Ep⑥ 喧嘩別れ
ラムドと言葉を交わせないまま、さらに数日が経過した。
焦りばかりが募っていく。
常に目の届く範囲にいるその姿を確認するのが日課になりつつあった。
そして、別のことも同じく――。
勉強である。
学問は必要だからと、マルティネスがファリファンに家庭教師をつけたのだ。
けれども、学校が閉鎖されてからずいぶんと久しく、教わるその内容を理解するのは非常に困難だった。
だから、マルティネスとの予習は絶対だった。
「ファリファン、集中しなさい」
マルティネスが鼻から息を押し出して、パタンと教科書を閉じた。
ファリファンが集中できない理由、それは――。
図書室に魔法に関する本が一冊もないことにあった。
魔法の壁に守られていながら――である。
取り扱い説明書ともいえるそれがないのは、おかしい。
(別のところに保管してあるのかしら)
「ファリファン、少し休憩しよう」
マルティネスの言葉に従い、石造りの渡り廊下へと出たファリファンは中庭を眺めた。
ほどよい風が木々や草花を揺らしている。
花蜜の甘い香りがそこら中に漂っていた。
荒廃した外の世界とは無縁の豊かさしかない平和な空間だった。
(世界を救う為に、わたしは何をすればいいの?)
マルティネスは、あれから一度もそのことについて話そうとはしなかった。
勉強中は、それ以外のことを聞けるような雰囲気ではない。
魔法と何か関係あるのではないかと考えたのだが、手掛かりすら見つけられなかった。
「婚約者……だけど、本当はラムドの身体の持ち主で、お兄ちゃんなのよね」
困ったことになったと、ファリファンは溜息を吐いた。
ドレスの裾を踏まないように軽く引き上げて、石造りの渡り廊下を進む。
踵を打ちつける小気味の良い音がその空間に鳴り響いていた。
「考えが読めないから、どうしたらいいのかわからないわ」
自分は何を求められているのだろう――。
「ブス」
少し離れたところの壁に寄りかかるようにして立っているラムドの表情は硬く、よそよそしい空気を纏わりつかせていた。
「また、無表情になってるぞ」
「ラム――」
そう言いかけて、中断させてしまう。
マルティネス――。
そうだとわかっても、不思議と恐怖を感じない。
憎しみすら浮かんでこなかった。
「笑えよ。それとも――」
大股で、しかも力強い歩調でやってくるとファリファンを壁際へと追い立てた。
「俺じゃなくて、アイツだったら笑うのか?」
ファリファンの顔のすぐ横の壁を打つ勢いで腕を突く。
「なぜ避ける」
怒りで瞳の奥が膨らみ、冷たい輝きを放っている。
眼の縁を引き締めて鋭くさせていた。
ファリファンは怖くなり、反射的に身を固く縮こまらせた。
「さっ、さっ、避けてなんか……避けてなんか……」
「俺がマルティネスだからか?」
「ちっ、違う……わ……」
「あんな奴と一緒に寝やがって!」
「しょうがないでしょ! でないと、牢から出してもらえなかったんだから!」
本当はイヤなのに!
