勿忘草と冬桜
前作である短編と同一の主人公ですが続編ではないので前作要素は特にありません。
では2作目、楽しんでいただけたら幸いです。
人は、何故出会うのか。
人は、何故生まれるのか。
僕は出会いを憎み、生を恨む。
輝かしい光に包まれるそれを、怨念を含む瞳で見つめる。
何故なら、光と影は常に表裏一体だから。出会うのならば別れがあり、生まれるのならば死がある。
結局、万物は全て影に覆われるのだ。ならば、最後に終わってしまうのなら、いっそのこと始まらなければ良い。僕はそう思う。
こんなことを考えるようになったのはいつからだろうか。14歳の夏だったか。それともーー。
*
16歳の冬。僕は昔、父方の祖父母が住んでいた家に来ていた。うちの家族は代々自然好きらしく、母方の祖父母の家は海の近くにある。そして例に漏れず、この家も山奥にあった。住んでいた祖父母は既に亡くなっているが、家だけは思い出として取ってある。
僕もまたこの家、というかこの山に思い出があった。それは決して良い思い出ではないが、忘れそうで忘れられないもの。
「懐かしいな、この部屋」
ベッドと机だけがぽつんと置いてある閑散とした部屋で、ポツリと一人、呟いた。
昔、良くここに遊びに来た時はこの部屋を借りたものだ。
まだ祖父母が生きていた頃。僕は毎年夏と冬の休みにはここに来ていた。とりわけ、冬休みには必ず泊まりに来たものだ。
だが、かと言って何かしに来ていた訳ではない。単に祖父母に会いに来ていただけで、毎年ここに来てはやることもなく山で一人、遊んでいた。
遊ぶと言っても山を探検していただけだったが。
そんな昔のことを銘記していたとき、僕はふと山に行きたくなった。
何かに呼ばれたのか、それとも単に気まぐれだったのだろうか。今では分からないが、ともかく僕は山に行った。
殆ど整えられていないけもの道を進んでいく。幸い、山の地理は何となく覚えているので迷う心配はない。
が、道がどこに続いているのかは分からなかった。
「こっちに行った気はするんだけどなぁ」
この道を進んだ記憶はあるが、終着点がどこなのかは思い出せない。
自分の記憶をほじくり返す。
幼い頃、確かに僕はこの山で遊んでいた。けれど、ある一時を境にここに来なくなった。山どころか、祖父母の家にすら来なくなった。
今から6年前、僕が10歳の頃だ。僕は山で遊んでいた時、足を滑らせて谷底に落ちた……らしい。というのも、僕にはそんな記憶はないのだ。
ある日、帰らない孫を心配して探しに出た祖父は滅多に来ない吊り橋のかかった谷の方へ行った。その谷底で、倒れて動かない僕を見つけたのだ。急いで救急車を呼んで病院へ運ばれたが、何故か僕の体はどこも怪我や傷がなく、加えて記憶もなかった。医者は谷底に落ちたんじゃなく元々そこにいて転んで頭でも打ったのでは、と言っていたが、そもそも僕は谷底で遊んでいた記憶が無い。その前後の記憶はあるのだ。だが、その事故のことだけは何故か思い出せなかった。6年経った今も然り。あの時、何故僕はあそこに倒れていたのか。
そういえば、記憶がないと聞いて家族はそれは慌てたものだ。両親は大学病院をいくつも回って僕に検査を受けさせたし、祖父は何かあるといけないから、と僕を家に招待しなくなった。けれど祖母だけは、またいつでも遊びにおいでと言っていた。
「お前には特別な加護があるからね。この山では絶対に怪我も病気もしないさ」
そんなことを言って、父に適当なこと言うなって若干きつく言われていた。
今思えば、祖母は何か知っていたのかもしれない。いつも神社に参拝しに行っていたようだし、神の御加護というのも何か関係があったのかも。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかけもの道を抜けて、開けた場所に出た。
目の前にあるのは、ぱっくりと割けた地面。近づくものを飲み込むような、深い谷だ。ボロボロの心もとない吊り橋がかかっている。
間違いない。ここだ。直感でそう思った。
この谷こそ、僕が発見された谷だ。見渡すと、微かな記憶が蘇ってきた。
「そうだ。確かにあの日、僕は谷に落ちた」
僕はここで遊んでいた。谷の底ではなく、谷の上で。誰かと。それは誰だ?
「誰だっけ?いつも遊んでいた子」
ここに来るといつも会っていたような気がする。いつも一緒に遊んでいた気がする。
全て曖昧な霞がかった記憶だが、誰かと遊んでいたのは定かだ。では、それは誰だったのだろう?
