第一話
この小説はある会社やさる会社やこんな会社がモデルになっているように見えるかもしれませんが、特定の会社とは一切関係ありません。予めご了承下さいませ。
◇
これは『エイプリル・フール』じゃないのか?
いや、エイプリル・フールであって欲しい。そうであってくれ、ぜひとも。頼む。お願いだから。
この願いは、株式会社匠工業に四月一日入社したすべての新入社員の願いであっただろう。
まさか、就業規則を説明する『この会社で、社長の次に一番長く勤めている社員』が‥‥‥たったの十五歳の少女だとは‥‥‥
株式会社 匠工業
従業員数 二六〇名
資本金 三千万円
事業内容 金型・専用機・搬送装置・工作機等の機械設計、電気制御設計、試作・金型の製作
決算 毎年三月
所在 A**県北苑市猫ケ洞通町三の一
社訓 あかるく なかよく 力いっぱい
◇
『こちら、総務、郁海です。吉野さん、現在位置の報告をお願いします』
耳元でガガガとの雑音が響いた後、機械を通した少女の声が聞こえてくる。本来なら彼女の声は、もっと澄んでいて聞き心地のいい高くやわらかい音をしている。だが、今はレシーバーを通しているせいで冷たい機械音声のようだ。
「こちら、吉野。現在七階の食堂入口付近にいます。どうぞ」
『先程、五階のマーケティング部給湯室で目撃証言がありました。ただいまから私と伊東さんで二階から回りこみます。移動手段を東階段からのルートにして下さい』
「了解」
ガガガという雑音を放って耳元のトランシーバーの音が切れた。
俺は小さく溜め息を吐く。
社会人になったというのに、俺の仕事はおいかけっこ。初仕事もおいかけっこ。入社一ケ月半が経っても変わることのない、仕事は鬼ごっこの鬼。
ふるっと頭を振る。
考え方を変えれば、走り回っているだけで給料がもらえるのだ。こんな有り難いことはないはずだ。うん。きっと。たぶん。とりあえずは。
一応、吉野は階段に向かう前に七階にある社員食堂とその奥の図書室を覗くことにした。
「おおう〜。吉野くん! ご苦労様!!」
覗いた途端、呑気(のんき)な声がかけられた。
ピクリ。
顔が引き攣る。
主に口元付近がビキビキいっているのが自分でもわかる。
社員食堂の入口付近。いつもスープバーのスープウォーマーのある日当たりのいい席で、紙コップの珈琲を飲んでいる吉野のおいかけっこの対象がいた。
匠 恭三郎 四十二歳
役職 代表取締役社長
見た目だけ、黙っていれば、口を開かなければ、表情を浮かべなければ、本当にそのいつも適当なことを言う口をぎゅーーーーっと結んでいてくれれば、一応紳士にも見えないこともない男。
「ご苦労様じゃありません、社長!!」
吉野は雄叫びを上げた。
食堂で昼食の準備に明け暮れている社員食堂勤務の人達がぎょっとして吉野達を見ているが、一緒にいるのが社長だとわかるといつものことだと仕事に戻る。
ガガガ。
『こちら、郁海です』
ちょうどいいタイミングでトランシーバーが自己主張する。
吉野は、ぎくりと体を強張らせて、椅子から立ち上がろうとする社長の首根っこを逃がすものかとひっ捕まえて、トランシーバーのボタンを押す。
「こちら、吉野。郁海さん、七階食堂、スープバーの傍で社長を確保。これから社長室まで連行します」
声が冷たくなっても仕方がないと思う。
『吉野さん、一応、曲がりなりにも上司に対して連行という言葉は不適切です。心の中で思っていても、お連れしますと言うのが正しいのではないでしょうか』
返ってきた声も冷淡だった。
トランシーバーの声が洩れ聞こえたのだろう。