言葉にこそ出さなかったが、気持ちを顔で表した。
睨みつけるように見返し、両肩に力を入れて身体をフルフルと震わせる。
異性と寝台を同じとする恥ずかしさで耳朶までが熱を持ち始めていた。
「ファリファン……」
ラムドの顔が苦痛を感じているかのように歪む。
「どうしたらいいのか……わからないの……マルティネスさんの言う通りだもの……ここを出ても生きていけない……」
「ここにいても、世界は終わるんだ」
ファリファンは、溢れる涙を手で拭った。
「世界を……ヒック……ヒック、救うことができるって……言ってたわ……ンッ……ヒック……」
所々しゃくりながら、鼻をズズッとすすり上げる。
「信じるなよ、そんなこと――」
「他にもここと同じような場所があるって言ってたもの……それは、同じように魔法が効いているってことなんでしょ? だったら、希望はあるかもしれないじゃない」
「そんなものはない! ここを出よう! こんなところにいちゃだめだ!」
ファリファンの手首を掴んだラムドが引っ張るようにして歩き始める。
「ちょっ、ちょっと!」
「ファリファン、今度こそ幸せになろう」
「えっ?」
「イヤか? 俺のことが嫌いか?」
「ちょっと、待って――」
ファリファンが足を踏ん張り、その場に踏みとどまる。
掴むラムドの手を振り解いた。
「ねぇ? 今度こそってどういう意味?」
進行方向を向いたまま立ち止まっているラムドが手を強く握りしめ、拳を作る。
「王都でちゃんと手続きをして、それからよその土地で暮らそう」
「よその土地って、どこ?」
「隣の国か国境沿いの谷か――。夜空の星が眺められる高い場所が近くにあった方がいいだろう」
「お兄ちゃん……」
途端、振り返ったラムドの顔が今にも泣きそうな表情を浮かべる。
「やめてくれ……俺は違う……」
「どうして? どうして、何も教えてくれないの?」
心許した相手だからこそ、本当のことが知りたい。
――が、ラムドはそれ以上何も言おうとはしなかった。
ファリファンの心は、肝心なことを告げられなかったことへの苛立ちで荒ぶりが頂点に達しようとしていた。
ラムドが俯き、首を横に振る。
「バカバカバカ! ラムドの大バカ! 嫌いよ!」
ファリファンは、背を向けてその場から走り去った。
(一緒に世界を救う方法を考えて欲しかったのに!)
ずいぶんと走ったところで、ようやく足を止めた。
あることに気がつく。
「身体が入れ替わる前のこと……記憶がないって言ってた……」
肝心なことを忘れていたのは自分の方だった!
後悔と申し訳なさに駆られ、戻ろうと身体の向きを変える。
――が、そうはしなかった。
いや、できなかった。
「きっと……怒ってるわよね……嫌いって言ったから……お兄ちゃんって呼んだから……」
ファリファンは、その場にしゃがみ込んだ。
頭を抱え込む。
(どうしよう――)
「そんなところで何をしているんだい?」
「マルティネスさん……」
「もしかして、泣いてた? 目の端が少し赤い」
ファリファンは、正面に立ち、心配そうな顔をしているマルティネスに向かって無言のまま首を横に振った。
「ラムドだね? あいつ――」
「いえっ、違うの! そうじゃなくて――」
「キミと向き合おうとしないクズなんか庇うことはない」
怒りを滲ませるマルティネスの腕を掴んで身体を押しつけた。
「違うの、違うの! わたしがいけないの!」
「ファリファン――」
マルティネスが掴んでいるファリファンの手をそっと剥がす。
両肩を掴んで身体を後ろへと優しく押し退けた。
マルティネスの頬がわずかにピンク色に染まっている。
視線から逃れるように顔をそむけて咳払いをした。
「落ち着きなさい。まったく、キミという人は、自分というものがわかっていないんだね」
言われていることが、わからない。
何かいけないことでもしたのだろうか。
「授業が始まるよ。図書室へ行きなさい。先生がお待ちだ」
「はい……」
「勉強が終わったら、ちゃんと、知りたいことを教えてあげるから」
「えっ、あの――」
「魔法のことが聞きたいんじゃないの? 図書室で探していたのはその本だろう?」
マルティネスがファリファンの手を取り、自らの肘に掛けさせる。
「レディは、むやみやたらと抱きついちゃダメだ。理性が吹き飛びそうになったよ」
しでかしたことがあまりにも大胆であったことを気づかされ、ファリファンは顔を羞恥の色に染まらせた。
「20歳になるまでは待つ――というのが約束だからね」
マルティネスは悪戯っぽく微笑んでから、片方の瞼だけを軽く弾くように瞬きさせた。
(うぅ……どうしよう……)
「無理に笑ってとは言わないけれど、せめて、その泣きそうな顔だけは……」
(だって……たって……)
「まるで嫌がる若い娘を無理矢理嫁にしようとしている年寄りみたいじゃないか」
マルティナスが「はははっ」と、乾いた声で寂しそうに笑う。
「世界を救うことができたら~に変更してもいいですか?」
目を見開いているマルティネスを見上げ、浅く笑みを浮かべる。
「世界を救いたいんです」
ファリファンは、マルティネスと共に図書室へと向かった。