「駄目だ、思い出せない」
何か手掛かりはないかと谷の周りを見て回ったり、谷の底を覗いてみる。すると、谷の底に一輪、不自然に咲く花を見つけた。
「あれは、勿忘草?何でこんな季節に?」
今は1月。勿忘草が咲くのは早くて3月だったはずだ。咲くのが早すぎる。
勿忘草……。何で僕は勿忘草を知っているんだ?特に草花には詳しくないのに。
疑問が解決するどころか新たな疑問が生まれた所に、後ろから突然呼び声がした。
「おい、そこのお主」
声の主は少女だった。時代に不釣り合いな着物に、美しい和服に釣り合う可愛らしい顔。茶色、細かく表現するなら朽葉色に近いだろうか。不思議な髪の色をしている。そして、肌が不健康なほど白い。
「お主、もしかして岸田のとこの坊主か?」
鈴を転がすような声を響かせて少女は言う。
「えっと、多分そうですけど」
少し戸惑いながら答えると、少女は品定めするような目で僕を見つめた。
「うーむ……何となく面影は感じるの。まあ、多分そうじゃろ。しかし大きくなったのう」
訝しげな顔から、明るい顔に変えて少女は詰め寄る。
「あの、君は……?」
ぐいぐい顔を寄せる彼女の頭を押しのけて、質問をしてみる。
「ん?ああ、そうか。つい慣れでな、すまぬ。わしの名前は……」
少女はそこで言い淀む。少しの逡巡の後、また口を開いた。
「わしの名前は、そうじゃの。咲、とでも呼んでくれ」
分かった、と相槌を打ってから本題に入ることにする。
「それで、僕に何か用でも?」
咲は一瞬だけ否定する。
「いや……。あー、ちょいと花見に付き合ってくれんか?」
特に断る理由もない。用事があった訳でもないし。それに何より、僕はこの子を知っている気がする。
何だか、一緒にいると懐かしい気分になれるのだ。
「うん、別に構わないよ」
少し嬉しそうな顔をした咲は、こっちじゃ、と一声かけて先を進み始めた。
来た道とは別のけもの道。けれどやっぱり、ここも見覚えがある。どうして、何故思い出せないのだろう。
とても大事な記憶のような気がするのに。
何分歩いたろうか。会話も無しに、ただただ歩く。我慢出来ずに何か話そうかと思った時だった。
目の前が急に開けた。森の中に不自然に広い空間がある。まるでここだけ木が生えるのを拒否しているように、ぽっかりと穴が空いている。
そして中心には桜の花が静かに咲いていた。
「ほれ、着いたぞ。凄いじゃろ?冬に咲く桜じゃ。何故かここにだけ1本、咲いているんじゃよ」
こちらを振り返ることもなく、咲は言う。しかし、それについての返事は帰ってこない。帰ってきたのは彼の返事ではなく、彼の記憶だった。
「そうだ。思い出した」
何故、忘れていたのか。何故、思い出せなかったのか。
幼い頃の記憶。大切で美しい、友との思い出。
そう、そうだ。昔僕はいつもこの山で遊んでいたのだ。同じ背丈ぐらいの、着物を着た女の子と。
紛れもない、目の前に立つ咲と名乗る少女と。
「思い出したのか。相変わらずここは不思議な場所じゃな」
咲は振り返り、静かな声色で言った。
「ちと場所を替えようか。この際、全てを話したい」
どうせ忘れるのだからな、と小さく呟くが、それが少年の耳に届くことは無かった。
また数分、山を登る。その間彼女に何度も質問をしたけれど、彼女は応えない。
「さ、ここじゃ」
石段を上がり、見えてきたのは神社。ところどころボロボロの古い神社だ。とても人が手入れしているようには見えない。神主は居ないのだろうか。
「お前の言う通りじゃ。わしとお前は昔、よくこの山で遊んだ」
少女は岸田の方を見て語り始める。その目は桜を見に行こうと言った時の、嬉々とした目ではない。悲しそうな、逃れられない運命に直面したかのような目。
「お前とわしは頻繁に遊んだよ。お前がここに来た時は毎日のように遊んで、毎日のようにわしのことを忘れた」
咲は溜めていたものを全てぶちまけるかのように話す。
「お前だけじゃない。皆、わしと会った者はわしのことを忘れた。いや、忘れてもらったという方が正しいかの」
そして、少女はその口から衝撃の事実を告げる。
「わしはな、この神社の神なんじゃよ」
到底信じれるものではない。が、彼女の言葉には妙な説得力があった。素直に否定出来ない、不思議な力が。
「咲桜稲荷。それがわしの本名じゃ。この咲桜神社に祀られている神様じゃよ」
そう言うと彼女は変化を解き、その耳と尻尾を顕にする。
「神様じゃから、その姿を他人に見られてはならない。もし見られたらその記憶を消さねばならない」
ここで少年は口を開く。
「なら、どうして……」
「どうして人と会い、ましてや遊んだか、じゃろ? なに、簡単な話よ。寂しかったのじゃ」
そう言って咲はその目に涙を滲ませる。
「何百年も一人ぼっちじゃった。昔はもっと人がおったのじゃよ、この辺りにも。けれど、その数はどんどん減っていっての。終いには神主さえ、跡継ぎが居なくなってしまった……」
目を擦りながら、神は続ける。
