だから、恋をする。2
だから、恋をする。の続編です。そちらを先に読むことをお勧めします。
鏡に映る自分を見て、安藤絵梨は小さくため息を吐いた。釣り合わない。そんなことはわかっていた。けれど、1か月ほど前に彼氏になったばかりの西島健の顔を思い浮かべ、落胆する。やはりあまりにも釣り合いが取れていなかった。
以前、健に容姿に関して何もしなくてもよいと言われたことを思い出す。けれど、そうもいかないと思った。自分も思うし、やはり周りの視線が厳しいのだ。「どうしてこんなやつと」という心の声が痛いほど聞こえてくる。
絵梨は、腰まで伸びた長い黒い髪をまとめて少し持ち上げてみた。昨日買ったばかりの雑誌を見ながら髪型の変更を試みる。上手くいかない。何をしても彼との距離は埋まらないと言われたような気がした。
そんなことは知っていた。知ってはいるがどうにか近づけないかともう一度ため息を吐く。
「銀ぶちのフレームじゃなくて、コンタクトとかもうちょいおしゃれなメガネにすれば?」
ふと、以前彼に言われた言葉を思い出した。
絵梨は軽く頬を叩いた。せっかくの日曜日に鏡の前でため息を繰り返していてもしょうがない。絵梨は財布をバッグに入れ、外に出た。
「おはよう」
「…」
家の前まで迎えに来てくれた彼に朝一番でした挨拶の返事は返ってこなかった。視界に映る健の顔が厳しくなったような気がして絵梨は焦る。
「……やっぱ、似合わない?」
昨日買った赤フレームのメガネを軽く触り聞いてみる。自分ではよくわからなかったので、店員に選んでもらったメガネだった。家族の反応はよく、自分でも印象が少し変わった気がしていたのに。
何も言わない健に不安はどんどん増していく。
「…西島くん?」
名前を呼んだ絵梨に対し、健は大きなため息を吐いた。そこまで似合っていないのかと絵梨は泣きそうになる。そんな絵梨の頭を大きな健の手がポンポンと叩く。
「似合ってるよ。泣きそうになるなって」
「……本当に?」
「俺がお世辞言うと思う?」
「思わない」
「即答すんな、こら」
「…じゃあ、どうしてそんな反応なの?」
「…俺、なんて言った?」
「え?」
「何もするなって言ったよな?」
「だって…」
「周りの意見なんか気にするなよ」
「気になるよ。やっぱり、無理でも少しでいいから認められたい。それに私だって、かわいくしてみたいし」
「…そう言うなら別にいいけど」
「ありがとう」
「…たぶん、今日いろんな奴らに見られるから覚悟しろよ」
健の言葉に絵梨は的外れだとくすりと笑った。
「西島くんじゃないんだからそんなに人に見られたりしないよ」
「…なら、いいけどな」
「え?」
「いいから、早く行くぞ」
「ま、待ってよ」
先に歩き始めた健の背中を絵梨は慌てて追った。
学校に近づくにつれ、周りの視線が強くなる気がした。健といるのだからいつもの事ではあるが、なんだか健にではなく、自分に向けられている気がして絵梨は小さく首を傾げる。
「おっはよ~。健、絵梨ちゃん!相変わらず仲良しだね」
元気よくこちらに手を振ってくるのは健の友だちである岡田智樹だ。大きな目に小さな顔。格好いいともかわいいとも言えるその顔で大半の人たちの視線を引いている。健に負けず劣らずこの学校の人気者だ。前髪が邪魔なのか水色のピンでとめている。それが似合う彼はやっぱりすごいなと絵梨は思った。
「おはよう。岡田くん」
「おはよ」
「…あれ?絵梨ちゃん、メガネ変えた?」
「え?あ、うん。どうかな?」
「すっごくかわいいよ。似合ってる」
「本当に?ありがとう」
思った以上に褒められ、無意識に顔が赤くなる。その反応を見て智樹は小さく笑った。
「その純な反応もいいよね」
「…智樹、俺のだから」
健が睨むような視線を智樹に向けた。
「わかってますって。でも、健と付き合ってから本当にかわいくなったよね。髪も綺麗だし」
