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第六話

この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。

 

 次の木曜日から、匠工業は(すさまじ)じいことになった。

 郁海が休むと同時に、他部署で庶務の仕事をしている女性陣が示し合わせたかのように体調不良や親戚の法事や子供の熱などで休み出したのだ。

 もちろん、総務部の畠山、開発部の清水も休んでいる。

 困ったことに、各部所の本当の(かなめ)が誰なのかこれではっきりしてしまった。

 皮肉だなあ、と思う。

 部長や課長が突然休んだところで決裁者が変わるだけで仕事は滞ることはあまりないけれど、こまごまとしていたことを一手に引き受けていた庶務陣がいなくなると、仕事はあからさまに滞る。

 潤滑油がなければ機械は壊れるという郁海の言葉は正しかった。

 書類がない。

 判子がない。

 あのファイルはどこだ。

 申請順はなんだ。

 同じようなファイル名のデータがあるがどちらが新しいのか。

 などなど。

 総務部は郁海が音頭を取って仕事のマニュアル化整備を進めていたから、困ったことがあったらマニュアルを探してその通りに進めればなんとかなるが、彼女たちのメールアドレスに届く仕事に関しては把握しようがなく「大変申し訳ありませんが、畠山は本日、休みを頂いておりまして、明日になれば出社すると思いますので、改めてこちらよりご連絡を差し上げます」と答えるしかなかったのだ。 明日、畠山が出社してくれるかどうかは不明ではあるが。

 そして、こちらのがさらに困ったことになっている。頂点で様々なことを決裁をする社長が、どろどろに溶けたクラゲのようになっていて、いっこうに使い物にならないのだ。

「社長、郁海さんと家で話されました?」

「‥‥‥俺が帰ったら、瑞花さんの妹の雪花(せつか)さんの家に泊まりに出かけたって‥‥‥うわあああああ」

 こんな男泣き、見たくない。

 だが、社長からしたら娘に見放された気分なのだろう。

 まったくこの親子は表面上は似ていないようで、内面はそっくりだ。お互いに甘えたいのに甘え方を知らないような、そんな部分が特に。

 昨日の話をした方がいいのだろうか。いろいろ郁海とは話をしたから、どこを話せばいいのか判断に苦しむところなのだが。

 言葉を探していると、社長室の扉が三回ノックされる。

「入りたまえ」

 社長の声に扉が開かれた。そこには自称ヒットマン。

「社長。ちょっとお耳に入れたいことが」

「言ってくれ」

 曽我さんは俺をちらりと見たが、肩を竦めてそのまま社長机に近付いてきた。机を回って屈み込み、耳元に囁かれるのは重大発言。

「今月の給料日、社員に給料が支払われない可能性があります」

「「え!?」」

 社長と俺の声が思わずハモった。

 ここでハッピーアイスクリームって社長の腕をつねったら社長にアイスクリームを奢ってもらえる。なんて馬鹿なことを想像するしかないくらい、その言葉に驚いた。

 ちなみにハッピーアイスクリームとは俺の通っていた小学校で流行っていた遊び。同じ言葉をハモった二人のどちらかが「ハッピーアイスクリーム」と言って相手をつねり、つねられた側は相手にアイスクリームを奢らなければならないという理不尽な遊びだ。

「たぶん、経理部からその旨が回ってくるのは‥‥‥あの北条さんが部長なんで遅くなると思いますが、中のヤツが社長に先に回してくれといいまして‥‥‥」

 曽我は肩を再び竦めて微苦笑する。

「今、この会社で仕事の流れを把握しているような社員は、正社員、派遣関係なくみんな郁海さんに指導をされているんですよ。郁海さんはこの会社一社に限らずに、どこの会社に転職しても仕事のスキルを役立てることが出来るように後輩たちを教育している。本人もそうなるように目指しているし、教育を受けた側もそれをひしひしと感じている。そんなふうに真摯に自分のことを考えてくれる人に指導されれば、会社に対しても愛着が湧く。それを見越しているんです。だから、郁海さんは新人が入ると必ず一日目の『お昼ご飯』を世話してくれるんです。私も同じでした。知ってました?」

