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第三話

この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。

 

 朝、出社すると社長室のソファセットのテーブルの上には豪勢な重箱が並べられていた。

 ごま塩と青菜、シャケのふりかけの俵型のおにぎりには、丁寧にのりが巻かれている。(米だ米!)卵焼きもだし巻きと蟹と浅葱(あさつき)が入った和風の二種類、唐揚げ、ウィンナ、ほうれん草のおひたし、切り干し大根の煮付け、アスパラガスを牛肉で巻いて焼いてあるもの、ブロッコリーのたらこあえ、エリンギやしめじなどのキノコのソテー、さつまいものレモン煮、きゅうりの浅漬け、一口サイズのにんじんの掻き揚げ‥‥‥

 ま、眩し過ぎる。

(たんぱく質なんて最近、食べてないなあ)

 朝ご飯を抜いた体は正直にぐう、と鳴る。

「これ、社長と吉野さん、伊東さんのお昼ご飯です」

 お昼と言っているのに、社長はタコさんウィンナをつまみ食いしていた。ちなみにカニさんウィンナもある。

 自分の腹の音に気付いたのだろう、郁海が微苦笑を浮かべて「吉野さん、朝ご飯食べ忘れたんですか?」と小首を傾げて聞いてくる。

「ね、寝坊して‥‥‥」

 これは嘘。

 就職してから朝ご飯は抜いてばかりいる。

 もちろん、起きれないわけじゃない。会社には内緒だが、まだ朝の新聞配達のバイトはしているのだ。

 朝ご飯が食べれないのははっきり言って貧乏だから。

 貧乏というか、貯められるだけのお金を貯めているのだ。最低でも二十歳になる二年後までにはある程度のお金は貯めておきたい。

「じゃあ、どうぞ」

 郁海が小さな手で差し出したのは、重箱とは別のサランラップにまかれたおにぎり。

 そのおにぎりはゆかりがまぶしてあり、紫蘇(しそ)の葉の浅漬けがのりのように巻かれていた。

「一応、今日は遠方の取引先に行って頂きますので、多めにおにぎりを作ってきたんです。夕方、お腹がすいたらその時は適当にコンビニとかで買って食べて下さいね。あ、領収書はもらっておいて下さい。必ず社名は株式会社匠工業でお願いします。前株はダメですよ」

 郁海の言葉は続いていてが、いても立ってもいられず、思わずおにぎりに(かじ)り付いた。米だ。米。

 ―――ああ、白いまんまは美味しいなあ。

 園長がよく言っていた台詞(せりふ)を思い出す。

 嗚呼、本当にうまい。

 ちょっと泣きたくなる。

 その様子を見て、匠親子は目くばせをしていた。

 

 

 

 

 

 さて、なんでまだ十八歳の俺が金の亡者(もうじゃ)になっているかというと‥‥‥俺には妹と弟がいる。名前は桜良(さくら)祥真(しょうま)

 三人して運よく同じ孤児院に入ることが出来た。でも、やっぱり三人一緒に暮らしたい。成人したら二人を引き取るのだ。

 三人一緒に暮らせるようなアパートで、家電製品とか揃えたり、引っ越し代金や敷金・礼金などを計算をすると、そうとう気合いを入れて貯金をしないと追いつけないことがわかった。

 だから、会社に内緒で朝も新聞配達をしてたりする。これって就業規則違反だからバレるとまずいんだが。

 でも、先月の給料明細を見るとそんなことにかまっていられない。吹けば飛んでいってしまいそうな少なさなのだから。(まあ、今は銀行振り込みなんで飛んでいくことはないけれど)

 働いても働いても我が暮らし、楽にならざり。だっけ?

 ―――昔の人はうまいことを言ったもんだ。

 で、とりあえず一番生活費を浮かせられるのは食費。

 ついでに電源入れっぱなしの冷蔵庫がなければ、電気代はかなり安くなると俺は考えたわけ。

 だから俺の部屋にある、小さなもらい物の冷蔵庫は戸棚代わり。入っているのは百円ショップで売っている二缶百円の野菜ジュースくらい。ドラッグショップで安売りしている、カップラーメンは段ボールで箱買いして夕食にしている。一食百円未満なのは魅力的。 たとえ、飽きようと、まあ我慢をするしかない。

 ちなみに俺の食生活と言えば。

 朝 なし

 昼 社員食堂のサラダバー二百十円

 夜 カップラーメン

   (醤油・塩・とんこつの三つをローテーション)

 こんな感じだ。

 憧れの白い米。ほかほかご飯に生卵、くる〜りと醤油ってなんて贅沢(ぜいたく)品だったんだろう(涙、涙)。

 はっきり言ってこの一か月半でたんぱく質と炭水化物のありがたさをひしひしと感じている。

 麺類、飽きた。

 マヨネーズ、見たくない。

 体と心はそう訴えているし、実際に最近は食欲が湧かないけれど、懐が他のものを食べることを許さないのだ。

 だけど、今日はお弁当だ。先程見た、豪勢な食事が待っているなんて、遠出万歳!!

「やだな〜〜〜。Gなんてしたくなーい」

 車中、接待ゴルフに文句を言う脱走癖のある社長さえ可愛く見える。Gはゴルフの略。ゴキブリではなくてゴルフ。トイレのことを、スーパーでは二番と言ったりするようなものだろうか。

「なにを仰っているんですか、その服は郁海さんが選んでくれたんでしょう?」

 運転手の伊東さんが穏やかな微笑で答える。

 助手席にいる吉野は風呂敷に包まれた重箱を抱えていた。

 今、事故に遭ったとしても、このお弁当は離さない。

「郁海が選んでくれたけど、これはあの子の意趣(いしゅ)返しだもん」

 社長は「だもん」と言って口を尖らせるのがマイブームらしい。

 半年くらいで治まるので気持ち悪いでしょうが見過ごして下さいとは彼の愛娘の談。

「意趣返しですか?」

 社長がこの「だもん」を発する時はたいていが話を聞いて欲しい時。だから、素直に聞き返す。

「郁海ってばいつもズボンだし黒縁伊達眼鏡だしアームカバーだろう? 他の社員だってもっとオシャレしているのに‥‥‥十五歳の女の子の格好じゃないじゃん? だからさ、ローズガーデンファクトリーに連れていって、服を買おうとしたんだ」

