Ep⑧ そこにいたモノとは――
ラムドが姿を消してから三週間が経った。
寝台をもう一つ用意して欲しいという願いを聞き入れる代わりに、学業に専念して優秀な成績を収めるというマルティネスの提案を受け入れ、ファリファンは無我夢中で勉強に励んだ。
「とても言いにくいことだけれどね、どうも本当のようなんだ。わたしが到着する前に星獣捜索部隊は出発してしまっていたから確認できなかったが」
昼の豪勢なおかずを前にしても手をつける気になれず、ファリファンはグラスに注がれた水をゴクゴクと一気に飲み干した。
王都の騎士団に直属する盗賊討伐隊とは別に結成された星獣捜索隊。
荒くれ者、かつて騎士だった者、元・犯罪者などの寄せ集めで隊とは名ばかりだった。
「想定外だった。ファリファンの力になろうとわたしが王に提案した星獣捜索隊にラムドが志願したとは……」
「それで、ラムドは――」
「あぁ、聞いたところによると、腕っぷしは隊の中では一番だったそうだ。隊長補佐に任命されたらしい」
「補佐……ですか……」
「うん。補佐とは名ばかりの斥候とも言うべき役どころだ……わたしの管轄下にあったら、そんなことはさせなかったのに……すまない……」
「いいえ、謝らないでください」
ファリファンは膝の上に広げていたナプキンをキュッとくしゃくしゃに握りしめた。
気持ちを落ち着かせる為に何度か深呼吸を繰り返す。
「部屋で休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
「あぁ、いいとも。食事はあとで部屋に運ばせよう」
お辞儀をしてその場を離れようとするファリファンをマルティネスが呼び止めた。
「先生が褒めていらした。ずいぶんと成績が上がったそうじゃないか」
「はい……」
「もう、わたしの出る幕はなさそうだ」
「マルティネスさんとの事前予習がなければ、今でもわからないままだったと思います。感謝――」
「その必要はないよ。わたしは、キミの笑顔が見たいんだ。そして幸せになりたい。キミとね」
俯いていたファリファンがハッと顔を上げると、席を立ち素早く移動してきたマルティネスがすぐそばに立っていた。
「ラムドのことは、本当にすまない。少しでもキミの力になりたかったんだ」
腕をファリファンの腰に絡ませると、引き寄せた。
頬を包み込むようにして、もう片方の手を宛がう。
「わたしがそばにいる。キミの願いはなんでも叶えよう。だから――」
艶やかな虹彩に光の筋を走らせ、目の端を細めるようにして頬をクッと引き上げる。
口元は花の蕾が開くように綻んでいた。
「笑って欲しい。キミの笑顔が見たい」
ファリファンは、どうしたらいいのかわからなかった。
笑顔――と望まれても、難しい。
心を占領しているのは不安ばかりで、笑える要素が何一つない。
「どっ、どっ、努力……します……」
ファリファンはマルティネスの腕から逃れようと軽く身を引いた。
するりとマルティネスの手が離れていく。
「うん。その言葉を聞けただけで嬉しいよ。引き留めて悪かったね。おやすみ」
ファリファンは会釈をすると、その場から離れた。
石床を打ち鳴らすヒールで足をくじかないよう気をつけながら、廊下を突き進み隣の棟と繋がっている塔へと向かう。
ラムドに与えられた部屋――そこでしばらく過ごすのが日課となりつつあった。
「ラムドってば、何考えてるのよ!」
敷き詰めた藁にシーツを被せただけの寝台に突っ伏し、布を丸めただけの枕に顔を埋める。
沁み込んでいたラムドも消えつつあった。
自分のいる部屋とは、大違いのその場所であーでもない、こーでもないと考える。
(どうすれば、ラムドに会えるの?)
マルティネスに頼んだところで無駄だった。
だからといって、自分から会いに行くなど不可能だ。
第一、今どこにいるのかもわからない。
ファリファンは、腕にはめている金属の輪っかを撫でた。
青香石の部分を指先で何度も擦る。
強い絆を生む魔法――。
だが、魔法と呼ばれる類のものは、ほとんどが前文明の遺物による副産物だった。
この場所を守る魔法の壁――これが何なのかはわからないが、少なくとも王都を守っているのは遺物の恩恵で、代々王がそれを取り扱えるように設定されていた。
その血筋が続く限りは安定する――それを知らされている城下の市民は、だれ一人として反乱を企てるようなことはなかった。
「ここのことはよくわからないと先生もおっしゃってたけど――」
魔法の壁に守られるようになったのは、世継ぎであるマルティネスが誕生してからのことらしい。
遺物の恩恵ともいえる装置はあるにはあったが、作動しなくなることもしばしばだったようだ。
「つまり、ここだけは他とは違うってことよね」
ファリファンは身体を起こし、部屋の中をしばらく眺めてから出入り口のドアへと向かった。
「ラムドはマルティネスで、マルティネスはラムドなんだけれど、元々は一つで、前世でわたしが愛した人でもあるのよね」
ドアを開いてから再度、部屋の中をゆっくりと見つめる。
「本当は、ここの世継ぎなのに――こんな場所で寝起きしなきゃいけないなんて……」
嫌だっただろうな――と思い、深く反省する。
もっと早く、進言すべきだった。
離れててもいいから、同じ棟で同じように整えられた部屋で過ごせるように――。
ファリファンは、ドアを閉めた。
コツコツとヒールで石段を打ち鳴らしながら、螺旋状の階段を下っていく。
ラムドのことしか考えられなくなっていた。
どこまで下りたのか――。
気がつくと、そこは地下だった。
空気はひんやりと冷たく、壁に取り付けられたランプの灯りだけが点々と廊下を照らしている。
「こんなところがあったんだ……」
ファリファンは、何も考えずに奥へと進んだ。
ゴトッ――。
壁の向こう側で何か重い物が落ちるような音がした。
ファリファンが足を止める。
その瞬間――。
そこにあるはずの石床がなくなり、ぽっかりと口を開けていた。
「うわっ――」
闇を湛えた大穴に吸い込まれるように、ファリファンは真っ逆さまに落ちていった。
「ああぁぁぁあ――」
どこかにぶつかるというわけでもなく、真っ暗闇の中を猛烈な速度で落ちていく。
気を失いかけた頃になってようやく――。
「あっ――れ?」
いつの間にか、床らしき箇所に立っていた。
「えっ? えっ? なっ、何?」
周囲は、何もない広間のような場所で見上げれば天井はなく、夜空のように星々が浮かんでいる。
「ここ――どこ? それに、星? ってことは、外で夜なの?」
わけがわからず、口をぱっかりと開けて夜空から視線を外せずにいた。
空気が揺らいで風のようにファリファンの頬を撫でる。
視界に納まっている夜空が川の流れのように波打っている。
「なっ、何――」
歪んだ夜空――が分断されるかのように、そこに大きな獣の顔が現れた。
「ひぁあああ――!」
逃げようにも足がすくんで動けない。
夜空だと思って見上げていたそれは獣の毛並みだった。
そして、恐ろしく巨大な獣は――。
ブゥォォォォォ――。
ブオオォォォ――。
地の底から響いているかのような、金属音混じりの咆哮を上げた。