原初の悪魔
夏ホラー2008、参加作品でございます。
男は悪魔と契約した。
悪魔は男の「心」を要求し、男は悪魔から「幸福」を授かった。
「心」とは人間性であり、男は「幸福」に興じた瞬間から「心」を破棄し、幸福な「獣」となった。
悪魔は「心」を手に入れる。
人生に、大きな、しかも突然の転機が訪れるとしたら、それは人の生か死であろう。
人生に於いて、大切なことは何か。
例えば、正義、博愛。自分と言う個人に課せられた、何か運命的な使命を全うすることか。
例えば、享楽、堕落。自分と言う個人の中で発生した、刹那的な快楽を貪り続けることか。
例えば、富、名声。自分と言う個人を、死して尚永遠として存続することか。
何れにせよ、避けられない「死」を見据え、その瞬間迄に何を成すべきか、ということだ。
いずれ死していく自分という儚い存在に、何かしらの重要な意味を持たせたいのか。
いずれ死して行くのだからこそ、それまでに生を快楽で以って謳歌したいのか。
いずれ死する自らに、永遠性を付加したいのか。
人間だけが「死」を理解する生物である以上、人間たる証として、「死」を見据えて人生を送ることは間違いではない。それこそが、霊長の最たる人間の、その存在を「動物」と異にする点であるからだ。
「死」を見据えて生きることは、ある種、人間としての尊厳であり、同時に「本能」を超えた「自我」に依るものといえるだろう。
――そう。人間は、「人間」であるが故に、「自我」を愛し「本能」を嫌悪する。
何もおかしなことはない。「自我」こそが「人間」足り得るのだから。
「自我」を否定すれば、「人間」は「獣」に成り下がる。
「本能」に順ずる「獣」ではなく、「自我」に順ずる「人間」であるべきなのだ。
「本能」は性質であり、個ではないのだから。
人生に於いて大切なことは何か。
私はただひたすらに、富と名声を追い求めた。
いずれ死ぬものなれば、それまでに、何か大事を成し遂げたい。誰もが思うことであろう。おかしいことではない、自らの特別性を願うことは。
自分は特別である。それを証明するために、私は富と名声を追い求めた。富は私の生活が一般人のそれとは違うことを証明し、名声は私の存在が一般人のそれとは違うことを証明した。富と名声を集めれば集めるほど、自分と言う存在が特別なものへと昇華していく。
「自分」というものを、確たるものにするために。
私はただひたすらに、富と名声を追い求めた。
私には誇りがあった。
自分は特別なのだ、一般大衆とは違うのだと言う誇りがあった。
ただひたすらに、毎日を生きるだけの、「動物」のような彼等とは違い、自分は優れた「人間」なのだと。
他人を欺き、より多くの富を手にしたとき、その富は私がどれだけ優れた「人間」なのかを証明する。
才能ある自分は、愚かな彼等とは違うのだと。
私には誇りがあった。
勝つか負けるか。
世界は白と黒の二色だ。
私は全てを手に入れた。
富。名声。それらは私に優越感と誇りを与えてくれた。
やがて私は結婚した。
なかなか見つからぬ、目も覚める美女だ。私は彼女に最高の生活を送らせた。
私の掻き集めた富と名声は、彼女に何一つとして不自由の無い生活を約束した。
彼女は、私と一緒にいたいと言った。
だがしかし、それは無理な話だ。
何故ならば、私はより多くの富と名声を集めるために仕事をせねばならず、その仕事は多岐に渡っていた。
彼女の願いは可能な限り聞き請けたいが、仕事を削るわけにはいかぬ。
それこそが、私の証明であるのだから。
私は私であるために、より多くの富と名声を集めねばならぬ。
私は、彼女が寂しく思わずに済むよう、より多くの金を渡した。
私は自我に従う。愛には執着せぬ。
大切なことは富と名声。私を私足らしめるものは仕事である。
人生に、大きな、しかも突然の転機が訪れるとしたら、それは人の生か死であろう。
やがて、妻は私の子供を孕んだ。
私は妻を、最高の病院の、最高の部屋へと入院させた。
私は仕事を続ける。
富と名声は私を証明し続けた。
そうして私が仕事に――富と名声を集めるのに――明け暮れていると、一つの喜ばしい報せが舞い込んだ。
妻が遂に産気付いた。
私はそれを祝福し、仕事のスケジュウルに目を通す。
手帳には、ビッシリと予定が詰まっていた。
致し方あるまい。出産には間に合わぬかもしれぬが、出来得る限り仕事を早急に終わらせ、病院に向かおう。
案の定、と言うべきなのだろう、私は出産には間に合わなかった。
飛行機を降り、タクシーを捕まえたところで妻の出産が終わったという連絡が入った。
妻は無事に、我が子を産み落としたらしい。
出産に間に合わなかったのは残念だが、仕方が無い。
そこで私は、運転手に行き先の変更を告げた。
私は花屋で有りっ丈の花を買って行くことにした。
思えば、私は何かに取り付かれていたのかもしれぬ。
富と名誉を掻き集め、仕事に明け暮れる日々。
愛する妻を一人残し、仕事に明け暮れる日々。
遂には、愛する我が子の誕生にも間に合わなかった。
本当に、自分にとって最も大切なことは仕事なのか?
