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第五話

この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。

 

 まずは七階の図書室を目指す。

 図書室と言っても、社長や郁海が読み終った本を寄贈していったのだという。なので棚はまだガラガラ。新社屋ができた頃よりは社員がいろいろ寄贈してくれたから増えたのだとはいう。

 基本的には貸し借りは自由。

 透明なフィルムが貼られ、裏表紙裏には紙のケースがありカードが一枚。名前、貸し出し日付けを記載して入口にある箱に入れる。図書館司書はいない。ちなみに社内に図書委員もいない。貸し出しも返却も自己責任というわけだ。

 全面硝子張りで、食堂からは図書室が丸見えだ。

 中に、郁海と壮年の男性が一緒にいる。

 あれは、運用管理部の部長、曽我康臣(やすおみ)氏。華麗なるヒットマンの父親だ。あれを作ってしまった人物。社長の姉の夫。

 なんか、近付ける雰囲気じゃないよな‥‥‥悩んでいると郁海が一礼をして図書室から出てきた、そして俺に気付くこともなく奥の西階段へ向かってしまう。

 あ。

 これで見失うと困る。

 だが、曽我氏は図書室の中で立ち去った郁海の方向をじっと見つめている。あの前を通るのは‥‥‥

 俺は身を翻して東階段を目指す。

 エレベータは七階までしか止まらない。屋上に行くには階段を使うしかないのだ。

 途中で自販機に気付く。

 郁海はあまり市販のジュースを飲まない。だが、この自販機のプリンシェイクは気に入っていた。あまり振らずにプリンぽさを残して飲んだり、思い切り降り続けてドロドロにして飲んだりといろいろ試していた‥‥‥そういうところは子供っぽくて微笑ましく思ったものだ。

 俺は懐が痛むがなけなしの百円玉を投入した。

 社内で買うとジュースが割安になる。ありがたいことです。

 冷たいジュースを手にして屋上を目指す。

 逃げられても困るのでそっと扉を開くと、そこには別の壮年男性と一緒にいる郁海がいた。

 相手は‥‥‥経理部の部長、北条さん。

 なんで曽我氏と北条さんが?

 ちなみに呼称の『さん』と『氏』は、ヒットマンを『曽我さん』、父親である運用管理部部長を『曽我氏』と呼び分けているだけなので北条さんより曽我氏のが偉いとかそうことはない。他意はないのだ。

 郁海が一礼をすると北条さんは西階段から下に降りていった。

 なんか、不穏な空気を感じるのは気のせいだろうか‥‥‥

 郁海は頭を上げるとフェンスに近付いて、そして俯いた。

 高い高いフェンス。

 菱形に世界を区分けする。

 見下ろす世界は、菱形の平凡な日常。

 泣いているのだろうか。

 郁海はフェンスに額をくっつけたまま微動だにしない。

 俺は立ち(すく)んでいても仕方ないと、覚悟を決めて一歩を踏み出した。なにごとも肝心なのは最初の一歩。

「郁海さん」

 呼びかけると小さな体がぴくりと震えた。

 だが、振り返る気配はない。

 仕方がないので一人分離れた隣に突き進む。

 郁海が一歩、離れる。だが、逃げ出すようなことはなかった。

 女の子の扱いは難しい。

 それは妹で体験済み。

 口だけ達者で、いつだってこまっしゃくれたヤツだけと、憎めない。郁海は桜良と違って感情をそのまま面に出すことはないけれど、でも女の子なのだから、妹の助言に従って女の子扱いをしなければならないと思う。

 曰く、心配だったら黙って傍にいろ。

 俺はフェンスに背を向けてその場に腰を下ろした。

 片膝を立てて空を見上げる。

 手にしていたプリンシェイクをコンクリートの床に置いた。

 カンという高い音が意外と響く。

 バラバラと音を立てて空を飛び舞うヘリコプター。すっきりと晴れた青空は、雲ひとつない。

 ―――昼休憩終了五分前のサイレンが鳴った。

 そして微かに聞こえる体操の音楽。匠工業専用の体操の音楽で、考えたのは社長だという。社長には可哀想だから言っていないが、この体操をしている社員を総務部以外で見たことがない。