ふと智樹が手を伸ばす。絵梨の髪にたどり着く前にその手を健が止めた。
「余裕ないな~」
「ねぇよ、そんなもん」
「……健にそこまで言わせるとは、安藤はすごいな」
新しい声に3人が視線をそちらに向ける。
「悟じゃん。おはよ~」
「おはようございます」
「おう」
三者三様の挨拶に悟は「おはよう」と返す。そして、まだ絵梨の顔の前で健と攻防を続けている智樹に言った。
「智樹、冗談ならそこまでにしておけ」
「冗談じゃなかったら?」
「は?」
「…それは安藤次第だろうな」
「ざけんなよ、智樹。悟もだ!」
掴んでいた手を押すように放し、健が叫ぶ。2人から隠すように健は一歩絵梨の前に出た。健の声が鋭く、絵梨はびくっと肩を震わせる。しかし、慣れているのか、智樹と悟に動じた様子は見られない。
絵梨は目の前の展開についていけず、ただ黙って健の背中を見ていた。
「だって、絵梨ちゃん最近かわいいんだもん。恋をすると綺麗になるって本当だったんだね。しかも、こんな純粋な子そうはいないし。…絵梨ちゃん、俺にしない?」
「…え!?」
突然の言葉に驚き以外の言葉が出てこなかった。そんな絵梨の様子に健の機嫌はさらに下がっていく。
「ねぇ、健。本気で奪っていい?」
「……奪えるもんならな」
一触即発。そんな雰囲気の中、肩を叩かれ、絵梨は静かにそちらを向く。智樹の隣にいたはずの悟だが、いつの間にこちらに移ったのか。けれどそれを聞く前に、すっと手を引かれた。絵梨と悟の様子に健たちは気づいていない。
「上森くん?」
「放っておけ。じゃないと、俺たちまで遅れるぞ」
ふと、時計を見れば、あと5分で始業のチャイムが鳴る時間となっていた。
「…でも、あのままじゃ…」
「大丈夫だ。あいつらなりの通常運転だから」
「そうなの?」
「ま、といってもいつもより荒い運転ではあるがな」
「…」
「それより」
「え?」
「そのメガネ、よく似合っている」
「ありがとう」
微笑むように優しく笑う絵梨の顔を見て、2人がああなるのも無理はないかと悟は思った。自分たちの周りにはいないタイプだ。癒されるような、そんな雰囲気。生憎悟には妹のようにしか思えないが。けれど、智樹もそうとは限らない。智樹がただ、新しいものを欲しがっているだけなのか、それとも本気なのか。どちらにしてもこれから大変になるだろう。悟はそう思い、小さくため息を吐いた。
「なんで、先に行ったんだよ」
机に手をつき、怒るような声を出す健を絵梨はお箸を持ったまま見上げた。昼休みのチャイムと同時に教室の中に入ってきた健。本当はすぐにでもこちらに来たかったようだが、午前中は移動授業が重なり、来られなかったようだ。
昼休みの時間ということもあってか、周りの視線が集まるのがわかる。絵梨は小さくため息をついた。そんな絵梨を憐れむように見る親友の優里の視線が痛い。
「だって待ってたら遅れてたから」
「遅れたっていいだろ!」
「いやです」
「ってか、何もするなって言ったのに、そんなメガネつけてきたからこんな事態になってるってわかってんのか?」
私のせいだと言うのか。そう思い絵梨はむっとした。メガネ一つでそんなに大きく変わるはずがない。それに、たとえそうだとしても、ただ立っているだけでみんなの視線を集める健はどうなのか。周りの視線が集まるたびに妬いてしまうし、苦しくなってしまう。そんな自分の気持ちがわかるのかと絵梨は思った。少しでもかわいくなりたいと努力をすることはそんなにいけないことなのか。
「私が何しようと勝手じゃない」
「俺は絵梨の彼氏だ」
「彼氏だからって行動を制限できないと思うけど」
こちらを見る健の目を見つめた。睨む視線がさらにきつくなるような気がしたが、負けじと絵梨も力を込める。だって、自分は間違ったことを言っていないはずだ。
「…じゃあ、勝手にしろよ!智樹のとこでも、どこでも好きなやつのとこに行けばいいだろ!」