富と名声がそれほどまでに重要なのか?
――私にとって、最も大切なものは何か?
私の中に、名状し難い感情が沸き起こった。
有りっ丈の薔薇をかき集め、代金を遥かに超える金を気前よく店主に握らせ、私は病院へと向かった。
最高級のスーツで、最高級の革靴で、有りっ丈の薔薇を抱えて病院へ……妻と我が子の待つ病室へと向かった。
我が子は眠っていた。
我が子ながら、その未だ人とは言えない様な「動物」的な容姿を見て、しかし私はそれを愛おしく感じ、思考は緩やかに停止した。
折角の薔薇も、タクシーの中で考えていた祝いの決め台詞も、何もかも頭から消失せしめた。
私は我が子を抱きかかえる。
私は――震えた。
世界が激変した。
白と黒の世界が、色付いた。
世界は、美しい。
その後、私は手掛けていた仕事の多くを手放した。
それなりに裕福な生活が営める程度に抑え、そこから創出した時間のほとんどを妻と我が子と過ごした。
当然、妻は喜んだ。
嗚呼、喜ぶ妻と、天使のように微笑む我が子と過ごす時間の何と素晴らしいことか。
天使の微笑み。天使の囁き。天使の眼差し。
やがて、妻と我が子を連れて病院を後にするとき、妻が私に言った。
「これから、二人で大切に育てていきましょうね」
私は誓った。
私には、何よりもこの子が大切だ。
私たちの未来は、我が子の為にこそ――。
周囲も私の心境の変化に驚いていた。
人前ではほとんど笑うこともなかった私が、我が子の前では微笑んでいる。
他人に触れることすら許さなかった私が、スーツに皴が付くことも厭わず我が子を抱く。
まして、我が子にその唾液でスーツを汚されても顔を不快に歪めることすらない、と。
挙句の果てには、異様な執着を見せていた仕事の大半を切り捨てるとは――。
構わない。
私は、我が子が愛しい。
狂おしいまでに愛しいのだ。
富や名声を求めるのに明け暮れていたあの時期の、何と愚かなことか。
白と黒の世界に生きていたあの時期の、何と愚かなことか。
自らの証明は我が子。
世界は彩られ、これほどまでに美しい。
自宅にいる時間が増え、妻も明るくなった。
我が子を抱き、私に微笑む。
私が我が子を抱くと、天使の眼差しが私を射抜き、微笑む。
笑い声も泣き声も、嗚呼、心地の良い天使の歌声。
私は幸福だった。
幾らかの富と名声を失って尚、幸福であった。
そう、富や名声といった、俗な幸せを放棄することで、より美しい幸福の次元を手に入れたのだ。
今の私は、我が子のためならば、総ての財を捨てられよう。
それほどまでに、狂おしく愛しい。
妻もそう思っているのだろう。
我が子のためならば、自らの命すらも投げ打って構わないと。
私は手がけていた事業の多くを手放したことによって、残った事業の関係者とも親しくなった。
彼らは、今の私を気に入ったようで、以前のように遠巻きから恐々と覗くようなことはなくなった。
友人は多いに越したことはないのだ。
敵を作ることは得策ではない。
ましてや、幾らかの富の為に他人を陥れて敵を作るなど――。
彼らは口を揃えて言った。
「変わりましたね」
私の中に、名状し難い感情が沸き起こった。
私は、「変わった」。
私は、「変わった」のか――?