恭三郎は唇を尖らせる。
四十歳を越えたおっさんがやったところで、ちっとも可愛くなんかない。
「行きますよ、社長」
ゼッタイに逃げられないように腕を組んで大の男を引き摺るようにしてエレベーターホールを目指す。
ぶーぶーと(本当に口で「ぶーぶー」と言っていた。いくつですか、アンタ)文句を言いつつも社長はおとなしく連行される。時間的にもおいかけっこが終わりということは、理解もしているのだろう。ちっ、質が悪い。
「なあ。郁海、怒ってた?」
その言葉に絶句する。
吉野がずっとトランシーバーで連絡を取っていた相手は我が社で一番仕事ができ、一番勤続年数が長く、一番社長が弱い相手‥‥‥社長、匠恭三郎の愛娘。弱冠十五歳の『お局さま』である匠郁海である。
あの、トランシーバーを通した声音が聞こえていたのなら、娘が怒っているのなんか吉野に聞かなくたってわかるはずだ。
怒っている。
ゼッタイ。
しばらく、あの‥‥‥マンガだったらおどろおどろ線が舞い『ゴゴゴゴゴゴ』という効果音が描かれ、顔は青黒くくすみ、口調だけは冷静で仕事を容赦なく増やすお局さまが召還される。
正直、あれは社長も怖いだろうが俺達同僚も怖い。
「自重された方が、御身のためですよ。社長」
社長は俺の返答に溜め息を吐くとリーンと鳴り響くエレベータの到着音に顔を上げた。
「‥‥‥どうせだったら、秘書はパッツンパッツンのプリップリッのバーン・キュッ・ドーンがよかったなぁ」
そうしたら、美人秘書とあははっうふふな花畑おいかけっこなのに〜。とブツブツ呟く声が聞こえてきたが無視を決めこむ。
ああ、そう思うなら来年は部下を増やして下さい。
プリプリでもパツパツでも好きにして下さい。
匠工業、唯一の秘書室室員及び秘書室室長の吉野英利はわざと聞こえるように盛大に溜め息を吐き出して、毎日毎日懲りずに脱走を試みる、姿は大人、心はまるっきりガキんちょな社長の腕を抱き込んでエレベーターに乗り込んだ。
「お疲れ様です。吉野さん、社長」
社長室の扉を開けるとそこには郁海が穏やかな表情で立っていた。怒ってる。めさめさ怒ってる。
オーラなんて言葉、信じたことなんてこれっぽっちもなかったけれど、今ならわかる。
今だって見えやしないけど、顔は穏やかで微笑んでいても郁海のオーラは怒りでドス黒いはずだ、たぶん。
身長は一五〇センチもないだろうと思われる、ちんまりとした匠郁海は黙っていれば少年か少女かわからない。
耳元は隠れているが、短くさらさらの黒髪が天使の輪を作っていた。きっと吉野のように寝癖で悲鳴を上げることなんかないかのような、ツヤツヤの絹の糸のような髪の毛。
顔立ちははっきり言って幼い。
ふっくらとした頬っぺに、眼鏡の奥のくりくりっとした黒目がちな瞳。
最初の新人教育の時、挨拶をする彼女を見て新入社員十五名は正体不明のお局に絶句していた。淡々とした表情で淡々と就業規則などを説明していく彼女は、学生から抜け出したばかりの吉野達からしたら大人びていて、でも若いと思う。実際の年齢は何歳なんだ!?と混乱に陥れる対象だった。
『この会社で、社長の次に一番長く勤めている社員』
そう言われれば、誰だってどう見ても十代にしか見えない童顔の人物が、本当に十代だとは思わないだろう。
昼休憩の時に真実を知った新入社員一同はみな、絶句したものだ。三十代の割りには童顔だよな‥‥‥なんて、呑気に思っていた吉野は相当ぶったまげた。(なんで三十代かって思ったのはこの会社の創業が今から八年前。大学を卒業して入社して八年経ったら三十代だろ?)