なぜ、そんな話になるのか。そう思いながらも、絵梨の口は勝手に動いていた。
「言われなくてもそうするよ!」
怒ったように足音を立てて健は絵梨の教室から出て行った。その背中を見ながらどうしてあんなことを言ってしまったのかと絵梨は早くも後悔する。周りが自分たちの「別れ」について話している声が耳に入り、不安に襲われた。
「なんか、意外だね」
目の前で沈黙を貫いていた優里の声に絵梨は首を傾げる。
「何が?」
「西島くんってあんな風になるんだね」
「…あんなに怒らなくてもいいのにね」
「そうじゃなくて」
「え?」
「絵梨にべだ惚れってこと」
「そんなわけないじゃん。あの態度だよ?…なんで私と一緒にいてくれるのかな?」
「…西島くんも大変だね」
「え?」
「ううん。なんでもない。……あのさ、絵梨」
「ん?」
「…さっき言ってた智樹って岡田くんのこと?」
「そうだよ。なんか、朝、岡田くんが私を奪うとか何とか言って、どうせ冗談なのに本気にしちゃったみたい」
「…」
「…優里?」
「え?」
「どうしたの?」
「…ううん。なんでもないよ。それより絵梨すごいね。西島くんと岡田くんで取り合い?一気にモテキ到来って感じ?」
「そんなんじゃないよ。岡田くんは西島くんをからかってるだけだろうし。…西島くんはたぶん、私みたいな人が珍しいだけだろうし」
「それだけじゃないと思うけどな」
「え?」
「だって、あの西島くんが少し待っていなかったくらいであんなに怒るんだよ?たぶん、西島くんも不安なんだよ。絵梨が橋元っちを好きだったことも知ってるし」
「…」
「客観的に見ても絵梨、西島くんが現れてからさらにかわいくなったと思うよ。最近髪型も少し変えてるみたいだし、スカートもちょっと短くした?」
「う、うん」
「そうやって、見た目だって変わってきてるし、やっぱりそれだけじゃなくて、なんていうかな、雰囲気も明るくなったような。恋してるなって感じ」
「……」
「だから自信持ってもいいと思うけどね」
そう笑う優里に絵梨はあいまいな笑みを浮かべた。優里の言葉が嬉しかった。けれどそれは友人であるからこその発言なのだ。健と釣り合いが取れないことなど、周りに言われるまでもなく、自分が一番わかっている。少し変わったからと言って、その天秤が大きく変わることはない。
絵梨は自分の胸を押さえた。苦しいなと思う。この苦しみが恋なのだと健の担任で、絵梨の初恋の人である橋元譲は言った。自分ではない。だからこそ、思い通りにはならなくて苦しむのだと。そのとおりだと思う。ただ、譲を想い、恋に恋をしていた時は楽しかった。けれど今、絵梨が恋をしているのは健自身である。だからこそ、苦しい。
優里は黙ったままの絵梨の顔を見て、微苦笑を浮かべた。
「よし、わかった。今日、一緒に買い物に行こう」
「え?」
急な話に絵梨はわけがわからないといった表情を浮かべた。
「買い物に行って、もっとかわいくなろうよ。ね」
「…でも、西島くんは何もするなって」
「いいの、いいの。言いたいだけなんだから。誰かにとられちゃうかもって心配なんだよ。でも絵梨は西島くんだけでしょう?」
「…うん」
優里の言葉に絵梨は頬を赤く染める。
「ならいいじゃん。それに彼氏って言ってもそこまで口出すなんておかしいよ。西島くんが参ったって言うくらいかわいくしようよ、ね」
「でも、やっぱり、ちょっと変えたところでかわいくなんてなれないよ」
「そんなことないよ。絵梨はまず、自信を持つことが必要だよ。それに、最近ずっと西島くんと帰ってるからたまには私と寄り道しながら帰るのもいいでしょう?」
笑顔でそういう優里。自分のためを思って言ってくれるのがわかるので、絵梨は笑みを浮かべ頷いた。「ありがとう」と告げると優里は優しい笑みを返してくれる。それがとても嬉しかった。
