2章の1 レクチャー
スシはシークレットエージェントになることを承諾した。しかし役員から説得されるのに時間がかかったため、午後4時の運動部・文化部部長会議が始まるまで、あと1時間もなかった。
新人勧誘成功の報を受け、生徒会担当・2年1組副担任・音楽科の女性教師、キクハが生徒会室に来ていた。
「スシくん、シークレットエージェントになってくれたのね。前期生徒会執行部の完全な欠員補充にはならないけど、化身の運用や回し方に幅が出るから助かるわ。頑張ってね」
「ねえクロハ会長(中身マヤ)、シークレットで存在が表に出せないはずのオレが、いきなり先生にこう言われてるけど、先生たちは化身のことを知っているの?」
マヤは、またクロハ会長(中身マヤ)に戻っていた。
「校長、教頭など管理職層を除く教職員はわたしたちの味方よ。統合に反対の立場で一致している。校内6カ所の秘密化身室は整備に計15万円ほどかかったけど、秘密裏に教職員のカンパで賄われたの」
校内6カ所の秘密化身室は以下の通り。
①生徒会室別区画 =生徒会室内にベニヤの壁で更衣室を新設
②音楽準備室兼用
③理科準備室兼用
④図書室書庫兼用 =②③④の3カ所は本来用途と兼用。執行部に合鍵の占有使用権限が与えられた
⑤体育館ステージ下=ステージ下の空洞に新設。天井に設けられた隠し扉からステージ上の演台の陰に出られる。壁はベニヤ。鍵は教師も持っておらず、執行部専用。体育館ステージ袖の秘密通路から出入りする
⑥体育用具室兼用 =グラウンド脇、唯一の校舎外。合鍵の扱いは②③④と共通
「スシが見たところ、先生も身長169センチくらいですかね?」
「あはは。身長は163センチだけど、ハイヒールを履くから外見はそのくらいかな? でもなんでそんなことを聞くのかな? 化身の一味にしようというなら難しいかも」
「やっぱり?」
「化身する生徒に先生みたいな化粧をさせるのは、特に男子は大変だし。でも生徒が先生に化身するって面白そうだから、スシくんに練習してもらおうかな。どういうときその化身が必要か謎だけど」
キクハはそれだけ言うと、生徒会室を後にした。
カニは、スシに化身のレクチャーを始めることにした。
スシが最初に化身する人物として選ばれたのは、同じ男子のカニ。スシの化身全体の入門なので順当なところだ。
カニはスシに、自身のキャラクターに合った振る舞いを手短に伝授するのだが、自身の姿でいるとカニ書記長が2人重なり、重大事態に発展してしまう。現在誰も化身していなくて空いているのはマヤ副会長だが、カニはマヤ副会長(中身カニ)に化身すると声色の都合で話せない。ゆえにカニはオロネ書記次長(中身カニ)へ、オロネがマヤ副会長(中身オロネ)へと化身することになった。スシひとりを化身させるのでも、相当大掛かりだ。
カニ、スシ、オロネの3人は、ベニヤ板で区切られ内鍵付きドアがあるだけの生徒会室別区画秘密化身室に入って、化身を始めた。
一般に、ある人物に化身するときの標準的な手順としては、①髪②衣服③眼鏡などのアイテム④デオドラント(順不同)を本人と同一にする。
人間の内面的な違和感を見せて一般生徒に感づかれないよう、①話す用事がある場合は本人の声色を使う②本人がいかにも言いそうなことを言う③クセ、仕草をそれらしく再現、などの注意点がある。
化身とは何か。クロハ会長(中身マヤ)は「化身はコスプレではない」としたが、やはり化身は本人のコスプレと顔マネとを、一般生徒に見抜かれないレベルですることと考えるのがいいだろう。本人をかたどった完璧な着ぐるみの中に入るとイメージしてもいいかもしれない。
マヤとオロネ、そして男子であるカニも、相互の化身の髪形再現を簡単にするため、髪の長さを肩甲骨下端までで統一している。カニは普段、髪をファッション系業界人のように後ろで束ねている。スシは髪が短いので、女子に化身させようとするとウィッグを使う必要がある。
マヤ、クロハ、オロネのヘアスタイルは、前髪がマヤは七三分け、クロハとオロネは真ん中分け。マヤとクロハはストレートで、オロネはポニーテール。これらを一つのウィッグで賄うのは、少々やっかいだ。
たとえばオロネ書記次長→マヤ副会長の化身変換。時間があればポニーテールをほどいて髪を作り直すことでウィッグを流用できるが、その時間が取れないときは、あらかじめマヤ/クロハ化身用にストレートに整えてある専用品を使う必要がある。
各秘密化身室に備え付けのウィッグは数に限りがある。スシが女子の化身を解き、別の場所でまた女子に化身するなどではウィッグが不足することも予想され、使用後の回送などに工夫が必要だ。
制服は、男子同士・女子同士なら基本的に交換しなくてよい。しかしマヤやオロネがクロハ会長へ化身するときは、クロハのスレンダーな体型を再現するため、クロハ本人の私物ブラを着用する。このため、シャツと、冬服であればジャケットも一度脱ぐ必要がある。ブラ以外の下着は、外から見えないので各自の私物をそのまま着用。
