1章の5 不可抗力なのに
「クロハさん?」
クロハ会長はスシに背中を向けて、制服ブレザーのジャケットを脱いだ。シャツのボタンを二つ外して隙間から指を入れ、肩ストラップのないフロントホックのブラを器用に抜き取った。ネックレスを外し、襟から服の中へデオドラントを吹き、ブラウスのボタンを留めて再びジャケットを着て、前髪にヘアブラシをかけて七三分けにし、スシの方に向き直った。
スシは、背中がザワっとする感覚に襲われた。
「あ、あ、あ、マ、マ・・・」
「そう、わたしはマヤ。この学校の生徒で最初にスシくんと話をして、3、4時間目授業に出ていたマヤです」
「い、いや、でも、マヤさんは緊急全校集会ではステージ脇にクロハさんとふたりでいたし、ステージへの出入りでも、ちゃんとすれ違っていたでしょ? あれはどうやって・・・」
「あの時のマヤ副会長は、あたしオロネが化身していたの」
「で、でも、オロネさんは、集会ではずっとオレの隣にいたじゃないか!」
カニがスシに向き合った。
「ボク、カニが説明するよ。今日の緊急全校集会では、クロハ会長、マヤ副会長とも出番があると事前にわかっていたので、クロハ会長(中身マヤ)に化身したマヤちゃんの穴を、誰かが埋める必要があった」
「スシ思うに、いない人を埋めるために、誰かがコスプレするのはわかるとして」
「マヤですけど、スシくん、コスプレでなく化身と言ってください」
「クロハさんが出向しているから、誰かが変装する必要があるのはわかるとして」
「変装でなく化身と言ってください」
「じゃあ化身するにしても、マヤさんがクロハ会長(中身マヤ)、オロネさんがマヤ副会長(中身オロネ)という、玉突きみたいな複雑なことはせずに、オロネさんが直接クロハ会長(中身オロネ)に化身すればいいのでは?」
カニは「ことはそう単純じゃない」という顔をした。
「あたしオロネが説明するね。クロハ会長、マヤ副会長、オロネ書記次長は女子3人。実際には女子は2人しかいないから、全員そろえようと思ったら男子のカニが女子に化身する必要がある。でもカニは、オロネ書記次長への化身は上手だけど、マヤ副会長とクロハ会長への化身は、声の高さが違うので声色が使えない。だからその2人へ化身できるのは、話さなくていいときに限られるの」
「それがオロネさんが直接クロハ会長(中身オロネ)にならないことと関係あるの?」
「今日は始業式ないし全校集会があるわけだから、クロハ会長が朝からクラスにいた方がいい。途中から現れて、いきなり全校集会に出ると不自然だし。だからマヤちゃんは、朝あなたと最初に出会った後、路上の物陰でクロハ会長(中身マヤ)に化身して登校した。その時点で『クロハ会長不在』から『マヤ副会長不在』に変わった。でも全校集会ではマヤ副会長の出番もあるから、そこではあたしがマヤ副会長(中身オロネ)に化身して穴埋めした」
「ちょっと待ってよ、オロネさんは集会でオレの隣にいたでしょう! あのオロネさんは!」
スシはそう言ってはみたが、答えを聞くのが怖かった。
「あのオロネ書記次長は、そう、ボク、カニが化身してたんだよ」
「えー! じゃ、じゃあ、カニくんは、いつからいつまでオロネ書記次長(中身カニ)をやっていたのさ?」
「登校前から、1時間目授業の前まで」
「登校前って! 登校中にどこか立ち寄って服を取り替えたの?」
「そういう時もあるけど、今日は家からすでにオロネと入れ替わっていたよ」
スシは苦虫を噛み潰したような顔をした。できるものならカニの発言内容を否定したかった。
「な、な、な。ということは、朝のホームルームで、手をしどけなく動かしていたオロネ書記次長は・・・」
「ボク。あれオロネのクセなんだけど、再現度には自信あるんだ」
なんということでしょう。朝のホームルームでスシの胸をときめかせた、オロネ書記次長(中身カニ)のあの仕草は、実は男がやっていたというのか。スシ、ときめき損だ。
「男と女が入れ替わるなんて、簡単じゃないでしょう! 外見ですぐばれそうなもんだ」