「あ、そうだ。一応西島くんに私と帰るって伝えておかなきゃね」
「え?」
「だって、ずっと西島くんと帰ってるんだから西島くん絵梨のこと探しちゃうよ」
「…探すかな。ケンカしたばっかりなのに」
「探すよ。だからメールでいいから私と一緒に帰るって伝えておきな」
「…うん」
不安そうな表情を浮かべながらもラインでメッセージを送る。すぐに了解と返事が入った。
空を見上げれば、白い雲が風に流されていた。頬に当たる風が、熱を冷ましていく。健はスマホを持ち上げ、画面を開いた。
『今日は、優里と帰るから』
送られてきたメッセージに思わずため息をついた。
「何やってんだろ、俺」
「本当にな」
突然聞こえた声に、健は顔だけ動かしもう一度ため息をつく。
「お前かよ、悟」
「安藤じゃなくて悪かったな」
「…別に」
不満そうな声に悟は小さく笑った。そんな悟を健が睨みつける。
「そう怖い顔をするなよ」
「させてんのお前だろ。…要件は何だよ」
「安藤のクラスで暴れたらしいな」
「暴れてねぇし」
「嘘をつくな。お前の情報はいらなくても勝手に入る」
「…マジで暴れてねぇよ。ただ、ちょっと、怒鳴っただけだ」
「『智樹のとこでも、どこでも好きなやつのとこに行けばいいだろ!』、か?そんなこと微塵も思っていないくせに」
「そんなことまで知ってんのかよ」
「だから言っただろ。お前の情報はいらなくても勝手に入るんだよ。……そんなに好きなのか」
「………あいつが、俺を好きなんだよ」
「初めて恋をしたこどもみたいだな」
「…高校生は子どもだろ?」
「安藤を困らせるなよ」
「何?そんなこと言うためにわざわざ裏庭まで来たわけ?やけにあいつに優しいじゃん」
「そう睨まなくても俺にとって安藤は妹みたいなものだ。お前から奪おうなんて考えてないよ」
「そんなことさせねぇけど」
睨みつけるような健の目に、悟は思わず苦笑を浮かべた。「はい、はい」とあしらうように頷く。
「それと伝言だ」
「伝言?」
「お前の担任から。『今日、遅行した罰に世界史の課題プリント3枚な』だそうだ」
「…」
「ちなみに、逃げた場合は、『安藤をデートに誘うから』と言ってたぞ」
「は!?」
予想外の言葉に健は驚き声を上げた。そんな健を見て、悟が笑う。
「お前の扱いを心得ているな」
「…」
「じゃあ、俺は伝えたからな」
そう言って背を向ける悟に健は聞こえるように舌打ちをした。
教室に入ると誰もいなかった。呼び出しておいていないのかよと再び舌打ちをする。自分の席にどかりと座り、スマートフォンを取り出した。
『今日、居残りで補習になったから』
絵梨へラインでそう送ってから、一緒に帰らなかったのだと健は思い出す。ただ視線を動かせば先ほどのやりとりを見ることができたのに、と自分の愚かさに苦笑を浮かべた。
思うようにできない。絵梨と会ってからずっとそんな感じだ。誰かと付き合うとはこんなにも面倒くさいものだっただろうか。椅子の背もたれに頭を預けながら目を閉じた。
今までは楽だった。相手のことを考えたことなどなかったのだから。どんなに美人で、どんなに周りからの視線を集めていようが関係なかった。ただ楽しい時間を過ごせていればよかった。飽きたら、面倒に感じたらやめればいい。それだけだった。それが今では相手の言動に一喜一憂し、独占欲の塊のように誰にも見せたくないと思う。
これが好きと言うことなのだろうか。だとしたら相当に面倒くさい。けれどやめたくないのはなぜだろう。本当に初めて恋をした子どもみたいだなと健自身思った。
「お、さっそく来てるな」
にやにやと笑みを浮かべながら教室に入ってきた譲の姿を健は睨むように見た。怖がることなく「怖い、怖い」と笑う様子にいら立ちを覚える。
健は絵梨が譲のことを想いながら泣いたのを見たことがあった。その涙は、本気で譲のことを好きなのだとわかるには十分だった。また絵梨が譲の方を向いてしまうのではないか。時々、そんな不安に襲われる。