 体操が終わり、微妙な間があって就業のサイレンが鳴る。

 工場が稼働する音が小さく聞こえる。

「吉野さん、仕事は?」

 百は数えるくらいの間があって、郁海が尋ねてくる。

「これが仕事なんです」

 吉野は事実を告げる。

「父が‥‥‥あなたに頼んだのですか?」

 郁海は社長のことを父と呼んだ。と、いうことは、これはプライベートの会話ということになる。思い出せ、妹の助言を全部思い出すんだ、俺。

『もう、お兄ちゃんってば、そういう言い方するから女の子にモテないんだよ!』と何度言われたことか!!

「いえ。俺が社長に業務命令をもらいました。社長が迎えに来ると、きっと郁海さんは戻ってこないと思って」

 俺の言葉に、郁海の息を飲む音が聞こえる。

 だが、彼女の方は見ない。

『女の子は泣いてる顔を見られたくないんだから!』

 ああ、桜良を魔法で呼び出せるなら呼び出して、この役を交代してもらいたい。ぜひとも!

「ふふっ。吉野さんは父の扱いが上手ですよね」

 郁海の声は硬いが、泣いてはいないようだ。

「耐性がありますから。園長さんが社長に似た自由(フリーダム)な人なんです」

「そうですか」

 会話が途切れる。

 うーーん。どうしたもんか。

 郁海が喜怒哀楽のどれでもいいから感情を吐き出してくれれば、それ相応の対処があるかもしれない。桜良が感情表現過多なヤツだから荒れ狂う妹を宥めるのはお手のものなのだが、まるで仮面や能面のような無表情な落ち込み具合はどう対応すればいいのか対妹俺マニュアルには存在しない。

「いい天気ですね」

 うわ、なんの話だ、俺。

 当たり障りがなさ過ぎるだろう。

 会社で話題に困ったら、まずはこれという常套句を持ち出してどうする。

「そうですね」

 返答、短っ!

 どうしたもんかと思っていると隣で立っている郁海が腰を下ろす気配がする。ああ、ここは紳士を気取ってハンカチでも広げた方がいいのか?

 あ、ハンカチなんて持ってない。

 最近はハンカチがなくても生活していけるからうっかりしていた。トイレにはエアータオルがあるし、給湯室にはタオルが設置されている。あまり困らないのだ。

 ひとりと半分開いていた空間が、ほんのちょっと郁海が近付いてきたおかげで半人分になっていた。

 俺は置いていたプリンシェイクを差し出す。

「これ」

 やるって言うのもおかしいし、普段の仕事上で使うように差し上げますっていうのも変な気がする。

 だから、そのまま差し出す。

「‥‥‥いいんですか?」

 郁海は少し手を伸ばしてから確認をしてくる。

 あんなに鬱陶しいくらい父親に愛されているのに、不思議なことに彼女は善意や好意を受け慣れていないようだ。

「はい」

 頷く。

「ありがとうございます」

 すると郁海はふっと微笑を浮かべて、小さな手で俺が差し出したプリンシェイクの缶を受け取った。ポケットから小さなハンドタオルを取り出して缶を包む。

 そして、両手で缶を包んで上下に振る。

 懸命な顔をして上下に振る姿を見て、思わず俺は吹き出した。やべ。こいつ、可愛過ぎる。

 小動物が懸命にご飯を食べるような必死さを、可愛く思わないヤツって少ないと思う。

 俺の笑い声に郁海が唇を噛んだ。

「貸せよ」

 笑いながら、懸命に握り締めていたせいで普段よりもさらに薄紅色に染まっている小さな手から缶を取り上げた。

「で、あと何回振ればいい?」

「今、五回でしたから、あと二十五回振って下さい」

 その言葉に俺は思わず聞き返す。

「二十五回!? そんなに振ったらドロドロだろ? あと五回のが美味(うま)いって」

「ドロドロになっているのが美味しいんじゃないですか! 十回のプリンぽさが残っているのも捨て難いですが、プリンシェイクは、ファーストフードのシェイクくらいにドロドロになっている方が美味しいです。それに十回だとけっこう残ってもったいないです」

