幕間「ある現代新卒社会人一年生の休日」:第一話
吉野は狭いアパートで着ていたシャツを脱いでほっと息を吐く。
Tシャツと綿のズボン、それに下着、後はタオルを手にしてユニットのバスルームに向かう。
ざっとシャワーを浴びて、着替えて髪の毛が生乾きなのもそのままに部屋を出る。
(今日の夕飯、なんだろな~♪)
くたびれたスニーカーを履きながら、吉野はウキウキとしていた。
「駄目です」
郁海の祖母、綾子の短い拒絶の言葉に吉野は瞳を丸める。
「若い男女が同居など、以ての外です!」
ぷりぷりと綾子が怒りながら両の拳をぶんぶんと振る。
なんだか愛嬌がある。
さすが、社長の義理のお母さん。
「でも、お祖母ちゃん‥‥‥」
「郁海、いい? 私は、桜良ちゃんや祥真くんと一緒に暮すことに反対をしているわけではないの。でも、英利くんは結婚できる年齢の男の子よ。私がたとえ、なにもないと言っても悪意を持って見ることしかできない愚かな人間はどこにでもいる」
「綾子さん‥‥‥?」
社長が不思議そうに義母を見つめる。
「恭一郎さん。貴方はあまり気にしていないようだけど、郁海が十五歳で自社で働いているということは、とっても珍しいことなのよ。十五歳の会社員。それが匠工業社長の愛娘で、しかも冗談とはいうことにはなっているけれど副社長辞令まで出たことがある。十五歳の女性副社長候補のいる会社‥‥‥それがマスコミにでも取り上げられたらどうなるか、わかっている?」
「え?」
思ってもいない指摘に、社長は瞳を瞬かせた。
「その上に自社社員と同居だなんて、色眼鏡を掛けて見ることしかできない人間はごまんといるわ。社長というだけでやっかみを持って見る人種が多いということ、恭一郎さんは身を持って知っているはずでしょう?」
綾子はそう言うと、はあ~っと大袈裟に溜息を吐いた。
「あ、あの、俺もさすがに同居はまずいんじゃと思っていたんで‥‥‥弟妹さえ許して頂ければ‥‥‥」
そう。それは俺も思っていた。
同居。
郁海と同居。
(この際、社長が一緒というのは考えないことにする)
湯上りの郁海とか、寝起きの郁海とか、台所でご飯作ってる郁海とか、そういう彼女と毎日一緒にいるというのは‥‥‥正直、身が持たない。と、思う。
良い意味でだ。
「じゃあ、英利くんは通いね」
綾子の断言に吉野は瞳を瞬かせた。
「桜良ちゃんと祥真くんが住み込みの丁稚で、英利くんが通いの丁稚ね。じゃあ、丁稚たち、お仕事の話をしましょうか♪」
「「「‥‥‥」」」
と、いう感じで、俺たちは匠家で正式に丁稚奉公をすることになった。
まあ、丁稚奉公って綾子さんは連呼するけれど‥‥‥あれは、俺たちに遠慮を抱かせない配慮のが強い気がする。仕事の見返りとしての保護。
それは、俺たち兄弟が社長と顔見知りということで起きた僥倖だけど、こういうチャンスは逃さないのが吉だと思うんだ。
吉野は徐々に厳しさを増していく太陽を見つめて瞳を瞬かせる。
六月後半。
世の中はボーナスの話題で満載だ。
しかし、このボーナスの話題、実は結構微妙な話題なのだ。
――― 派遣社員にはボーナスがない。
その分、通常の時給が高いのだが、派遣社員にとっては正社員の、この『もらって当たり前』と感じている話題が腹立たしいのだという。巴さんがブツブツと言っていた。
巴さんは、北条さんにも辛辣に口答えをしているというが、その態度は相手が誰であっても変わりがない。郁海さんのことは気に入っているので甘いらしい。
ちなみに、経理部ではあの後、巴さんが北条さんのパソコン教師になって鍛えているという。パソコンだけじゃなくて心身ともに‥‥‥
話を戻して、最近はお弁当を持参する(持参というよりも会社で郁海が渡してくれる)ことが多いので、食堂で食べるよりも会議室や休憩室の机の端で食べることがある。時折、味噌汁が飲みたくなって食堂に行くといろんな人が一緒に食べてくれる。
一人でいるから気を遣ってくれるらしい。
みんな、大人だ。
で、この前、巴さんと畠山さんと一緒になった。