そして、そのぶったまげたのは今も続いている。
「なんで吉野くんが先なの〜」
「それはご自分の胸に手を当てて、よくよく考えて下さい。では、本来のお仕事に戻って頂きます。社長のお仕事は脱走ではございません。本日、午後三時の株式会社タカムラとの会議までには、ここまでの決裁を終えて下さい」
郁海は、机の上の書類の山から一番左の山を手のひらで指し示す。決して指差すことはしない。
社長が「へーへー」とやる気のない声を上げて自分の机に座る。
匠工業の新社屋は『新』と付く通り新しい。だが、この社長室に並んでいる調度品はどれも比較的古いものが多い。
その古いものはだいたいが年代物の逸品だ。
社長が座った本皮の椅子。マホガニーという高級木材でできた赤味がかった光沢のつるつるの机、本棚、サイドテーブル。来客用の牛革のソファセット。豪奢な文様の浮かぶ硝子テーブル。社長机の上にあるお飾りのランプなどなど。
機能性を重視した他の部署と比べても差は歴然としている。
特別な社長室。
社長は特別だから、社長の使う物は高級なのか。
貧乏が根底にある俺からしたら、この部屋はいるだけで息が詰まりそうになる。
その、高級なマホガニーの机の上には山のような書類が並んでいた。広い机を埋め尽くす書類の山。
郁海は特に急ぎの上の束を社長に説明していた。細く小さな体に白いシャツ、ベージュ色のベスト、ダークグリーンのネクタイ、こげ茶のスラックス。
ぶっとい黒縁の眼鏡。
そして、腕には燦然と煌めく黒のアームカバー。二時間ドラマで見る昔ながらの事務員さんしか身につけない、あのアームカバー。
(売っているんだな、あんなの)
初めて見た時に、素直に感じたのはそこ。
本来なら、郁海が今説明しているようなことは秘書である吉野がすることなのだろう。社長の仕事が滞らないように整える。それが本来の秘書の仕事のはずなのに‥‥‥
吉野は未だ着慣れない背広を見下ろした。
履き慣れない革靴っぽいビジネスシューズ。たった一ケ月半でかなり靴は痛んでいる。
つい、二ケ月前までは学ランを着てのんびり高校に通って、授業中に居眠りをしていても放っておかれたのに、そんな生活が嘘のようだ。
「吉野さん。申し訳ありませんが、社長のお茶を煎れてきて頂けませんか?」
扉の近くで立ち尽くしていた吉野は郁海の声に顔を上げた。
「あ、はい。社長は先程、珈琲を飲まれていたので紅茶か緑茶のがよろしいですか?」
その言葉に匠親子はぱちくりと瞳を瞬かせた。
こういう一瞬の反応が似ている時がある。やっぱり親子だ。
しかし俺はそんなに変なこと言ったか?
「やっぱり吉野くんは目端が利くね〜。緑茶がいいな。紅葉園の北苑茶! 郁海の分もお願いね」
「わかりました」
一礼をして、総務部に続く扉から退室をする。
俺は零れそうになる溜め息を飲み込んで、給湯室を目指す。
ドラマとかだとお茶を煎れるのは女性の仕事だった。お茶汲みって言葉は差別用語だって風潮もあるらしいと、この会社に入ってから郁海に教えてもらったのだ。
社会人になって一ケ月半しか経っていない吉野からしたら、どう違うのか、現実はどうなのかなんてまったくもってさっぱりわからないが、他の人が忙しそうに仕事をしているのに「お茶を煎れてきて」と言われるのは暗に「お前は仕事ができない」と言われているようで落ち込むんじゃないだろうか。
実際問題、俺は現在ばっちり落ち込んでいる。
俺が、秘書としてこの会社になんとか就職できたのはひとえに体力のおかげなのだ。
孤児院で育った俺はせめてものお礼にと小さな頃から新聞配達を走ってしていた。中学に入ってからは柔道にのめり込み、高校進学はスポーツ特待生として学費免除の上、奨学金まで出してもらった。学校の成績は、春夏冬の休みにバイトをみっちり入れるために、赤点で補習は受けたくなかったからギリギリ及第点というところだから決してよかったわけじゃない。
百八十二センチもある上背。
ちょっとやそっとの運動では疲れない持久力と逃げ出した社長を離さない腕力。
今まで社長と追いかけっこをしていた伊東さんが、腰痛で走れなくなったため代打が必要だったという。
