人魚の口づけ
僕は最初それを見たとき、驚いてしまって声が出せなかったんだ。
まるで人魚が、彼にそっと口づけをしているようで……
ユーロジア西域、海に面した地帯。そこには海洋都市がある。港も広く開かれており、そこに生まれた男たちは、誰が決めるともなく、みな船乗りとして生活していた。その海洋都市の居住区の一角の、子供が遊ぶために設けられた公園。そこに今日も、何人もの船乗りの子供たちが集まっていた。
「賛成」
「よし、今夜2時、決行。それでいいな」
「賛成」
「賛成」
「賛成」
その中心で、いかにもそのグループのリーダーらしき大きめな子供が、周りの子供たちの様子をうかがう。
「どうした、キシス」
「え!?」
「ダメだよ、アドル。キシスは泣き虫で弱虫だから」
キシスと呼ばれた少年は、そのグループの中で一番小さく、おそらく年齢も低いのであろう。少しうつむきながら、リーダーであるアドルを見上げた。
「後お前だけだぞ、賛成してくれないのは」
「僕……」
「ほら、泣くぞ。泣くぞ」
「キシス、可哀想」
「ウールー、キシスが可哀想なんて、何いってるんだ」
「だって、キシスはまだ7歳だよ。2時なんてもう夢の中だもの」
ウールーはグループの中で唯一の女の子のようで、彼女が一人キシスの弁護に入った。
「おーおー、キシス様はうらやましいですね。ウールーに同情してもらえるなんて」
「そりゃあ、メディン、キシス様はカレトアシス様の息子ですから」
「そうでした。そうでした」
「ファムもメディンもやめて」
ウールーは2人をにらみつけると、キシスの方を見た。
「どうするの? 嫌ならはっきり言っておかないと、後で後悔するよ」
「どうする、キシス」
もう一度、リーダーのアドルが言い直し、キシスを見下ろした。キシスは、まだ下を向いたままであったが、泣きそうな声で答えた。
「僕、行くよ」
「よし。決まりだ。とりあえず今は解散」
元気よく、アドルとメディンとファムは叫ぶようにその公園から姿を消した。彼らの姿が見えなくなると、キシスはその場に膝をついて声を出して泣き出した。
「あーもう。何で泣くの?」
そばに立っていながら、ウールーは彼を慰めることなく泣き止むのを待っている。時々ため息をつきながら、彼女は公園を見渡してみた。
いつもと変わらない、見慣れた光景。別に公園といっても何も無いし、石畳がただ続いているだけ。円形にかたどられていて、四方に都市の別の区域へと続く道が伸びている。その一方の道、北の路地は、子供たちの足で20分ほど歩くと、森につながっている。そこで、この海洋都市は一応終わりなのだが、道はまだ先に伸びている。もちろん、他の都市へとつなぐ連絡道となっているのだが、その道の森を越えたところに、西へ入る狭い路地があり、そこを行くと、海につながっているという。別名「人魚の住む海のほとり」。
「ウールー、ごめんね」
いつの間にキシスが泣き止んだのか、彼はウールーの隣に立っていた。
「謝るのは勝手だけど、キシス、本当に今日行くの?」
キシスがみるみる涙目になる。
「泣かない! とにかく、私も行くけどさ。でも、キシスが教えてくれたんだよ、あの森のこと」
それは、「人魚の住む海のほとり」と、海洋都市の間にある森のこと。その森に怪物が出ると言うのだ。
「父さんが、教えてくれたんだ。でも、きっとそれ、子供たちを森に近づかせないようにするためでしょ?」
「何のために?」
昔から、子供たちがその森に入ることは禁じられていた。だから、実際その森がどれくらいの大きさで、何があるのか、子供たちは当然分からなかったし、憶測や空想でしかそれが計れなかった。そんなある日、町に行商がやってきた。最初は大人たちを相手に商売していたのだが、お昼時、その行商は公園にやってきて、子供たちを相手に紙芝居を始めた。その中にあったのが「人魚」の話だった。それが、先ほど説明した森の向こうにいるのだ。色々な紙芝居があり、どれも架空の世界を舞台にしたものだったが、人魚の話だけ、現実の地名を使っており、行商もこれだけは本当の話だと教えてくれた。だからいつの間にか、子供たちの間でこの、「人魚」の噂が広まったのだ。そこで、昼は警備のものが厳しく都市の入り口を見張っているため、夜中の2時にそこへ行ってみようと決まったのだ。