 断言するのに微笑が零れる。

 お局の仮面を外した郁海は確かに社長の言う通りだ。なんというか、雰囲気が可愛い。

「じゃあ、あと二十五回な」

 俺は笑って振り出した。この、プリンシェイクを振るのはけっこう本気になる。心の中で回数分振ってそれからプルトップを開けてやる。このジュース会社のプルトップは意外と堅いのだ。郁海がいつも苦心しているのを見ているから、気を利かせてみた。

 ずっと、俺の振る腕を見つめていた郁海に改めて差し出す。

「ほら」

「ありがとうございます」

 郁海は微笑んで受け取ると缶に口をつけた。

 こくりと一口飲んで「美味しいです」と破顔した。

 ようやく満面の笑みを見た。

 そのことにほっとする自分がいる。

「やっぱり力のある方に振ってもらうといいですね。私が振ると、もっと荒い感じなのですが‥‥‥」

「ここの自販機にはないけど、グレープゼリーは飲んだことあるか?」

「マンゴーゼリーなら飲んだことありますが」

「マンゴーもあるんだ。それ、どこの自販機だ?」

「本社に向かう途中にある信号の近くです。あと、そこの自販機は去年の冬には茶わん蒸しがありました」

「茶わん蒸し?」

 思わず繰り返してしまう。

 桜良と祥真に持っていったら喜ぶだろう。プリンシェイクも会社で見つけて珍しくて、二人に買って持っていったら大喜びしていた。

「それ、銀杏(ぎんなん)入ってた?」

「残念ながら、具はほとんど入っていませんでしたよ」

 ゆったりと答えて、郁海は唇を閉ざす。そして空を見上げて息を吐いた。

「吉野さん、社内で私に敬語を使うのが苦痛なら、使わなくてもかまいません」

 淋しげに眉根を寄せて、郁海は泣きそうな顔で笑う。

 黒縁眼鏡の奥で真っ黒な瞳が揺れている。

「会社でも、私の存在を(こころよ)く思わない人はいっぱいいるんです。いくら、いる期間が長いといっても、本当のところを言えば、私はあなたと同期で、四月に正社員になったばかりですから」

 郁海が同期というのはびっくりだが‥‥‥確かに十五歳なら、去年までは中学生。義務教育だ。

「出る杭は打たれるのが日本の会社での『普通』なんです。なるべく、出ないように気をつけているのですが社長の娘で十五歳というのだけはどうしようもありません」

 ふふっと唇に浮かぶのは自嘲の笑み。

 こういうところでの笑い方が親子そっくりだ。

「社長と同じ笑い方、するんだな」

「父と?」

 言うつもりはなかったが言葉が零れてしまった。いかん。俺はどうにも考えずに喋ってしまうようだ。

 瞳を瞬かせて小首を傾げる。

 その姿に、普段のお局の姿が重ならない。

「俺は、ただオン・オフの区別で口調を変えているだけだ。お前が社長のことを父って呼ぶから、だから今はオフなんだって思って‥‥‥別に、郁海さんのことをどうこう思ってはいない、っつーか、反対に俺はお前のこと尊敬してる。いろいろなこと知ってるし、仕事だって的確だし、人当たりだっていいし‥‥‥確かにお前のことを嫌ってるヤツがいるのかもしれない。だけど、俺はお前の仕事の仕方を真似していて、褒められることはあっても貶されたことはないぞ。お前のやり方を真似ろとか、参考にしろとか、みんな凄いって言ってたんだから」

