澄み空のウィステリア
澄み空のウィステリア
物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色付きにけり
「難しい本、読んでますね。万葉集ですか?」
「ええ、まぁ。読んではいますけど、わたしはそうなったことがないので何とも言えません」
「というと?」
「物思いにふけて、引きこもっていて、ふと気付いて外に出てみたらいつの間にか山には色が付いていた。ということを詠んでいるようですが、夢中になり時の経つのを忘れてしまった。されど、外の季節は外。自分の時間はどこかへ行ってしまった。ここまで夢中になることなんて、わたしには無い気がします」
「まぁ、それは分からないですね。これからそういうことが起こるかもしれませんし、そうじゃないかもしれない。けれど、藤山さんの色もいつかは変わる日が来るかもしれない。難しく考えなくていいと思いますよ」
「分かりました。本日はありがとうございました」
わたしには何かに夢中になるものが無い。何か見つけて、夢中になってみたい。そうすれば、これから先の生き方も進み方も変わるのかもしれない。そう思って週に一度、古書を無料開放している古びたカフェに足を運んでいた。いつかわたしは変われるのだろうか――
× × × × ×
「すみません、注文、いいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
カフェ好きが高じて、わたしは趣漂う珈琲店で仕事を始めていた。チェーン店と違って、大勢のお客さんが来るわけではないけれど、静かな雰囲気の中に各々の想いや考えを秘めた人々を見守り、見送るのが楽しみでもあった。
わたしがこのお店で働くようになってから、何時も同じ時間、同じ席に座って、わたしを呼ぶ方がいる。この方は、とても静かに読書をしていてほとんど言葉を発さないけれど、わたしを呼ぶ声はとても優しく、とても穏やかだった。
「藤山さん、こんにちは。ここの、あなたの淹れる珈琲はとても美味しいですね」
「い、いえ、そんな。松本さんにそう言って頂けると嬉しいです」
「僕は昔からここの雰囲気が好きで通っているのですが、藤山さんが入られてから、益々離れがたくなりました。あなたがここにいるから僕は……会いに来ているのかもしれません」
普通のコーヒーショップだと、お客さんと店員が話をするなんてことはあり得ないのかもしれない。だけど、わたしのいるこのお店は、そうした”普通”ではなく、憩いの場あるいは、誰かが誰かを求めに来ているのではないだろうか。なんてことを思わずにいられなかった。
お客さんとして何度も顔を合わせていた松本さんとは、まさにその関係なのかもしれない。互いの名を呼び、少しの時を過ごしているだけのことなのに、わたしは彼がここに来るのを待ち望むほど夢中になっていた。
恋と言うものは、初めは自分を好きになる所から始まって、そこから自分が消えて最後には好きになった人の全てを受け入れる、受け入れたい。好きな人にわたしの全てを預けたい。
まだ彼へ想いを伝えているわけではないけれど、漸く、わたしは見つけたのかもしれない。外の空を見ると、わたしの心を澄み切った色で映すように青々としていた。
恋する人の時間は止まっている。今ならあの時に読んでいた万葉集の意味が分かる様な気がする。まさに今、わたしは好きな人のことを好きで好きで、好きで……周りのことを気にすることなく、彼のことしか見えていないのだから――
引用:万葉集 巻十の二一九九
作者未詳。