「いいや」

「ちなみに私に今の情報を教えてくれたのも、入社したての頃、郁海さんにお世話になったヤツです。郁海さんが、匠工業の社員としてではなく、ひとりのサラリーマンとして立っていけるように後輩を指導しているから、我が社には優秀な社員がたくさんいてくれるんです。会社が泥の船じゃないかと思った時、真っ先に去っていくのは優秀な社員ですからね」

 曽我さんは社長を見下ろして、そして意を決したかのように拳を握り締めた。

 俺が叫んだ時にはその拳は、クラゲのように机にべったり張りついている社長の頭に振り下ろされていたのだ。

 鈍い音が室内に響く。

「郁海ちゃんは、あんたのことが好きだからこの会社にいるんだ! 父親を助けたい、守ってやりたい。だから最善の力で、父親のため、この会社のために頑張ってきた。それなのに、あんたはいつだって『可愛い娘』としての郁海ちゃんしか求めない!! それがどれだけ郁海ちゃんを傷付けているのか、わからないのか!?」

 曽我さんの叫びに思わず俺は拍手喝采!!

 そう、それです!それこそが俺の言いたかったことです!!

 俺の拍手を耳にして曽我さんはこちらを向いた。

 そして、にやりと笑う。

「屋上でのこと、社長に話してやれよ」

「え?」

 なんで知ってるんだ。

 っつーーか、見られていたのか?

 でも、今はそんなことはどうだっていい。郁海の気持ちをこのバカ社長に伝えなければならないのだ。

「社長は、郁海さんが男だったらいいのにって、考えたことありますか? 男だったら会社を継がせて、女だったら嫁がせて‥‥‥でも郁海さんは女の子だ。だから自分を殺して、性別を打ち消してまでこの会社のためになろうと、しているんです。郁海さんがそんなふうにお局になろうとしているのは、お父さんであるあなたに、振り向いて欲しいからなんです」

 瞼の裏に小さな手の幻影が見える。

 お父さん、お父さん、お父さん。

 そう呼びながら走り続ける小さな少女。

 小さな手を懸命に伸ばして、仕事で忙しい父親の背中を懸命に追いかける。

「母親のようにあなたを仕事で支えることもできず、兄のようにあなたから会社を継ぐことを期待されることもない。嫁げというのは、あなたから見捨てられているからなのだと思っています。なんで生き残ってしまったのが自分なのかと、郁海さんが自分を責めていたのを、知っていますか?」

 ダメだ。

 涙腺が緩む。

 でも、少しでも彼女の気持ちを伝えてやりたい。

「郁海さんは、あの小さな体で懸命にあなたを守ろうとしている。昨日の留学とかワーキングホリデーとかはまるっきりの嘘だそうです。自分の将来像も描くことが出来ないくらい、社長、あなたとあなたの会社を守ることに必死になっているんです。まだ十五歳なのに」

 社長は一度マホガニーの机につっ伏した。

 そして毅然と顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「郁海を、迎えに行ってくる」

「はい」

「お願いします」

 俺と曽我さんは同時に頷いた。

「そして、ちゃんと抱き締めて郁海が大好きだって伝えるから」

 背広を手にして社長は早足に部屋から出ていった。

 その後ろ姿は社長ではなく、ひとりの父親だった。

 頑張れ、頑張れ、頑張れ。

 俺はその後ろ姿に心の中で声援を送った。

 扉が閉じられると同時に肩をぽんっと叩かれる。

「さて、吉野さん。俺の悪だくみに、付き合ってもらうから」

 肩に腕が回される。

「付き合わないと、昨日、屋上で郁海ちゃんを抱き締めていたのを社長にチクるぜ」

「抱き締めてなんていません!!」

 思わず言い返すが、目の前には意外な程に真剣な双眸。

「君は、気付いているか?」

「は?」

「匠工業の社長は叔父さん、ひとりだけじゃない」

 曽我の言葉に瞳を瞬かせる。

「郁海ちゃんが傍にいる叔父さん。それがこの匠工業の社長なんだ」

「つまり、郁海さんが会社を辞めたら‥‥‥」

 嫌な予感がする。

「そう、この会社昨今潰れるな」

 うわ。ありえそうなこと言わないで下さい!

