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ウキオケ  作者:
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第一話(シーン1)

 蒸気船__科学の粋を尽くして造られ、自然の力に頼らずに機械の力によって自力で洋上を往来できる船であり、産業社会と国際化社会の開幕の象徴。

 国際港湾__旅客、貨物を問わず国家間を往来する船が幾つも出入りする港湾であり、其処では人々の出会いと別れ、人生の始まりと終わりが共に有る。そして時には様々な人間の国境をも跨いだ欲望が渦巻き、犯罪の侵入と脱出が繰り広げられもする。それに対抗する為に、港湾労働者を守りつつ海と港湾周辺の土地等の治安を維持する公的機関が港湾内に置かれるのも自明の理というモノであると言えよう。



                   *       *       *



 ガランフ共和国-国家憲兵隊の内部部門である海上憲兵隊の地中海群-アジャクシオン分庁に勤務する、二十代半ばで長身かつグラマラスな女性私服憲兵__スルヤ・アラス軍曹は後頭部上方で纏めたブロンドの髪の余りを揺らしつつ吊り上がった琥珀眼を見開きながら、分庁舎の出入口たるドアを開けると其のまま外へ出て すぐ傍の道路を足早に歩んでいった。

 6階建ての海上憲兵隊分庁舎であるアジャクシオン分庁々舎を背に道路を少し進んでいった所に在る岸壁には、白い外輪式木造機帆船が停泊していた。バウスプリットらを除いても全長60メートルくらいの大きさがある船なのだが、全長120メートル~210メートル前後の全金属船が大型船として標準的な大きさとなっている現在では中小型船に分類される。

 その船に乗り込むべく乗船用タラップに近づくと数名の門番役の船員が此方の存在に気付いて着帽時用の縦式敬礼をしてきたので脱帽時用の敬礼を返して其のまま足早にタラップを上がる。タラップを上がり終えて上甲板に出ると、船客用の部屋が集中した船尾楼へと向かう。船尾楼へのドアを開けて其の内部に入って廊下を少し進むと“共同通信指令区画上階”と書かれた分厚い案内板が天井から吊るされており、その奥の船尾側に在る正規軍艦でいう提督室に相応する部屋には“課長共同事務室”とガランフ語で書かれた大きな表札が取り付けられており、その向かい等には参謀長室と幕僚事務室に相応する部屋が有って “係長室” “母艦気球隊本部”と書かれた大きな表札が それぞれ取り付けられていて、それらの隣や周辺には小さな個室や数人部屋が幾つか並んでおり、係長室の隣には“留守居添役用私室”と書かれた大きな表札が取り付けられた小さな個室も存在しているの等が確認できる。

 係長室から金髪紅眼の青年が出てきたのに気付いてアラスは足早だった歩みの速度を落とした。


「ん?……おはようございます、アラス軍曹」

「んー、おはようさん。メルヒャー伍長」


 金髪紅眼の青年__私服憲兵のミルコ・メルヒャー伍長がアラスの存在に気付いて、頭を少し下げて挨拶をしてきたので、それに挨拶を返すアラス。互いに軍隊式敬礼の類とはいえない感じのモノなのだが、憲兵隊それも海系かつ日頃から職場を同じくする同僚相手になのだから、威儀を正す必要がない限りは之で良い。海上憲兵隊が属する国家憲兵隊も軍隊の類なのだが、陸海を含めた三軍の中では最も規模と格式が低くて主要任務が純軍事業務ではなく警察業務であるという事もあって あまり肩苦しくならない土壌が育まれているのだ。また、陸系よりも一職場内での身内意識が強くフランク化が進み易いという海系だというのならば猶更である。