私は幸福だったが、そんな私を悪魔は見逃さなかった。
今まで散々他人を欺き陥れてきた私を、神は救わなかった。
それはある日突然に。
我が業を裁きし神の御業か。
我が業を見込みし悪魔の所業か。
誘拐。
妻が目を離した一瞬間の間に、愛する我が子は消失した。
神隠し。
すぐに電話があった。
誘拐犯を名乗った。
要求は金。
額面は大きい。
私の築き上げてきた財を以ってせねばならぬ、巨額。
迷いなどありはせぬ。
即座に了承した。
私たちは知っている。
我が子は財には代えられないことを。
我が子は我々にとって、必要不可欠な存在であることを。
そう。必要不可欠な――。
警察など呼ばぬ。
金など惜しまぬ。
我が子さえ取り戻せれば。
誘拐犯を捕まえようなどとは思わぬ。
我が子さえ取り戻せれば。
要求通りに金を渡すと、すぐに我が子は帰って来た。
私たちは歓喜した。
生活は苦しくなる。
裕福な生活は難しい。
しかし、我が子の為と思うと、後悔はない。
また電話があった。
誘拐犯と名乗った。
咄嗟に我が子の姿を追う。
我が子は妻が抱いていた。
ならば。
用件は何だというのか――。
「お子さんは元気ですか?」
我が子は今、妻に抱かれ笑っている。
何の用だというのか。
「少し……お聞きしたいことがありまして」
私は黙って先を促す。
「いつも、いつも思うのですが、貴方がたはどうして、そう……どうして、子供の為に金を払うのですか?」
嗚呼、この男は知らないのか。
我が子というものの価値を。
「貴方がたにとって、子供とは何なのですか?」
我が子は我が子。
愛しき我が子。
理由などない。
我が子は我が子で、愛しい我が子なのだ。
それが、今の私の存在――。
我が子が、必要不可欠な――。
「貴方がたは、子供の為に金を作り、子供の為に金を払う」
私の中に、名状し難い感情が沸き起こった。
これ以上、この男の話を聴いてはならぬ。
受話器を置こうとする。
我が子が、私に向かって天使の如き微笑を浮かべている。
――我が子よ、何故に微笑む。
「……変わっている」
変わっている?
私は、「変わった」。
私は、「変わった」のか――?
悪魔が、死神が、私の背後で微笑んでいる。
私の心が悲鳴を上げる。
我が子が、私に向かって天使の微笑を浮かべている。
私は、その微笑から目が離せなくなった。
――我が子よ。何故に微笑む。
「子供の為に金を稼ぎ、子供の為に時間を割く。子供の為に生きる。子供の為に。子供の為に。そう、子供の為に――。まるで……」
男が言った。
「まるで、そう――家畜だ」
通話は途切れた。
受話器からは、無機質な電子音が響いていた。
我が子が嗤っていた。
――我が子よ。何故に……嘲る。
私は――震えた。
世界が激変した。
世界が、色褪せた。
世界は、白と黒。
人生に、大きな、しかも突然の転機が訪れるとしたら、それは人の生か死であろう。
私は気づいてしまった。
そう。
私は、「変わった」のだ。
私は、「変えられた」のだ。
愛する我が子によって。
愛する我が子を守り、育てるための存在へと。
我が子の為に金を稼ぎ。
我が子の為に金を払う。
まるで、家畜だ。
家畜。「獣」。
私の、我が子への愛情は何だったのか。
私は、確かに愛していたはずだ。
以前の私を塗潰す程に。
世界が色付く程に。
私は、我が子を愛していたはずだ。
私が、「変わる」程に。
しかし。
しかし仮にも。
これは……「父」としての「本能」ではあるまいか?
私が、人が内包している「本能」――。
生得的本能。「獣」。
「私」は、どこに行った?