 なんか泣きそうな妹を相手にしているようで、ついついいろいろ言ってしまう。

 郁海は瞳を見開いて、そしてそっぽを向いた。

 一瞬、嫌われたのか? と思ったが、彼女は缶を床に置いて、眼鏡を外し、そして自分の膝に顔を埋めた。

 小さな体が震えている。

 懸命に、涙を噛み殺しているのがわかる。鳴き声を押し殺して、涙を飲み込んで、震える指先を叱咤して‥‥‥手にしている黒縁眼鏡が小さく揺れている。

 ああ、これが妹や弟だったら抱き締めて背中をぽんぽんしてやるんだが、さすがにそれをしたらセクハラだろう。

 眼鏡が床に落ちる。

 プラスチックの軽い音。

 少女が嗚咽を懸命に飲み込む。

 両手で口を押さえて小さくしゃくり上げるのを堪える我が社のお局は、ただの子供にしか映らない。

 俺は決意をして,、左手で黒いツヤツヤの髪の毛を撫でた。

「絶対に、秘密にするから‥‥‥声を上げて泣いてくれ。頼む」

 押し殺して、押し潰して、飲み込んで、噛み殺した涙は枯れることがない。声を上げて吐き出さなければ涙は昇華されない。これは俺の体験談。

「涙は、そのまま解放しないと中に溜まるだけだから、泣くんだったら涙も声も我慢しちゃダメだ」

 つと顔を上げた郁海の瞳から、今度は大粒の涙が零れ落ちる。

 それを彼女は缶を包んでいたハンドタオルで覆って、また膝に顔を埋めた。

「‥‥‥うわぁぁぁ」

 今度は、小さくだけど声が絞り出される。

 ひっくしゃっくと肩が揺れる。

 小さな啜り泣きは号泣になることはなかったけれど、先程のように押し殺して泣くことはなかった。

 隣で、泣き続ける妹とひとつしか変わらない年の少女。

 一度、妹と同じようだと思った心は彼女を同僚として見てくれない。ああ、俺ってばセクハラで退職になるかもしれない。そう思ったが、でも後悔はしたくない。

 まだ半分以上残っているプリンシェイクの缶を脇に()けて、半人分の距離を詰めた。そして、左腕で背中を覆うようにして、郁海の左肩を抱く。郁海の体が動きを止めた。呼吸まで止まっているようだ。だが、俺はそんな郁海の緊張など無視をして、ぽんぽんと肩を軽く叩いて囁いた。

「お前、兄がいたんだろう? 俺にも妹がいるんだ。俺がお前の兄だったら、絶対抱き締めて慰めてる。だから、天国のお兄さんが俺の体を借りてるって思って、泣いてろ」

 俺の言葉に。郁海は膝に顔を埋めてふるふると首を左右に振る。

 体はまだカチンコチンだが、呼吸は戻ったようだ。

「‥‥‥あ、兄は、きっと、私を慰めては、くれないです」

 しゃくり上げながら、聞き取った言葉は穏便ではない。

「じゃあさ、お前が俺の妹だったら絶対抱き締めて慰めていた。泣きやむまで傍にいてやるから、思いっきり泣けって言ってやる。だから、泣いてろ」

 肩を撫でてもう一度言う。

「泣けよ」

 郁海はようやく再び泣き出した。

 俺は肩を軽くぽんぽんしながら晴れ上がった空を眺めた。

 いい天気だ。

 左腕の下に感じる体温はやわらかくて、なんだかくすぐったい。 小さくなって泣いている郁海はただの子供で、庇護(ひご)すべき対象に見えてくる。きっと、本人にそんなことを言えば怒られるのだろうが‥‥‥

