Ep③ 告白――そして、婚約者
「笑えよ」
「ムリ」
「ほらっ、やってみろって」
「笑えない」
夜の闇は引き始めていた。
天上を飾っていた宝石のような輝きは、遥か彼方へと遠のいたのか、すでに姿はない。
すでに村を抜けて、ずいぶんと遠くまで来ていた。
二人とも歩き疲れたのか、足取りは重い。
けれども、ラムドはそういう状態にあっても明るく振る舞っていた。
懸命にファリファンを笑わせようとしている。
己のズボンのウエストに手をかけた。
「尻踊りをしてやろう」
「ちょっと、やめてよ」
ファリファンは汚物でも見るかのような目で、ラムドの下半身へと視軸を下げた。
「待て待て。その目はやめろ。男として傷つく」
「女子に向かって尻を出すなんて、あり得ない」
ラムドがウエスト部分に引っ掛けた指を抜いた。
「男の尻を見たことないのか?」
「当たり前でしょ」
「経験値は上げといた方がいい」
そう言うと、身をひるがえすようにくるりと向きを変えて尻を突き出すような恰好をする。
ガバッと、勢いよくズボンを引き下げた。
「ギャーッ!!」
自分でもびっくりするほど、突き抜けるような勢いのある声だった。
ファリファンは、両手で顔を覆い隠してその場にしゃがみ込んだ。
(バカバカバカ! ラムドのバカ!)
見なかったことにしたい。
ファリファンは両目をきつく閉じて、脳内に収められている衝撃的な映像を忘れようとした。
「やればできるじゃん」
「はぁ?」
覆っていた両手をどけると、こみ上げてくる沸々とした熱量のある感情を顔に出して視線を鋭くさせた。
「ちゃんと、怒ってますって顔になってる」
ファリファンは、してやられた――と、今度は呆れたような顔をした。
「もう、偽る必要なんてないんだ」
ファリファンが下唇を軽く噛んでキュッと締める。
家族の為についた嘘――。
いや、それは違う。
そうじゃない。
ラムドは、何もわかってない。
感情を取り戻すのは、危険だということを理解していない。
わたしは、何をしでかすかわからない。
前世の記憶からくる衝動は、抑えられないのに――。
「そろそろ朝ご飯にしよう」
完全に太陽が現れたら、どこかへ身を潜めていなければならない。
まずは、その場所を確保するのが先だ。
「ここで休憩を取るのは危険だわ。すぐに日が昇るもの」
「この先の渓谷がある。そこなら大丈夫だし、ここからすぐだ」
「それなら、早くそこへ行きましょうよ」
ラムドがリュックの中から取り出した大きな石ころサイズのビスケットをスライスするかのように割り開き、片方をファリファンへと差し出す。
リュックを背負ったまま道の脇に腰を下ろすと、自分の分を小さく割って欠片を口の中へ放り込んだ。
「慌てなくていいって。闇が引きかけているあの天上、きれいだと思わないか?」
ファリファンは顎で示されたそこを一瞥するが、すぐに視線を戻した。
悠長なことをしている間はない。
太陽が照らす陽で上昇した気温は、地上に存在しているすべてのものから水分を奪っていくのだ。
渇いた土から出さえも搾り取り、サラサラの砂へと変えてしまうほどの熱さ。
人間などあっという間に干物になってしまう。
けれども、せかしたところで逆効果になるのはわかっていた。
ラムドは頑固だ。
さっさと食事を済ませてしまった方がいい。
「あの……わたし、こんなにいらない」
渡されたビスケットをラムドへと差し返した。
パンの代わりに配給される主食で、しっとりと湿り食感はもったりとしている。
ビスケット一つが一日分で、一人につき七日分配給されていた。
それを二人で分ける――偶人認定を受けているファリファンの配給分はないからだ。
それだけではない。
身重のリーアムにも分けていた。
「お前は成長期なんだから、しっかり食べろ」
「必要以上に摂取しても横に広がるだけだわ」
「貧乳のくせに」
「はあああぁい?」
「ど・貧乳」
どうしてこんなに煽ってくるのだろうか、この男は。
感情を抑えようと息を止め、握る拳に力をこめる。
「怒りを静めたいときは、笑うといいぞ」
「笑いません――っていうか、ぜっんぜん、笑えない」
ファリファンは、ラムドの隣に腰を下ろした。
「これからどうするの? どこへ向かっているの?」
「王都だ。あそこの役所へ行く」
「王都? 何しに? ずいぶんと遠いわ」
「偶人認定を取り下げる手続きをする」
ファリファンは言葉が出てこなかった。
ビスケットを持ったまま、俯く。
「よその土地で一緒に暮らそう」
顔を上げて視線をラムドへ向ける。
辺りが光を含んで枯れ色を鮮やかにさせているのと同じように、その瞳もまた、青々とした際立ちを取り戻し始めていた。
ラムドが腰ベルトから外した腕輪を前に出す。
「左腕、出して」
「ラムド? それ――」
「世界が終わりを告げてからも一緒にいられるように、迷子にならないようにするんだ」
「大切な物なんでしょう?」
腕輪がファリファンの左手首に装着される。
前面に彫りを施されたそれは、中央に一粒の青い石を抱いていた。
青香石と呼ばれる貴重な宝石だった。
水を含んだような清々しい香りを纏い、持つ者に強い絆と結びつきを与える魔力を秘めている。
だが、それを引き出せる者は滅多にいない。