「マヤは思いますけど、カニ書記長(中身オロネ)とオロネ書記次長(中身カニ)の入れ替わりは、わたしたちの化身組み合わせの中で最高の出来です。お互いを深く理解しているからかもしれません。元々このふたりが上手に化身し合っているのを見て、前期執行部はクロハを泥縄第一へ送り出し、その穴を化身で埋めていこうと決意したのですから」
「ええっ? ・・・。えっと、えっと・・・。じゃあ、オロネさんは全校集会の前、どうやってマヤ副会長(中身オロネ)になったの?」
「あたしオロネは、それまでのカニ書記長(中身オロネ)から体育館への移動中、クラスの列をそっと離れてマヤ副会長(中身オロネ)に化身したのね。校内に6カ所ある秘密化身室のうち、体育館から近い『音楽準備室兼用』を使ってね」
スシは、うっと息をのんだ。体育館への移動では確かに、気づいた時にはカニ書記長(中身オロネ)とはぐれていた。スシは、本当はそういう異変に即座に気づける人間でありたかったのだが。
「さっき生徒会室にマヤさんが必要になった時、クロハ会長(中身マヤ)が自分でマヤさんに戻らないで、わざわざオロネさんを使おうとしたのは・・・」
「そのときのマヤの考え、というより、クロハ会長(中身マヤ)の考えとしては、わたしがこの部屋の別区画の秘密化身室を使って化身解除すると、クロハ会長(中身マヤ)がいなくなってマヤが出てくるから、スシくんにすぐバレます。かといって外の秘密化身室を使うとしても、マヤの代わりにクロハ会長(中身マヤ)がいなくなるから、やはり不自然ですよね。スシくんにはクラスでクロハ会長(中身マヤ)とマヤの片方しかいない状態を見せ続けたので、なるべく他の化身パターンでしのぎたいというのもありました」
「へー、人知れず苦労してたんですね・・・」
「オロネは思うけど、スシくんはマヤちゃんが相手だと、『疑義を述べ立てる人』から『共感する人』に回るのが早くないかな?」
「そうかな?」
「マヤちゃんには敬語を使っているし」
「それはマヤさんもオレに対して敬語を使ってくれるからですよ?」
話が少し途切れたのを見計らって、マヤは別区画秘密化身室にそそくさと入っていき、再びクロハ会長(中身マヤ)になって現れた。さっきクロハ会長(中身マヤ)からマヤへと化身解除した時より、だいぶ長くかかった。
「なんですかマヤさん。もうあなたがマヤさんというのはわかったから、クロハ会長(中身マヤ)に戻らなくてもいいですよ」
「スシくん、それはだね、その・・・」
スシは、もじもじしているクロハ会長(中身マヤ)を見て、先ほど彼女が化身のためにフロントホックブラを引き抜いたシーンを思い返した。ひょっとしてそれで落ち着かなかったのだろうかと、スシはクロハ会長(中身マヤ)の胸元をじっと見た。
オロネがそれに気づいて「スシくん、じろじろ見ないの」とばかりに、脳天に手刀を入れてツッコんだ。
「あれ、そう言えば。朝オレがバイクに乗せた、マヤさんが化身したクロハ会長(中身マヤ)はスレンダーだったけど、さっきオレを部屋の真ん中まで押し込んだ、オロネさんが化身したクロハ会長(中身オロネ)は、胸がふくよかなままだったような?」
「あはは。あたしオロネが白状します。あれは化身時間が5分しかもらえなかったし、秘密化身室も少し遠くて移動時間もかかったので、オロネ→クロハ会長のバストサイズ調整は省略したのね。シャツとブラまで全部脱ぐと大変だから。髪とメガネとデオドラントだけそれらしくして、ごく短い時間だけクロハ会長(中身オロネ)をやって、胸のことはスシくんに気づかせずにまたオロネに戻ってやろうとしたわけ。クロハ会長(中身マヤ)はマヤ副会長(中身オロネ)化身のつもりで指令したから5分だったんでしょ? オロネ→マヤ副会長(中身オロネ)ならバストサイズ調整はしなくていいし」
「クロハ会長(中身マヤ)だけど、その通り」
「オロネが思うに、スシくんも、クロハ会長(中身オロネ)とむぎゅっと接触しなきゃわからなかったでしょ?」
今度はクロハ会長(中身マヤ)が、スシの脳天に手刀を入れた。顔は、ちょっと般若っぽかった。
(な、なぜここでオレに手刀? しかも、けっこう痛かったんですけど!)