「それはそうと、メルクーリ小隊長が本土の方へ行ってるんだって?」

「ええ、そうですけど……」

「なんで刑生組けいせいそ課の中でアタシにだけ教えてくれなかったのさ?“ロレオク留守居添役”のメルヒャー伍長?」


 アラスはミルコ・メルヒャーの役職名を強調しながら彼へと詰め寄った。彼女は、自身の上官に当たるメルクーリという係長の地位に有る私服憲兵が単身 本土まで赴いているというのを今日、アジャクシオン分庁の刑生組課の他の憲兵達から聞かされたばかりだった。他の課員全員が既に知らされている中で、自身にだけ今日の今日まで知らされていなかったのが少し面白くなかった。それで、メルクーリ係長が兼ねている此の白い外輪式木造機帆船__特捜巡視船ロレオクへの刑生組課々長用優先座乗船としての“留守居役”という役職への補佐役たるロレオク“留守居添役”に在るミルコ・メルヒャー伍長の元へと説明を求めに来ていたのだった。


「あ、いや、だって軍曹その時は別に張り込み中で、分庁に来てなかったでしょ!こんな内容を覆面パトまで無電するのも何だろうし……」


 メルヒャーが愛想笑いを浮かべながら理由を話した。メルクーリ係長が本土まで赴く事が決まった時、アラスは別の事件にて昨日の夜に終えるまで張り込み等を続けていた為にアジャクシオン分庁舎には不在だった。また、確かにメルヒャーの言う通り、張り込み中の憲兵の覆面パトカーまで態々 無線電信を送ってまで報せる程の内容でもない。自身だけ今朝まで知らされなかった理由を一応は理解したアラスは舌打ちしつつも一応は矛を収め、次の言葉を続けた。


「ちッ……確か、ナセリとかいう出所予定の元・銃器密輸犯から話を聞く為だそうだね?」

「ああ、はい。時間的に多分 今頃は、そのナセリに会って話を聞き出してるんじゃないかと……」

「ふぅーん……ま、ナセリってのが逮捕された罪状が銃器密輸だそうだし、係長が帰ってきたら面白そうな事に成りそうな予感がしなくもないから、それで良しとするか」

「面白そうって……ちょっと不謹慎ですって」

「自分の職務に気合を入れようと思ってるようなモンなんだから、別にいいじゃないか」


 アラスが機嫌を直して微笑を浮かべつつも何らかの事件でも起こる事を楽しみにしているかのような言動をすると、メルヒャーは顔を少し引き攣らせながら短く忠告してきたのだが、アラスは其れへ開き直るような内容の返事をした。


「おーい、そこの二人。船内の廊下で長話するのは勘弁してちょうだい」

「え?ああ、ヴァイヴァース船長。申し訳ありません」


 アラス以上の長身とグラマラスな肢体を有し、鋭い青眼とショートヘアにした白銀髪をした女性__このロレオクの船長であるイザベル・ヴァイヴァース海憲大尉が、二人に歩み寄って来て注意をした。メルヒャーが彼女へ謝罪を口にした直後に、アラスは脱帽時用の敬礼を崩した感じに頭を少し下げてから口を開いた。


「なんだ、船長。珍しく御堅い事を言いますねえ」

「柔らかいのは、船内にとって万国共通な規則の範囲内でだ。あまり廊下の幅が無いのだから、立ち止まって長話されたら通行の邪魔でしょう」

「了解……って船長にだけは通行の邪魔扱いされたくない気も……」

「人の胸と お尻を見ながら言うんじゃない」


 アラスも其の上官であるメルクーリ係長も充分に大きさの有る胸と尻などをはじめとした良好なスタイルを有している筈で、実際にアラス自身もスタイルには大きな自信を有しているのだが、ヴァイヴァースの場合は殆ど桁外れだった。サイズが三桁に届く程の乳房と其れに正比例して巨大さと形の良さを兼ね備えた尻を二大筆頭に、其れ等に正比例した太さが有るものの引き締まっている範疇には入るくらいのウエストと、同性視点からでも見入りたくなる代物である。アラスの歳が20代中盤から後半への過渡期くらいなのに対して、ヴァイヴァースの歳は30過ぎなのだそうだが、20代では未だ成し得ない成熟しきった年増女ならではの魅力という事なのだろう……それに加えてヴァイヴァースの場合は、肌の質感だけが ほぼ年齢相応なのを除けば顔等の皺や弛みに対しての強力なアンチエイジング体質でもあるのだろうが。