世界は変わった。
色付いていた。
――我が子によって。
その時すでに、「私」はいなくなったのか。
「本能」を揺さぶられ、引きずり出され、我が子を守る忠実な下僕へと――。
我が子を必要不可欠とし守る、我が子の「環境」へと。
「私」を粉微塵に吹き飛ばしたのか。
私の「人間」たる「自我」を侵食し、「本能」の「獣」へと。
我が子を見やる。
微笑んでいた。
愛しいと感じた。
天使の微笑み。天使の囁き。天使の眼差し。
私は愛しいと感じた。
しかし。
――悪魔。
愛おしい、この感情すらも偽り。
「本能」。
「獣」の性。
嗚呼、総ては偽り、泡沫の夢。
我が子を見やる。
嘲っていた。
憎い。
悪魔の微笑み。セイレーンの歌声。バロルの眼差し。
憎い。
――悪魔。
私は気付いた。
そうだ、違う。
私は、家畜ではない。
「獣」ではない。
「人」なのだ。
私は「変えられた」。
妻は気付いておらぬ。
自分が、「変えられた」ことに。
すべての今が、偽りであることに。
その愛情が、作り物であることに。
悪魔の家畜になっていることに。
私は、気付いた。
これは原初のシステム。
種の為に、「人間(自我)」を「親(本能)」に変え、子を育ませる為に仕掛けられていた原初の罠。
子供とは、原初の「本能」を引き釣り出し、「人間」を奪い「獣」にし、「人間」になる自らを育ませる悪魔であったか。
悪魔は私の「人間」を我が物にしようとしている。
私は、気付いてしまったのだ。
人生に、大きな、しかも突然の転機が訪れるとしたら、それは人の生か死であろう。
私は悪魔に手をかけていた。
今一度、私が変わるために――。
愛おしい首筋を、「獣」が締め上げる。
私は、「人」になる。
悪魔がもがいた。
私を魅了して止まぬセイレーンが喚く。
「私」を殺し続けるバロルが睨む。
哀れな妻が私の腕を抑える。
哀れな妻が喚いている。
――深く、虜にされている。
――待っていろ、今救い出してやる。
悪魔が私に訴える。
偽りの私が、私に挑み掛かる。
「獣」に戻ってなるものか。
私は、「人」になる。
やがて、悪魔は息絶えた。
もう悪魔は微笑まない。
セイレーンは歌わない。
バロルの瞳は閉じられた。
妻は狂った。
呆然と悪魔を抱き上げ、あやす。
無表情に、ただ呆然と、悪魔を抱く。
動かぬ悪魔に、乳を飲ませる。
妻は狂った。
嗚呼、気付くのが遅かったか。
既に、手遅れだった。
妻は完全に悪魔に憑かれていた。
悪魔の虜になっていた。
死して尚妻を縛り付ける悪魔を憎悪し、私は妻に近づいた。
今、楽にしてやる。
愛しいお前を、「獣」のままにはせぬ。
偽りから開放してやる。
嗚呼、妻よ、もう少し早く気づいていれば。
悪魔に心を売り渡すことなどなかったものを。
私は妻の首に手をかけた。
――嗚呼、時よ。止まれ、お前は美しかった。
契約は終わった。
心を売り渡し、偽りの幸福を手に入れ、悪魔の下僕となる。
契約は終わった。
私は悪魔に打ち勝った。
何故だろう。
鏡に映った私の顔は、酷く歪んでいる。
瞳から頬へ、雫が伝う。
偽りの夢は醒めたというのに、私の心は悲しみに冷たい。
鏡に映る瞳には、悲しみ、絶望、狂気――。
嗚呼、そうか。
そういうことか。
もう、私も手遅れだったのだ。
悪魔に売り渡した心は帰ってこない。
すでに私の心は……「人間」の心は、自らによっても侵食されていたのか。
「獣」の本能――原初の悪魔によって、私の……「人間」、は。
私は書斎の引き出しを開ける。
黒光りする「神」を取り出す。
唯一私を救い給う、機械仕掛けの神。
全てを終える、終幕の一撃。
撃鉄を打ち下ろす。
神が雄叫びを上げ、私のこめかみを撃抜いた。
――悲しいかな。最後に想ったものは、あの忌々しい悪魔の愛しい笑みだった。