スシは「確かにクロハ会長(中身オロネ)にむぎゅっと接触しちゃったけど、不可抗力でしょうが」と思い、ツッコミの域を超えたクロハ会長(中身マヤ)の手刀に納得がいかなかった。
「クロハ会長(中身マヤ)から説明の続き。全校集会後、わたしはクロハ会長(中身マヤ)化身を続け、オロネ書記次長(中身カニ)とマヤ副会長(中身オロネ)は化身解除して、それぞれ本人の姿に戻ったの。3時間目の前にわたしがクロハ会長(中身マヤ)からマヤに戻ったのは、クロハ会長とマヤの授業出席時数を偏らせないため」
「そうなんだ」
中身は同じマヤのはずだが、クロハ会長(中身マヤ)の姿だと、口調やキャラクターが別人になる。スシはクロハの実物に会ったことはないが、あたかも目の前に本物のクロハがいるような気がしていた。
「・・・。ねえ、オロネさん。ちょっとオレの頭を両側からわしっとつかんで、顔を横にねじ曲げてみてくれる?」
「え? いいけど、こんなかな?」
オロネは言われた通り、スシの頭を両側からつかんで顔の向きを変えようとした。スシが力を入れて頑張ったので、うまく曲がらなかった。
「今度はカニくん、やってみて」
「いいよお。はい」
カニがスシの頭を簡単にねじ回した。
「うーん。全校集会の時、オレの頭をステージ正面に向けたあの力は、やっぱりカニくんなのか。だからやっぱり、机の上のあの仕草も」
無念そうなスシを見て、カニが苦笑いした。
スシは、寄り添うように立っているカニとオロネを見ているうちに、教室から体育館への移動中に男子のカニ書記長が女子のオロネ書記次長の腕をつねったように見えたのは、実は中身が入れ替わっていて、オロネがカニをつねっていたのだと合点がいった。
「ああ、なるほど。朝クロハ会長(中身マヤ)が『マヤじゃないと話しかけちゃいけないのか!』って怒ったのは、自分がマヤさんだったからなんだね・・・」
「いや、そんな怒ってないよ」
「バイクの後ろで、マヤが気になってるかって聞いたのも・・・」
「それはちょっと面白がって言った。スマン」
スシは、真っ赤になったカオを悟られないように、3人に背中を向けて言葉を続けた。
「靴ずれしてたの、クロハさんの靴を借りてたからなんだね」
「もうクロハの靴じゃない。化身用の生徒会執行部備品として寄贈してもらってあるから」
「でも生徒会長がいなくてひとり足りないのに、少ない人数でそのままやっているなんて」
「うんうん」
「ブ、ブラック生徒会!」
「スシくん、人聞き悪い」
「しかも誰かに化身したせいで人がいなくなって、それをまた別の人が埋めているなんて」
「そうそう」
「自転車操業!」
「前期生徒会執行部の現状がそうなのは、別に否定しない」
「否定しないんだ」
「それを承知で、わたしクロハ会長(中身マヤ)からスシくんにお願い。わたしたちを助けてほしいの。会長不在の生徒会執行部を補うサポートメンバー、シークレットエージェントになってくれないかな」
クロハ会長(中身マヤ)の頼みはすなわちマヤの頼みだ。だがスシは、自分の中でマヤは特別な存在になりつつあったが、クロハ会長(中身マヤ)はそうでもなかったので、即答しなかった。
「こういうのってたいてい、普段は自力で着替えて化身してても、いざとなれば『別の人になあれ』とか言って、魔法とかでチャチャッとやっちゃうんだよね?」
「この話はそういうのじゃないから」
「・・・。あ、じゃあ、ゴムみたいなのでできた変装マスクをベリベリッとはがすと、すぐ元の姿に戻るとか」
「そういうのでもないから」
クロハ会長(中身マヤ)は「素人はそういうふうに考えがちだ」という顔で答えた。
「・・・」
スシは我に返った。そして真面目に考えた。
(他の役員に化身するって、毎回必ず、ほんとに服を着替えたりしなきゃいけないのか。まあカニくんは同じ男だし、制服も同じだし、やりようによってはなんとか化けられるかもしれない。でも女子となると・・・。まあクロハ会長はスレンダーな分、外見の違いがオレでも埋められなくはないかもしれないけど、マヤさんとオロネさんは相当のボディライン。そういう女子にオレなんかが化けるのは、社会通念上許されないんじゃないかなあ?)