歳は三つも下なのに、郁海は本当になんでもできるし、知っている。『お局』という言葉は伊達じゃない。
彼女がいれば、俺なんて不必要じゃないかと思う。この一ケ月半でしみじみと実感していた。
なんで彼女が秘書をしないのか。その方が娘を溺愛している社長はもっと仕事をきちんとやるのではないかと思う。
(だって、あの脱走は絶対に娘の気を引くためだもんな)
心の中で呟きながら扉のない給湯室に入る。
給湯室は各部署ごとに戸棚が別れていて、吉野は一番右端の戸棚から社長親子用のお茶セットを取り出した。
一度、急須と湯のみに湯を注いでから和紙が張られたお茶缶を取り出す。
湯のみの湯を捨てて、今度は飲む量程度のお湯を入れた。蛇口から熱湯が出るというのはやっぱり便利だ。そして適当に温くなったところで急須の湯を捨てて茶葉を投入。それから湯のみの湯を急須に流しこんだ。そして蓋をしてしばし我慢。
本当ならもっと丁寧に煎れたいところだが、会社でやれるのはこの程度だ。生ゴミを出すのは不可だが(カップラーメンの容器もゴミとして出すことはできない)茶葉に関しては捨てるのが許されている。だから、ペットボトルや機械が煎れたお茶を飲まなくていいのはありがたい。
地元のお茶(抹茶は北苑市の名産品だ)の北苑茶は、通常の緑茶よりも苦みが少ないが、でも、もっとお茶本来の甘みを楽しむ煎れ方をすればさらに美味しくなる。
吉野が高校の時までいた孤児院『ほがらか園』の園長はお茶に煩かった。一杯のお茶はその日のやる気を左右するが口癖で、小さい頃からお茶の煎れ方は仕込まれてきた。
緑の靄がかかったような濁ったお茶を湯のみに注ぐ。
お盆に乗せて社長室を目指す。
扉の前で二回ノック。
「吉野です。お茶をお持ちしました」
静かに扉を開けて中に入る。本来なら社長の了承を待つべきだが郁海と俺に関しては「いちいち返答するのが面倒だから、そのまま入ってこい!」という社長の鶴の一声でこういうことになった。
書類の決裁に忙しい二人に声をかけてサイドテーブルにお茶を置く。顔を上げて礼を言う二人に「いいえ」と答えて部屋を出る。
そして、もう一度給湯室に行って、今度は自分の分のお茶を煎れる。面倒なので蛇口から出てくる熱湯を先程の急須に注ぎ、サーモカップの中にぞんざいに流し込んだ。
サーモカップなのは、ずっと温かいままがいいとかそういうことではない。匠工業では社長室以外の職場ではペットボトルか蓋付きコップでなければならないのだ。紙コップでジュースや珈琲を飲む時はドリンクホルダーを使うか、キャビネットか引き出しか三段ワゴンを引き出して置くことになっている。
零れても絶対にパソコンにかからないように。
最初、その話に絶句をしたのだが設計部署で使用しているパソコンは四百万円以上するものもあり、会社がピリピリするのは仕方ない気もする。
四百万円もあったら車が買える。一台どころではなく、軽自動車だったら四台は買えるだろう。でもさ、一人で四台所持したら税金や駐車場代やガソリン代が大変なことになるよな‥‥‥俺だったら車を買うより食料品が欲しい。心底欲しい。ご飯をお腹いっぱい食べれるなんて夢のよう。
いかんいかん、つい願望が垂れ流しだ。
全社サーバを使用している我が社では事務系の机の上にはモニタとキーボード、マウス、静脈認証の小さな機械があるだけ。本体はない。こういうタイプのパソコンでも一台二十万円くらいはするのだという。
設計部署のパソコンは用量の関係もあり本体がある。事務と設計と両方をこなす人の机の上には両方のモニタ、キーボード、マウス、静脈認証キーがあり机の上はぎっちぎち。机の下も本体と三段ワゴンでぎっちぎちだ。
基本的にパソコンのあるデスクでの食事は禁止。お菓子や飲み物程度は今のところ黙認。
だから一階の会議室は昼間に女性社員に占領されることが多い。弁当持参の男性社員はなぜか職場ごとにある打ち合わせブースで食べることが多かった。しかも弁当を隠すようにして。
これは社長とのおいかけっこで知ったこと。