「たかが5分の遅刻一回で補習プリントはひどくないっすか、先生」
普段より低めの声を出す。けれど、譲は飄々と笑った。
「学校は社会のルールを学ぶ場所でもあるからな。社会に出れば、遅刻一回が致命傷になることも大いにある。遅刻一回にプリント3枚なんて安い方だ」
「…」
自分が子どもであると言われた気がした。確かに10歳近く離れている譲にとって自分は子どもだ。差を見せつけられたようで、それ以上何かを言うことが、より子どもだと自ら証明しているような気がして、健は口を閉ざす。
「反論は?」
「…ねぇよ」
「じゃあ、このプリント完成させたら帰っていいからな。ちなみに、脱走の恐れがあるから俺もここにいる」
「しねぇし」
「ま、そうだろうな。けど、俺も仕事が残ってるんだ。職員室よりここの方が集中できそうだし。西島は俺を気にせずプリントを終わらせてくれればいいから」
そう言いながら目の前にプリントを置く譲の指を健は見た。左手の薬指にシルバーの指輪が光っている。譲は先日結婚した。HRの時、クラスで報告があったのだ。相手は高校時代から付き合っていた彼女だという。その事実に健は少なからず安心した。そして安心した自分が嫌だった。
プリントに目を通す。今までの授業の復習といったところだ。決して難しい問題ではない。健は一問目に取り掛かった。その姿を確認した譲も自分の仕事に取り掛かる。
「…なぁ、先生」
開始10分ほどで健が口を開いた。譲は顔を上げずに「なんだ?」と聞く。問題を秋ながら健は聞いた。
「先生の結婚した人ってどんな人?」
「なんだ、急に」
「…なんとなく」
「そうだな…一途な人、かな」
「何、それ。自慢?」
「そういうわけじゃないよ。ま、これから先も俺しか見せる気ないけど。でも、そう言うことじゃなくて、一途って言うか、まっすぐな人って感じかな」
「まっすぐ?」
「一つのことを心から信じ切れる人かな?だから、俺は彼女を裏切れない。裏切るつもりもない」
「先生、彼女じゃなくて、奥さんだろ?」
「あ…そうだな。まだ、慣れないんだ」
「ふ~ん」
「……そっか。奥さんだよな」
噛みしめるように言った。思わず笑みがこぼれている。ほんの少し頬が赤く染まったのは気のせいではないだろう。
「なぁ、先生」
「なんだ?」
「もしかしてだけど、先生の方が惚れてる?」
「…ばれた?初めはあっちの方が惚れてたんだけどね」
「…」
「でも、いつの間にか、逆転したよ。今でも奥さんは自分の方が惚れてるって思ってるだろうけど、俺の方が数倍惚れてると思うよ」
健は問題を解いている手を止め、譲の顔を見た。幸せそうに笑う譲の姿がそこにある。
「…自分が惚れてるより惚れられてる方が嬉しくない?」
「え?」
「自分の方が惚れてるって話なのに、すげぇ嬉しそうに笑うから逆じゃねぇのかなって」
健の言葉に譲は少し考えるように首を傾けた。
「なんか、いいな、西島。若いって感じ」
「は?バカにしてんの?」
譲の言葉に健はむっとしたような表情を浮かべた。そんな健に「違う、違う」と軽く首を振る。
「そういうわけじゃなくて、なんかさ、どっちが上とか下とか関係なくなるんだよ。惚れた方が負けとか言うし、実際そうだと思う。でもさ、そんなこと関係なくて、ただ、俺は友香を好きだって思うと、優しい気持ちになれる。それがすごく幸せなんだ。だから、友香が俺を見ててくれるなら、どっちの気持ちが上とか関係ない。結婚してこれから変わっていくかもしれないけれど、でも、これからも友香が俺を好きで、俺が友香を好きでいる。それで十分なんだ」
「…」
そう語る譲の顔はここにはいない「友香」を思い浮かべているのがはっきりわかった。こんな風に笑いたいと健は思う。