「それを、あのバカ役員共はわかっていない。第一、社長業をやりたいなんてよく言える。社長は表面バカだけど、あの人程未来を見据えて会社を運営している人もいない」

「‥‥‥はい」

「吉野さんはなんとなく気付いているんだな。君、この一ケ月半で全ての部署、役員、役職の顔を覚えただろう? それは社長が狙ってしたことだって、気付いているかい?」

「え?」

「君が全ての部署を通るように脱走していたんだよ、あの人。わざわざわかるようにね。郁海ちゃんは気付いていなかったけど」

 曽我さんの言葉に俺は喉を詰まらせる。

「と、いうわけで、その全ての部署の人と話したことのある君に、ある任務を頼みたい!」

 嫌な予感がする。

 俺は、再び嫌な予感を抱えつつも、その言葉に頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 俺が曽我さんに渡されたのは、アンケートの束と肩にかけるカバン。カバンには『目安箱』とマジックで書かれた白い用紙が、ガムテープで貼り付けられている。

 うわ。

 目安箱。なんて前時代的。

 ‥‥‥敢えて褒めるところを無理矢理探すなら、箱じゃないところが斬新、だろうか。

 俺は曽我さんの悪だくみとやらが、まったくもって古くさい手法だということを実感していた。

「動く目安箱・吉野さん」

 総務部で準備を済ませた曽我はにこにことしている。伊東さんはなんだか申し訳なさそうな顔をしている。確かに変わってもらえるなら変わって欲しいですが、腰痛の酷い伊東さんに頼むのは酷だろう。

「では、行ってきます」

 俺は廊下に出るととりあえずエレベーターで七階を目指した。

 今はシャワー効果って言葉は使わないみたいだけど、上から降りていった方がたぶん負担は少ない。

 俺はこれから毎日このカバンを抱えて社内を歩き回るのかと考えて、溜め息を吐いた。

 

 

 

 

 

 社員食堂の人達からマーケティング部、営業部、運用管理部の中の管理室、サポート室、設計開発部の中の設計室、開発室、宅配便置き場のおじちゃんたち、あと会議室の運営をしている人達。一階、二階の工場で働く人々。

 会う人、会う人にアンケート用紙を渡していく。

 外に出て本社工場で働く人達と、とりあえず三階以外の部署の人達のところをすべて回って総務部に戻る。

 後は三階にある総務部、経理部を回れば終わりだ。

 カバンの中にはあまり用紙は入っていない。

 アンケートというものは渡してすぐに書かれて返ってくるようなことはないだろうから、気長に待つしかないだろう。今日の午後も回って、明日の午前、午後と、こまめに回ろう。うん。

 そう考えながら経理部の扉を開けると、そこはざわついていた。女性社員が誰もおらず、男性社員が一台のパソコンの周辺に集まっている。

 自分と同期の社員がいたので尋ねてみると「北条部長がね‥‥‥」と言葉を濁す。

「部長?」

「吉野さんは知らないかもしれないけど、経理部だけ北条特例で、役職つけて呼ぶことになっているんだよ」

 本当に小さな声で教えてくれる。

 突然、ブッと短くパソコンが鳴った。

「なんだ、これは!!」

 パソコンの前に座っていた北条がもう一度キーボードに打ち込む。だが、それもブッと鳴る。

 パスワードが間違っているんだな、あの音は。

「これで合ってるのに!」

 またブツブツ言いながら打ち込む。

 また拒絶する機械音。

 今ので三回。

「あ、あの北条さん、もう打ち込まない方がいいですよ。パスワードは」

 と俺が人波を掻き分けながら止めようとしているうちに、一回、二回とパソコンが北条の『これで合っているはず』のパスワードを拒絶した。

 五回目のエラー音は長音。

「‥‥‥ああ」

「お前は、総務部のひよっこ」

 あら。あからさまな蔑視のお言葉。

 吉野は返って新鮮な気持ちで北条の苦々しい顔を見つめ返した。が、彼は気にせずにもう一度打ち込もうとするが、今回はパスワードを入れることすらできない。

「なんで入れられないんだ!!」

 バンバン!とキーボードに八つ当たりをする。

「あの、北条さん‥‥‥パスワードは五回打ち間違うとログインエラーを起こして、運用管理部サポート室にパスワードの再発行をしてもらわないと、起動できなくなるんですが」