ストッキングやソックスは、化身対象の人物が着用するものを踏襲しなくてはならない。マヤとクロハ会長(中身マヤ)は、靴やソックスの交換を省けるように、日ごろから白一色、同一ワンポイントのものに統一している。ニーハイを穿くオロネは、化身の際にマヤやカニが日によって準備するものが変わらないように、常にダークブラウンを着用することになっている。
メガネはクロハ会長、カニ書記長に化身するときに必要。クロハ会長は黒のプラスチックフレーム、カニ書記長は銀のメタルフレーム。それぞれ、本人と同じモデルを使用する。備品で多くの人間が共用する都合から、レンズに度は入っていない。コンタクトレンズを使用するマヤとオロネは、クロハ・カニ化身の際はメガネと自分のコンタクトを併用する。
その他のアイテムとして、クロハ会長に化身する時だけ着けるネックレスがある。
同一人物への化身はおおむね2時間を限度として、交代する。
・・・といった解説を受けながら、スシは、クロハ/マヤ用のウィッグをカニと同じ髪形に整えようとしていた。カニの頭を参考に、髪を後ろにまとめて同じように縛った。
カニが使うのと同一モデルの度なし銀縁メガネをかけて、カニ書記長(中身スシ)が完成。カニ書記長(中身スシ)は別区画秘密化身室を出た。
続いて出たのはマヤ副会長(中身オロネ)。オロネ→マヤ副会長は胸のサイズがほぼそのままなので、制服の上を脱ぎ着する必要がない。自分の支度だけならそう時間は掛からないが、自分が穿いていたニーハイをカニに回すためにカニの支度を待っており、別区画秘密化身室を出るのが2番目になった。
オロネ書記次長(中身カニ)は、髪や偽装ブラや制服やニーハイや、何から何まで支度が必要な分、カニ書記長(中身スシ)より時間がかかったが、無事に化身終了。これで全員が別区画秘密化身室を出た。
「ねえカニ書記長(中身スシ)、明日の生徒総会では執行部4人全員が出ずっぱりになるのね。きみは総会エスケープの良くない生徒を装って、あたしたちに力を貸してほしいの」
「オロネ書記次長(中身カニ)の声色とはいえ、カニくんの言葉がオネエ言葉に聞こえる」
「あたしの現在のビジュアルを感じてくれていれば、そんなこと思わないはずだよ?」
「ほら、さっきまで秘密化身室で、オロネ書記次長(中身カニ)ができていくところを見てただけに」
「ねえカニ書記長(中身スシ)、今はカニ書記長(中身スシ)なんだから、スシくん本人みたいにしゃべっちゃだめよ」
「あ、そうか。しかしオロネ書記次長(中身カニ)、役員は3人しかいないのに総会に4人出ずっぱりって。もしオレが仲間にならなかったら、どうしてたの?」
「きみは必ず仲間になる運命だから」
「そうなの?」
「いいかな? カニ書記長(中身スシ)に化身するには、外見は今きみがしている感じでいい。メガネはややずり落ちそうな感じにかける。少し猫背気味に。そう」
ふたりのやりとりを見ていたクロハ会長(中身マヤ)とマヤ副会長(中身オロネ)が、カニ書記長(中身スシ)の化身ぶりに「おお」と小さく声を上げた。
女子の反応に気を良くしたカニ書記長(中身スシ)は、「化身って、意外といけるかも」と考えた。
でもそんなに単純なものでないことは、スシもおいおいわかってくることだ。
「カニ書記長(中身スシ)、なるべく口数は少なくね」
「オロネ書記次長(中身カニ)、どうして?」
「あまりしゃべると、ぼろが出やすくなる」
「ふむ。でも、昨日カニ書記長(中身オロネ)とオロネ書記次長(中身カニ)が入れ替わっていた時は、ふたりともがっつりしゃべっていたよね?」
「オロネの声質はアルトだから、ボクが化身しても声色が使える。ボクとオロネは幼稚園から一緒だから、同じ状況の時オロネ本人ならどう言うかも、つかめているんだと思う」
(ちっ)
カニ書記長(中身スシ)は心の中で舌打ちした。「ボクはオロネと長い時をともに過ごしてきた」みたいなことを言うなんて。しかもカニは、スレンダーなクロハ会長(中身カニ)より男子にとって化身のハードルが高そうな、ナイスバディのオロネ書記次長(中身カニ)の方が得意だなんて。と、あまり良くない感情にとらわれた。
「オロネ書記次長(中身カニ)は思うけど、生徒総会は明日に迫っているから、今はカニ書記長(中身スシ)の外見を取りつくろうのに集中しよう。ああだこうだと大量にしゃべるのは、スシくんがもっと慣れて、カニのキャラクターをある程度把握して、一般生徒に違和感を感じさせないくらいになってからでいい」
「ふうん」
カニ書記長(中身スシ)は、オロネ書記次長(中身カニ)が言うことも理解できたので、おとなしく従った。
(でもオロネ書記次長(中身カニ)は、オレには化身キャラに沿って話すように言っておきながら、今話している内容は、カニくん本人が言うことそのものになってるぞ?)