 ローズガーデンファクトリー。

 名前だけは妹の桜良(さくら)から聞いたことがある。名前の通り、薔薇や薔薇や薔薇だらけ(つまり薔薇しかない)の暖色系が多いひらひらぴらぴらのブランド。

 いつもの服装からしたら、かっ飛び過ぎではないでしょうか? と、聞き返したい気持ちを飲み込んだ。

 社長はごろりと後部座席に寝転んだ。膝を抱えて丸くなる。急ブレーキを踏んだら、間違いなく転げ落ちる体勢だ。

「まあ、確かに郁海さんはいつも落ち着いた色合いの服ばかりお召しになっていますからね」

 伊東さんはうまく社長が続きを話したくなるように会話を繋ぐ。心のメモ帳にメモメモ。

 社長の話を引き出したい時は否定をせずに、小さな同意部分を肯定するべし。

「だろう!? あんなのおかしいよ。本当なら高校に行って、同学年の友達と笑って怒って泣いて、恋とかして‥‥‥いやいや、恋なんてまだ早い。許さん。郁海はまだ俺のお姫さまなんだ!!」

 話が暴走してます。社長。

「郁海さんが大事なんですねぇ」

 ふふっと伊東さんが笑顔で呟く。

「お気持ちはわかりますよ。郁海さんは可愛らしいですからね。ですから余計に彼女には可愛い服を着てもらいたいという、社長の願いも理解ができます」

「だろだろ!?」

 上手い!

 園長さんなら絶対言う。座布団三枚! って。

 伊東さん、逸れそうになったレールを上手に戻した。

 俺だけが社長の話し相手だったら、絶対に突っ込んでた。

(お姫さまって、あんた娘に夢を見過ぎ! って)

 そんなことを言ってしまっていたら、確実にへそを曲げて()ねてしまっただろう。

 社長には郁海を(けな)すようなことは言ってはダメ。再び心のメモ帳にメモメモ。

「それで、ローズガーデンファクトリーに連れて行ったら‥‥‥こんな実用性が皆無で薄くてぺらぺらしているのに何万もする服は仕事着ではいらない。どうせだったら青林(あおばやし)とか紳士服店に連れて行けだって〜」

「郁海さんが青林に?」

 青林とは全国チェーン展開している紳士服メーカーだ。ライバル店に青波(あおなみ)という紳士服店がある。

「青林だったら女性物のスーツが揃っているから、仕事着ならそこで買うって」

「‥‥‥ああ、郁海さんなら仰りそうですね」

「で、青林で買ったのがこれ」

 自分の服を摘んで社長が苦笑いを浮かべる。

「そんなにピンクが着たかったらご自分でどうぞ。だってさ」

 めそめそと鬱陶(うっとう)しく言う。

 この人は本当に中身は子供だ。

「でも‥‥‥郁海さんって黒は着ませんよね」

 ぽつりと呟くと社長が起き上がった。

「そうなんだよ。瑞花(みずか)さんが、郁海に『黒は誰かを(とむら)う色だからあまり郁海に着て欲しくないわ』って言ってくれてね〜。それがなかったら郁海は黒と紺とグレーのスーツばっかり着ていたはずだ」

 黒は誰かを弔う色。

 その気持ちは、なんとなくわかる。全身を黒に包まれると思い出してしまう、天が泣いた日を。

「それを防止するために、社長はスーツ着用を基本的に禁止にされたんですからね」

 伊東さんがくすくす笑う声で、俺は泣く空の幻影から戻ってこれた。そういえば、自分がスーツ着用が多いからあまり気にしたことがなかったけれど、確かに他部署の人達はスーツを着ている人は少ない。

 三種類の作業服の中から好きなのを選んで私服の上に着る。上下作業服でもいいし、上着だけでもいい。夏場は三種類のポロシャツから好きなのを選ぶのでも可。対人関係の部署以外は服装は基本的には自由。ただし、これは基本的にはであって細かい例外もある。

 下駄禁止。

 五センチ以上のハイヒール禁止。

 対人関係の部署・仕事がある者のジーンズ不可。

 サンダルなどは必ずバックストラップのあるもの。

 マニキュアはナチュラルな色であること。業務に支障をきたす長さや派手なものは不可。

 新人研修で聞いた時、正直に言って吃驚したのだ。下駄。これはきっと誰かが履いてきて禁止になったのだろう‥‥‥

「七センチのミュールを履いていて階段から転んだ人がいたんです。しかもど派手な飾りのついたマニキュアをしていて手をついた時に爪まで割れました。それで、指先のケガと突き指、捻挫(ねんざ)で全治一週間。それが労災扱いですよ。仕事をする場に七センチものヒールのある履物を身につけてくる神経もわかりませんし、彼女は長いマニキュアでパソコンの電源を入れることもできず、箸で入れたり他人に入れてもらっていたそうです。それなのに労災‥‥‥ 職場をなんだと思っているんでしょうね、まったく」

 とは『お局』郁海嬢の言葉。

 社長、あなたの愛娘はお姫さまじゃなくて立派なお局さまです。

 しかし社長は吉野のそんな心の声など知らずに「まあ、それも焼け石に水だったけど〜。俺はいつになったら可愛い格好した郁海が見れるのかな〜」などとぶつぶつ言っている。

 

 

 

 

 

 車が着いたのはA**県に程近いG*県の山の中腹。

 緑。緑。緑。

 俺はゴルフセットを担いで車のトランクから降ろす。

「吉野さん」

 伊東がちょいちょいと手招きをしながら吉野を呼ぶ。

「吉野さんはここにいて下さい。社長のゴルフセットは私が運びます‥‥‥吉野さんは目はいい方?」

 質問に吉野は拳を握り締めた。

「はい! たぶん測れば三・五はあるだろうと医者に言われたくらい目はいいです!」

「じゃあ、社長のことをよく見ていてごらん」

「‥‥‥はい」

 伊東さん、腰痛は大丈夫だろうか?