「‥‥‥そんなこと、お前に指図されなくともわかっとる!!」

 わかってないじゃん。

 そう、心の中で思ったが、今の状態で北条に逆らっても不平不満を言い返されるだけだ。

「サポート室の電話番号を」

 経理部の人達は吉野の声に誰も答えようとしない。

 仕方ないので一番近くの机にある電話の傍からクリアファイルに入った電話番号一覧を取り出した。

「内線、2‐1212です」

 そう教えるが、北条部長は電話をしようとはしない。

「‥‥‥あの」

「吉野さん、サポート室に電話しても無駄だよ。今、必要なのは今日休んでいる(ともえ)さんのパスワードなんだ。仮パスワードを発行してもらっても、巴さんがいないから静脈認証のパソコンは起動しない。経理専用端末のパスワードは、巴さんのIDなんだよ」

「‥‥‥なんですか、それ」

「北条部長が、彼女ひとりに押しつけていたんだよ。自分の決裁とかもなにもかも」

「電話とか‥‥‥」

「誰も、彼女のプライベートの電話を知らないんだよ。実家の電話にも誰も出ない‥‥‥」

「留守電は入れたけど、返事が来る気配がないんだ」

 大の大人が揃った経理部なのに、社員ひとりが休んだだけで全員途方に暮れている。

「あの、マニュアルとかないんですか?」

 吉野の問い掛けに「マニュアル?」「マニュアルなんてあったけ?」とぼそぼそとした会話が繰り広げられる。

 えーーと、経理部社員って巴さんひとりがいればいいんじゃなかろうか。

「派遣ひとりがおらんでもかまわん!」

 北条がそっぽを向いて腕を組む。

 えーーと、現在とってもかまわんじゃない状態なのですが。

「でも、今月の給料」

 誰かがぽつりと呟いた。

「今日中に仕上げないと、間に合わない‥‥‥」

 また小さくぽつりと呟いた。

 だが、誰一人として動こうとしたり、北条に判断を仰ごうとはしない。おいおい。

 吉野は意を決して、北条を見下ろした。

「北条さん、ご判断を」

 短く尋ねる。

 北条は腕を組んだまま、そっぽを向いた。

 そして一言。

「知らん」

 その言葉に、この場にいた全員の体が固まった。

 知らん。って、知らんって。知らんってーーー!!

「知らん、ってなんですか!? やることいっぱいあるでしょう? とにかく他の部署とかで巴さんと仲のいい人いないんですか? その人に電話番号聞いて下さい。後はマニュアルを探して下さい。巴さんは入社した時は誰に指導されたんですか?」

 吉野の言葉にひとりふたりと動き出してくれた。

 質問には隣の人が「郁海さんだよ」と教えてくれる。

「郁海さんが指導しているんだったら、絶対マニュアルがあるはずです。きちんとした形でなくてもメモとかノートがあるはず。後、俺が社長に連絡して郁海さんに巴さんの電話番号知らないか聞いてみます」

「うるさい!!」

 吉野の言葉を遮って北条が叫んだ。

「あんなガキに指導された? だからマニュアルがある? なんだそれは!! 子供や女や派遣なんかいなくたって仕事は回る。そうだろう、みんな!?」

 北条が拳を握って周囲を見渡すが、経理部社員は誰一人として北条の瞳を見返さない。

「でしたら、緊急時の対策を教えて下さい。今が、その緊急時だと思いますが」

 俺は溜め息を飲み込んで、尋ねた。

「どうしたら、この事態を回避できるんですか?」

「勝手に休む方が悪い!」

「私達は人間です。急な体調不良で出社できないことだってあり得ます。そういう時の対策は日頃から行うべきじゃないんですか? だから、業務として、改善提案やQC活動に時間を使っているんでしょう?」

