かに続きを待ってくれる。
「男って‥‥‥いや、男がみんなとは言いませんが、俺とか社長みたいなタイプって、好きで可愛いくて大事なものを守ることが生き甲斐なんですよ。可愛くて綺麗なものがあったら壊すんじゃなくて見守っていたい。だから、表面だけでも守られてやって下さい。頼ることが子供の仕事の時もあるんだなって、社長を見ていて思いました」
「頼るのが、子供の仕事?」
「俺達みたいなのって単純なんですよ。缶とかペットボトルとか開けられないから開けてって言われるだけで嬉しくて‥‥‥ただの体格の差でしかないんですけど、そんなこと言われたら開けなくてもいい缶まで開けちゃうくらい浮かれちゃいます」
「ふふ。ここで可愛いとか言ったら怒ります?」
自分よりもちっちゃい少女に「可愛い」と言われるのは正直言って嬉しくない。
「えーーと、社長のためにも心の中だけにして下さい」
本当は俺のためになのだが。
「嫌な考えに聞こえるかもしれませんが、郁海さんが頼ったり甘えたりすることが社長を守ることに繋がってもいるんだと、俺は思います」
吉野の言葉に郁海は息を呑む。
呆然と瞬きを忘れたかのように吉野を見上げたままだったが、息を大きく吸い込んで小首を傾げた。
「吉野さんの、妹さんが‥‥‥もう、あなたの力など借りない、ひとりで生きていくと言ったら、どう思います?」
「‥‥‥ちょっ、それは本気で落ち込むんで想像させないで下さいよっ」
俺は車道に首をやって目頭を押さえた。
ちょっとというか、だいぶというか、できる限り少しでも想像したくない。そんな未来。
「‥‥‥いつか、妹も弟も俺から離れて飛び立つのはわかってます。できるだけ、いい翼を与えたいって思うのは、親バカに近いかもしれませんね」
息を吐き出して、郁海を見た。
郁海は俺を見上げて瞳を丸めている。
「郁海さん?」
「‥‥‥吉野さんは、素敵なお兄さんですね」
春のやわらかな光のような笑顔で郁海が呟いた。
暖かな微笑が浮かんでいる。
穏やか口調で褒められて、俺は息を呑んだ。
郁海が歩き出したので、俺も歩き出す。
ブカブカの背広を着てちょこちょこと歩く。俺は歩調を気をつけて、彼女に合わせる。
なんだっけ、古典で習った。
枕草子だっけ‥‥‥可愛いものをつらつらと書き綴る。
俺だったら、可愛いもの、ピンクのヒラヒラ、真っ白のレース、大きな背広を着た少女がちょこちょこと歩く姿とか書き連ねるかもしれない。
爽やかな青空に、今日はふたつの雲。
彼女の歩調に合わせてゆっくり歩いていると、右の手のひらに細く冷たい感触。見下ろすと、郁海が俯いたまま吉野と手を繋いできたのだとわかる。
たぶん、なにかを言ってしまえば、彼女は「申し訳ありませんっ」とか言ってこの手を離してしまうのだろう。
俺に重ねているのだろうか、亡くなった兄を。
それを思うと切なくて、吉野は黙ったまま、身長と一緒で可愛い手をやさしく握り返した。
ピクリと肩が震える。だが、俯いたまま。
強く握れば折れてしまいそうな小さな手。
この手が脅威のスピードで書類を仕上げたり、図面を折ったり、指示を出したり、打ち込みをしたりするのを知っている。ただ、守られるだけの存在じゃないのだと、父親と共に戦おうと、父親を守ろうと頑張る手だというのを知っている。
大きさで言えば小さいけれど、でもとても存在の大きな手なのだとわかっている。でも、だからこそ、この手を守りたい。この存在を守りたいと思い、働こうと思い、強くなろうと思うのだろう。
実際、俺もそう思ってしまっている。
吉野は急に自覚した自分の感情に戸惑いを覚えつつも、まあ、いいかと軽く思う。
今、握っている手は彼女の家に着けば離されるが、今度は自分から彼女の手を握ればいい。
握れるようになればいい。
簡単なことだ。
いや、振り払われるかもしれないが、まあ、その時にまた考えればいい。
会社に程近い一軒家。あれだけ大きな会社の社長の家だというのに、周辺の住宅とさほど変わりがない。
名残惜しくて離せずにいたら、「吉野さん」と小さく名前を呼ばれた。
「ん?」
と、短く問い返すと郁海が真っ赤な顔を上げて照れ笑いを浮かべる。
「送って下さって、ありがとうございます」
「‥‥‥いや」
「また、会社に戻るんですか?」
「あ‥‥‥はい」
これは暗に手を離せと言っているのだろうか‥‥‥だが、郁海から手を離す気配はない。
しばらくの間、玄関の前でふたりして黙ったまま手を繋ぎ続けてしまった。
ダメだ。このままじゃ。いったん会社に戻らなければいけないのに。
俺は覚悟を決めて「じゃあ、会社に戻ります」と笑って手を緩めた。
「はい」
小さく頷いて、郁海も手を緩める。
大きな手と小さな手が離れた瞬間、景色が歪んだ。
「あれ?」
呟くと同時に、吉野の体は、その場に崩れ落ちた。
「吉野さん!吉野さんっ!?」
郁海が必死に名前を呼んでくるのが、なんだか遠くに聞こえる‥‥‥こんなふうに、誰かに必死に名前を呼ばれるなんて初めてだ。
そんなことをのんびりと考えながら、吉野は意識を手放した。