 そう思いながら、車の中からロビーで今日一緒にホールを回る取引先の人と談笑をする社長を眺める。

 社長は普段とはまったく違う神妙な顔で、集合した男達の間を回游魚のように動き回り、全ての人と挨拶を交わしている。

 なんだか、取引先の人に機械人形のように頭を深々と下げていた父母のことが思い出される。

 やれやれ。今日はなんだか感傷的だ。

 溜め息を吐いていると、車の扉が開けられる。

 伊東さんがやれやれと零しながら車の後部座席に乗り込んで寝転んだ。

「すまんね。腰痛が酷くて」

「いいえ。整体とか行ってますか?」

「いいや。だって怖いじゃないか。整体ってボキボキやるんだろう?」

「俺がいた孤児院の園長さんが行っているところはボキボキやらないそうですよ。今度、場所を聞いておきましょうか?」

「効くの?」

「合うか合わないかはあるそうですが、腰痛でもどこが原因で起きているかわかるそうです。姿勢が悪いのか、骨格が悪いのか、体がどこか悪くて庇うためにそうなってしまうとか‥‥‥そこは保険がきかないんでちょっと高いですが、一度行ってみる価値はあるって、園長さんが言ってました」

「‥‥‥じゃあ、怖いけど、頼もうかな。悪いけど、場所を聞いておいてもらえるかい?」

「はい。わかりました」

 生真面目に頷いて、メモ帳を取り出して書き込む吉野を見て伊東は微笑んだ。

「男はダメだね」

「はい?」

 伊東の言葉に吉野は瞳を瞬かせた。

「病院嫌いが多いってこと」

「そうなんですか?」

「そうだよ‥‥‥体調が悪いってわかっているのに、学生時代や二十代、三十代の元気な自分から脱却できないから、ぐずぐずと病院に行かないんだ」

「早く病院に行って元気だってわかった方が安心しませんか?」

「どうだろうね‥‥‥平日の内科で受診したことある?」

「いいえ」

 首を左右に振ると伊東は「ああ、まだ有給が発生してないからね」と微笑んで続きを話し出す。

「面白いよ。女性はどんな年代でもだいたいひとりで受診しに来ているのに、五十代とかの所謂団塊世代は奥さんと一緒なんだ」

「へ?」

 いい年したおっさんが、奥さんの付添がないと病院に来ないのか? うんざりとした。

「逃げ出すんじゃないかと見張られているんだろうね‥‥‥社長も昔ね、虫歯ができて大騒ぎしてたんだけど、いっこうに歯医者に行こうとしないから、業を煮やした奥さんの瑞花さんが無理矢理連れていったよ」

 先程も名前が出てきた奥さん、瑞花さん‥‥‥そういえば、一度も会ったことがない。でも、社長の奥さんってそうそう会わないよな。

「まだ、そのころは会社も小さくて‥‥‥吉野さんは本社に入ったことある?」

「いいえ」

「本社は新社屋の隣にある小さな工場と事務所が一緒になっている建物でね、中で十五名くらいがわいわいやっていたんだ」

 隣にある小さな工場だったら知っている。確か、今はそこでは事務業務は行わずにフライス加工や旋盤(せんばん)など一部の技工職が働いている。

「奥さんが経理と総務を担当していて、幼稚園くらいから郁海さんは会社にも顔を出していたよ‥‥‥母親の真似で仕事を始めて‥‥‥小学校に入ると同時に知識を増やしていってね。小学校五年生で秘書検定三級合格。六年生で秘書検定二級合格。パソコン検定にマイクロソフトオフィススペシャリスト、情報処理、トレース技能検定‥‥‥たぶん、もっと持っているはずだけど、取れる資格はどんどん取っていたよ」

 資格か‥‥‥いろいろあるんだな。俺も資格取得を考えてみた方がいいかもしれない。っつーか、でもそんな小学生はちょっと近寄り難い。

「彼女が、そんなふうに必死に資格を取るようになったのは母親と兄が小学四年生の時に亡くなったからなんだ‥‥‥亡くなる直前に、お父さんのことをよろしく頼むね。って言われてから、郁海さんは懸命に母親の瑞花さんを追い駆けている」

 伊東さんは一旦黙って、顔を両手で覆った。

「瑞花さんは結婚前は大手のコンベヤ会社で第一社長秘書をこなしていたような才媛(さいえん)でね、実母の綾子さんに丁寧に育てられたせいか、仕事も家事もなんでも完璧な人だった。気立てもよくて、いつも自分を律しているような(かたく)なな部分もあったが、でも心根はやさしい人だったよ。だが、子供が追い駆けるには母親の後ろ姿は大き過ぎた」

 伊東さんは重い溜め息を吐いた。手のひらで隠れているから表情はわからない。

「小学校四年生の女の子が、学校が終わると同時に会社に顔を出して経理や総務の仕事をこなして‥‥‥まだ土曜出勤のあった頃だから土曜日は(つぶ)れて、日曜日はお祖母さんの相手をして、家事をして‥‥‥それが中学卒業まで続いた」

 うーーん。どうして社長親子の軌跡を俺は聞いているんだろう。こういうのって所謂(いわゆる)『プライベート』というやつで、俺の業務外な気がする。と、いいますか社内で他人のプライベートに口を出すというのは暗黙の了解でやっちゃいけないことだって郁海は言っていたのだが、その郁海の生い立ちを聞くのは、なんだかとっても悪い気がしてならない。