「柔らか……」

「んー?アタシのも気になるか?」

「あっ!いやその……」


 二人の遣り取りを見聞きして変に意識でもしたのか、メルヒャーが自身の頬を掻きながらアラスとヴァイヴァースの胸と尻を交互にチラチラと見ながら短く呟いた。言葉の内容の理由は恐らく、先程にヴァイヴァースが御堅くなくて柔らかく在れる範囲内について説明した時の“柔らかいのは”から来ていると思われる。女顔の半女性体型とはいえ、やはり彼も20歳過ぎの男性なのだという事か。

 アラスが からかうようにしてメルヒャーに聞くと、彼は動揺を示した。もっとも、動揺の仕方から察するに、聞かれた内容の返事に困ったというより寧ろ、視線と呟きを感づかれていた事に対しての動揺の割合が多いと思われるが。


「はぁ……まったく……そう焦らずとも、アラス軍曹の言ったとおり、このロレオクを投入する程の事件になるのではないかと私も思っている。時期を待ちなさい、時期を」

「なんだ船長も聞かされてたんですか。しっかし、この船をか……そりゃ楽しみですね。信じましょう」

「ちょっ、船長まで……」


 ヴァイヴァースが呆れたように呟いた直後に言った台詞を聞いたアラスは、不敵かつ少し危険そうな笑みを浮かべながら返事をした。このロレオクはガランフの海憲用巡視船の例に漏れず、巡視船化までの経緯から海軍艦に比べると軽装備なのだが、それでも長砲身90ミリ砲が計10門に30ミリ七銃身ガトリング砲が計4基に汎用可動銃架が計20基という風に其れなりの装備を有しており、これを投入する必要が生じる程の事件となると相当な規模となるだろう。ヴァイヴァース自身は国家憲兵隊に入るに当たって捜査の教育自体は受けているものの生粋の捜査官ではなく、灰汁までも操船に関する事が専門分野であるものの、長らく自身の乗船を捜査に使われてきただけに、事件の類に対しての勘が働くようになっていったのだろう。アラスの隣では、ヴァイヴァースの台詞から彼女も事件規模の発展を楽しみにしているかのように聞こえたのか、メルヒャーが少し驚いたように台詞を発したのだが、その御陰で彼も先程の動揺が解けたようだった。


「ほーら、それより、話をこれ以上 続けるのなら、船室に入るか上甲板に出るか船から降りるかの三択にしてくれ。さあ、行った行った」


 船内の廊下での会話を止めに来て、話が少しだけ長引いた事に業を煮やしたのか、ヴァイヴァースは手を叩きながらアラスとメルヒャーに廊下から立ち去るよう促した。


「ふぅ……了解しました。それじゃメルヒャー。アタシは これで分庁に戻るから」

「ああ、はい。どうも」

「ん」


 ヤレヤレとでもいった感じに短く小さな溜息をつくと、アラスは頷いてヴァイヴァースへの返事をしつつメルヒャーへ告げると、一応、其々と各々の形での敬礼をし合ってから踵を返してロレオクから下りるべく歩き出した。職務柄と時間帯的に、先程にヴァイヴァースが出した三択のうちアラスは三つ目を選んでメルヒャーは一つ目を選ぶのが筋とでもいうモノだ。先程のメルヒャーやヴァイヴァースとの会話によって乗船時とは対照的に上機嫌となったアラスは、軽やかな足取りでアジャクシオン分庁舎の刑生組課のフロアへと戻って行った。


 なお、アラス達が属する“刑生組けいせいそ課”とは、“刑事生活安全組織犯罪対策課”の略称であり、刑事生活安全組織犯罪対策課とは刑事課と生活安全課と組織犯罪対策課を統合したモノである。アジャクシオン分庁のような陸上勤務員が80名前後で船舶乗組員を含めても200名強という中小規模な庁舎では、この三つの課は一つの課へと統合される事となっている。