 しゃくり上げるのが少なくなり、徐々に嗚咽も聞こえなくなってきた。すーはーと大きく息を吸って吐いてを繰り返しているのがわかる。

 そろそろ泣きやむのだろう。

「仕事、サボってしまいましたね」

 俯いたまま小さく郁海が呟いた。

 今まで泣いていたせいか、声が少し掠れている。

「離業扱いにしておいて、後で残業すればいいよ」

 フレックスタイムはこういうところが融通が利いていい。

 ぽんぽんと肩を叩く。

 すると、膝に顔を埋めていた郁海が顔を上げた。目元は真っ赤に染まり、腫れぼったくなっている。羞恥のためか頬は紅潮していた。全体的に真冬の真っ赤な林檎のようだ。

 黒縁眼鏡がないせいで、線の細さが際立つ。

「私は、すっかり吉野さんに子供扱いですね」

「子供扱いじゃないぞ、妹扱いだ」

「一緒です」

「一緒じゃない! 子供は大きくなって大人になるけど、妹は大きくなろうが何年経とうが、お婆ちゃんになろうが妹だ」

 俺の断言に郁海は淋しげに微笑む。

 だから、吉野は慌てて言葉を続けた。

「社長の、娘扱いも一緒だと思う。お前を、子供だと思っているんじゃなくて、親にとってはいくつになっても子供は子供で、心配と庇護の対象なんじゃないか? よくわかんねーけど」

 両親を亡くした俺にはいくつになっても親に子供扱いされるかどうかはわからない。

 でも、社会人になっても親に弁当を作ってもらっている子供はたくさんいる。だから、あながち間違っていないと思うのだ。

「腕、ありがとうございます」

 郁海が瞳を逸らして言う。それでようやく俺は泣き止んだのにまだ彼女の背中に腕を回していたことに気付く。

「わ、悪い!」

 吉野は慌てて腕を離した。体温が感じられなくなって、少し寒いのと淋しいのを同時に感じる。

「いえ、人の体温は‥‥‥あたたかいんですね」

 遠くを見つめて、(ちゅう)に飛ばされた声。

 その言葉は俺に対してではなくて、過去を不意に思い出して懐かしんでいるように聞こえた。

 あの社長のスキンシップは間違っている。

 俺は断言するね。

 頭撫でてやったり肩を叩いたり、そういうスキンシップのがまだマシだ。勝手に辞令出したり、社長室から脱走したりなんていうのは親子のスキンシップじゃなくてただの質の悪い悪戯だ。今の社長は幼稚園児の好きな子いじめと大差がない。

「吉野さんは、男尊女卑って言葉、ご存知ですか?」

「ダンソンジョヒ?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げる。

「男性を(とうと)び、女性を(いや)しいと見る‥‥‥男性上位の社会構造のことです。女性は結婚をして子供を産んで家庭を守るのが仕事っていう古くさい考えのことですよ。女性蔑視(べっし)とも言いますね」

 郁海は疲れたように言葉を吐き出す。落とした眼鏡を拾いあげてかける。

 ああ、確かに社長も連呼していたな。

 郁海の花嫁衣装。

 郁海の結婚。

 郁海の幸せ。

「女性の幸せイコール結婚。何年前の価値観なんでしょうね。現在はひとりだけの収入で家庭を維持できるような甘い状態ではありません。若い世代の低賃金。就職難。アルバイト・派遣・パートの急増。現実を見つめれば結婚しても両方が働かなければ暮らしていけない家庭は数多くあります」

 なんだかこ難しいオフの話になってきたぞ。

 だが、郁海は普段は自分を律していて、あまり政治的だったり宗教的だったりする自分の考えを誰かに訴えるようなことをしない。会社でタブーの会話は政治・宗教・同僚の悪口だといつも言っているようなヤツだから。

「それなのに、女性の家事負担は昔と変わらないって、知っています? 八時間も働いて、ご飯の支度、洗濯、掃除。子供が生まれたら子育て。全部を女性が負担して、大半の男性は仕事にだけ集中していればいいんです。不可思議でしょう?」

「‥‥‥ああ」

 ここは否定しちゃダメだ。本能がそう告げている。

 いやいや、一番突っ込みたいのは十五歳の考えじゃないだろうってことなのだが‥‥‥今はお口にチャック!