「だから、お主の婆さまが来てくれた時につい嬉しくて姿を表してしまったのじゃよ」
それで、せっかくだから願いを叶えてやろうと訊いた時、祖母はこう答えたという。
「うちの孫がどうか、怪我や病気をせず健康にいられますよう護ってやって下さい」
成程、だから祖母はあの時、胸を張って大丈夫と言えたのか。
「結局婆さまの記憶を消す羽目になったが、わしは可能な限り願いを叶えようとした。けれど、信仰者の居ない神の力が及ぶ範囲など決まっておる。だから、お前に可能な限り近づかねばならなかった。けれど姿は見せられない。見せたら記憶を消さねばならない決まりじゃからな。なら影でこっそり見ていることにしようと思った」
だがそんなある日、物音に気付いた僕が彼女のことを見つけてしまったらしい。警戒心も無く、まして遊ぶ友達もいなかった僕は迷わず遊びに誘った。彼女も満更ではなく、その誘いに乗ることにした。
「で、それ以来遊ぶようになったのじゃ。そしてその度、記憶を消すことにもなった。けれどまあ、それなりに楽しい日々じゃったよ」
咲桜稲荷は神社の周囲に咲き誇る勿忘草を見渡す。
「これが、他人がわしのことを忘れた回数じゃ」
彼女の視線を追うと、ちらほらと勿忘草が咲いている。10数本、と言ったところか。
「ちなみに、この内の殆どはお前の婆さまじゃ。あの後も何回か来てくれての。本当に良い人じゃった」
そう嬉しそうに言う彼女を見て、何だか誇らしくなった。自身の祖母が神様を喜ばせたなんて、自慢出来たら誰かにしてやりたいぐらいだ。
「そしてこれが、お前がわしのことを忘れた回数じゃ」
パチン、と彼女が指を鳴らすと神社一面に勿忘草が咲き誇った。正に一瞬のことで驚いたが、それよりも唖然としたのはその本数。数えるのを諦める程には咲いている。1面真っ青の花畑が出来上がっているじゃないか。
この少女は、寂しがり屋の神様は、こんなに僕と遊び、そしてこんなに自分のことを忘れさせたのか。
僕と彼女はこんなにも出会い、そしてこんなにも別れたのか。
一体、どれだけ辛かったのだろう。どれだけ悲しかったのだろう。
仲の良い友人との別れなんて、人生で数回経験すれば充分だ。
今日会って明日は会わずにさようなら、なんて簡単に別れられる程簡単な友情ではない。だって、何度も何度も遊んだのだ。出会ったのだ。
けれど、何度も会ったのに、仲良くなったのに、次に会う時は他人から。そんな辛いことがあるだろうか?
「ごめん」
つい、謝ってしまった。仕方ないとはいえ、忘れていた自分が憎い。
「何を謝るのじゃ。わしの我儘から始まり、わしの我儘で終わること。お前が謝る必要はない」
続けて僕はもう1つ言わなければならない言葉を口にする。
「それと、ありがとう。僕が谷底に落ちた時、助けてくれたのは君だろう?」
「……そうじゃ。あれがきっかけで、お前にも会えなくなってしまったがな。あの日、わしとお前はあの桜を見に行ったんじゃ。それでその帰り、あの谷の底を見たいとお前が言ってな。二人で覗こうとしたらお前だけ落ちてしまった」
懐かしい話じゃな、と言って彼女は思い出したかのように桜について話し始めた。
「あの桜は不思議な桜での。何故かあそこに行くとお前が記憶を取り戻すんじゃ。お前の婆さまではダメだった。お前だけじゃ。だから今日、お前に再会した時、つい嬉しくてな。わしのことを思い出して欲しくなってしまった。だからあそこに連れてったのじゃが」
結果はいつも変わらん、とため息を吐いて神様は僕に近づく。
また、忘れさせるつもりなのだろう。
折角思い出したのに、また忘れてしまう。けれど、忘れなければ彼女はきっと神でいられないのだろう。
神でいられないどころか、その存在すら危ういのではないだろうか。
でなければ、こんな厳しい運命、とうに投げ出しているに違いない。
「また、消すのかい?」
「そうじゃ。決まりじゃからな」
そう割り切ったのなら、心まで割り切ってくれ。
そんなに泣かれると、こっちまで辛いじゃないか。僕に泣く資格はないのに。辛いのは君だけのはずなのに。
「またね、咲」
すると咲は最後に、笑顔で言った。
「またの、裕也」
あれから1週間。僕はあの山から帰ってきて、ごく普通の日常を送っている。1つ、以前と変わったことと言えば、待ち人が1人、出来たことだ。決して記憶が戻った訳ではない。具体的に誰とどこで会い、どんな話をしたかは一切記憶にない。ただ、僕を助けてくれた恩人があの山で待っているということだけは明確に覚えている。僕の頭の中に、はっきりとそれは居座っている。
「また、行かなきゃな」
待たせすぎないうちに、今度は何か手土産を持って会いに行くことにしよう。
さて、如何でしたでしょうか。
個人的には前作より気に入った話ではあるんですが……。ただ一向に執筆スピードと文才は上がりません。
前作と違ってハッピー(?)エンドになってるはずですので、不快な終わりではないかなと思います。
読んで頂きありがとうございました。