「とにかく、1時半までに迎えにきてね。遅れないでよ。私まで怖がり扱いされたくないんだから」
そして2時。
「ファムがいないな」
約束の時間になってもファムは現れなかった。他のメンバー、アドル、メディン、ウールー、キシスはそろっている。アドルがキシスの頭をわしづかみにするように抑えた。
「よく来たな、キシス」
「私が迎えにいったんだけどね」
ちょっと怒ったように、ウールーが代わりに答えた。キシスはばつが悪そうに、メディンの方を見た。
「ま、ファムは寝過ごしたんだろう。先行こうぜ」
「だな」
こうして、彼らは初めて、この海洋都市という庇護下から飛び出した。
辺りは、闇。木々が鬱蒼と生えており、月の明かりもほとんど届かない。ウールーが手にランプを持った。わずかな光が、彼らの足元を照らしている。
「何かいる」
メディンがつぶやいた。途端、全員が一所にかたまり、震え出した。
「な、何がいるの?」
「分からない、けど……あ! アドルの後ろ!」
森の中に悲鳴が響いた。アドルの後ろに、アドルよりも大きな影がいる。ウールーが咄嗟にランプをその影に投げつけた。
「うわっ!」
ランプの灯が消え、辺りが暗闇に帰る。だが次の瞬間、
「あっはっはっはっは」
突然今度は笑い声が森に響いた。この声はファムのものだ。
「どういうことだ、ファム」
今まで腰を抜かしてしゃがんでいたアドルが、急に威厳を持って立ち上がると、ファムのほうをにらみつけた。
「いや、ちょっといたずらしようって、なあ」
両手でアドルを抑えるしぐさをし、メディンのほうを見る。
「こ、こっち見るなって」
「お前も共犯か!」
アドルはメディンの胸座をつかんだ。
「もう! ランプが消えちゃったじゃない」
ウールーはランプを拾うと、その様子をうかがった。別に壊れてはいなさそうだ。一度着火を試みると、ランプは無事に着いた。
「けんかもいいけど、ここにまだ腰を抜かしてる子がいるんだけど」
キシスは、ペタンと地面にすわり、歯を震わせ、ぼうっと視線が合わないでいる。アドルもそれに気がつき、キシスの近くへと寄ってくる。自然とメディン、ファムもキシスの近くへ来ると、キシスは明後日のほうを指差した。
「いる……」
「うん?」
「赤い目が、見える」
四人がキシスに促され、そちらを見ると、森の奥からまさに赤い目が迫ってきた。森の闇に隠れ姿は確認できないが、赤い目だけがそこに浮かんでいるように見えた。
「また、いたずらか?」
横にいたメディンの首に腕を回し、アドルはつぶやいた。
「誰の役ですか?」
ファムのほうも見るが、彼も怯えている。と、彼は誰よりも先に来た道を駆け出した。
「うわぁぁ! ずるいっすよアドル!」
慌ててメディンとファムもそれを追う。
「ちょっと! キシスどうすんのよ! 腰抜かしてて動けないのよ!」
ウールーが大きな声で呼びかけたが、返事は返ってこなかった。当のキシスは、まだ指を指している。次第に、その赤い目が大きくなって来て、その姿もおぼろげに確認できるようになってくる。夜の闇にまぎれていたため、実際どのような色をしていたか分からないが、やはり黒い色をしていた気がする。そして、ウールーとキシスの前に赤い目をした怪物が立ちはだかった。さすがのウールーも震えている。
「子供か?」
ウールーは辺りを見渡すが、他に誰も見当たらない。もう一度赤い目をした怪物を見る。
「わたしが言葉を話すのが意外かね。これでもそこそこ勉強したのだが」
声に出せず、ウールーがうなずく。
「おおかた、人魚を見に来たのだろう。違うか?」
もう一度うなずく。
「私を見ても逃げ出さないものは少ない。偶然昨日も、勇敢な青年がいたが、今日はそれ以上に幼く見える。いや、逃げ出すも何も、動けなかったのかな」
