幕間「ある現代新卒社会人一年生の休日」:第二話
郁海は大きな口を開けてぽかーんと園内を見ている。
華やかでリズミカルな、でもなんだかノスタルジックさを漂わせる音楽が園内に響く。陽気な電子音が踊る屋外ゲームコーナーを抜けて、とりあえずは目的のジェットコースターを目指す。
スカイブルートルネード。
その名の通りに水色に塗られた木製のジェットコースターだ。
きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回す郁海の様は、本当に可愛い。
‥‥‥彼女の様子を見て『可愛い』以外の単語が出てこない自分を省みて、吉野は苦笑を零す。
恋は、人を詩人にするとか社長がほざいて(社長に対する敬意? なに、それ、美味しいの?)いたが、どうやら自分の場合は単一単語のみを繰り返す脳味噌にしてしまうらしい。
浮かべていた笑みをふっと落ち着かせ、そしてまた周囲を見て綻ばす。
それを繰り返す郁海を見て、吉野は肩を竦めたくなる。
(社長の‥‥‥アホ)
心の中でそっと思う。
先月、ようやく長い間、培われてしまった不毛な関係を修復したばかりだというのに‥‥‥どうして、ボーナスだと言うのなら、郁海だけを誘わないのか‥‥‥
娘の、こんな愛らしい(せめて可愛いじゃない単語を選んでみた)様子を見逃すなんて、本当にバカだ。
「吉野さん、まだ、あんまり人が並んでいませんよ」
郁海が少し興奮して指差す先は、まだ行列と呼ぶには短い人の列。
彼女が指を指すなんて珍しい。
「せっかくだから最前列か最後尾に乗れるといいですね」
彼女の赤い頬を微笑ましく眺めながら答えれば、郁海はとたとたと走って列の最後に並ぶ。くるりと振り返って「はい!」と笑う。
その姿に(まるでデートだ)と感慨深く思ってしまう。
「木製のジェットコースターって、普通のジェットコースターと違うんでしょうか?」
首を捻っているが、そんなことを聞かれても遊園地自体が初めての吉野にわかるわけがない。
「‥‥‥ミシミシいうとか?」
せめて笑いを取ろうと頑張るが、この言葉はお気に召さなかったようだ。
「吉野さん、シャレにならないこと言わないで下さい」
ジェットコースターに乗るということは、いったんは高いところに上ることになる。
それが『たいてい』なのか『ふつう』なのかはわからないが、まあ、普段よりは上に行くことになった。潮風が頬を撫でる。
「寒くないか?」
聞けば郁海は首を左右に振る。
だが、体を抱き締めるように腕を回している。多少は肌寒いのだろう。
「こっち」
せめてもと思って、腕を引いて風上に立つ。
その様子を見上げて、郁海は瞳を二回瞬かせて、そして微笑をする。
「ありがとうございます」
「今日は背広持ってないからな」
「あ、一応、ショールを持ってきたんです」
郁海はごそごそと鞄の中からふんわりとした白い布を取り出して首に巻いた。
淡いピンクの小花が散っている。
「お父さんが選んでくれたんです」
にっこりと笑うその姿を見て、頭の中でもう一度思う。
(社長の‥‥‥どアホ)
そのどアホは、実は下にいたりする。
社長は、自分の視力が超絶に良いことを忘れているのだろうか。
怪しいサングラスをつけて手には双眼鏡、後ろには呆れたような桜良と祥真がいる。
‥‥‥きっと、綾子さんは入り口入ってすぐで分かれる温泉施設のほうにいるのだろう。たぶん。粋な浴衣に包まれて、のんびりと歌謡ショーを見ているに一票を投じます。
こそこそと後を着けて来るくらいなら、最初から全員で来たほうがいいだろうに。
横を見ると、郁海は興味津々という感じで周囲を見渡している。
「工場地帯が見えます。海に近いということは造船関係とかでしょうか?」
さすがです。目の付け所が違います。
この遊園地は海に面して立地している。周囲は海と工業地帯。そして港だ。大きな船がいくつも見える。
「そうですね、後はガスとか車とかでしょうか」
「タンカーで運びやすいように、ですよね。やはり流通に便利な立地は経費削減になりますからね」
ふむふむと頷いているが、どうにもこれは十代の会話ではない気がする。
「思うんですが、新品の車を船に載せるために運転していて、事故を起こしてしまったら‥‥‥保険とかどうなるんでしょうね」
えーーと、十五歳の心配事ではありません。
まあ、その真剣な様子も可愛いのだから不問に処す。
「保険は入ってないと思いますよ。たぶん、運転している人に請求が行くんじゃないですか?」
もちろん、冗談だ。
思いっきり、作った笑顔で言えば吉野の真意をわかった郁海がぷっと吹き出す。
「その部署への辞令が来たら、私だったら断ります」
「郁海さんはその前に運転免許ですよ」
その言葉と共に列が前に進む。
木製の階段は不安定で、郁海の体がぐらりと揺れる。思わず支えるために出した腕に彼女の小さな体が収まる。豆粒の社長の体が大きく揺れた。
「郁海さん、よかったらどうぞ」