 吉野の質問に、北条は喉を詰まらせた。

「北条さんの言葉って、男で正社員だったら仕事ができるってことなんでしょう? だったらここにいる人達で仕事が回るはずじゃないですか。どうして回らないんですか?」

「それは‥‥‥」

「それは?」

 吉野は北条の言葉を待つ。

「お、お、お、お前は年長者を敬うという言葉を知らないのか!!」

 あちゃー。支離滅裂(しりめつれつ)だ。

 吉野は小さく溜め息を吐いた。

 俺、こんなことを言ったらクビかもしれない。

「あなたには、正社員で、男で、年を取っていることしか威張れることがないんですね。どうせだったら仕事ができることで威張って下さい」

 後の北条のキャンキャン声は無視をする。あれは躾のなっていないポメラニアンか、ミニチュアダックスフンド。そんな可愛い存在じゃないけれど、そう割り切って無視をした。

「申し訳ありませんが、巴さんが作ったかもしれないマニュアルを探して下さい。あと、このサポート部に電話して大至急仮パスワードの再発行をしてもらって下さい。私はとりあえず社長の指示を仰ぎます。指示が来ましたら急いでお知らせします!」

 俺は矢継ぎ早にそれだけ言って一礼をした。

 とにかく、急いで社長と特に郁海さんに戻って来てもらわなければ‥‥‥俺の今月の給料が!!

 そんな時に、室内がざわついた。

「よっ!」

 明るい呼びかけに経理部にいた全員が振り返る。

 そこには満面笑顔の社長と、まるでピンクの小薔薇のような少女が立っていた。

 その小薔薇は、たかたかと北条のもとに近付くと「失礼ですが、席を替わって頂けますか?」と命令をした。丁寧語で疑問形だがこれは命令だ。

 北条は息を呑んで「はい」と小さく呟いて席を立つ。

「巴さんが作ったマニュアルは左から二つ目のキャビネットの二段目に、他のマニュアル類と一緒に入っています。昨年のQC活動で五位だった、巴さんの努力の結晶です。同じ部署の方がどなたもご存じないとはどういうことですか!」

 肩のあたりがふんわりと膨らんだパフスリーブのワンピース。胸元には同色のレースが施され、鎖骨が綺麗に見える。高い位置から始まるスカートは何枚もの柔らかな布が重なり、動くたびに風に踊る花片のようだ。華奢なパンプスにおさまった細い足。背中に妖精の羽がないのが不思議だ。うわ、俺って詩人(ポエット)

 見目形は可愛らしいとしか言いようがないのに、お局降臨だ。

 IDとコードを入れて郁海がパソコンを起動させた。

「とりあえずはアドミニストレーターで起動しました。これで作業はできますが、ショートカットなどはすべて飛んでいますので入れ直すことが必要です」

 カタンと立ち上がって周囲を見渡す。

「給料明細の仕事の流れをこの中で一番ご存知の方は?」

 郁海の質問に顔を見渡してひとりが手を挙げた。

「では、お願いします。とりあえず仕事に必要なショートカットなどを作成しておいて下さい。あと、アドミニで立ち上げていますので、余計な操作はいっさいしないようにお願いします。暫定的な対処方法ですから」

 手を挙げた社員はこくこくと頷いて郁海が座っていた椅子に腰掛けた。

「吉野さん。総務部の社長室に一番近いキャビネットに赤いファイルがあります。その中に三段ワゴンの鍵が入っています。緊急事態につき巴さんの許可は得ていますので、鍵番号を確認して開けて下さい」

「はい」

「北条さん。巴さんはインフルエンザで病欠です。昨夜、北条さんの携帯電話にメッセージを入れたそうですよ。ご確認下さい」

「‥‥‥はい」

 北条が苦い薬を飲み込む時のような顔をして頷く。

「では、次に巴さんのパソコンもアドミニで起動させましょう。失礼ですがサポート室からの返信メールだけ確認をします。許可は得ていますし、緊急事態ですからね」

 郁海は電話を取ると電話帳で確認することもなく、内線番号を押す。

 俺は一瞬見惚れていたが、いかんいかん、頼まれた仕事をせねばとメモを取り出して巴さんの三段ワゴンの鍵番号を書き写す。そして走って総務に戻って、鍵を取り出してキャビネットを開ける。赤いフォルダの中から合鍵を探し出して、また扉を閉める。