クロハ会長(中身マヤ)がカニ書記長(中身スシ)に、これからの段取りを説明した。
「カニ書記長(中身スシ)、今日はこの後、運動部・文化部部長会議にその姿のまま出てね。明日の生徒総会のウオーミングアップになるわね」
「クロハ会長(中身マヤ)は、今日はずっとそのままなの?」
「ああ、わたしがマヤに化身解除するかって? そうね。この後はずっとオロネちゃんをマヤ副会長(中身オロネ)にしておこうかな。今日の会議は明日の総会ほど長くないから」
カニ書記長(中身スシ)の目の前にマヤ副会長(中身オロネ)がいる。カニ書記長(中身スシ)の目には本物と区別できないほどの化身の仕上がりなのだが、それでもカニ書記長(中身スシ)は、マヤがマヤでないのは残念だった。
「カニ書記長(中身スシ)思うに、その、男子に女子みたいな胸作るのってどうやってるの? オロネ書記次長(中身カニ)がさっき別区画でやってたんだろうけど、よく見えなかった」
そんなこと言っているカニ書記長(中身スシ)だが、実はオロネ書記次長(中身カニ)が偽装用ブラを着けるところを見ていた。自分はそんなことさせられたらかなわん、という意図があっての質問だった。
その手の質問をオロネ書記次長(中身カニ)、つまり男子のカニに答えさせるのが嫌だったのか、マヤ副会長(中身オロネ)が会話に割って入った。
「マヤ副会長(中身オロネ)が答えます。うーんとね、男子が女子に化身する場合、カップの内側に詰め物をして細工した偽装用ブラを着ける」
「ブラを着けるのがイヤな人は、どうする?」
「そうねえ・・・。じゃあ女子が胸盛る用のパッドを何枚か重ねてテープで固定しようか。どうせ外から見えないから、それでいいでしょ。ただ、ブラを着けてもらう方が、ちゃんとしたシルエットを作るのは楽なんだろうけど」
「それはこの際いいじゃない」
カニ書記長(中身スシ)の発言を聞いて、クロハ会長(中身マヤ)が顔を上気させた。
「スシくん、この際でも良くない! 化身するのはスシくんでも、化身されるのはクロハなんだから。デリカシーのない発言はやめてほしい」
「はい」
「? 素直ね」
「マヤ副会長(中身オロネ)続けます。下着は、ブラについてはそんな感じ。ショーツは着けずに男子用のトランクスとかのままでいいでしょ。ただバイクの後ろに乗るとか、スカートめくれそうなシチュエーションでは、下着の上にハーフパンツ穿くといいんじゃない? あとは女子用のシャツやら制服上下やら着て、ネクタイして、ソックスと靴を履いて、本人が使うのと同じデオドラント使えばいい。そこそこの男子を使う限り、それで化身はうまくいくよ」
(カニ書記長(中身スシ)思うに、さっきからマヤ副会長(中身オロネ)ったら、外見はともかく、キャラが全然マヤさんっぽくないなあ・・・。内輪だけだと、こんなんで済ますのかなあ?)
カニ書記長(中身スシ)は、ちらっとクロハ会長(中身マヤ)を見た。
(クロハ会長(中身マヤ)は、きちんとしているよなあ)
部長会議が始まる午後4時が近付き、4人は会場である視聴覚室へ向かった。カニ書記長(中身スシ)は化身デビューに、これ以上なく緊張していた。
「カニ書記長(中身スシ)、大丈夫だって」
「クロハ会長(中身マヤ)、そ、そうかなあ・・・」
「予算に限りがあるとわかれば、どの部も進んで予算削減に応じてくれる可能性はゼロではない。わたしはそこに期待したいと思っているの」
「へ?」
「わかりました、うちの部をまず削ってください! うちも! うちも! となるといいな」
「へ?」