肩に回した腕を離して、右腕を曲げた状態で差し出せば、彼女は瞳を丸めて、そしてはにかんだような笑顔を浮かべた。「ありがとうございます」と呟いて、細い腕を俺の腕に絡ませる。
やわらかい。
――― 豆粒社長は大きな口を開けて、サングラスを落としていた。
「郁海さん、勘弁してください」
吉野はベンチに座って口元を押さえる。
うう。胃がトルネードだ。
さすがスカイブルートルネード。二回目ですでに顔が真っ青になってる気がするし、胃がぐるぐるもしている。
平気な様子の郁海はつまらなさそうに口元を尖らせた。
その様子も可愛い。
可愛いが胃が大揺れだ。
勘弁して欲しい。
はっと思いついて、吉野は郁海に提案をする。
「次はメタルグリフォンにしましょう!!」
吉野の言葉に郁海は瞳を瞬かせた。
「‥‥‥大丈夫、なんですか?」
「大丈夫です。平気です。任せてください!!」
元気に言えば、郁海は瞳を二回瞬かせて、そして破顔した。
彼女の三半規管は相当鍛えてあるらしい。いつ鍛えたんだ。そうツッコミながら、腕を引いてくる郁海の様子を多少げんなり、残りは可愛いな~と思いつつ歩を進めた。
もちろん、俺がメタルグリフォンの列が建物に入る前に社長をとっ捕まえて、無理矢理郁海と乗せました。
嫌がる父親の腕を捕まえて、ジェットコースターに乗った郁海の笑顔は、ジェットコースターに設置された写真でしっかりと確認した。
とにかく、良い笑顔だったことは記すまでないだろう。
◇
月曜日、食堂でお弁当を開いていたら経理の佐藤さんがラーメンをトレイに乗せて前に座った。
「よ。昨日は社長に付き合って遊園地だって?」
にやりと笑うが、顔には『大変だな』という感情が明らかに載っている。
吉野は、社内では社長の一番のお気に入りの社員と思われている。
それは間違いではないが、なんだか無性に否定したい気がするのはなんでだろう。
お気に入りというよりも、おもちゃ。
お気に入りというよりも、アトラクション。
そういう言葉のが合っている気がする。
「郁海さんとしくんでメタルグリフォンに乗せましたよ」
にっこりと笑って言えば「真剣かっ!?」と大爆笑された。
「真剣です」
生真面目に答えれば、佐藤は味噌ラーメンに大量の七味をかけながらげらげら笑っている。
もっと真面目なイメージだったのだが、巴さんといい佐藤さんといい会社での顔とプライベートの顔が違い過ぎる。
「どうだった? 社長のことだから乙女みたいな悲鳴あげたんじゃねーか?」
にしし、と笑いながら佐藤はチャーシューを口に放り込む。
社長、社員にどんなイメージを抱かれているんですか。
乙女みたいな悲鳴って‥‥‥確かに、あの日、バリトンのたいそう渋い『きゃ~』という悲鳴が聞こえたような聞こえなかったような‥‥‥幻聴でありますように。
「郁海さんの前でしたから、顔面蒼白にして恐怖に耐えていたそうですよ」
「あれ、吉野さんは乗ってないの?」
ぱちくりと瞬かせるのを眺めながら、吉野は弁当箱の甘い玉子焼きを咀嚼して飲み込む。
「乗らないつもりの社長を呼んで、強制的に代わらせました」
まあ、そんなもんだろう。
あれは正直、だまし討ちだ。
郁海にはトイレに行くといって列から離れ、無理矢理社長を引っ張り出して、彼女の腕に押し付けたのだ。
社長と郁海の間にどんなやり取りがあったかは知らないが、その後は匠家と吉野家の合同家族旅行に変更になった。まだ身長の足りない祥真に合わせてティーカップやメリーゴーランド、気球の形の乗り物や子供向けのコースターなどに乗ることが多かったのはなんだか楽しみにしていた郁海には申し訳ない気もしたが、楽しそうに笑っていたからそんなに気分を害してはいないだろう。
そう、思いたい。
夕方にはのんびりほっこりと温泉を満喫していた綾子さんと合流してご飯を食べて、社長が運転する車で帰宅した。行きの電車&バスに比べて楽だったのは言うまでもない。
やっぱり、車の免許は早めに取得しよう。
「‥‥‥吉野さんはプライベートまで社長と一緒で疲れない?」
その質問に吉野は首を傾げた。
「え?」
「土日くらい、一人でゆっくりしたいって思わないのか?」
佐藤の質問は吉野には意外だった。
一人でいたいというよりは家族と居たいとは思うけれど‥‥‥
「‥‥‥いえ」
つい、反応が遅れる。
「俺はさ、開発に兄がいるんだけど‥‥‥正直に言って会社では顔を合わせたくない。学部が違うから同じ部署にはならないだろうとは思ってたけど、内定が決まって、辞令が出るまではけっこうビクビクしてた」
「兄弟とかで同じ部署にはしないでしょうけど‥‥‥」
なにせ、同じ部署内で結婚したらどちらかを転部するのが通常だから、兄弟だったらなおのこと同じ部署にはしないだろう。
あれ?
じゃあ、匠親子は?
その疑問は、吉野の奥のほうで燻る。
「まあ、社長親子のお守り役ができてよかったよ」
佐藤の呟きを、吉野は微苦笑でただ受け入れるしかなった。