Ep① 淡く染まる心
帰る道すがら――。
辺りはすっかり闇に呑まれて、足元もまともに見えない。
「怖いか?」
ファリファンは、繋いでいるラムドの手を握り返した。
「お兄ちゃん、怖いの?」
「俺は、男だぞ」
「大丈夫だよ、わたしがいるからね」
「いや、そうじゃなくて――」
ラムドが気遣ってくれているのはわかっていた。
しかし、なんと答えたらいいのか――。
「ファリファン、本当に怖くないのか?」
心がない――いや、何も感じまいとしている者に、あえてそれを聞く意味などあるのだろうか。
ファリファンは拳一つ分もひらいていない、真ん前にあるラムドの背中をもう片方の手で摩った。
「怖くないからね、大丈夫だよ」
途端、立ち止まられて顔面から突っ込んでしまう。
「じゃあ、この先、何かあったとしても――俺から離れて遠くへ行くなよ」
「お兄ちゃん?」
「俺は、この手を放したら、お前が闇の中に紛れてどっかへ行きそうで怖い」
「わたしは、迷子になんかならないよ?」
「迷子になっているのは、俺の方だ。だから、ちゃんと手を繋いでいてくれ」
ファリファンは、ラムドが帰る道がわからなくなったのだと思った。
「場所、変わろうか? わたしが先頭に立った方がいい?」
「いや、いい。それより――」
クルッと身体の向きを変えたラムドがファリファンを正面から抱き締めた。
「少しだけ、このままでいさせてくれ」
鍛え上げられた二の腕がファリファンの背中へと吸い付き、その身体を抱え込んでいた。
頬を押しつけているその筋肉で盛り上がった胸板を服越しに感じ、胸内がざわつき始める。
ファリファンが顔を上げると、すぐ間近にラムドの顔があった。
「ちょっ――」
奥二重の双眸の端は軽く切れ上がっており、印象を爽やかなイメージへと導いていた。
闇の中でもはっきりと色彩を放っている深緑色の瞳がわずかに震えている。
まるで自分よりも年下の弟のように感じたファリファンは、手を伸ばし、ラムドの頭頂部を優しく撫でた。
「帰ってもだれもいないんだし、慌てなくてもいいからね」
モルワは疎開地にいるリーアムの元にいる。
偶人認定を受けているファリファンを雇うところはなかったが、ラムドは鉱山で働いていた。
労働に出る昼過ぎまでには戻ればいい。
ファリファンは、微笑むことはできなかったが、それでも安心させようと撫でる範囲を広げていった。
「ありがとう、ファリファン」
「どういたしまして」
ピクリとも動かすことはできない表情筋の強張りが意思とは反して緩んでいく。
ファリファンは、それを見られまいとして急いで顔をそむけた。
「隠さなくていい。それは、正しい反応なんだ」
「ダメ……ダメなの……何も感じちゃいけないの……」
「どうして?」
覚えている哀しみや恨みといった感情が蘇る。
心臓を真二つに引き裂かれているかのような衝撃が身体の全神経を乗っ取っていく。
どうすれば、この苦しみから逃れられるのか――。
抑えようもない怒りを静める方法はあるのか――。
自分のものではない感情を手放すことはできるのだろうか――。
「ファリファン?」
「人を殺したいというその気持ちが、わたしには理解できる」
恐ろしいことを言っている――それは、よくわかっていた。
しかし、それでも、そう言わずにはいられないほど、望んでいないその感情は心の中をぐちゃぐちゃにしていく。
(だれかを殺せば、ラクになれるのかしら)
ファリファンは、両目を閉じて深呼吸を繰り返した。
(閉ざさなきゃ――心を――)
「もし、殺したくなったら、そのときは真っ先に俺を殺してくれ」
反射的に目を開けて、視線をラムドへと投げる。
「だから、ちゃんと感じるんだ。それを拒否しちゃいけない」
ラムドの目元が緩み、花の蕾が綻んだかのような柔らかな笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃ――」
「ラムドって呼んでくれよな。最初の頃は、そう呼んでただろ?」
口元をへの字に曲げている。
ファリファンは、首を軽く傾げて見せた。
「何、その困ったような顔」
不満そうな声だ。
「困ってません。わたし、心がお出かけ中なので」
プッとラムドが吹き出す。
「捜しに行かないとな」
「今は、帰ることを目標にすべきだわ」
ラムドがファリファンの手を掴む。
「俺は夜目が利くから安心していいぞ」
「迷子になってたのは、どちらさまでしたっけ?」
「ファリファンがいるから、もう大丈夫だ」
先を行くその背中に引っ張られるようにしてついていく。
ラムドの腰ベルトには、一粒だけ青香石をはめ込んだ腕輪がぶら下がっていた。
見るからに女物だ。
「それ――そんな腕輪、持ってた?」
「あぁ、これか」
ラムドが確認するかのように指先でそれの縁になぞる。
「気が遠くなるほど大昔から持ってたよ」
風に揺れてざわざわと葉音を立てる木々の合間に渡る道を抜けた途端、闇色の天空に白く光輝く丸くて途方もなく大きい物体が現れた。
――月――だった。
「あれも星なんだぞ。俺達が住んでるこの星と同じくらいの歳だ」
「じゃあ、あれも、死んじゃうの?」
「あそこにも人が住んでた時代があったらしい。その頃からあそこは、今と変わらない姿で空気も水もない」
「死んでるってこと?」
「さぁな……わからん。でも、月がなければ俺達は生きていけない」
「海が天を覆っていた頃は、海の向こう側にあったのに」
「海面が輝いて、きれいだった」
「世界は終わっちゃうんだね……」
ラムドがファリファンの手を握り直した。
「まだ、時間はある。俺達が生きている間は、大丈夫さ」
――が、それも不安にさせまいとして言っているだけだということは、わかっていた。
「そうだね」
ファリファンもラムドの手を握り返す。
「今度から俺のことは名前で呼べよ」
答える前に、ラムドがファリファンの指の間に自らの指をめり込ませ、手の甲に這わせた。
「手を繋ぐときは、ちゃんとこうするんだ」
ファリファンは、月明かりが照らすその顔を見上げ、瞳の奥を見つめた。
手の甲に這う指先から熱いほどの温もりが伝わってくる。
心臓はバクバクと大暴れし始めていた。
(また、息苦しくなってきた……なんで?)
「ちゃんと、感じてる?」
「えっ?」
「今の気持ち――」
不意に、ラムドの<自覚させてやる>という言葉が蘇る。
「あの……」
言葉に詰まっていると、ラムドが悪戯っぽく片目をパチンと弾くように閉じた。
「もう、お兄ちゃんなんて呼ばせないからな」
魅力的な表情に射抜かれた場所から体温は上昇し始め、ついには頭から火が吹きそうなほど顔全体が火照り始める。
(何、この気持ち――)
ファリファンは、どうしようもなくなって俯いた。