「これはね、社長からの君への仕事なんだ」

「は?」

「どうして、一番社長の近くにいることになる秘書に、秘書検定も持っていなくて、他社で働いたことのない吉野さんを選んだのか、不思議に思ったことはないかい?」

 ぐっと詰まる。

 それはある。

 でも、単純に体力を買われたと思っていたのだ。

「年が近く、社会人経験もあまりない‥‥‥そんな君になら、郁海さんの本心を聞き出してもらえるんじゃないかと考えているんだよ、社長は」

「本心?」

 瞳が大きく瞬くのを感じる。

 ゆっくりと伊東が起き上がった。

「本当は‥‥‥高校に行きたかったんじゃないか‥‥‥社長はそのことをとても気にしていてね」

 窓硝子越しにまだ話を続けている社長を見やる。

「新社屋‥‥‥本社と比べたら飛躍(ひやく)的に大きいだろう?」

「はい」

「奥さんが亡くなって、社長はがむしゃらに働いたんだ。まあ、団体行動ができなくて会社を興したような人だから、そのがむしゃらのせいでどうしても総務や経理の女性社員は長く続かなかった」

 それは、思っちゃ悪いかもしれないけどなんとなくわかる。俺は園長さんの自由(フリーダム)っぷりを知っているので、なんというか耐性が少しばかりあったけれど‥‥‥上司や社長に夢を見ている人には、その現実はだいぶ辛いだろう。

「郁海さんを幸せにしたくて働いているのに、結局は彼女を会社に縛りつけてしまった。彼の苦悩を私は間近に見ているから、余計に心配でね」

「でも、郁海さんはいきいきと働いているように見えますが」

 どう見たってイヤイヤ働いているようには見えない。

「‥‥‥そうかい? そうだったらいいがね」

 伊東はまた寝転がるとごろりと上を向いて目を閉じた。

「子供が自分の仕事を手伝ってくれる‥‥‥跡を継いでくれる、助けてくれる‥‥‥これは、男親にとっては僥倖(ぎょうこう)なんだよ」

「僥倖‥‥‥」

「思いもよらない、偶然の幸せ。現代は親の後を継ぐ子供は減っているからね」

 なんとなく、社長の気持ちが想像できる。

 子供が跡を継いでくれるのは嬉しい。嬉しいから彼女が働くことを否定できない。したくない。だが、本当なら彼女は高校生活を満喫しているはずなのだ、年齢的に。

 心の奥底では学校に行きたかったのでは?

 聞きたいけど聞けない本心を‥‥‥俺に聞いて欲しいということなのか‥‥‥

 お、重い。重過ぎる。

 プライベートな話をまったく遮断する郁海に無理です。無理。

「えーーと、人選間違いです」

「ボーナス上乗せするよ?」

 伊東さんは顔だけ横に向けてにっこりと微笑む。

「社長がね、ちゃんと聞けたら六月のボーナス上乗せしてもいいって」

 うわ。さすが社長。俺の弱いところをよくご存知で。

 だが、無理です。

「自分で聞けばいいじゃないですか!」

 伊東はゴルフ場に向かって(あご)をしゃくる。

「ああいうふうに社会ではそつなく嫌な取引先の相手ができる社長にも、欠点はあるんだ」

「社長は欠点だらけだと思いますが」

 ヤベ! 思わず本音が零れた。

 だが、伊東は声を上げて楽しげに笑うだけで否定はしなかった。助かった。

「娘が大事で手放したくない。嫌われたくない。臆病なんだよ‥‥‥とても自分からは聞けない。だって、傍に郁海さんがいてくれる()が幸せなんだからね」

 聞けば、壊れるかもしれない。

 離れていってしまうかもしれない。

 そんな、恐怖。

「子供は別人格。頭ではわかっていても‥‥‥現実を直視したくない時だってあるだろう?」

「わかりますが‥‥‥」

「さっきの失言。強請(ゆす)りのネタにしてもいいかい?」

「げ」

 喉が詰まる。

 やっぱり、社会は厳しい。

 俺は、楽しみにしていた重箱が包まれている風呂敷を眺めて「最善を尽くします」と小さく答えた。

 

 

 

 

 

 

 さて、いきなり郁海に「お前、高校に行きたいのか?」なんて聞いても鼻で笑われるか無視されるに決まっている。

 サラダバーのポテトサラダを突いて、吉野は苦悩する。

 この会社の社員食堂は‥‥‥正直言って微妙だ。

 入社した時、昨年入社した先輩が何人か来て、それぞれの部署での仕事やアドバイスなどを話してくれた。その時の質問で「社員食堂はどうですか?」というのがあったのだが、その先輩はしばらくの間固まって「微妙?(語尾上げ)」と答えたのだ。

 微妙?(語尾上げ)

 今ならこの意味がよくわかる。

 美味くはない。

 これは確実。

 まず。第一にうどんやそばのダシが魚系(いりこかいわし?)でしょうゆもなんだか辛いだけで、色は黒く、汁を飲み干すことが出来ない。これで三百五十円もするのだから問題だ。インスタントのうどんのがよっぽど美味い。

 カレーとかは‥‥‥まあ、普通?(これも語尾上げ)

 まずくはない。だが、美味くもない。

 中学校の給食のが断然美味かった。これだったらレトルトカレーのがゼッタイ美味い。

 おかずは「青パパイヤとシークワーサーの酢の物」とか「切り干し大根とひじきの梅風味サラダ」とかなんとか、ふつうに「わかめの酢の物」「大根のサラダ」でいいのに変な一工夫をしてまずくして下さるのだ、この社員食堂は。

 そして同じようなメニューが同じ曜日に出る。

 極めつけに、高い。

 正社員は給料に『食事手当』というものがあり、正社員、派遣関係なく同じ値段で食事をするのだが(実質手当てがつく分、正社員は優遇されてはいる)だが、だが、だが、これだったらまだ一階のコンビニ弁当のがマシだ! という味つけをしている。

 本当に、微妙。としか言いようがない。

 だが、吉野が食べているのは普通のメニューではなくサラダバー。

 生野菜やミニトマト、フルーツ、海草類がケースの中に入っていて、専用の皿に乗せ放題。厳しく見られていないので、実質はお代わりもし放題という、貧乏人の救世主、サラダバー。

 ドレッシングも青じそ、中華、イタリアン、フレンチと四種類もあり、マヨネーズや味ぽんまで置いてある。

(だけどさ、毎日生野菜って辛い!!)