「吉野さんも、私と負けず劣らずデンジャラスな人生ですよね」

 郁海がふっと笑う。

「ごめんなさい。秘書になられる前に履歴書を拝見しました。個人情報ですから本来は私が見るべきものではないのですが、私の部下になるのだから父が見ておけと申しまして」

「別に‥‥‥隠してないから、いいですよ」

 これは本音。

 まあ、確かに俺の人生ってまだ十八年で、社長や伊東さん達に比べれば短いけれど、いろいろ山や谷や渓谷が溢れ返っていたと思う。

「社長というのは、(はた)から見ていれば楽な職業に見えるでしょう?特に父なんていっつもふらふらして、遊んでいて、楽しそうで、悩みなんかないみたい」

 それは言い過ぎだろう、娘。

 思ったが口にはしない。

「でも、社長は両肩で、会社も社員も信用も信頼も未来も、すべてを担がなければいけないんです。会社の業績が悪化して、借金に首が回らなくなったら、真っ先に差し押さえられるのは社長の車や家や財産なんですよ。倒産なんかしたら、会社どころか、なにもかも‥‥‥命以外はなくなってしまうのです」

 ああ、なんだか思い出してきた。

「借金取りが来て、玄関に落書きしたり貼り紙したり、電話が一日中鳴り響いたり‥‥‥あれって、トラウマになるよな」

 俺も遠くを見つめて溜め息を吐いた。

 社長という職業のリスクなんて知っている。

 実体験として知っているわけじゃないけれど、両親を見て知っている。いろいろな人にぺこぺこと頭を下げて、我慢して我慢して、ちっぽけな生活を守るために自尊心も誇りも、ひと籠いくらで切り売りして‥‥‥

「知ってます?」

 郁海がくすくす笑いながら聞いてくる。

「なにを?」

「最近の借金取りは、乱暴な口調や態度、貼り紙などをしないんです」

「へえ」

「そんなことをしたら、警察に捕まってしまうから。それに伴って、脅しも真綿で首を絞めるように‥‥‥お宅のお嬢さん、小学校六年生なの? 可愛いねえ。大事にしなくちゃねぇ。最近は小さな女の子を狙う悪質な犯罪者がいるから気をつけなくちゃダメだよ‥‥‥なんていう、遠回しの忠告なんですよ。親切でしょ?」

 郁海が冗談めかしてダミ声を作って借金取りの口調を真似てみせた。

 息が止まる。

 まったく親切じゃない。

「それって、つまりは‥‥‥超訳すると『あんたが、借金を返さなかったらお嬢さんに水商売で働いて返してもらおうかな。今はロリコンが趣味なヤツも多いから客ならどんどん付くぜ』になるんだろう」

 は〜〜〜と溜め息を零す。その俺を見て、郁海はくすくすと笑っている。若干、疲れた感じはするが。

「親の借金は、財産放棄できるんだぞ。子供には関係ないだろうが!」

 口の中が苦い薬で溢れているような錯覚を感じる。

 だが、関係ないという言葉で思い出した。

「あ。社長な、お前に会社を、無理矢理継がせるつもりはないって言ってた。あの辞令も、お前が甘えてくれないからちょっかい出したってさ」

 これも要約し過ぎだろうか。要約というか翻訳というか、超訳。短くし過ぎかも。

「知っていますよ。父だってバカじゃありません。血統継承はリスクが高過ぎます。会社を円満に継続させるために、跡継ぎは血を引いた者などと言っていたら潰れてしまいます。血に頼っていたら、どんなバカが会社を継ぐかわからない」

「別にお前はバカじゃないぞ」

 あまりにも卑下しているように聞こえたから、そう話を分断する。

 俺だって、あまり俺自身のことを好きじゃないが、なんというか郁海は自分のことを低評価し過ぎな気がする。

 これだけしっかりしているなら、世界最年少の女社長とかになってもいいような気がする。その方が、あの社長の下で働くよりも仕事は進みそうだ。

「父は、基本的に差別をする人種なんです」

 突然の言葉にドキリとする。

「もちろん、誰かを無視したり、あからさまな嫌がらせをしたりなんて、そんな低俗ことはしません。でも、一緒に喫茶店に入ると女性のウエイターに見下したような口調を使ったり、デパートのレジのキャッシャーに自分が客なのだからというような、高慢な態度を取ったり、女は家を守り男は働く、そんな幻想を未だに持ち続けているんです」

