あなたが書く理由。わたしが書く理由。
いや無意識最強論はあると思うよ。
なんで生きてるのっていうのと同じぐらい因果関係は複雑で、心理状態も複雑だし、つまりわかるはずもないというのが本当の答えだとは思う。
でも、時々不安になったりする。
なんで生きているのだろうというのと同軸上に存在する
――なんのために書いているんだろう
という問い。
このなぜという問いは、人間の知性には限りがあることから、最終的には同語反復か、無限後退か、思考停止のいずれかに至る。
だったら、理由を探るのにまったく意味はないかというとそんなわけではなく、人間の知性には限りがあるけれども、近似した真実を直観的に把握するというのは、現実世界を生き抜くうえでは有用である。
リンゴはなぜ落ちるのかという問いに対して、重力があるからだという答えでひとまず納得するというのは、理性的かつ平均的な人間の所作としては正しい。
重力とはなんだろうとか、わざわざ考えたりしない。でも、神様のせいにもしない。物事を理解するというのは、実際のところは程を知るという妥協の産物である。
つまり、これから話すことは、そういうことだ。
理性的かつ平均的な人間の所作として、以下のようにものさしをもっておけば、ひとまずのところの納得は得られやすいんじゃないだろうかというアイディアの提示。それで誰かが不安のあまり筆を折ってしまうような事態を防げたら重畳というそんな感じのエッセイである。
さて、ものさしである。
それはヒト、モノ、カネ、だ。
それぞれ、ヒトタイプ、モノタイプ、カネタイプがいる。
もちろん、人間は複雑な生き物だから、完全にひとつに傾注しているということはなくて、どれを重視するか程度の意味が真実に近いと思う。
ヒトタイプはヒトとの触れあいに重きを置くタイプで、例えば、感想を多くもらったりすることのために書いているタイプ。
モノタイプはモノの観方に重きを置くタイプ。例えば、自分が書いた小説の中に、自分なりの世界観を表現したくて書いているタイプ。
カネタイプはその言葉どおりお金に重きを置くタイプ。つまり、商業主義のことで、書籍化されて売れることに価値を置くタイプ。
この三つの価値観によって、それぞれの作者は書いている。
これ以上遡行すると、複雑になりすぎるし、これ以上シンプルにすると抽象度が高すぎてよくわからなくなる。
もっとシンプルなモデルとしては、例えば、四象限に区切って、『文学的か否か』『売れているか否か』の四つに分ける方法を考えた。
『ハンバーガーは世界一売れてるから世界一美味い』という言説は、
売れているかどうかというのは数値を判断していけばいいからわかりやすい。小説的にも販売数はわかるだろう。
しかし、文学的に見れば売れているかどうかは、おいしいかどうかの判断に影響しないことになる。
『ハンバーガーは世界一売れている"から"世界一美味い』の"から"という理由付けが因果的に誤りであるからだ。そういうこともあるかもしれないが、売れているかどうかと文学的かどうかのパラメータは連動しないと、文学者は考えているからだ。
ここで、わたしは文学的な高低というのが理解できなかった。
感覚的な物差しとして有用でなかったのである。
したがって、上記のような三つのパラメータ配分を考えた。
象限としては複雑になるが、わたしとしてはヒト、モノ、カネで考えたほうがわかりやすい。
『ハンバーガーは世界一売れてるから世界一美味い』
という言説についてはカネに価値を置いてあるのだろうなと理解できるだけでなく、わたしはそうではないといいやすいからだ。
文学かそうでないかという言説は、大きく分ければ、自己と他者のいずれを描写するのかという問題であるように思う。
究極的には読み物というのは、作者と読者のつばぜり合いのようなものであり、文字が中空に浮いている自己と他者が融解する空間なのであるが、それをわかりやすい手触り感でパラメータとして書き表すと、ヒトとモノになる。
さて、わたしについて知りたいという方がどれだけいるのかわからないが、サンプル程度に考えてもらいたい。
わたしはどちらかといえば、モノタイプであろうと思う。
人から多くの感想をもらったりするのもうれしいのだが、自分の世界観を開陳するのがたまらなく心地よい。
ゆえに内心を描写しやすい一人称小説のほうが好みであり、時々視点キャラの内心を書きすぎてしまう。はっきり言えば、ライトノベル的作風では内心を書きすぎるのは弱点でもあろうが、それでも書きたいから書いてしまうのはモノタイプだからだろう。
ヒトタイプの思考形式に従えば、感想をもらえる作風を目指すはずだ。このあたりはわたしも完全なモノタイプではないので、妥協しうるところは妥協しようと考える。わたしの世界観を伝えるうえで不都合がないのであれば、ヒトに価値観を見出すこともある。
パラメータ配分はどの価値観が優先するかの問題であるから、どの価値観も並存しうる。同じくらいの価値を見出している場合は、作者としては大いに悩むことになるだろう。
ちなみに、カネタイプは多くの評価点や多くの感想をもらう作品は書籍化につながりやすいため、外見上はヒトタイプに似ている。
『ハンバーガーは世界一売れているから世界一美味い』という言説に対して
多くの人から評価されていることに価値観を見出すヒトタイプは混線しやすいので注意が必要だ。カネタイプは金=価値というふうに短絡しているのであって、ヒトタイプは人=金=価値というふうに一度人をリレーしているのである。
例えば、
『多くの人に評価されている作品こそが価値がある』
という言説は、ヒトタイプもカネタイプも首肯しうるところであろう。
しかし、ヒトタイプは多くの人に評価されるほうが価値があると考えてはいても、その本質は多くの他者がその作品に興味をもってくれたという点にあるから、極論で言えば物議をかもす作品であっても価値が高いということはありえる。賛否両論でもよいのである。
また、作者が承認欲求を満たしたいだけという場合は、その行動原理は限りなくカネタイプと近接することになる。プラスの評価のみを求めることになるからである。
プラスの評価のみを求める作者はカネタイプにも理解を示すことができる。
なぜなら売買というコミュニケーションをおこなっている以上はその点に価値を見出すことは可能だからだ。
売れるということは自分を認めてもらえたということであり、それは価値のあることだと考えることはべつにおかしなことではない。
他方でカネタイプは結局売れればよいのであるから、読者の内心やネガポジの微妙な心理状態などどうでもよく、瞬間的にプラスの評価が集まる方向へ舵を切ることになるだろう。プラスの評価でなければ炎上マーケティングでもない限り売れないからである。
さて、どうだろうか。このものさしは有用だろうか。
あなたは何のために書いているのか。これらのパラメータを自分の中で落としこむと、自分がなんのために書いているか納得できるかもしれない。
しかし実のところ――。
そんなことを考えながらだと書けないよ説が最有力である。
ランドセルにものさしをぶっ刺して、剣のように振るう幼女勇者の図。




