Ep② 旅立つ二人
ファリファンは、胸を高鳴らせたまま家路についた。
村の外れにファリファンとラムドが住むボロ屋はあった。
「父さんっ⁈」
ラムドの声に、戸の前に立っていた大柄な男が振り返った。
短裾のチュニックに薄汚れた同色のズボン、腰ベルトに短剣をぶら下げている。
ラムドの父・モルワだった。
「お前達っ、こんな時間までどこへ行っていたんだ!」
左の眉尻に残った傷跡――敵国の兵と戦った際に受けたものらしい。
乱雑に切りそろえた白髪が齢を実年齢以上に盛っていた。
「公休日だからな。ピクニックだよ、ピクニック!」
「ラムド! こんな夜更けまで女の子を――何考えているんだ!」
「うるせーなぁ……」
さっさと中へ入るラムドを追いかけるようにして、モルワが続く。
ファリファンは二人のやり取りに背を向け、錆びた金具に手をかけると静かに戸を閉めた。
「お父さん、ごめんなさい」
ファリファンは、ワザと棒読みなセリフを吐いた。
それが偶人の特徴的なしゃべり方だった。
「いや、いいんだ。お前が悪いわけじゃないよ」
「でも、最後の海を見たいと言ったのはわたしです」
「あぁ……あそこか……」
「はい。あそこです」
声の調子は変えずに、無表情であることを心がけた。
「父さん、何しに来たんだ。リ-アムさんは?」
ラムドがテーブル前の椅子へ乱暴に腰かける。
「ファリファン、お茶を淹れてきてくれないか」
「はい、わかりました。お父さん」
ファリファンは、戸口横の釜へと向かった。
ラムドがなぜ、リーアムさんと呼ぶのかは知っていた。
そして、大人達がなぜ再婚したのかも――。
「父さん、もう俺達のことは放っておいてくれ」
「何をバカなことを! 家族で協力し合わないと生きていけない時代なんだぞ!」
「その犠牲を子供に負わせるつもりなのか?」
「犠牲だと?」
ファリファンは気づかれないように注意を払いながら、少しだけ身体の位置をずらして背後の様子を窺った。
肉厚な背中を見てはっきりとわかるほど硬直させている。
背もたれに両腕を引っ掛け、足を組んで偉そうにふんぞり返っているラムドを睨んでいた。
「食料を得る為に子供を作ったんだろ? その為の再婚だよな? ファリファンを氷心症と偽らせているのは、薬を得る為だろ?」
「お前、なんてことを――」
「事実だろ。このご時世だもんな。利用できるものは利用しないと――ってことだろ?」
モルワが殴るのは、時間の問題だった。
ファリファンは、ぬるい湯に茶葉をひとつまみだけ浮かせたコップを大急ぎで運んだ。
「どうぞ」
「あっ、あぁ……すまない……」
その声は低く、弱々しかった。
それは、なんに対する謝罪なのか。
ラムドの指摘どおりだ。
子供を守るのではなく、利用する側にいる大人達。
世界は間もなく終わりを告げる。
星々は、最後の悪あがきを見て嘆き悲しんでいるのだろう。
ファリファンは、ラムドへと視線を向けた。
「お兄ちゃん、お父さんにこの間もらったお粉を渡してもいいですか?」
ラムドが働く鉱山で配られたものだった。
野麦を挽いた粉は水で練って発酵させ、焼くとパンになる。
だが、最近は滅多に配られることはなくなっていた。
「わたしもお兄ちゃんもパンを上手に作れない」
発酵させ過ぎても膨らまず、焼き加減も経験を要するが故に難しかった。
「すまない、ファリファン」
「お父さん、これはお兄ちゃんのです」
だが、モルワはラムドを見ようとはしなかった。
「ファリファン、実は、今日はいい話を持ってきたんだ」
ごく少量の食材をしまってある棚から粉の入った布袋を持ってきたファリファンへ、これ以上ないくらいの笑みを向ける。
目尻のシワと一体化した一本線の波打つ両目のわずかな隙間からラムドと同じ色の瞳が覗いていた。
「正式に婚約が決まったよ。おめでとう!」
そう聞かされても、だれの婚約なのかわからない。
ファリファンは、無表情のままモルワの顔を見つめていた。
「あぁ、ファリファン。お前のだよ。お前の婚約者は、名のあるお方で――」
