幕間「ある現代新卒社会人一年生の休日」:第三話
七月になった。
そろそろ、扇風機さまに登場してもらいたい頃だが、まだまだ夏祭りの団扇さまに頑張ってもらおう。
その団扇さまを桜良がぱたぱたと扇いでいる。
扇いでいる先は祥真だ。
今日は日曜日。
土曜日の夕方か夜から俺の狭いアパートで一泊して、日曜日の夕方に二人を連れて匠家に向かう。そういうパターンになりつつあるのだが、クーラーのない部屋ではこのスケジュールに限界が来るだろう。近いうちに。
「桜良は、進路をどうするつもりだ?」
吉野は中学三年生の妹に確認をする。
なるべくお金がかからない方が嬉しいが、だが、やっぱり妹には好きな道に進んでもらいたい。
「まだね、考えてる途中。だけどね、シャッチョサンが先行投資しようか? って言ってくれてる」
桜良は団扇に手のひらを当ててパタパタと音を立てさせる。
「やきとり~♪」
我が妹ながら、いまいちセンスがわからん。
いや、それよりも‥‥‥
「社長が?」
「うん。今は最低でも短大出ていないと就職に差支えが出るから、職人とか棋士とかスポーツ選手とか若い内からその道に進まないと損をする職業を目指しているんじゃないなら、進学した方がいいって」
「‥‥‥そっか」
確かに今は就職難。
一番最初の就職で正社員になれないと相当苦労すると巴さんが言っていた。
あまり実感が湧かなかったけれど、これから未来に就職を予定するものはそういうことも考えないといけないのか。
「桜良は、なにかなりたい職業ってあるのか?」
桜良は大きな瞳で見つめてくると、口を開けて、そして閉じた。
「どうした?」
遠慮するな。という気持ちを込めて促せば、桜良はいったん俯いて、そして顔を上げた。
「薬剤師」
短い言葉に息を呑む。
「薬剤師か‥‥‥」
なんというか聞くだけで、なるまでにお金のかかりそうな職業だ。
「大学はね、六年かかるの。奨学金制度もあるから、そういうのを使って自分でできるだけ返せるように頑張る‥‥‥だから」
桜良は力なく団扇をパタパタしながら口篭る。
その表情を見て苦笑を零す。
手のひらで自分によく似たふわふわの頭を撫でるが、髪の毛に絡み付いてがしっという音がしそうだった。
「誰が反対するか‥‥‥桜良が決めたんだったら、俺は応援する。安心しろ」
微笑めば妹はぱっと顔を明るくする。
「やくざいし~?」
らくがき帖にくれよんでがしがし描いていた祥真が顔を上げて首を傾げる。
「そう。薬剤師。お姉ちゃんがそれになりたいんだって」
「やくざいしってつよい?」
なぜ、強い‥‥‥
ツッコミたいが我慢する。
「強いに決まってるでしょ! スカイブルートルネードとかメタルグリフォンよりも強いんだから!!」
「比較対照がおかしいだろ」
吉野のちいさなツッコミは、弟の「すごい~」という歓声に綺麗さっぱり無視された。
◇
「吉野くん、コピーお願いね」
「はい」
社長が差し出してきた用紙を受け取って、俺は首を傾げた。
「えーと、期限はいつまでで、いつお配りになりますか?」
「明日の午後イチの会議だから、昼休憩前には欲しいかな」
「何部必要ですか?」
「部長クラス以上の会議だから?」
「十四部に予備を含めて十五部でよろしいですか?」
「そんくらいかな~」
「あと、拝見するとカラーでなくてもよさそうなので、白黒で印刷しますね。それから部長クラス以上ということは社内会議ですから裏紙でもいいですか? もしくは両面印刷にします」
淡々と聞き返せば、社長は唇を尖らせた。
「吉野くん、つまんない」
どこの『カノジョ』みたいな物言いですか。そう思いつつも手持ちのメモに期限を書き込む。
「毎回、人を試すような依頼の仕方はしないで下さい」
郁海曰く、社長のように人を試すような依頼の仕方をする上司は往々にいるらしい。そして、期待通りの受け方をしなければ説教を、『あなたのためだから』という名目でしてくるのだ。
自分の怒りの矛先を『あなたのためだから』というオブラートに包んで向けてくる輩はどこにでもいる‥‥‥らしい。
「社長、その会議で使う部屋の予約はされましたか?」
思いついて聞けば、社長は首を傾げた。
「では、確認もしておきますね」
吉野は一礼をして社長室を後にした。
「吉野くん、つまんな~い」
駄々っ子の声は無視だ。
総務の自分の机に戻って、会議室の空き状況を確認する。
「うわ!」
思わず声が出る。
明日の午後イチで使える十五名(十四名プラス社長で十五名だ)が入れる部屋は残り一室だった。
慌てて端末から申請をする。
あとでちゃんと予約できているか確認をしないといけない。念のために次の時間帯で一室予約も入れておく。メモに書き込みをして、モニタに貼っておく。後で取れていたら予備の予約解除をしておかないといけない。
