Ep⑤ 戸惑う心
気を失ったファリファンが目覚めたとき、横たわるベッドの脇にいたのは、マルティネスだった。
「大丈夫ですか? 極度の栄養失調だそうです」
「すみません、兄はどこですか?」
なんとなく予想できてはいたが、聞かずにはいられない。
身体を起こし、マルティネスの淡いブルグレーの瞳を覗き込んだ。
「牢にぶち込んであります。性懲りもなくあなたを連れ出そうとしましたからね」
「兄は、わたしの元を訪れただけです」
「でも、ここから出ていこうとしたでしょう?」
「それは、わたしの意思です」
「ファリファン、あなたも16になったのだから、少しは冷静になりなさい。今、ここを出ていっても生きていくことなどできません」
「わたし達だけ生き残ったところで――」
「いいえ、それは違いますよ。ここと似たような場所は他にもあります。あなたは知らないだけです」
とにかくラムドを牢から出してもらう必要があった。
ファリファンは、頭を下げて懇願した。
「えぇ、あなたが逃げないと約束したらね」
頷くしかない。
ラムドは反対するに違いないけれど――。
「それと、あなたは今度からわたしの部屋で寝なさい」
「はい?」
「もちろん、ベッドは一緒です」
「それは、ムリです!」
絶対イヤだ。
ファリファンは、頭をブンブンと激しく振って拒絶した。
「あなたは、わたしの婚約者だ。その証を立ててもらわなくては」
「いいえ、それはできません。大人になるまで――せめて20歳になるまで待ってください!」
マルティネスは、食い入るようにファリファンを見つめた後、顔を下げて目頭を指先でつまんでから、「はぁっ」と大げさなまでに溜息を吐いた。
「あなたは、わたしをいくつだと思っているんです?」
「えっと……」
「30ですよ」
「……」
「その態度には、ちょっと傷つきますね」
「すみません」
しかし、あまりの年齢差にどういうリアクションを取っていいのかわからなかった。
「16年前、わたしが生まれたときに祝い事をされて部屋まで用意されたそうですが、それはあなたが?」
「わたしは14歳、いえ、正確には、この身体が――ですが。跡継ぎといえど父には逆らえない子供です。それに、そのときわたしは違う人間だった」
「違う人間? それは――入れ替わる前だったということですか?」
「えぇ。わたしはラムドでした。ドゥライド家の伝承に従って当主がしたことです」
ファリファンは、なぜそこまで自分が望まれているのか不思議に思った。
前世と何か関係があるのだろうか。
「そんなことよりも、先ほどの話しですが――」
マルティネスが眉尻を上に跳ね上げ、少し呆れているかのような顔をする。
「なんと思われているのか想像はつきますが、わたしはこれでも己の欲望はちゃんとコントロールできる人間です。あなたに無体なマネなどしませんよ」
無体なマネ――と言われて、ファリファンが頬を赤らめる。
「いっ、いえ――その――その……」
「寝室が一緒――つまり、周囲からは夫婦とみなされます。それだけでいいんですよ。使用人達は、あなたをそのように扱うでしょう。ラムドも不用意に手出しできなくなる」
「てっ、てっ、手出しって――」
血の繋がりがなくとも兄という存在だ。
少なくとも、世間的にはそれで通しているのだから、恋人でもなければそれを前提とした男女でもない。
マルティネスが視線を天井へと向けた。
「ここまでくると、ちょっとさすがにあの男が気の毒になってくるな」
顔を真っ赤にさせ、ファリファンが掛け布団の端を掴んで胸元まで引き上げる。
「そっ、そう言われても――こっ、こっ、困ります……」
布団の端で顔を覆い隠した。
「気の毒だけれどね、ファリファン。よく考えてみたかい? さっきも言ったけれど、本来のラムドはわたしなんだ。そして、この身体の持ち主は、彼だ。前世できみを殺したのはだれだったかな?」
急に口調が変わる。
年長者らしい言葉遣いだ。
ファリファンが顔から布団の端を引き剥がす。
「それは、あなたです」
感情を殺さなければならなくなるほどの哀しみと恨み。
憎しみは、簡単には消えない。
なのに、その男を目の前にしても何かをしようという気にはなれない。
「確かに、マルティネスだ。だが、さっきも言ったが、わたしは違う身体にいた。この身体の本来の持ち主じゃない」
ファリファンは、あっ――と声を上げそうになるのをグッと堪えた。
そうだった……この人は、ラムドの身体の持ち主だ。
「でも、でも――どういうことですか? ラムドが――わたしを殺したと?」
「正確には、マルティネスだ。けれども、そう単純なことではないんだ」
「わからない! どうして? そんなはずないわ!」
声は強く、甲高くなっていた。
「落ち着きなさい。すべての記憶を思い出しているわけではないだろう?」
「そうですけど……」
「ファリファン、この世界を救えるのがキミだけだとしたら、どうする?」
世界を救う――その言葉の重みがイマイチつかみきれない。
どういうこと?
「前世で死んだ理由、そして我々が入れ替わった理由、すべては今のこの世界を救う為だとしたら?」
「世界が終わるのを止められるということですか?」
「キミが望むのなら」
この人は悲惨な状況を星が篩いにかけていると言ったのに、なぜ?
強い者のみが生き残る。
そして、天空の向こう側の世界へ進出するとまで言っていたのに――。
「あなたのことが好きだからですよ」
マルティネスが優雅に微笑んだ。
「あなたと生きていけるのなら、他はどうでもいいんだが、心を得る為なら仕方がないよね」
パチンとウィンクをした。
(えっ――そこ? そんないい加減な理由?)
今度は、ファリファンの方が呆れる番だった。
それから二日後、寝室を同じにすることを承諾したことでラムドは、牢から解放され離れの塔に部屋を与えられた。
ファリファンはイヤだったが、マルティネスは紳士的な態度を崩さず、大きなベッドの中でも端の方で寝ていた。
緊張で寝付けないファリファンを気遣い、毛布や布団を筒状に丸めて間に渡すと、背を向けて布団をすっぽりと被るのだった。
執務や騎士団の訓練のとき以外は、ファリファンと時間を過ごし、時には緑豊かな庭へ連れ出すこともあった。
魔法の壁に覆われた空間は、太陽の強い日差しが緩和され、心地よい陽気へと変化していた。
外の様子とはまるっきり違う場所で過ごす罪悪感を抱えながらも、楽しませようとするマルティネスの好意を受け入れ、極力無表情でいるのは避けようと努力した。
「いい加減、無粋なマネはやめたらどうだ?」
マルティネスが正面にいるラムドを睨みつけた。
壁一面、本に埋もれた図書室の端で火花を散らす二人を眺めながら、ファリファンは抱えた本を台の上に下ろした。
牢から解放されてから一度もラムドと言葉を交わしていない。
避けているわけではなかったが、何を話したらいいのかわからず、自然と距離をおいてしまっていた。
(前世でわたしを殺した人――愛した人――それが彼――)
ファリファンは、左の手首にはめた腕輪を反対側の手でなぞった。
気が遠くなるほど大昔から持っていた――彼はそう言っていた。
(大切な物をくれたのに……でも、わたし、どうしたらいいのかわからない……)
思えば思うほど、苦しくなるのだった。