 部屋に戻ると、郁海が専用端末で作業をしていた。

 近付くと、エンターキーを郁海が押す。

 今度は機械音は響かず、起動の音楽が短く鳴った。

 周囲から拍手が起こる。

 おいおい。

「郁海さん」

 声をかけると郁海が振り返る。黒縁眼鏡をかけておらず、ピンクのふわふわした服を身につけている彼女は、日頃とは随分違って見える。

「すみませんが、郁海さんに開けて頂いていいですか? さすがに女性のワゴンを勝手に開けるのは気が引けて」

「ふふ。いいですよ」

 郁海はやわらかく笑って鍵を受け取って立ち上がる。巴のキャビネットは綺麗に整頓されていて、やりかけの仕事もポストイットが貼られていてどこから続ければいいのかすぐわかった。

 俺は受け取ると専用端末の前で座る社員に届ける。

「これで、とりあえずは通常業務は滞りなく進められますよね?」

 郁海が北条さんを無視して経理部社員に問い掛ける。

 ぽつりぽつりと肯定の返事が戻って来た。

「同僚の突然のインフルエンザで混乱されていると思います。インフルエンザが発症したということは、ここにいらっしゃる方も、かかっている可能性があります。そういう時に厚かましいお願いではありますが、どうか本日決裁の仕事が終わるまでは残業をお願い致します。もし、どうしても期日中に終わらないようでしたら、総務部まで早めにご連絡下さい。対応致します」

 郁海はぺこりと頭を下げる。

「巴さんのワゴンの鍵はいったん閉めておきますので、そのファイルはお手数ですが佐藤さんが保管して頂けますか?」

 名指しされた社員は専用端末に座っている男性だった。佐藤さんというのか、彼は。

「社長、なにかございますか?」

 郁海がのんびりと椅子に座って眺めていた社長に問い掛ける。

「んー」

 社長は頬杖をついてのんびりと首を傾げた。

「経理部って、こんなに人がいらない?」

 その疑問形に部屋がざわつく。

 だが、社長はそのざわつきに微笑を浮かべて「北条さん」と名前を呼んだ。

「はい」

「今回の事態に関する始末書を提出して下さい。北条さんが機械関係に弱いのを知っていて経理部を任せた俺にも責任があるんで、責任の所在については、後日の役員会で検討しましょう」

 にっこりと微笑む。

「あと、本当なら巴さんに頼みたいんだけど‥‥‥とりあえずの改善提案を佐藤さんをリーダーで取り纏めて下さい。二度と同じようなミスをしないように、今回のことを教訓として情報の部内共有を心がけて欲しい」

 経理部社員が息を呑む。

「それから、これが一番大事だが‥‥‥」

 社長が言葉を切る。

 全員の視線が社長に集まる。

「郁海の今日の格好が可愛いからって、いつまでも覚えておかないように!脳内の記憶は速攻破棄しなさいっ! あと、インフルエンザ。発症者がこの部から出たということを踏まえて、健康管理には充分気をつけるように。うがいと手洗いは大事だぞ。微熱が出てもすぐに病院に行け! いいな!!」

 隣で郁海が頭を押さえる。

 俺だって溜め息を吐きたい。

「お父さんの、ばか」

 小さな呟きが、ふたりが仲直りしたということ示していた。

 うんうん、よかったよかった。

 身を小さくして郁海が頬を染める。

「あの、本当にこんな格好で出社して申し訳ありません。今日は有給休暇を頂いていたんですが、緊急事態だとお聞きして取り敢えず急いで駆け付けてしまったんです」

「謝らなくていいぞ、郁海。可愛いのは会社を救う」

 社長、それは変です。

「うんうん、社長! それにはとっても同感」

 ひらひらと紙を一枚振って曽我が現れた。

「曽我、それは頼んでおいたものか?」

「はい。なかなかいい証拠が揃いましたよ、ね、北条さん」

 突然、曽我に名前を呼ばれて北条は身を固くした。

 場の空気が一瞬冷えきったが、社長が大きく手を叩いた。

「はいはい。仕事に戻る!」

 にっこりと笑った社長は曽我から紙を受け取って(きびす)を翻した。それに郁海が続く。俺も慌てて三人に着いていった。




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