 そして留守居役__正式名称“巡視船留守居役”と、留守居添役__正式名称“巡視船留守居添役”とは、ガランフ共和国の海上憲兵隊における独特な制度・役職であり、名称の由来は東アジアに存在する島国に約三十年前まで存在した封建政権内での諸侯側の役職名から取られている。ガランフの海上憲兵隊では“最優先座乗船制”と言う階級が少佐以上の課長以上の者へ、自身の所属庁舎へ配備されている巡視船のうち特定の一隻のみを指定して自身の課の業務執行時に優先的に座乗し、海軍艦でいう提督室と提督席に相応する課長共同事務室と指揮官席を優先的に使用する権利を付与するという制度がある。ただ、専用ではなく灰汁までも“優先”であり、必要に応じて他の課の課長が座乗する事や複数課での合同捜査などでは複数の課長が乗船する事もあるため、特に後者の際には課長共同事務室は其の名の通り複数の課長が共同で使う事になっている。そうした上で誰の優先船なのかを常に明確化すべく、優先座乗船を指定された課長には係長の地位に在る部下を一人だけ留守居役として船内の係長室へ寝泊りさせ原則として其の船から庁舎まで通勤させる、という権限も付与されるようになっている。さらに、留守居役に任じられた係長も地位の関係上、自身の所属課の業務に従事すべく陸に上がって船を長らく開ける事も有り得るので、部下の係員を一人だけ補佐役たる留守居添役に任じて対象たる船の留守居添役用私室へと常駐させる事となっているのだ。



                   *       *       *



 ガランフ共和国の地中海側沿岸部にある大型国際港湾から、蒸気自動車で数分の位置に建つ刑務所。その門前から少し離れた場所にて一人たたずむ若い女性。イザベル・ヴァイヴァースやスルヤ・アラスほどではないものの充分にグラマラスの範疇に入る長身をして、前をワンレングスにしつつ後を昔の東洋の髪型だという玉結びにした非常に長い暗紫髪を揺らしている。彼女は、今日この刑務所から出所してくる筈の人物から或る事を聞きだすべく、ここで対象たる人物が出て来るのを待っているのだった。

 と、刑務所の鉄格子型の門へと刑務官が歩み寄って門を開けると、それに続いて門から色白の若い男大きな鞄を持って歩み出てくるのが見えた。彼は刑務官に小さく会釈すると其のまま刑務所から離れるように ゆっくりと歩き出した。


「あぁー!……はぁっ……」


 年単位に及ぶ投獄生活から解放された気分を改めて味わうのを兼ねてか、男は気持ちよさそうに大きく伸びしていた。

 暗紫髪の女性は、念の為に確認をすべくポケットから写真を取り出した。技術の関係上、顔写真では白黒に写っているがコレが色付きになった場合を予想してみると、確かに対象たる人物に間違いない。そう確信すると暗紫髪の女性は、目元に装着しているラップアラウンド型の黒いワンピースレンズ・サングラスの僅かなズレを直しながら男へと歩み寄った。


「ナセリさん」


 色白の若い男__シメオン・ナセリへと呼びかける暗紫髪の女性。出所してから一分も経たぬうちから唐突に、目元を隠した見知らぬ女性から名指しで声をかけられたからか、怪訝そうな顔をこちらに向けた。


「アジャクシオン分庁のローダ・メルクーリ海憲少尉よ」

「アジャクシオン分庁?俺に何の用が?」


 長身グラマラスで玉結びにした暗紫髪の女性__ローダ・メルクーリ海上憲兵隊少尉は、高フィット率な黒いビスチェ型ミニワンピースのポケットから身分証明書を取り出してシメオン・ナセリへと見せた。

 彼女は、アジャクシオン分庁の刑生組課に属する私服憲兵で係長および特捜巡視船ロレオクへの留守居役の地位に有るのだが、ある事件に関する事でシメオン・ナセリから話を聞き出すべく、自身の係の管理を最高位の部下に代行させて此の本土の刑務所まで自ら赴いてきていたのだった。