巴さんは、一言で言うなら漢前な人だ。男じゃなくて漢。
その漢前の巴さんは、妙にやさぐれていた。
「世の中、ボーナスって騒ぐけど、満額で貰える人なんて少数なのよ。バイトやパートや派遣なんてもらえもしないし、少ないどころか貰えない正社員だって多い。少ないって文句言ってる輩を見ること自体が腹・立・た・し・い!!」
えーーと、俺はコメントは差し控えました。
畠山さんはのんびりと「巴ちゃんのボーナスメランコリックシンドロームがまた来たね~」と笑っている。訳がわかりません、そのシンドローム。
まあ、大多数の意見なのか少数の意見なのかはわからないけれど、時期としては一部の人にとっては羨望と憎悪が交じり合うボーナスシーズン。
入社したての俺は、賞与という文字には縁がなかった。
代わりにあったのは、
『寸志』
というもの。なんというか、お小遣いのようなものらしい。
でも、もらえないよりも断然良いし、利益を少しでも社員に還元しようという社長たちの志は嬉しいと思う。
「‥‥‥‥‥‥」
すみません。本心を偽りました。
まあ、冬に期待だ。
入社して三ヶ月。まだまだヒヨっ子だけど、そろそろ一人で仕事を完璧に回せるようにならないといけない。なんだか覚えないといけないことがあるけれど、確実に一歩ずつ。
そう思いながら歩いていると目の前に目的の一軒家があった。
(今日の夕飯、なんだろな~♪)
こんなふうに思えることが、こんなにも幸せなことだと吉野が知ったのはつい最近。
施設では食事のメニューは一か月分貼られていて、見ればわかった。
(そういえば、昨日、ジャガイモが安かったと郁海が言ってたな)
肉じゃが、カレーライス、タラモサラダ、ジャーマンポテト。思い浮かぶメニューは目新しさがないかもしれないが、そういう想像はなんだか心をあたたかくする。
「ほら、郁海、吉野くん、俺からのボーナス!!」
肉が多めの肉じゃが、胡瓜のたたき、豆腐キムチ、揚げ茄子とトマトのサラダ、きのこの味噌汁という夕飯を食べ終えて、手を合わせていたら社長がウキウキと封筒を取り出した。
「ボーナスですか?」
首を傾げる郁海は七分袖のトレーナーにジーンズ地のスカートというラフな服装だ。それにエプロンをしている。今日の夕飯担当は郁海だ。
毎週水曜日は総務部はノー残業デーのため、残業はできない。そのため、郁海の夕食当番は水曜日になることが多い。
お茶をすすっていた彼女は湯呑みを置き、社長から封筒を受け取ると中を見る。
そして、さらに首を傾げた。
「遊園地のチケット?」
その呟きに社長は胸を踏ん反り返して笑う。
「そうだ。今度の日曜日に行って来い。郁海は財布は持っていくなよ」
「は?」
その言葉に瞳を丸める。
「当日の財務大臣は吉野くんだからな☆」
「「‥‥‥」」
吉野はただ決定された日曜日の行事に、小さく溜息を吐いた。
◇
そして、日曜日。
待ち合わせは社長宅前。
吉野は着慣れたTシャツと綿のパンツ。就職祝いに妹と弟が買ってくれたキャップを被っている。遊園地で並ぶことが多いのなら帽子が必要かもしれないという郁海の言葉に、新聞配達時に使っていた帽子を被ってきたのだ。
対する郁海は、淡いピンクの裾がふわっとした長袖のシャツに、膝丈のズボンといういでたちだ。女の子の服の名前はよくわからん。
「可愛いでしょ!! 郁海さんのお洋服はわたしがコーディネートしました! バルーン裾に胸元にビーズのアクセント。首元にリボンで結ぶデザインのキャミを合わせました。んで、遊園地だからスカートはやめてキュロットです。グレーのキュロットに合わせて、キャスケットもグレーです。アクセントは両方ともコットンのトーションレース。足元はハイソックスに、歩きやすいラウンドトゥでストラップの靴にしてみました~。でも、お兄ちゃんのペースで歩いちゃ駄目だからね!!」
まるで呪文です。
郁海は手にしていた帽子を被って微苦笑する。
「では、行ってきます。行きましょうか、吉野さん」
「あ、はい。じゃあ、行ってきます」