有り難いのか有り難くないのか判断に悩むところだが、社長を追い駆けているせいか、会社のいろんな人と知り合いになった。目撃情報を得るために話しかけ、必死に名前を覚え、部署名を覚えていく。
吉野はノートを自分のデスクの引き出しから取り出して、今日の出来事を書き写していくことにした。
背広のポケットに入れていたメモ帳を取り出して開くと、目の前に総務の畠山法子さんが立っている。
「吉野さん、お疲れ様」
にっこりと笑って個別包装されたチョコレートをくれる。
「あ、ありがとうございます」
会社に入って思ったこと。
なんで女の人ってみんな、お菓子をいつでも机の引き出しに入れているんだろう。
「吉野さんのデスクトップが届いたから、一緒に取りに行きましょう」
その言葉に顔を上げる。
「うちはね、パソコンはレンタルなのよ。本当なら吉野さんが来たのと同時に届くはずだったんだけど、だいぶ遅れちゃって。届いたものはパソコンがないと困る部署の新人に優先して渡したものだから、遅くなってしまってごめんね」
手のひらを合わせて畠山さんが言う。
台車置き場にある用紙に貸し出し時間を書き込んでから台車を借りて、エレベーターで降りる。一階にある宅配発着場にある大量の箱の中から伝票を見て荷物を探す。
あった。という畠山の声のする方に行くと女性が運ぶには大きい段ボール箱があった。吉野は無言で段ボールを台車に乗せて彼女の先導に従って総務のある三階に戻る。
デスクトップ、キーボード、マウス、静脈認証キーだけとはいえ、初めてパソコンを接続する吉野はいちいち畠山に指示を仰いでいた。マークとマーク、色と色。LANケーブル。作業を止めてはメモ帳にちょこちょこと書き込んでおく。
「お。関心。関心。郁海さん流ね」
吉野が机の下に潜り込んだ状態でメモ帳を手にしていると畠山が頭上で笑う。
郁海流。
確かにそんな言葉がこの会社にある。
畠山はたぶん二十代後半。女性に年齢を聞くのは『セクハラ』だというので聞いたことはないが、まあ、そんな感じだろう。その畠山は吉野のことを一切「くん」付けでは呼ばない。
郁海のことも「郁海さん」と呼ぶ。
吉野も最初に総務部秘書室に配属が決まった時にそう習った。
曰く。
「君という言葉は、現在では上の立場の者が下の者に対して使う言葉になっています。ですので、会社内では敬称として一切使わないように。本来ならお市の方の娘で、豊臣秀吉の側室お茶々は淀君ではなく淀殿と呼ぶべきなんです」
―――例がわかりません。
そう言ったら郁海はあからさまに信じられない! という顔をして吉野を見たものだ。
いつもいつも思うんだが、匠郁海は本当に十五歳なんだろうか‥‥‥高校も行かずに会社で働く十五歳だなんて‥‥‥
話を戻して。
その「くん」に関連して、匠工業では職付きの人間も職名では呼ばないことが徹底されている。総務部部長を「部長」と呼んではいけないのだ。社内の人みんながみんな「さん」付けで呼び合う。仲がいい場合はニックネームもありだが。
吉野のことを「くん」と呼ぶのは社長だけ。どの部署に行っても下っ端で社長を追い駆けて走り回る吉野にみんなが、ちゃんと「吉野さん」と呼んでくれる。
だから、吉野もそれぞれの部署のお偉いさんを「部長・課長・係長・班長」などと呼べないので必死で名前を覚えるしかない。
部長・課長・係長って呼べるのって、楽だったんだな。はあ。
あと、もう一つの郁海流。
このメモ帳。
最初、配属された時にメモも取らずに覚えようとしていたら、郁海に注意されたのだ。
「メモも取らずに覚えられるとしても、メモは取るようにして下さい。教えた、教えていないという時の証拠にもなりますし、まず第一に教える側の心証が変わります。この人は真剣に覚える気があるのだと思えば真摯に教えます。聞く気、やる気のない態度は、自分のレベルアップを止める一因です。社会人になるということはその仕事のプロを目指すということ。些細なことでもプロ意識を保つためにメモは大事なのです」
‥‥‥回想してまたまた心底思った。本当に本当に本当に(以下略)十五歳なのか、匠郁海‥‥‥