負けだ。そう実感した。やはり目の前にいる男は大人で自分は子どもだと思い知らされた。どちらの気持ちが上だとか下だとか。きっとそんなことを言っている間は恋に恋しているのかもしれない。上も下も勝ちも負けも関係ない。ただ、自分が好きで、相手が好きでいてくれる。それだけでいいと自分も言えるのだろうか。
「なぁ、西島」
「…なんですか?」
「お前がこれからどう思うかも、どういう風にするのかもお前の自由だと思うよ。これから先、安藤だけを見ていくのでも、安藤以外の人を見るのでもいい。たくさんの選択肢があるんだ。ゆっくり決めていけばいいことだと思う」
「…」
「その中には、人を傷つけることだっていっぱいあると思う。誰も傷つけるなよ、なんて無責任なこと俺には言えない。だって、それは無理だから。傷つけないよう努力は必要だ。だけど、それでも誰も傷つけないことなんて出来はしないと思う。…だから、俺に言えるのは、誰かを傷つけた後は、自分も同じくらい傷つく心を持ってほしいってこと。そして、傷つけたことを後悔してほしいってことだ」
教科書に載っている言葉のように、「誰も傷つけるな」ではなく、「傷つけないことはできない」と言われたことがひどく重く感じた。
「…」
「なんか、教師っぽいだろ?」
「…先生、教師だろ?」
「そうだったな」
譲は少しだけ声を出して笑う。
「…先生も奥さんを傷つけることがあんの?」
「…あると思うよ。結婚しても、家族でも、他人だからね。どうしても傷つけてしまうと思う。実際これまでも何回も泣かせてきた。だから、俺はこれからも泣かせないとは言い切れない。だけど、泣かせた後は、泣き止むまで一緒にいて、最後には必ず笑顔にするって決めてるんだ。…あいつの過保護な幼馴染と親友にそう約束してあるから」
「本当にべた惚れなんだ」
「まあ、ね」
「…プリントできたから置いてく」
「え?お前、早いな。俺、仕事全然終わってないんだけど」
「簡単だったからね。…ま、ただの口実に応用問題作るほど、教師は暇じゃないってことはわかったよ」
「……ばれた?」
「俺のため?それともあいつのため?」
「両方のためだけど、どっちかって言ったら安藤かな?似てるんだ、友香に」
「やらねぇけど」
「ははっ。とらねぇよ。俺にはかわいい奥さんいるし。…あ、そうだ。岡田の教室寄って行けば?あいつも補習らしいぞ。ま、俺がお前に補習するって言ったからだけど。…話し合ってみろよ」
「教師ってそんなことまで知ってるんだ?」
呆れたように言う健に譲は微苦笑を浮かべて言った。
「聞きたくなくてもお前らみたいに目立つ奴らの情報はいくらでも入ってくるんだよ」
「面倒くせぇ」
「…西島、安藤をよろしく頼むな」
「あんたに言われる筋合いないし。じゃあね、先生」
手をひらひらさせながら健は背を向け、教室を出た。その姿を見ながら譲は一つ息を吐き出す。
若い、と思った。自分も若いと言われる歳だが、彼らはそれ以上に若い。そして自分たちにもこんな時期があったのだと思い出す。
譲はスマートフォンを取り出した。履歴の一番上にある人物を呼び出す。なんだか無性に会いたくなった。二回目のコールで聞こえた声に思わず頬が緩む。
「あ、友香。今、大丈夫?…え?別に何があるってわけじゃないんだけどさ、なんとなく、声が聴きたくなって。…え?いや、別にやましいことなんてないって。マジで。…あ、ってか聞いてくれよ?なんか、俺、全然先生としての威厳がないみたいなんだけど。今も生徒に始終ため口で話されるし……」
他愛もない話を友香は相槌を打ちながら聞いてくれる。幸せだと思った。結婚し、恋人から夫婦になった。自分自身も子どもから大人になった。いろんなことが変わってきたし、これからも変わっていく。健に言ったように、これから先、友香を傷つけてしまうこともあるだろう。それでも最後には笑い合える2人でいたいと思う。そして友香が隣にいればそれができると思う。