かしこまって礼をする吉野を見て、社長が「硬いね~」とぼやいているのが聞こえたが、郁海はただ溜息を零すばかりだ。
一応、デートにはなるのだろう。
思いっきりお膳立てされたものだが。
喜んでいいのか情けなく思えばいいのかわからない。
まあ、せっかくのチケットを無駄にするのはもったいないので、今日を楽しむことにしよう。なんにせよ、生まれて初めての遊園地なのだから。
北苑市から今から出かける遊園地までは、県庁所在地のある市まで出て、それからバスで行くことになる。
駅まで歩いて、それから電車に乗って、バスに乗り換えて‥‥‥その間、郁海とはとりとめのない話ばかりをしていた。
吉野の弟妹たちが社長の家でお世話になるようになってから、夕食時に訪ねるようになっていた。夕食を頂いて、弟妹たちと洗い物をして、それから弟妹の話を聞いて遅くとも九時くらいにはお暇をする。
その間、郁海や社長はそれぞれの今まで通りの生活をしているらしい。
郁海はたいてい読書をしているか、パソコンを使っている。社長は書斎に篭ることもあればリビングでぼんやりとしていることもある。時折、吉野に向かってつらつらと経営論や薀蓄を語ったりしてくる時もあった。吉野はほとんど聞き役で、弟妹が相手でも社長が相手でもそのスタンスはあまり変わることがない。
「吉野さん、大根が嫌いだったって桜良ちゃんから聞きましたが、今は食べてますよね。どうやって克服したんですか?」
なのでこんなふうに話を引き出そうとされると返って戸惑ってしまう。
会社の同僚だからといって、プライベートな話はあまりしない。
それを頑張って共通項目を混ぜつつ、聞こうとしてくれるのはなんだかくすぐったい。
「いつだったか‥‥‥中三くらいの時かな、おでんを食べてたら急に大根って美味しいなって思ったんです」
「急にですか‥‥‥?」
「急にです。自分でも不思議なんですが、それ以来、おでんの大根は大好物のひとつですね」
「ひとつということは、他にもあるんですか?」
などという感じだ。
郁海の最近の読書傾向はビジネス書関連で、しかも『聞く技術』というものが多い。なんというか人体実験されているようで変な気分だ。
今まで、あまり自分のことを語ることのなかった吉野は戸惑いを隠しきれない。
(思い返せば、奨学金のために必死だったんだよな‥‥‥)
スポーツ推薦だったから、そのために柔道に励み、朝夕は新聞配達。長い休みの時なども部活の合間を縫って学校から許可をもらってバイト三昧だった。
クラスメイトからの遠出の誘いもお金を理由にすべて断っていた。
(あれ、俺‥‥‥ひょっとして友達、いないのか?)
ちょっと遠い目をしたくなる。
就職して、返って時間ができるようになった。確かに掃除や洗濯などの家事はあるけれど、施設で暮していた頃に比べれば忙しさは感じない。
だからなのか、郁海のこととも合わせていろいろと考えてしまう。
ふと思いついて尋ねてみる。
「郁海さんは遊園地は行ったことあるんですか? ちなみに俺は初めてです」
吉野の質問に郁海は瞳を丸めた。
そしてふっと微笑む。
彼女のこういう態度はなんだか大人びている。
「じゃあ、一緒ですね。私も初めてです。‥‥‥実は、かなり楽しみなんです」
郁海はそう言うと鞄の中からガイドブックを取り出した。
「絶叫マシーンって乗ったことがなくて‥‥‥どれだけ怖いのか、興味があります」
興味の方向が間違っている気もするが、吉野はそれは指摘せずに、ガイドブックを借りる。
「どう回ったら効率的ですかね?」
「そうですね。人気のアトラクションは並ぶでしょうから、それを非効率ととるか楽しみととるかでも変わるでしょうね」
「ホットドッグとかハンバーガーとか買い込んでから並べば効率的‥‥‥かもしれませんが、遊園地って効率目的で回るものでもないですしね」
「そうですよね‥‥‥これが研修旅行とかなら元を取るためにも必死で回るべきでしょうけど‥‥‥」
「第一、俺は絶叫マシーンに耐えれるか自信がありません!」
思わず断言すると、郁海は声をあげて可愛く笑った。