 ポテトサラダやマカロニサラダ、かぼちゃサラダ、ごぼうサラダと日替わりでマヨネーズで和えてあるサラダも変わるが、味は画一的。

 ―――昨日のお弁当美味かったな。

 溜め息が零れる。

「吉野さん、ひとりなの?」

 見上げると清水さんと、彼女と同じ部署の人達がいた。あの時、アイスクリームを買いに行った三人組。

「ここ、いい?」

 はいと答える前に彼女たちは椅子に座る。

 まあ、社員食堂はみんなものものだし、どこに座ろうと自由だ。だが、けっこう緊張する。年上で、綺麗なお姉さん達に近くに座られるというのは‥‥‥

「吉野さん、いつもサラダバーだよね?」

 清水が自分のお弁当を広げながら聞いてくる。彼女のトレーの上にはお弁当と社員食堂の味噌汁。

「あ‥‥‥はい」

「まさか、ダイエット?」

「そんなことないわよね〜?」

「ははっ。毎日社長を追い駆けて走り回っているんだもの。食事制限なんてしなくても大丈夫よ」

「サラダバーが‥‥‥一番お金がかからなくて満腹になるんです」

 サラダを突きながら溜め息を零す。

 俺の言葉に開発部女性陣は瞳を瞬かせた。

 そして、なんと言ったらいいのかわからないが‥‥‥納得したという顔をしている。

「吉野さん、もしかして一人暮らし?」

「‥‥‥はい」

 エスパーか? この会社はエスパーがいっぱいいる。

「一人暮らしって、最初はきついもんね‥‥‥よし、お姉さんがお(すそ)分けしてあげる」

 清水は弁当箱の蓋をひっくり返して、主菜のハンバーグとにんじんのグラッセを乗せてくれた。すると他の三人も少しずつわけてくれる。

「え? いいんですかっ?」

「いいの、いいの。一人暮らしって意外と物入りなんだよね〜」

「そうそう、就職したばっかりの給料で一人暮らしって本当にキツイ」

「うちなんて、旦那と共働きでもキツイよ〜」

 吉野はふにゃっと笑みを崩してハンバーグに箸をのばした。

 昨日、今日とついている。

 いや、変な調査依頼を入れるとついているとは言い難いが。

 ぱくぱくともらったおかずを幸せそうに食べる吉野を見て、開発部女性陣は眉をひそめた。

 

 

 

 

 

(今日はラッキーだった!)

 ほくほくと浮かれながら総務部に戻ると、仁王(におう)がいた。

 仁王ってわかるだろうか? お寺の山門とかに立っている怖い顔をした仏法(ぶっぽう)の守護神。

 ぐうううと、なにか郁海の(うな)り声のようなものが総務部の室内に溢れ返っている。

 恐る恐る扉を閉めた。

 見なかった振りが一番の平和的解決方法な気がする。

 そんな吉野を見つけて畠山が室内から出てきた。そして、吉野の袖を引っ張って廊下を進む。

「どうしたんですか?」

「これ」

 コンコン!とポスターのなどが掲示されている壁を叩いた。

 

 辞令

 総務部 匠 郁海を 六月一日付けで 副社長に任命する

 

「ヴワアアァア!!」

 吃驚した!ビックリした!!

「ええええええぇ!?」

 畠山を見ると、彼女は頬を押さえて「はあ」と溜め息を吐いた。

「私達もびっくりよぉ」

「いやいやいや。びっくりもびっくりですが、社長は郁海さんに嫌われたいんですか!?」

 なんて無謀(むぼう)な!

 そんなことしたら嫌われるに決まってるじゃないか。

「‥‥‥どうしてそう思うの?」

 畠山は、つ、と吉野の顔を見上げて首を傾げた。

「郁海さんは社長令嬢よ」

 なんか頭の中に違和感が芽生える。郁海は会社の中で自分が社長の娘だということを、極力出さないようにしているように見えるのだが。

「子供が親の仕事を継ぐのはよくあることじゃない?‥‥‥でも、ちょっと、というかだいぶ早過ぎるけど」

 ちょっとどころかだいぶも合っていない気がするんですが‥‥‥郁海は十五歳だぞ。十五歳。

「君達、なにをしているんだい?」

 気取った口調とイントネーション。自称『マーケティング部の華麗なるヒットマン』曽我龍樹(りゅうじゅ)、二十六歳独身。

 自称なので、自分で言っているのだ、このこっ恥ずかしいリングネームを。(いや、プロレスラーじゃないけど)