吉野は頭をふるっと振って作業に戻る。盗難防止のチェーンと鍵を付けて番号をメモする。鍵をかけたら次は鍵の方にパソコンのID番号を書いた付箋を貼る。
渡されていた用紙に鍵番号を書き込み、畠山に返す。
「あ、吉野さんのパソコンがようやく届いたんですね」
社長室から出てきた郁海が嬉しそうに手のひらを合わせる。
うわ。この笑顔は危険だ。
この一ケ月で三歳も年下の少女にこき使われることにすっかり慣れてしまった吉野だった。だから、この笑顔が『仕事を与えられる喜び』で浮かんでいることが察せられるようになった。
その時、総務部の電話が鳴る。
プププップププップププッ
この短い呼び出し音は内線だ。一ケ月半経って、ようやく内線か外線かの区別がつくようになるなんて、遅過ぎだろう、俺。
「はい。総務部、郁海です」
前に電話で「もしもし。総務部です」と出たら注意されたな〜と思い出す。
曰く「電話はかける相手が『もしもし』つまり『申し、申し』というのだから受け取る相手が『もしもし』というのはおかしい」とのことだ。これを言っていたのはマーケティング部の自称『華麗なるヒットマン(俺の名誉のために言っておくが本人がこう名乗ったのだ、間違いなく)』曽我さんだ。しかし、社会人になるとみんなうんちくを語りたいのだろうか。
謎だ。
「吉野さん」
不意に呼ばれて振り返ると、郁海が両手に空の牛乳瓶を手にして仁王立ちをしていた。
「緊急事態です。四階の設計開発部・開発室に応援に行きます」
「は?」
牛乳瓶を持って?
ひとつを吉野に渡してから、早足で進み出す郁海の後を吉野は追う。
階段を上って、奥の部屋を目指す。
(この奥って開発室)
階段のところでIDカードをかざす。そして入口で、さらに中に入って開発室の入口でもIDカードを読み取り専用機にかざす。そして、部屋の入口にはテンキーがあった。郁海は手早く四桁の数字を叩き込んだ。
(うわーー、会社っぽい)
社長との鬼ごっこで走り回ってきたが、開発室の一組二組に関してはカードリーダーの傍にある内線で確認するだけで中に入ったことはなかった。
「厳重ですね」
思わず呟く。
こんなに厳重にガードをしているなんて、なんか重要な物を開発しているのだろう。スゲエ。
「ええ。無駄に厳重です。父が、開発室は四回IDカードかざして、最後は扉がブシューーッと左右に開くのがいいとか言っていたのですが、三回で我慢してもらいました。はっきり言って社員には不評です」
郁海が苦笑してテンキーの上を手のひらで差した。
『暗証番号…0794』
そして、隣には鶯のイラストが描かれていた。
セキュリティ‥‥‥意味なし。
扉を開いて中に入ると、開発室一組の清水姫乃が顔を上げた。
「郁海さん、お願いします」
目の前にあるのは青く斑な用紙の山。
いや、斑に見えるがよく見るとこれは図面だ。
「わかりました。清水さん、お手数ですが吉野さんにA3用紙の折り方だけ教えて下さい。A1とA2は私が折ります。折った物はそのまま積んで行きますので、清水さんが分類して下さい。折る順番はありますか?」
「じゃあ、こちらの右端からお願いします」
「わかりました」
郁海は大きなテーブルの右端にふんわりとふたつ折りにされた大きな紙の束を持って移動する。そしてコピー機の引き出しから一枚A4の用紙を取り出して、立ったまま、ものすごいスピードで畳くらい大きく見える紙を折り出した。
牛乳瓶でガッガッと折り目を作っていく。
牛乳瓶、そんな用途で使うのか。
「吉野さん、ごめんなさいね。宅配便で送った図面が、送付中に昆布醤油の瓶が割れてすべてダメになってしまったの」
昆布醤油‥‥‥
だから図面を出し直して、すべて折って送り直すのだという。
「ところで、その宅配便業者との交渉はどうなりましたか?」
「ええ、もちろん全額負担して頂いて、青焼き用紙代も頂くことになりましたよ」
ふふっと清水さんが笑う。
「そうですか。それはよかった。もしそれ相応の対応をして頂けないようでしたら総務部にご相談下さい」
「ありがとうございます、郁海さん」
怖い。