「友香、愛してるよ」
電話の向こうで照れたように戸惑う奥さんに譲はやっぱり幸せだと思った。
廊下をゆっくりと歩く。話せと言われても何を話したらいいのかわからなかった。教室を覗くと窓側の席で外を眺めている智樹の姿があった。気づかれるようにドアを2,3回ノックする。
「あ、健」
「よう」
軽く手を上げた。教室の中に入り、智樹の前の席に座る。朝に言い合ったばかりで普通に話しかけるのがどこか気恥ずかしい。けれど智樹は何も思っていないのかいつもの笑みを浮かべた。
「健も補習だったんでしょう?終わったの?」
「ああ」
「すごいね。俺なんか全然終わんないよ。難しすぎ」
「…しっかり応用編のプリント作ったんだな、智樹のところの担任。真面目」
「え?」
「いや、こっちの話。…なあ、智樹」
「ん?」
「……あいつのこと、本気か?」
「絵梨ちゃん?」
「ああ」
「朝も言ったけどさ、本当に最近かわいくなったよね、絵梨ちゃん。恋する乙女はやっぱり違うね。それにもともと性格はいいのは知ってたし」
「…」
「本気でほしいって言ったら健はどうする?」
「本気なら本気でもいいよ」
「え?」
健の言葉が予想外だったのか、智樹は思わずそう漏らした。健は視線を逸らすことなく智樹に伝える。
「智樹がどう思うのか。それは智樹の自由で俺には何も言えないことだ。だから智樹があいつのことをどう思ってもいいし、好きにしてくれればいい」
「…いいんだ。絵梨ちゃんのこともらっても」
「あげねぇよ」
「は?」
「たとえ智樹が本気だとしても、俺は絵梨を離さないし、絵梨に智樹を見させたりもしない」
「…俺は、健より優しくできる自信があるよ。絵梨ちゃんが必死で健に釣り合うように努力してることくらい健だって気づいてるだろ?俺だったら、ちゃんと『かわいい』って伝えるし、『好き』って言葉もちゃんと言う。不安にさせたりしない。…嫉妬に駆られて傷つけるような言葉も言ったりしない」
「智樹の言うとおり俺は優しくしてやることもできないし、上手く言葉で伝えることも苦手だ。俺なんかより智樹と付き合った方が絵梨にとってはいいのかもしれない」
「なら…」
「でも、あいつだけは譲れないんだ。…俺は絵梨を幸せにするなんて言えないけれど、でも、絵梨と一緒なら幸せでいられる気がするんだ。そこまで思えるほど、俺はあいつに惚れている」
「…」
「だから、本気って言うならその勝負受けて立つぜ。負けねぇけど。…ちなみに、俺は絵梨もお前との友情もどっちも手離す気ねぇから」
「……なんだよ、それ。相変わらず俺様だな」
「まあな。だって俺、西島健だぜ?」
「意味わかんないし」
そう言って2人で小さく笑った。2人を包んでいた重たい空気がどこかに流れる。
健はふと、窓の外に視線を映した。そして、一瞬目を丸くする。そんな健に智樹が首を傾げた。
「どうかした?」
「…あいつ、また余計なことしやがって。心配する俺の身にもなれっての」
「え?」
「絵梨が正門前にいる」
健の言葉に智樹も視線を動かした。しかし絵梨の姿を見つけられない。
「絵梨ちゃん、いる?黒髪のロングの子なんて見当たらないけど」
「…髪切ってセミロングになってる。しかも、茶色く染めてやがる。…悪い。俺、もう行くぜ」
健は智樹の返事を待たず教室を出た。廊下の音から走って向かったことがわかる。
智樹はもう一度外を見た。正門前にいるセミロングの女子を見る。髪は茶色というよりは黒に近い焦げ茶と言ったところか。じっと見ていると彼女が振り返った。横顔しか見えなかったが正面から見ればなるほど絵梨だとわかる。しかし、それはあそこにいる人物が絵梨であると聞かされていたからこそ気づいたに過ぎなかった。
「……完敗じゃん」
窓に手をつきながら健とならび学校を出て行く絵梨の後ろ姿にぽつりと言った。
