Ep⑦ 喧嘩別れの結果
授業を終え、図書室を出たファリファンをルダリが呼び止めた。
「旦那様が中庭でお待ちでございます」
「えっ?……あっ、はい……」
「ヴァルパネラス(銀紅花)が咲いたのでございますよ」
(どんな花……?)
首を傾げているファリファンに、ルダリが目尻にシワを寄せて微笑んだ。
「旦那様に愛されておりますのね。うらやましい限りでございますわ」
頬を赤らめ俯くファリファンにルダリが畳みかける。
「お子様のお誕生もそう遠くございませんわね。皆、それは楽しみにしておりますのよ」
まったく考えてもいなかったことに、身体にゾクリとした寒気が走る。
(夫婦になるって、そういうことなんだろうけれど……困る……困るわ……)
「あぁ、もちろん、わたくしめが責任をもって乳母をお引き受けさせていただきます」
ルダリがキリリッと表情を引き締める。
「いえ……あの……その……」
どうしよう――。
このままじゃあ、本当にマルティネスさんのお嫁さんになっちゃう。
ファリファンは青ざめるのと同時に、なんとか回避できないか黙々と考えながらルダリのあとについて中庭へと向かった。
「お疲れ様」
様々な花が咲き乱れる花壇の一角に立っていたマルティネスが微笑む。
「おいで、お茶にしよう」
クロスがかけられ円テーブルの上には、焼き菓子やケーキを盛りつけた皿が展開していた。
ファリファンの隣にマルティネスが腰かけた。
チラリと覚られないように顔を見て、すぐに視線をよそへと向ける。
子供の話しをされたことが頭の中から離れなかった。
わたしが赤ちゃんを産むなんて……。
意識すればするほど、手の置き場所すらどうしていいのかわからなくなるほど緊張してしまっていた。
「見てごらん。あれがヴァルパネラスだ」
マルティナスの瞳が示すその先には、深紅の大輪の花が咲いている。
茎も葉も系統の違う赤に染まり、斑模様を浮かび上がらせていた。
あまりの毒々しさに賛美の言葉が浮かんでこない。
ファリファンが困っていると、ルダリが紅色のお茶を淹れたカップをスゥッと静かにファリファンの前に置いた。
「ヴァルパネラスは、土中の重金属汚染を除去してくれるありがたい植物なんですよ」
ルダリが囁くように耳打ちする。
それを見ていたマルティネスが仲睦まじい姉妹の姿でも見ているかのように微笑んだ。
「汚染されていると、茎も葉も花も何もかもが銀色に変化するんだよ」
ファリファンには、重金属汚染がどんなものなのか見当もつかなかった。
「氷心症を生み出す原因にもなったんだ」
ルダリが深々とお辞儀をしてからその場を去る。
視線で見送り、いなくなったのを確認したマルティネスが話を続けた。
「我々人類は、前文明の生き残りだと言われている。天の星が落ちたことで空いた大きな穴の底ヴォストリアという永久凍結湖に逃げ込み文明を築いた」
永久凍結湖の分厚い氷の下に広がる広大な空間が今、崩壊しつつあるのは必然だったのではないかとファリファンは、ふと思った。
同じ過ちを繰り返しているのではないか――。
「ファリファン?」
己の中に引き篭り、上の空だったファリファンが我に返る。
「どうかした?」
「教えてください。わたしは、世界を救う為に何をすればいいんですか?」
マルティネスの顔が無表情になる。
瞳の奥は、驚くほど冷たい輝きを放っていた。
「キミひとりで背負うことはないんだ」
けれども、ファリファンは首を横に振った。
「いいえ。大丈夫です」
他のだれかを巻き込むつもりはなかった。
「キミは、本当に優しい子だね」
マルティネスの言葉が妙に引っかかる。
優しい――?
だれに対してなのだろう。
心を読み取ったかのように、マルティネスが目を細めて形のよい唇を引き上げた。
顔に張り付いているかのような作られた笑み――。
ファリファンは不気味さを覚え、身体を硬直させた。
「己の身を犠牲にすることも厭わない。生きることに精一杯で他人のことなど思いやる余裕などないはずなのに――」
マルティネスは緩やかに流れるファリファンの髪を一束掌で救い上げ、そこにそっと唇を落した。
「それは違います。わたし――」
「――ならば、自分なんかいない方がいいって思ってるのかな?」
ズバリと言い当てられ、ファリファンは顔をそむけた。
視線が痛い――。
「わたしの妻になる気など最初からない」
ファリファンは、マルティネスを捉えると首を強く横に振った。
「わたしの話しを聞いていなかったようだね。ヴァルパネラス、これはね――かつて、キミが愛する者の為に創った花なんだよ」
その言葉の意味は、前世を指していた。
「誓いの花だったんだ。花言葉は、永遠の愛」
ファリファンは、目の前にいる男がラムドの身体の持ち主という関係だけではないことに気がついた。
「本当は、ラムドとはどういう関係なんですか?」
マルティネスが椅子を後ろに引いて腰を上げる。
ファリファンの手を取り、導くように立ち上がらせる。
「できることなら、自分で思い出して欲しかった……」
ファリファンの腰に腕を回し、引き寄せる。
「愛してる。前世のキミが愛しくれたように――そして、約束は必ず果たすよ」
ファリファンの後頭部を抱えて右肩の少し下辺りに頬を埋めさせる。
「どういうこと……です……か……なぜ……?」
「ラムドもわたしも元はひとつだったんだ」
岩のようにずっしりと重い言葉だった。
「一つの身体の中に二つの人格が存在していたんだ。しかし、片方はすぐに別の場所で生まれた肉体に引き込まれた。それがラムドの肉体だ。けれども心だけは繋がっていたからマルティネスの身体が体感していることはすべてわたしの中に記憶として残された」
――わたしを否定することは、即ちラムドを否定することにもなる――
(あぁ……このことだったのね……)
ファリファンは、下唇をキュッと噛んだ。
でも、ラムド本人に記憶がないのはなぜだろう。
マルティネスがすぐに答える。
「本人がキミと向き合うのを避けているからさ。入れ替わったのも、この身体から逃げることですべてをなかったことにしたかったんだろう」
本当に、そうなのだろうか。
ファリファンは、にわかには信じられなかった。
「ラムドは、あの人は今どこに――」
「いないよ」
「えっ?」
「出て行った」
追い打ちをかけるかのように、マルティナスは両肩をすくめた。
「止めたんだが、聞こうともしなかったよ」
口元を手で覆い隠し、身体を小刻みに震わせているファリファンを気遣うとうに、再度抱きしめる。
「もう、忘れてしまいなさい」
いなくなったという事実が受け入れられなかった。
そんなはずはない。
ファリファンは、遠のきそうになる意識を手放すまいと、何度も深呼吸を繰り返した。