6-12
「……妬くなよ」
ちらりと振り向き、翔が軽口を叩く。
その瞳に隠れた不安と怯えの色に気づかぬ振りをして、響はにやりと笑い顎をしゃくった。
「琴……」
横から大きく回り移動する翔を視界の端に捉えながら、琴子に声をかけた。
蟻の歩みのように、少しずつ距離を縮めていく。
そして、肌に食い込む指先を認められるほどの距離まで来たその時、彼女が弾かれたように顔を上げた。
ぼろぼろと涙が頬を伝い、点々とセメントの床を濃く染める。
血を流しているのだ、と思った。
決壊寸前の心を守る最後の手段として、太い血管が傷ついた時のようなどくどくと流れ続ける透明な血液を、彼女は流し続けている。
俺たちがいるよ。そう能天気に口にしてしまった自分の言葉を思い出し、響は歯を食いしばった。
(何を思い上がってたんだ、馬鹿野郎)
結局、琴子に優しい言葉をかける自分に満足していただけなのだ。
その空っぽな言葉に優しい彼女は感謝し、自分の望む笑顔を見せてくれていた。
しかしその裏で、どれだけの苦悩をひた隠しにしていたのだろう。
結果、彼女の細い細い神経の糸は限界まで引き伸ばされ、今、ぷつんと音を立て千切れようとしている。
「……ごめんな…………」
つう、と頬をあたたかいものが伝う。
不甲斐なさと情けなさに、胸を掻き毟りたくなった。
「ひとりにしないって決めたのに、守るって決めたのに、琴が苦しんでいることに気づけなかった。
抱え込むものの大きさに気付けなかった。こんなになるまで……
ごめん……本当にごめんね……」
伸ばされた響の腕から逃れるように、琴子は首を振りながら後ずさった。
「琴子っ!」
突如自分の右側で響いた声に彼女は顔を向ける。
と同時に、大きな手で右腕を掴まれるのを感じた。
触れられる恐怖に敏感になっている彼女の心は一気に昂り、それを誤解した能力が身体を強く突き抜けようと皮膚の真下に迫る。
「やだっ、だめ――!」
身じろぎをする琴子の腕をぐいと引き、翔はその華奢な身体を自分の胸板に寄せた。
そして彼女から飛び出した、鞭のように鋭く、鉛のように重い衝撃を、その全躯で受け止めた。
「っっ…!!!!」
想像以上の打撃に、彼の顔は大きく歪む。しかし呻き声ひとつあげず、咳き込むことさえ自分に許さぬまま息を止め、そしてゆっくりと吐き出した。喉の奥で、血の味が広がった気がした。
「かけっ……そんな、なんでっ……!」
驚愕に見開かれた琴子の大きな瞳に、じわじわと涙が溜まっていく。
翔は優しく微笑み、そっと彼女の背中を撫でた。
「大丈夫……。俺が受け止められるから。
俺がずっと、こうやって受け止め続けるから」
だから、安心しろ。
彼の耳元のピアスがキラリと光ったのを最後に、琴子はその大きな身体に縋るように泣き崩れた。
小さな子供のように、わんわんと声をあげて。
壊れかけた心を修復するためには、その行為が必要だった。