沈黙が痛い。絵梨はそう思った。正門前で補習を受けていた健を待っていたことも、変わった髪型についても健は何も言わなかった。ただ、「帰るぞ」と一言告げただけでそれ以外の会話はしていない。やはり似合っていないのだろうかと思わず髪を触る。優里との買い物の予定のはずがなぜか美容院に行き、生まれて初めて髪の色を染めた。先生たちに注意されない程度の黒に近い茶色に染めた髪。腰の長さまであった髪は肩まで切った。
絵梨は泣きそうになり下を向いた。突き放すなら思い切り突き放してほしい。繋がれた手を見てそう思う。
「…髪、思い切ったな」
「え?あ、うん。…そっちの方が似合うって言われたから」
「確かに、よく似合ってる」
「……え?」
健の言葉に絵梨は思わず顔を上げた。そこには笑っているような、けれどどこか困ったような健の表情があった。
「そのメガネもよく似合ってる。かわいいよ」
「…西島くん?」
「本当は朝、言いたかったけど、でも、絵梨がかわいくなったことより、そのせいで他の奴らが絵梨を見るようになるのが嫌で何も言えなかった。ごめん」
「…どうしたの?何かあった?」
お昼までの態度とは違う健に絵梨は首を傾げる。そんな絵梨に健は苦笑を浮かべた。
「言われたんだ。俺はまだ若いから何したって自由だって。それって、絵梨も同じことだろ?絵梨が今日、俺に言ったように、絵梨が何したって俺がどうこう言えることじゃない。お前の自由だから」
「…」
「でも俺は絵梨を離さないし、これからも好きでいる。…それだけでいいって気づかされたんだ」
「…西島くん」
「なあ、絵梨。俺以外を見たっていいよ。でも、俺は何度でもまた俺に恋をさせるから。そのことだけは覚えてて」
「……見ないよ。西島くん以外なんて」
「わかんないぜ、そんなこと。だって絵梨は本当にかわいくなった。セミロングもよく似合う。…周りが放っておかない」
「それを言うなら西島くんでしょう?綺麗な女の子たちに囲まれちゃって」
「…絵梨もやきもち妬いてた?」
「妬かないわけないでしょう?」
少しだけむっとした絵梨の顔を見て、健は嬉しそうに笑った。
「笑ってる場合じゃないんだけど。こっちは、釣り合うように必死なのに」
なんだか泣きそうになった。だって、どう頑張ったところで追いつかない。けれどそんな絵梨に健は首を横に振る。
「いいだろ?釣り合わなくたって。…俺が絵梨を好きで、絵梨が俺を好きで。それだけで十分なんだってさ」
「え?」
「…橋元の言葉」
「橋元先生?」
「……橋元は大人だな。絵梨が惚れたのもなんとなくわかった気がした」
「でも、今は、西島くんが好きだよ」
表情を伺うように絵梨が言う。その絵梨を見て健は笑った。
「知ってる」
「そっか」
「絵梨」
「ん?」
「…俺は優しくしてやることもできないし、上手く言葉で伝えることもできない。それでも俺の隣にいてほしい。泣かせないとは言えないけど、ずっと傍にいて、最後には笑わせる。それなら約束できるから」
「うん」
ほのかに頬を赤く染めて頷く絵梨を健は抱きしめた。絵梨もゆっくりと背中に腕を回す。
「あいつの受け売りってのはなんか癪に障るけどな…」
「え?」
「こっちの話」
「そっか」
「…なあ、絵梨」
「何?」
「俺だけ見てろよ」
「言われなくても」
そう言って絵梨は顔を上げた。健と目が合う。その目が優しくてなんだか泣きそうになった。ゆっくりと下がってくる健の整った顔。絵梨は静かに目を閉じた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!なんだか尻すぼみ感が激しいですが、自分としては満足です。ちなみに、需要はなさそうですが、できれば智樹のお話も番外編みたいな形で書きたいと思っています。いつになるかわかりませんがUPする予定ですので、そちらもよろしくお願いいたします。
コメント、評価等いただけたら幸いです。