 いや、それって言っちゃ悪いけど、社長じゃなくて現在の世の中の大半の人がそんな感じではなかろうか‥‥‥俺も社内でも感じた。新人扱いじゃない、なんというか見下す視線。それは大半が壮年の男性からのものであったが、男女年齢問わず、そういう視線を送ってくるやつらはけっこう多い。

「私は、女だから、父に期待されていないんです。でも助けたいって思ったから会社で頑張りましたが、ちょっと考える必要があるかもしれません」

「‥‥‥郁海」

 思わず呼び捨てにしてしまった。やば。

 だが、俺の戸惑いなど郁海は気付いてもいない。瞳は遠い青空を眺めたまま。

「男に生まれたかった。吉野さんが羨ましいです。その体力も筋力も身長も私にあれば、もっと仕事に打ち込めるのに」

 呟いて、頭を振る。また泣きそうな顔。

「いいえ。兄が生きていて、私が‥‥‥」

「待てよ!」

 思わず聞き捨てならなくて郁海の言葉を遮る。

 郁海は驚いて瞳を丸くさせ、体を強張らせた。

 文脈から考えれば、言葉を濁したけれど、それは‥‥‥自分が死んで兄が生きていれば社長はもっと喜んだということだろう。そんなの、郁海にも社長にも顔をまったく知らないがその兄に対しても失礼な言葉だ。

「死んだヤツは生き返らない。生き返るのなんて、マンガや小説やゲームの中だけだ」

「わかっています」

「わかってない。お前は、だって、自分を殺そうとしてるだろ? せっかく生きているのに、お前は匠郁海という人間の人生を殺してる」

 吉野の言葉に郁海が瞳をさらに見開いて、口を小さく開けた。

「私が、私を‥‥‥?」

 俺は無性に腹立たしくなって、彼女の右手首とジュースの缶を掴んで立ち上がった。目指すは社長室。

 こんな、こんがらがった糸は、もうどうしようもない。断ち切るしかないのだ。

 階段を降りてエレベーターホールを目指す。

 右手にはプリンシェイク缶。

 左手には困惑顔の上司。

 郁海の手首は体と同様に細い。

 それがいつも背筋を伸ばして、毅然とした態度と凛とした口調で大人に見えるように振舞っているのだと思うと‥‥‥なんだか無性に泣きたくなってくる。

 三階まで降りて、社長室を目指すと、中からは怒鳴り声が聞こえてきた。

 社長ひとりに対して数人で詰問するような声。

 その声に郁海が震える。

 意を決して、郁海の手首を離して扉を開けると‥‥‥そこには社長を取り囲むようにして役員達が立っていた。

 『あんな子供』『女に会社経営ができるわけがない』『仕事ができるわけがない』『馬鹿にしているのか』『今、会社にいるのでさえ可笑しい』『女が社長など継げるわけがない』『どうせ結婚したら会社を辞めるんだろう』『腰掛けのくせに』

 そんな声が廊下まで洩れ聞こえていたというのに、大人達は一斉に口を噤んだ。だが、先程郁海と会っていた曽我氏はいない。

 経理部部長の北条さん

 設計開発部部長の小松(こまつ)さん

 設計開発部・設計室室長の信西(しんざい)さん

 営業部部長の足利(あしかが)さん

 この四人が社長に詰め寄っていたのだ。

「失礼します」

 扉を開けたが四対の鋭い視線に気を呑まされ呆然と立ち尽くす吉野の腕を軽く叩いて、後ろから郁海が一歩踏み出した。

「この度は、父の悪戯でご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 言葉を切って、深々と頭を下げる。