 いつもダークグリーンやこげ茶などのあまり一般的とは言い(づら)い、変わった色のスーツにその色に合わせたヘアバンドをしている人。

 色素の薄い髪の毛は郁海よりも長い。肩にかかるかかからないかの髪を左手でふわっと払う。瞳も色素が薄く、青灰色をしている。が、純粋な日本人だ。

「曽我さん‥‥‥今は総務部に入らない方がいいですよ」

「なになに? 郁海ちゃんが怒ってる?」

 ワクワクという言いながら両の拳を上下に振っている。

「怒ってますよ。今近付くと、黒こげになりますよ〜」

 畠山さんが「ちちち」と呟きながら人差し指を左右に振る。

「でもさ、簡単に考えればこの辞令が出たってことは、郁海ちゃんを口説き落とした奴が次の社長ってことでしょ?」

「は?」

 更に突拍子のない台詞に瞳が零れ落ちそうになる。

 目がシバシバする。乾き過ぎで目薬が欲しいくらいだ。

「さすがに十五歳はストライクゾーン外だったんだが、本気で考えてみようかな〜」

 うっふふ〜と人差し指で空中に円を描いている。確かにヒットマンだ。この人は間違いなくヒットマンだ。場を凍らすことが的確にできる。

「ちなみに、それまでのストライクゾーンは何歳だったんですか?」

「十六歳!」

 陽気に答えて振り返った曽我は体を強張らせた。

 当の本人が扉から顔半分を出している。

 質問者は噂の社長令嬢。

「お従兄にいさま」

 郁海が不気味な笑みで口元を歪めて呟いた。

「会社ですから、本来の親戚筋の関係でお呼びするのはやめようと思っていたのですが‥‥‥やはり、これからは『お従兄さま』とお呼びしようと思います。いかが?」

 黒縁眼鏡の奥の瞳がギラリと輝く。

「すいません。冗談! 冗談だよ、郁海ちゃん」

「‥‥‥お従兄さま? それとも幼い頃のようにお従兄ちゃまのがお好みですか?」

 郁海の周囲の温度がみるみる下がっている気がする。シベリアにいるようだ。それともスウェーデン? フィンランド? アイスランド? 南極、北極でもいいかもしれない。バナナで釘が打てて、睫毛が凍りそうな雰囲気だ! オーロラが見える!

「大変申し訳ありませんでした。郁海さん」

「わかりました。曽我さん」

 ようやく温度が気持ちだけ上がった。

 ああ。息苦しいのは変わらないが。

「すいません。という言葉は会社では謝罪の言葉にはなりません。すみませんも同様です。マーケティング部という社外の方ともお会いすることの多い部署にいらっしゃるのですから、注意なさって下さい」

「はい‥‥‥あ、でも今は昼休みだからいいだろう? 郁海ちゃん。あれ、本気? 郁海ちゃんが了承したとは思えないんだけど」

 なんて立ち直りが早いんだ、曽我さん。さすが社長の血縁。この打たれ強さは尊敬に値する。打たれ強さ『だけ』だが。

 曽我は、社長の姉の子供だ。郁海が会社に顔を出すようになる前には、よく一緒に遊んだのだという。

「私が了承するわけないでしょう。父の独断です。私は、サラリーマンでいたいんです!! 社長業のような気苦労などしたくありません。給料日にきっちり給料のもらえるサラリーマンほど素晴らしい職業はありません!!」

 郁海は拳を強く、ただでさえ白い肌がさらに白くなるくらい強く握り締める。

「だよなぁ。ずっと言っていたもんなぁ〜。で、伯父さんに説教でもすんの?」

 気心の知れた従兄弟と話しているせいか、郁海の口調がお局口調からやや崩れた。それにものすごく新鮮な気分になる。

「説教して聞くとは思えませんが、私の腹立ちが治まらないから説教は致します。そして目標は即時撤回です」

 むん! と気合いを入れて郁海は両の拳を握る。さすが親戚。ポーズまで血が関係しているのか似ている。

「とりあえず、掲示されている辞令を回収します。吉野さん、お手数ですが手伝って頂けますか?」

「あ、はい」

「私も手伝おうか?」

 畠山が自分を指差して苦笑いを浮かべる。

「いえ、畠山さんには恐れ入りますが辞令文書の元データの更新日時を確認して頂きたいんですが‥‥‥もし、この辞令文書が保存されていたら、最終のアクセス者が誰かもわかりますから」

「伊東さんだと思うけど」

「あ、俺も伊東さんだと思う」

 畠山と曽我がさらりと言う。

「やはり」

 郁海も顎を撫でさすって頷く。っつーか、顎をオジサンのように撫でさするな、十五歳。ふっとした気配のようなものを遠くに感じて目を凝らすと‥‥‥そこには。

「あ、社長‥‥‥」

 よく見たら、社長は唇に人差し指をあてていた。

 やべ。

 きっと、これで上手くなんで高校に行かないのか聞き出せたとしてもボーナスは消えたな。

 だって、社長がいたのは普通の人だったらぼんやりとしか見えないような遠くで、判別までは難しい位置。俺が声を出さなければ見つからなかっただろう。

 あの顔を見て確信。

 この辞令騒ぎは社長流の愛娘への愛情表現。愛ある悪戯(イタズラ)。それにしてはとにかく(たち)が悪いが。

「吉野さん、取っ捕まえて下さい!!」

「はい!!」

 短くハキハキ、元気よく返事が出てしまった。もう、この一ケ月半の習性としか言えない。

 俺は勢いよく走り出した。主犯格を捕まえるために。申し訳ありません、社長。俺は給料を払ってくれる社長よりも、俺の仕事で主に関わる郁海のが怖いんです。

 社長が猛ダッシュをかけたが、元柔道部員、現役自転車(ケッタ)(注・A**県の方言)の新聞配達員を舐めるな!!

 俺は、いとも簡単に社長を捕獲することに成功したのであった。

 

 

 

 

 

 

「社長、我が社が4Sを推進していて、他の大手企業で使われている5Sを使用しないのはなぜかご存知ですか?」

 絨緞(じゅうたん)の上に正座をして(りん)と背を伸ばした郁海が、瞳を(すが)めて尋ねる。

「もちろん、4Sがなにかは把握されていらっしゃいますよね、社長?」

 郁海は機嫌が悪いと、ことさら強調して自らの父親のことを『社長』と呼ぶ。他の者に対しては営業スマイルというか、対会社用スキルが崩れることのない郁海が、唯一父親に対しては感情のブレが起きる。

 こういうところは子供だと思う。

 甘えているんだと思う。

 俺の弟や妹のような、素直な甘え方じゃないから可愛くないように見える。だが、いつも背筋を伸ばして、完璧を目指しているような頑ななヤツが、ひとりに対してだけ感情がブレる姿は、俺には可愛く映る。

「整理・整頓・清潔・清掃」

 指を折りながら、ひとつひとつゆっくりと放つ言葉。

 郁海の目の前で座らされている社長は大きな体を小さくさせていた。

「この四つの頭文字を取って4Sといいます。5Sにするにはこれに『(しつけ)』が加わります。躾です。躾。社長、躾って言葉ご存知ですか? 大変申し上げにくいことですが、社長が社長でいる限り、当社では5Sを普及できません。あなたを見る社員に対して、躾が大事だとはおこがましくて申し上げることができないの、おわかりですか!?」

