「潮の香りと親子にゅう麺」 おいしい記憶1
「潮の香りと親子にゅう麺」
僕の実家は海沿いの小さな集落にあり、夏になると海から吹く風に乗って潮の香りが心地よく流れる。
あれは、小学5年生の夏休みに入ったばかりの日曜日の朝のことだ。
僕は近所に住む一番仲良しだったカズ君と自転車に二人乗りして遊んでいた。その時、荷台に乗っていたカズ君がふざけて体を横に振ったもんだから、バランスを崩してすぐそばにあった父の車にぶつけてしまった。自転車のライトが壊れ、車のドアの部分に少し傷がついている。
父に叱られると思った僕は、家に帰ってもしばらく大人しくしていた。
お昼頃、父は車で買い物へと出かけて夕方に戻ってきた。
父は家に入るなり、少ししょんぼりしている僕を見ると、何も言わず買い物袋を両手に抱えて台所へと行った。
しばらくすると、台所からおいしそうなにおいがしてきた。僕はこのにおいを知っている。夏になると父が決まって作ってくれる親子にゅう麺のにおいだ。
湯がいた素麺に親子丼の具を掛けるだけなのだが、これがまた旨いのだ! ふわふわの卵と柔らかい玉ねぎ、少し焦げ目のついた鶏肉がコリコリとして香ばしい。これをコシのある素麺にぶっかけ、ひとまとめにして口の中に頬張ると、濃い目の麺つゆのうま味が口の中いっぱいに広がる。
台所から「おい」と声がかかる。父特製の親子にゅう麺が出来上がったようだ。父はわざわざみんなの分の親子にゅう麺を丼に盛り、テーブルへと運んできた。
母も嬉しそうに運ぶのを手伝う。
家族みんなでテーブルを囲い、いただきますと言ったあと僕は父に話しかけた。
「お父さん、あのー、……」
「うん?」
「車なんだけど、自転車に乗ってて、車のそばで転んじゃって……」
「ああ、怪我はなかったか?」
「ごめんなさい」
「お腹すいたんだろ。早く食べな」
父はそのあと何も言わず、おいしそうに親子にゅう麺をすすった。
僕はなんだか目頭が熱くなった。
麺つゆと涙が混ざった親子にゅう麺の味は、海から吹く潮の香りがして今でも忘れることができない。
地元の高校を卒業した僕は、東京の大学へと進学し小さな出版社に就職した。3年前に結婚し、忙しさにかまけてしばらく実家へは帰っていない。今年の夏は生まれたばかりの娘の顔を父に見せに行こうと思う。
実家に帰る理由はもう一つある。
お父さんの特製親子にゅう麺の作り方を教えてもらうためだ。