 いや、郁海が謝ることじゃないだろう。

「わたくしは父の娘ではありますが、そのことに甘えてこの会社を継ごうとは毛頭思っておりません。高校も出ていない、未成年のわたくしが会社で働いているのが皆様にとってそれほどお目障りだとは露とも知らず、ご不快な思いをさせて失礼致しました」

 今度は軽く一礼。

「会社の人事に対しては、一総務部社員であるわたくしが口を差し挟むことではありません。わたくし個人としては、この会社を継ぐ気はまったくございません。ですが、会社に混乱を招いた以上、処分を下されても致し方ないことだと思います。わたくしの処分などは、そちらでご判断下さい」

 郁海は顔を上げて、背筋を伸ばして、(よど)むことなく大人と同じ口調で四人の男に対峙する。

「社長。パートの頃より持ち越しておりました有給休暇がございますので、突然ですが明日から五日程休みを頂きます。急ではありますが、よろしくお願いします」

 呆然としている父親に向かって、郁海は言葉の矢を無表情に放つ。

「わたくしは、自分の足で立ちたかった。ですので、高校も自分で稼いだお金で行こうと思っておりました。大学まではまだ考えてはおりませんでしたが、いずれは海外に留学や、ワーキングホリデーで滞在したいなど‥‥‥お恥ずかしいですが、夢のようなことを考えておりました。でも、親に甘えるのは申し訳なくて、自分の手でお金を貯めてからと思っていたのです」

 そこまで言って郁海は困ったように笑った。

「どうぞ、わたくしがいない穴を皆様で埋めて下さい」

 そして(きびす)を返して郁海は振り返る。

「わたくしなどがいなくても会社は回ります。潤滑油が多少減ったくらいで動きが止まるようなことはありません。そうでしょう?」

 試すような強い瞳で、四対の瞳を見上げる。そして、泣きそうな笑顔を浮かべた。

「わたくし、匠工業という会社で働くのが好きでした。受け入れられなくてとても残念ですが、女性蔑視をなさる皆様のお気持ちは簡単には変わりませんでしょうね。あなた達は、ご自分がどちらの性別の親から産まれたのか、よく思い出されるといいと思います」

 顔は笑っているが、郁海の周辺の温度はどんどん冷たくなっていく。

「失礼致します」

 扉を開けて静かに一礼をする。

「吉野さん、一緒に戻りましょう」

 郁海の声がなければ、俺は動くこともできなかっただろう。ようやくその声に促されて「失礼します」と一礼ができた。

 あんな、深夜の砂漠のような乾いて冷たい対応の郁海は初めて見た。

「吉野さん」

 扉を閉め、しばらく歩いていると郁海が俺の名前を呼んで振り返り見上げてくる。

 先程の乾いた雰囲気は既になく、屋上での小さな女の子の郁海が吉野の前にいた。

「缶が、可哀想です」

 俺の手の中のプリンシェイクの缶は潰れかけていた。その缶ごと俺の右手を両手で包んで郁海は小首を傾げた。

「さっきの、ワーキングホリデーとか留学とか全部ひっくるめて、嘘なんです」

「は?」

「中学の頃から、自分の将来に対してどうしたらいいのかまったくわからなくて‥‥‥調べて、情報としてはそういう方法があるというのは知っていましたが、本当にそうしたいと思っているわけじゃないんです。よく、あんな口からでまかせが咄嗟(とっさ)に出ますね、私も」

 郁海は自嘲気味に笑う。だが、一瞬口籠(くちごも)って、そして吉野を見上げる。瞳にはやわらかな光。

「屋上で、吉野さんに言われた‥‥‥自分を殺そうとしているという言葉をよく考えてみます。あんな口からでまかせの未来像じゃなくて、本当に私がしたいことをこの五日間、いいえ土日を挟みますから一週間で、考えてみますね」

 握り締めていた指を一本ずつ引き剥して、郁海の手のひらに缶が移った。

「父のこと、よろしくお願いします」

 郁海は、小さく笑って、総務部の扉を開けた。


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