「なっ! 酷いよ、郁海」

「第一、このような勝手なことをされるような方がトップにいるのならば『ホウレンソウ』が重要だと言うのも、(はばか)られます。覚えておいでですか? わたくしにホウレンソウがどれほど大事か諭されたあの頃を」

「郁海はまだ小学生で、ちっちゃくて可愛かったよね〜」

 社長と呼び、一人称が『わたくし』になる。

 郁海は電話応対や目上の者に対して一人称を変えている。普段仕事上で会話をする時はさすがに『(わたし)』だが。男女関係なく、一人称は私かわたくしを用いるべきだと言われたので、俺も極力気にはしている。

 こういうふうに、会社用の言葉を容赦なく父親に使う時の郁海は、相当怒っている。

「サイズの話は申し上げておりません」

 寒さがぶり返してきた。

「‥‥‥郁海、怒ってないで仕事しようよ」

「そういう、ご自分が不利になると仕事でごまかそうとなさるところは、本当っに、お変わりになりませんね」

「いや〜」

 社長は頭を掻いて笑う。

「社長、郁海さんはまったくもって、全然褒めておりません」

 ピリピリと、血管が浮き出て切れてしまうんじゃないかという鬼のような形相をしている郁海を少しでも牽制するために横槍を入れる。

 恐ろしい言葉だ、横槍。

 槍を持って戦うというのは、本当にこれくらい怖いのだろう。正直言って、やらなくて済むならしたくない。だが、この親子の一方的な子から親に対する説教は誰かが止めないと、周囲が迷惑を被るのだ。

 娘は辛辣な説教で溜飲(りゅういん)を下げ、父親は『ちょっと手厳しいけど親子の対話をしちゃった!』くらいにしか思っていないのだから。

「お。吉野くんは日本語上手いね。うんうん。『全然』という言葉に続く言葉は否定形であるべきだね。『全然大丈夫』って言うのはもっての他! 全然が付くなら『全然大丈夫じゃない』となるべきで大丈夫なら『まったく大丈夫』もしくは」

 うんちくでその場をごまかそうとした社長は「社長」という郁海の冷えきった声で体を強張らせた。

 うーーむ、作戦失敗。

 返って郁海を怒らせてしまった。

「吉野さん」

「はいっ!!」

 矛先がこっちにきたか!? と思わず直立不動になる。

「ホウレンソウの意味を仰って下さい」

「ホウは報告、レンは連絡、ソウは相談。この三つを合わせてホウレンソウになります。部下と上司にとって、仕事上でとても大事なことで、互いに報告・連絡・相談をせずに自分だけで勝手に考えて動いたり判断したりしてはいけない。特に部下は些細なことだと自分勝手に思わずに、どんなことでも上司に報告・連絡・相談しなさいということです」

「はい。ありがとうございます」

 膝に手を当て、郁海は目の前の社長を真っ直ぐに見つめる。

 扉の前で直立不動な俺を見る気配はない。

「社長。わたくしは今回の辞令について、まったくなにも聞かされておりません」

「うん。今日の午前に思い付いたんだもん。だから郁海にはなにも言ってないよ」

 あっけらかんと返ってくる言葉に郁海は眉をひそめた。

「社長、わざわざ郁海さんを怒らせてどうするんですか‥‥‥」

 思わず零れる。

 うわ。

 しまった、と思うがもう遅い。ひっくり返したお盆に乗っていた水は帰ることなく、俺が放った言葉も口の中には戻らない。

「怒らせるつもりなんてある訳ないだろう! こんな大きな会社の副社長だぞ!! 嬉しいに決まっている。まだ年齢的には早いかもしれないけど、もう郁海はこの会社の正社員だし、誰にかまうことなく後継者になってもおかしくない」

 最初は語尾が強かった社長だが、どんどんと自信がなくなるのが言葉尻は小さくなり、最後の方ではごにょごにょと言っているだけだ。

 郁海は父親のその言葉に瞳を見開いて、そして唇を噛んだ。

 小さな手がスラックスをきつく握る。シワができるって。

「兄が、生きていたら‥‥‥わたくしに会社を継がせようとは思わなかったでしょう?」

 郁海は視線を逸らして言う。

 片頬を覆うように手のひらで隠し、大きく肩を動かして荒い息を吐き出した。

「社長。長々と失礼致しました。先程のお話はお気持ちはありがたく思いますが、お断り致します。そろそろお仕事を再開なさって下さい」

 郁海は自分のスラックスの埃を払って立ち上がった。

 そして、父親の顔を見ようともせずに部屋の扉に向かった。俺は慌てて彼女を通せるように横に退()く。

「郁海!?」

 父親の悲鳴のような呼びかけに答えることなく、郁海は丁寧に一礼をして「失礼致します」と扉を開け出ていく。乱暴に扉を閉めたり、震えるように弱くなったり、そんな感情は一切現れてこない。パタリと静かに閉められた扉を見つめて、残された社長は呆然としていた。

 えーーと、と俺は考えた。

 だが、俺に残されているのはふたつにひとつしかない。

 覚悟を決めて社長の家のプライベートに踏み込む。か、仕事上なんだからと表面上の態度を取り続ける。か。

 でも、考えるまでもない。もう実際問題、片足突っ込んでいるのだ。

 社長がいなければ、秘書である俺がこの会社で秘書をしている必要はない。郁海がいなければ、なにも知らない俺は秘書の仕事を続けることはできない。

 いつもにこにこ仲良し親子でいる必要なんてまったくないが、でもある程度は仲良くないと、秘書としての俺の仕事が(はかど)らないのだ。

 それは困る。

 毎日毎日、会社に来て嫌な雰囲気のなか、最低でも九時間(八時間勤務&休憩時間の一時間)は過ごさないといけないなんてそんな生活嫌だ!

