12時
人を避けて歩いていた。一歩、また一歩、足を踏み出していく。すれ違う人たちは誰一人として私を見ない。手元の画面に集中する人、手を繋いだ子供に気を取られる人、私の後方を歩く人を見る人、みんなの視界に私はいないのかもしれない。だからといって、何がどうというわけでもなくて、ただ、いつも通りの日常が流れていた。
公園の自販機前で立ち止まる。私の影も立ち止まる。喉が渇いたような気がした。気がしただけで、実際は渇いていない気もした。自販機はあまり掃除されていないのか全体が薄汚れていた。埃を被ったシンデレラみたいな自販機だった。カボチャの馬車は迎えに来ていない。硝子の靴も落ちていなかった。お気に入りのクマのリュックサックから、財布を取り出して、何を買おうか考えた。何となくオレンジジュースにしようかなと思った。特別な理由は特になくて、最初に目に付いたのがオレンジジュースだったからってだけだった。
「ぽちー、がしゃーん」
フライングだった。まだお金を入れていなくて、声だけが先走っていた。体が意識に置いてかれていた。鳩さんが私の足元を跳ねている。太っていた。
「ちゃりーん、ちゃりーんってね」
お金を入れてオレンジジュースのボタンを押す。オレンジジュースが落ちてきた音が聞こえた。
「オレンジジュースは落ちてないねー落ちてきたのはペットボトルだぁー」
でも、ペットボトルと中身は一緒に落ちてきているからやっぱりオレンジジュースも落ちてきている?
「どっちでもいっかーどっちでもー鳩さんもそう思うー?そっかー」
痩せた鳩さんから同意を貰った。痩せた鳩さんが私の靴を踏んずけていった。自販機のすぐ横にあるベンチに座る。ほんのり温かくて、お尻がふわっとした。気がした。オレンジジュースをちょっと飲む。
「お日様が出てるとさーベンチもーあったかいねーあったかいの好きだよー」
ベンチからは公園全体が見渡せた。バッグを抱えて走る会社員みたいな人、ダンボールハウスを建築中のホームレスみたいな人、手を繋いで笑い合う親子みたいな人たち、アイスを食べさせっこする付き合ってそうな人たち、噴水で水浴びをする探偵みたいな人。それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。みんなこの世界に生きている。少なくとも私以上にこの世界に生きている。
「やぁやぁ太った方の鳩さん、またきたのー?」
気付くと太った鳩さんが膝の上に乗っていた。太った鳩さんと目が合った。私の方を見つめていた。
「君には見えてるのかなー?」
ぽっぽー、なんて返事が返ってきた。気がした。ぽっぽーとは鳴いたけど、返事として鳴いたのかは分からなかった。鳩語は履修してこなかったから。
「ごめんねぇ、日本語も怪しくて……鳩語はもっと分からないんだぁ……」
太った鳩さんは鳴いた後も膝の上からどいてはくれない。ずっと膝の上にいて、遠くを見つめたり、首をかしげたりしている。太った鳩さんに、この世界はどう見えているのかな。広いのかな、狭いのかな、大きいのかな、小さいのかな。そこに私はいるのかな、それとも……
「あのねー、ちょっとだけゲームが得意なんだー、他は何にもできないよー」
自己紹介を始める。いつも通りの無駄な自己紹介を。もしかしたら、届いているかもしれないなんて、期待して。ほんのちょっとだけ、期待して。覚えてもらえたことのない、自己紹介を始める。
「あとねーすっごく影が薄くてーよく人とぶつかっちゃうんだー」
たった二行で自己紹介のほとんどが終わってしまう。紹介できる自己がない。他に何かなかったかなーなんて、ぼんやり思いつつ、空を見上げる。何もなかった、雲一つない、綺麗なお天気だった。ぽかぽかのお日様に照らされると眠くなるね。そろそろお昼寝の時間だ。眠気に包まれて、目を擦った。まだ紹介していなかった自己があったことを思い出す。
そうだ、私の名前はね――