清水は郁海と同じくらいの身長で、着ている服装も上にジャケットのように羽織っている作業服以外はレースやフリルがあしらわれている可愛い雰囲気の物だ。ピンク系の化粧が似合う、本当に一言で表すなら「可愛い」人なのに、なんか怖い。
怖いっつーか、これは怒ってる時のオーラだよな。
なんだか、この一ケ月半で、表面上は笑っているのに内面は怒り狂っている女性を察することが得意になったようだ。あんまり嬉しくない。
こういう時は口を開かずに作業に没頭するのみ。
A3の紙を図面側を内側にして半分に折り、そして図面右端の番号がわかるように片方だけ折り返す‥‥‥
吉野が一枚折る間に郁海はゴッゴッと豪快な音をさせて大判の図面を、図面折りという特殊な降り方で折り込んでいく。まるで職人のようだ。
しかし、なんで総務部から応援に来なくちゃいけないんだ? 開発室で起こった事故で、開発室にだって他に人がいる。全員でイッキに折ってしまえば早いんじゃないだろうか。
「清水さん、ありがとうね」
吉野達が図面を折っている傍を女性社員が三人程通り過ぎる。清水は顔を上げて微笑する。
「大丈夫よ。郁海さんと吉野さんも手伝ってくれているから」
清水さんと同じように私服の上に作業着を着た彼女たちは、小さなカバンを手にして部屋から出ていった。去り際の会話で「今日は火曜日だからアイスクリームが八十円均一なんだよね」「でも、太る〜」というのが聞こえてきた。
アイス?
ってことは一階のコンビニに行くのか?
だったら手伝えばいいじゃないか、と思う。
「吉野さん」
突然の呼びかけに顔を上げる。
そこには郁海が立っていた。
「吉野さんはわかりやす過ぎます。彼女たちがなんで手伝わないのかって思っているのでしょう?」
質問にこくりと頷く。お前はエスパーか?
「彼女たちは技術職です」
「技術職?」
「エンジニアなどを差していいます。彼女たちに庶務業務をやってもらう時間があるなら、技術がない者が庶務を行うべきなんです。わかりますか?」
「‥‥‥いえ」
「端的に言えば、庶務や総務などは技術職や営業職などの専門職の方々が滞りなく仕事ができるようにするのが仕事です。よく、社員は会社の歯車といいますが、それで例えるならば私達は潤滑油です。ですが、卑下して言うわけではありませんよ。潤滑油がなければ、機械は壊れます」
「補助のエキスパートということですか?」
郁海の言葉に吉野は首を傾げて、言葉を続けた。
「メダルを獲れるような優秀な体操選手も優秀な補助のエキスパートがいなければ持てる力全てを発揮できない‥‥‥高校の時、仲の良かった体操部員が言っていたんです」
武道場で柔道の練習をしていると、時折体操部員が場所を借りに来ることがあった。インターハイを目指している選手とその補助をする体操部員。その二人の練習風景は対等で、会場で視線を集めるのは選手の方だが、披露される技は二人の共同のものなのだと俺と同じクラスの補欠の体操部員が言っていたことを、ふと思い出したのだ。
息を飲み瞳を見開く郁海を、学生時代を思い出していた吉野は捕らえることはなかった。
「その例えは素敵ですね」
郁海はにっこりと笑うと折り終った図面を置いて、次の紙の束を手にした。
郁海が紙を折る豪快な音が響く。
「吉野さんは、凄いわね」
「へ?」
一瞬、褒められた理由がわからなくて顔を上げる。
図面を分類していた清水が微苦笑を浮かべる。
「庶務や総務を軽く見る人達は多いの。私たちがいなければ仕事が回らないってことがわかっていない技術者さんは多くってね‥‥‥特に男の人はそういう人ばっかり。総務や経理に配属された人でそれが原因で転職する人って多いのよ。手に職を付けるって。庶務や総務の仕事だって立派に『手に職』なんだけど」
彼女は、手にしていた一覧にものすごいスピードで印を打っていく。確かに職人技だ。
「そのスピードは俺からしたら充分に職人の領域ですけど」
呟くと、目の前の彼女が吹き出した。
「だったら、郁海さんは神の領域よ。彼女の元で学べるのは本当に幸運だわ」
ふわりと笑って清水は「補助のエキスパートって素敵ね」と小さな声で自分に言い聞かせるように言った。
俺はそれに瞳を瞬かせることしかできなかった。