 嫌だからと言って転職なんて、できるわけがない。自分に郁海並みのスキルがあるならば履歴書が埋まって採用も上手く行くかもしれないけど、高卒・入社二ケ月もしないで転職なんて‥‥‥できるわけがない。正社員として採用されずにアルバイトや派遣になるしかない。それもなれるかわからない世の中だ。それ以前に給料がなくなってアパート代が支払えずに追い出されて‥‥‥いかんいかん。想像が光よりも早く進んでしまう。

 そんな困る未来はとりあえず置いておいて、現実問題を解決するしかない。

 嫌な毎日を送らないためにはどうしたらいいのか?

 嫌だと思ったら動くしかない。自分が変えていくしかない。自分が変わるしかない。

 俺は呆然としている社長の前でしゃがみ込んで強く言った。

「社長、業務命令をして下さい」

「は?」

「私は社長の秘書でしょう? だから命じて下さい。『総務部の匠郁海が辞令を拒否する理由を明確にしろ』と!!」

 社長は俺を見上げて、そして苦笑を零した。

 そして、足を崩して天井を見上げた。

「郁海には兄がいたんだ。海斗(かいと)といってね、郁海と三つ違う」

「俺と一緒ですね」

「うん。だから、君を選んだんだ」

 そのまま社長は寝転がってしまう。

「瑞花さんと一緒に交通事故で亡くなったよ。郁海はよく会社に顔を出していたから社員とも仲が良かったが、人見知りの海斗はあまり会社に来ることもなくてね‥‥‥社員の中には海斗がいたことを知らないヤツもいた」

 それは初耳だ。

「私は、会社でいつも海斗が次の社長になるのと、郁海の花嫁衣装を見るのが楽しみだって言っていた。小さかったけれど郁海は覚えていたんだな」

 瞳を閉じて、社長はふふっと自嘲(じちょう)の笑みを零した。

「‥‥‥社長、ひとつ聞いていいですか?」

「なんだい?」

「本気で、郁海さんを社長に任命するつもりなんですか? 今じゃありませんよ‥‥‥何年後かもしれません。いつかは関係なく、あなたが社長を彼女に継がせる意思があるのかが知りたいんです」

「ないよ」

 あっさりとした短い返答に気が抜けた。

「は?」

 正直に言って頭が痛い。

「だって、今時さ血統でどうのこうのって、無理だって。こんだけ大きくしちゃった以上、会社はもう生き物だ。こんな生き物を(ぎょ)すには自分のほとんどを使わなくちゃいけない。そういうのはさ、娘にさせたくないよ。郁海はさ、可愛くないことばっかり言うけど、俺には世界で一番可愛いんだ。だから、俺がこいつなら任せられると思う男に嫁いで、幸せになってもらいたい」

 そういうことは娘に言え。

 そう思ったが、とりあえず黙る。

「もし‥‥‥もしもですよ、郁海さんが会社を継ぎたいと仰ったらどうされますか?」

 社長は機械人形のようなぎこちない動きで俺を見上げてきた。そして微笑する。

「郁海が社長になる実力を備えていて、その時に他の社長候補を凌駕(りょうが)するなら許可する。だが、二百六十名以上の社員の生活を双肩で担うにはそれ相応の覚悟が必要になるな」

「だったら、娘の気持ちを確かめるために副社長に任命なんて辞令を出さないで下さい!!」

 俺は叫んだ。

 叫んでもバチは当たらない。

 ゼッタイ。

「だって、郁海はさ‥‥‥もう甘えてこないんだ」

 頬を膨らませてぷいっとそっぽを向く。

 これではどちらが子供で、どちらが親かわからない。完全に俺には郁海が保護者に見える。

「社長、無自覚ですか?」

 溜め息が零れる。

「俺は、この一ケ月半の間、社長の(した)、郁海さんの(もと)で仕事してきました。彼女はいつだって社長の娘じゃなくて総務部一社員としてこの会社で働いている。でも、社長と話している時はその仮面が(はが)れ落ちているんですよ。微妙にわかりにくい甘え方ですが、彼女は彼女なりに甘えていると思います」

 俺の言葉に社長は起き上がって、呆然と見つめてくる。

「社長、郁海さんに反抗期ってありました?」

「‥‥‥いいや」

 ゆるゆると社長は首を振る。

 まったく。

「それがないって不自然ですよ」

 俺は遠慮なく溜め息を吐き出した。

「俺は、反抗するような親がいなかったから経験せずに過ぎちゃいましたが。たぶん、今が反抗期じゃないんですか? ホルモンのせいなんです。素直に甘えてこなくなったのも全部。あなたを嫌っているのならば、郁海さんは正社員になる道を選んではいない。それくらい、わかってあげて下さい」

 さっきからずっと、会社用の一人称の『私』が、普段の『俺』になっているが仕方がない。

 吉野の目の前には、パチパチと音がしそうな程に、大きく瞬く男の瞳。

「社長。郁海さんが行きそうな場所の心当たりは?」

「たぶん、七階の図書室か、屋上の奥のベンチ」

「嫌っている親に、自分がよく行く場所の話なんてしませんよ。郁海さん本人が教えてくれたんでしょう?」

「‥‥‥うん」

 こくりと子供のように頷く社長を見て、俺は立ち上がった。

「俺がこれから動くのは社長の業務命令ですからね!」

 見下ろして念を押すと、社長はようやく生気を取り戻した。そして、いつもの強気な表情を浮かべる。

「吉野くん、命令だ」

「かしこまりました! じゃあ、俺は郁海さんを連れ戻してきます。その時に彼女を怒らせないように、ちゃんと、ここで、きちんと仕事をしていて下さいね!!」

 俺は笑って、扉を目指しながら社長の高そうな机を指差して郁海のように言う。

 それに社長が微苦笑を浮かべた。

「失礼します」

 一礼をして扉を扉を開けた。

 そして、自分にとっての上司を探すため、静かに目の前の扉を閉ざした。

 扉の奥で「あーあ。郁海に似た部下ができちゃったよ」と肩を竦めた社長がいることを俺は知らない。

 

 

 


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