その怪物は笑い出した。その様子をウールーは驚いた表情をして見ていた。キシスのもまだ震えていたが、少しずつ焦点が戻ってきている。
「ふぉっふぉっふぉ。驚かしてしまってすまなかったな。それで、人魚だったな」
「おじさん、人魚知ってるの?」
「おじさん!」
とっさにウールーがキシスの口を抑えた。それから苦笑いを浮かべる。
「そうだな。そんな子供からしたら、私ももうおじさんだな。ああ、知っているとも。お前たちではまだ直接会話はできないだろうが、もしかしたら人魚を見られるかもしれんな。来るか?」
キシスは大きくうなずいた。そして立ち上がろうとしたが、うまく立てない。
「よし、お前さんがた2人くらい、背中に負ぶってやるとも」
その赤い目をした怪物は、後ろを向いてお座りのような格好をした。キシスがそこにまたがる。
「それ、そっちのお嬢さん、遠慮するな」
しばらくウールーはためらっていたが、意を決するとその上にまたがった。
「なかなか疑い深いお嬢さんだ。心配せんでも、食ったりはしないよ。それならいちいち会話なぞしない。それから、歩くとしばらくかかるから、眠たかったら眠っていいぞ」
その言葉が終わるより早く、キシスは眠りに落ちていた。
2人が目覚めると、岩が立ち並ぶ場所に寝転んでいた。岩の間からは海が見えている。
「ようやく起きたか。よく眠るのも子供の仕事だ」
まだ、太陽は昇っておらず、東の空がわずかに明るい他、闇に包まれている。
「私はもう行くが、できれば私のことは秘密にしておいて欲しいのだが」
ウールーは静かにうなずいた。
「ありがと、おじさん」
その怪物は、ひとしきり笑うと、元の森へと歩いていった。
西を見ると、大きな海が見える。海洋都市で見る海とは違い、港のような人工物がなく、ただ一面の海。ただ、彼らがいるところは激しい岩場になっており、それ以上海に近づくことは出来ない。
「ここから、見えるのかな?」
ピーヒョロロ。
朝、次第に東の空が明るんできた頃、笛の音が海の方から聞こえた。そこを見ると、今まで気がつかなかったが、海から突き出た岩の上に人間らしい影が座っている。
「ウールー」
「うん」
2人は、その影をじっと見つめた。笛の音は、優しく、暖かく、広い空間に響いている。笛を吹き終わると、その人は左手で笛を持ち、右手を前に差し出して手のひらを上に向けた。
「待っていました」
いつの間にか、もう一つ近くにあった岩の上にも影が座っていた。その影が、笛を吹いていた人に向かって話し掛けた。
「私も、待っていました」
互いに、右手を差し出しあっている。
「ねぇ、ウールー」
「うん」
その、後から現れた影、それはまぎれもなく人魚であった。下半身が魚で上半身が人間の姿をしている。髪の毛は、太陽の光に金色に輝き、肌は透き通るような色をしている。
「レウレラ・ヒュームですよね」
「はい」
「では、聞いていてください」
すると人魚が、澄んだ声で歌いだした。
「遠い遠い世界を夢見て
遠く遠く一人で泳いで
やっと見つけたあの人の
せめて夢で逢いたくて
甘い甘い言葉を信じ
甘い甘い世界へ飛び出し
やっと見つけた幸福の
壊れる音が大きくて
どうして行ってしまったの
どうして戻って来ませんの
私はずっと待っています
この命が果てようとも」
「彼の思いの大きさは
量ることの難しく
選んだ道が違えども
必ずここへ帰ります
彼の心の傷跡は
量ることの難しく
いつか癒されたそのときに
あなたの元へ帰ります」
捜索隊が、ウールーとキシスを見つけたのは、その日の夕方になってからだった。アドルらが言っていた場所とはひどく離れた場所に2人がいたため、見つかるのに時間がかかった。当然2人は、家に帰ってから怒られはしたのだが、それほど苦にはならなかった。キシスはそれから部屋に入るといつもつけている日記を取り出し、今日起きたことを書き始めた。
僕は最初それを見たとき、驚いてしまって声が出せなかったんだ。
まるで人魚が、彼にそっと口づけをしているようで……
おしまい