自分も同じだろう――とファリファンは思った。
「受け取れない。これを扱えるちゃんとした人、もしくは、ラムドがこれから会うであろう未来の大切な人に渡してあげて」
「今、目の前にいる人が俺にとって命より大切な人で、俺の未来だ」
言葉が心にしみ渡っていく。
ファリファンの胸の奥で凝り固まっている何かに揺さぶりをかけた。
こみ上げてくる感情は、覚えのあるものだった。
怒りではない別の感情――哀しみだ。
なぜ、哀しいのかはわからない。
食い込んだ爪が肉を引き裂いていくかのような、痛みを伴う辛さ。
――なぜだろう。
「ファリファンがお母さんになったら、子供は母親似なんだろうな」
それは、迎えることなどできない未来の話しだった。
哀しいと思う原因は、未来。
迎えられない未来への思慕がそうさせている。
ファリファンは、それと同時に怒りも感じていた。
ラムドが悪いわけではないのは、わかっている。
でも、抑えられない。
「何もわかってないわ。わたしは、感情を殺していないと何をしでかすかわからないのよ?」
「俺は、お前が羨ましいよ。前世の記憶まであるんだからな。俺には、過去の記憶なんてないんだ」
「どういうこと?」
「俺は、ラムドじゃない。身体は別のところにあって、その中に本物のラムドがいる」
どこからどう見てもラムドで初めて会った頃と何も変わっていない。
ファリファンには訳がわからなかった。
「ある日、目が覚めたら父親という男が再婚すると言い出して、妹ができた。別の身体にいた別の人間だとわかってはいるが、そうだった頃の記憶がまったくない」
「ラムドじゃないなら……だれ?」
――しかし、答えない。
水筒の水を飲んでから、腰を上げる。
「今まで通り、ラムドと呼んでくれ。この身体はラムドなんだから」
確かに、その通りだ。
別の名前で呼んで欲しいと言われたら、それこそ困る。
ならば、これ以上は聞かない方がいいのかもしれない。
ファリファンも腰を上げた。
渓谷を目指して歩き始める。
だが、そこへ向かっていたのはファリファン達だけではなかった。
だだっ広い荒野の果てから豆粒サイズほどだった距離にいた男達は、狙いを定めたかのように馬で向かってきた。
「おぉ~? ちょうどいいときに出くわしたわい」
盗んだ物で身を固めたとすぐにわかる格好だ。
上等なものからボロボロのものまで、そして騎士でなければ持てない剣まで腰に下げている。
盗賊団だった。
どの顔も狡猾そうで見るからに悪党だ。
ファリファンは、すぐに無表情になった。
反射的で身を守る手段のひとつだ。
――が、イジメる側相手ではないから通用しない可能性の方が高い。
ファリファンを背に庇うラムドが盗賊の頭と思しき相手を睨んでいる。
「通行料を渡せ。そうしたら、命だけは助けてやらぁ」
「お頭、その女は偶人なんじゃねぇですか? 高く売れますぜ」
「おぉ、そうだな、偶人は引く手あまただ。今や宝石より希少だからな」
「俺達よりもずっと長生きするらしいじゃないですか。どっかでは、その血肉から薬を作るらしいですぜ」
「いやいや、食糧代わりになるって聞きやしたぜ、お頭」
口々に好き勝手なことを言っている。
どれも嘘くさい話しばかりだ。
「女も置いてけや! 兄ちゃん」
万事休すだった。
ラムドが持っている武器は短剣のみ。
しかもたった一人で大勢とは戦えない。
「ラムド……わたし……」
「黙ってろ、ファリファン。必ず守る!」
ラムドの命が助かるのなら、あちらへ行く――と言うつもりだったのだが――。
一本の矢が盗賊の頭の頬を掠め飛ぶ。
「うぉ?!」
「大人しくしろ! 我々は、ヴェルヘム王宮騎士団だ!」
「やべぇ、お頭ぁ!」
三々五々に散ろうとしている盗賊達が次々に捕まえられていく。
ファリファンもラムドも呆気にとられて見ていた。
「そこにいるのはラムドではないか」
地面を打つ蹄の音。
素晴らしく均整の取れた体格のいい栗毛の馬に乗っている男がニヤッと皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「マルティネス!」
顔見知りらしい。
ファリファンは、ラムドの背中から相手を窺う。
漆黒の長髪を後ろで束ね、白銀の鎧で身を固めた屈強な身体の男は、ファリファンへと視線を移した。
「やぁ、婚約者殿」
そう呼ばれて、相手がドゥライド家の人間で婚約を結んだ男だと気がついた。
(ラムド、その人と知り合いだったの?)
「マルティネス――追いかけてきたのか」
「聞くまでもないことだと思うが? ラムド、ファリファンの兄として今回だけは見逃してやろう」
「彼女は渡さない!」
「安心しろ。当主の老いぼれは死んだ。薬目的で利用するつもりなど、さらさらない」
「死んだ……だと?」
「さぁ、わたしのファリファン。帰りましょう」
どういうことなのだろうか。
ファリファンは、ラムドの背中にしがみついた。
怖い――怖い……。
これから先、何が起ころうとしているのか――。
世界が終わるとわかっていることよりも、今のこの状況が導く不明な未来の方が怖い。
なぜだろう。
マルティネス・ドゥライド――。
彼が怖い。
ファリファンは、あぶく心臓を懸命になだめた。