「お、部長会議の予約?」
「はい。取れてるといいんですけど」
後ろからモニタを覗き込んでくる畠山に苦笑を返す。
「実際は、会議室ってみっちりと予約で埋まってるんだよね~。レディースコミックみたいに会議室でうにゃむにゃなんてムリムリ」
あはは~と笑いながら畠山は吉野の机の上にマシュマロを置いていった。
「‥‥‥ありがとうございます」
レディースコミックでは会議室でうにゃむにゃなシーンがあるのか‥‥‥
吉野は、マシュマロの包装を千切って、中味をぽいっと口の中に放り込んだ。そして、口の中に人工甘味料と香料が満ちる。
「吉野さん、手が空いたのでお手伝いしましょうか?」
空いている会議室を予約して、明日の会議の資料を束ねていると郁海がひょっこりと顔を出した。
意外と分厚い会議資料はコピーをするのも結構大変だった。
コピーをする時に仕分けというのか分ける機能の付いたコピー機が壊れているため、今回の資料作成は手作業だ。
「郁海さん」
「こういうことは、複数でやった方が早いですからね」
さすが有能なお局さま。にっこり笑顔が頼もしい。
郁海の服装はいつものお局スタイル。黒いアームカバーが眩しいぜ。
「部数は十五部で、三十六ページになります」
「今回はけっこう薄めですね。いつも無駄に厚いんですが‥‥‥そういえばユネスコの統計データでは、「49ページ以上」を本と呼ぶそうですよ。それ以下の場合はブックレットとかパンフレットと言うそうです。図書館司書の資格試験でよく出る問題だそうです」
最近気が付いたのだが、郁海のこの薀蓄は語りたいのではなく、話題提供のことが多い。
「そうなんですか‥‥‥じゃあ、この資料はパンフレットですか?」
「製本したらそう言うのかもしれませんが、この状態では資料が正しい気もします」
くすりと笑う。その様が以前のようなぎこちなさもなく、落ち着いて見えるのが微笑ましい。社長にショッピングモールで愛を叫ばれる前の郁海は、なんというか本当に不安定だった。けれど、最近の彼女は安定しているように見える。
「じゃあ、始めましょうか。これだけのページ数ですと並べて二人で取っていくよりも順番に机に置いたほうが早いですね。半分にして十八ページずつ並べていきましょう」
「それでもいいですけど、机が四角に並んでいるなら並べていった方が早くありませんか?」
「そうかもしれませんね」
下から順に1・3・5・7・9・11・13・15・17・19・21・23・25・27・29・31・33・35と並べる。
「‥‥‥でも、やっぱりかなり歩くことになりますから、机を寄せて半分ずつのが早い気もします」
頭の中で四角に並べられた机に用紙を置いていって、終わったら回って束を手にしてまた置いていくという作業を浮かべてみる。うーーむ。まるでハンカチ落しのようだ。
郁海のやり方のが少人数には合っているようだ。
机を動かして、吉野は1から17まで、郁海が19から35までを手にする。左から右に五部、それを三段にして並べていく。机の上に同じ用紙が十五枚広がる様は壮観だ。
その上に次のページを並べていく。
コピーした用紙を束ねるには複数のやり方がある。
たとえば全部で八ページの束だとすると、机の上に
2・4・6・8
と並べて2の上に4、6、8と取っていく方法と
2・2・2・2
と並べてその上に4を置いて6を置いて8と置くという方法がある。
前者は、部数が大量にある場合は少しでも完成品が増える。
後者は、ページ数が大量にある場合などでコピーが間に合わない時などに向いている。
今回は俺と郁海と二人でやるから後者の方法を二人で分けてやることにしたのだ。
いったん、終わってから吉野と郁海が並べた束を合わせるという作業が必要になるが、並べていくよりも動きは少なくなる。
黙々と担当分を並べていると、扉からぼそぼそとした声が聞こえてくる。
「うにゃむにゃになんてならないじゃないか!」
「なりませんね~」
「つまんない~」
「つまらないじゃないぞ、俺の可愛いお姫様に手を出すなんて一万光年早い!」
俺は、溜息を盛大に吐き出した。
一万光年って、それは光の速さです。文章的には一万年早いのが適当です、社長。
「‥‥‥郁海さん、社長と畠山さんと曽我さんがぜひともお手伝いをしたいそうです」
溜息混じりにそう言えば、郁海の背後に久し振りに般若さまが登場した。
お久し振りです。般若さま。
吉野は慣れた手つきで大型ホッチキスを操った。
会議室には郁海の説教の声と、ホッチキスをバッチンバッチン留める音が響いたのであった。