バーンとテーブルが叩かれる。
目を大きく見開き、身体を怒りで震わせたラムドが立っていた。
椅子は背もたれを床にしてひっくり返っている。
「勝手に決めるな!」
「これはファリファンのことを考えて――」
「ふざけるな! いい加減にしろ!」
モルワがラムドの肘を掴んで引き寄せた。
くわっと目を見開いて顔を突き合わせている。
「いいか、よく聞け。ファリファンのような者は、死ぬまで独り身なのが普通だ。それをあのお方は――ドゥライド家は、快く嫁に迎えてくださるというんだぞ」
「ドゥライド家だって? 当主は老いぼれで死にかけてるって話じゃないか! どうせ、薬の配給目当てなんだろう!」
「例え、そうだとしても、食い物には困らない。それに我々にも恵んでくださるとお約束してくださった!」
「リーアムさんは、知っているのか?」
「もちろんだ。喜んでくれている」
ラムドがチッと舌打ちをする。
「どいつもこいつもクソだな」
ファリファンは、無表情でその様子を眺めていた。
その場にいないかのように、気配を殺すことに専念する。
自分がだれかと結婚するなど、考えもしなかったことだった。
ラムドと二人だけの生活が永遠に続かなくても、父と母、そして生まれたばかりの赤ん坊が加わる日がくる。
暮らし向きは大変だけれど、賑やかになるに違いない。
けれども、その中に自分はいないのだ。
いや、いない方がいい。
いてはいけないのだ。
「お父さん、お母さんのお腹にいる赤ちゃんは、いつ生まれますか?」
ファリファンの存在を思い出したかのように我に返ったモルワが、顔の皮をヒクつかせる。
「あっ、うっ、ううん……もうすぐ……だ……たぶん、二、三日中には生まれるだろう」
「そうですか。わかりました。わたしは、その婚約者の方のところへ行けばいいのですか?」
世界が壊滅的な状況になってからは、婚約が成立するのと同時に一緒に暮らすのが主流になっていた。
「そっ、そう……そうだ……先方は、できるだけ早くと――」
「ファリファン! そんなふざけた話――」
「お兄ちゃん。わたし、婚約者の人のところへ行きます」
ラムドの顔は青ざめていた。
ファリファンは、無表情を装うのが難しくなっていた。
胸の奥のさらに奥深い場所がキュウッと締め付けられていく。
(あぁ、何? この感じ……前世の記憶と似たような、でも少し違うこの感じは、何?)
モルワは意気揚々とした様子でリーアムが待つ疎開地へと帰っていった。
ファリファンが着替えを済ませ、一間の端に置いたベッドに入ったのは、夜が明ける数時間前だった。
反対側の壁際に置かれたもう一つのベッドがラムドの寝床なのだが、姿はない。
上体を起こして目を凝らすと、薄暗い中にラムドが立っていた。
「どうしたの? 寝ないの?」
「ファリファン、本当にここを出ていくのか?」
目が慣れてくると、ラムドの格好がわかった。
背負ったリュック括り付けてあるのは、毛布だ。
水筒までぶら下がっている。
「遠くへ出かけるの?」
「俺は出ていくよ」
「えっ? どうして? なんで?」
「お前がいなくなるなら、ここにいても意味がない」
ファリファンはラムドの元へ駆け寄った。
「待ってよ。そんなのダメ。お父さんもお母さんも――それに赤ちゃんだって――」
「ちゃんと、赤ん坊の分も含めた配給があるから欲をかかなければ大丈夫だ」
「でも……」
「俺は行くよ」
戸口へと向かおうとするラムドの腰に縋りつく。
行かないで――。
ラムドは腹に回されたファリファンの手に自らの手を重ね合わせた。
「それとも――俺と一緒に来るか?」
「一緒に?」
まだ、離れたくない。
いつか、そのときが来るのだとしても、まだ一緒にいたい。
「うん……行く……」
世界が終わるときがくるけれども、まだだ。
星が啼く夜空の下を一緒に歩いていきたい。
ファリファンは、恐る恐る身体を離した。
「ラムド……連れてって……」
陽が昇らないうちに、二人は家を出た。