 ローダ・メルクーリの身分を教えられて困惑気味な顔をしながらも言葉を返すナセリへ、用件を伝えるべくメルクーリは口を開いた。


「ちょっと、話してもらいたい事があって。アナタは刑務所暮らしで知らないだろうけど……今、セイ・リゴッティ自動小銃が出回っているの」

「セイ・リゴッティ?」

「惚けないでよ。アナタが三年前に運んだのと同じ種類……公にはイトルリア王国で少数試作しかされていないという事になっている筈の自動小銃とやらよ」


 メルクーリは含み笑いを浮かべていきながら、言葉を続けた。実は現在、アジャクシオン・コミューンが在るカシルコ島とガランフ本土地中海側では、隣国の一つである立憲君主国家__イトルリアにて少数が試作しかされていない筈のセイ・リゴッティという“自動小銃”を使った事件が頻発していた。それで、今から三年前に同じ自動小銃の密輸に携わった罪で捕まって投獄されていたナセリから話を聞く必要が生じたのだ。


「……それで、俺に何を喋れと言うんです?」

「三年前の密輸ルート……もう、そろそろ話してくれても いいでしょ?」

「……冗談は止してくれ。俺は三年前に何もかも全て話したんだ。それ以上は何も知らん。話す事は無い!」

「……ナセリさん!」


 ナセリが三年前に携わったというセイ・リゴッティ密輸事件での密輸ルートは、海上ルートであるらしいという事以外は よく解っていない。三年前に取り調べられた際のナセリいわく、彼自身は末端として携わっただけなので、密輸ルートの詳細内容までは教えられていないとの事だった。しかし、三年前は確証らしい確証を得られなかったそうだが、彼の証言と状況に少し矛盾していなくもない点が有ったそうで、この度の密輸事件に際して改めてナセリから密輸ルートの事について話を聞き出せれば、何らかの大きな手掛かりになると思われたのだ。やはり知らないと言って去ろうとするナセリを呼び止めようとしたところで、向こうから若い女性が駆け寄ってくるのが見えた。


「兄さん!」

「エディス!」


 ナセリへと駆け寄った若い女性は笑顔で彼へ抱きつくと、ナセリも其れを笑顔で受け止めた。そういえば、シメオン・ナセリにはエディス・ナセリという妹が居ると聞いたが、あの女性が其のエディス・ナセリなのだろう。


「よかったね!出所、おめでとう!!」

「迎えに来てくれたのか」

「うん!でも、元気そうで良かった!」

「あはは」

「荷物、持つ」

「うん、行こう!」


 エディス・ナセリは、出所する兄の事をわざわざ本土まで迎えに来たようだ。二人とも三年ぶりもの再会を互いに喜び合っているようで、あれに割って入って詰問を再開するのは流石に気が引けた。メルクーリは歩み去っていく二人の後姿をやむなく見送った。


「ん?」


 歩み去るナセリ兄妹から少し離れた位置の木陰に、薄いサングラスを掛けたラウンジスーツ姿でモジャモジャ頭な壮年の男性の姿が確認できた。彼は暫し木陰に佇ずむと、気怠そうに首を回しながら其の場から歩み去っていった。


(まあ、いいか。今はナセリを優先すべきだろうし……)


 モジャモジャ頭の壮年男性の様子が特に怪しく且つ見覚えの有る顔だったというワケでもなかったのに加えて、シメオン・ナセリをもう一度 問いただす算段を考える方に頭を使うべきだと思えたので、例の壮年男性については特に気に留めない事にした。


(仕方ない。近くの港を通じて船舶会社に妹さんが予約している船を問い合わせて、それで私も一緒に帰りながら、その時に……)


 あの兄妹の現住所はカシル県ことカシルコ島となっているため、この本土から船でカルシコ島まで帰ると判断して間違いなさそうだから、その船を妹のエディス・ナセリが予約している筈だ。それに自身も同乗してアジャクシオン分庁舎の在るカシルコ島へと帰りながら船上にて機会を見て、また聞き出そう__メルクーリは そう算段を立てた。彼女は、それを実行に移す為に近くの港へと向かうべく小走りをはじめた。


                   *       *       *


 カシルコ島の港へと向かう客船の船内。個室と船内喫茶店の付いた客船としては最も小型な部類に入る機帆船である。その船内喫茶店のテーブルの一つに、メルクーリはシメオン・ナセリと向かい合って座っていた。そこから少し離れた席にはエディス・ナセリが座っており、横目で其れを確認してみると彼女がチラチラと心配そうに此方側へと目をやっているのが見える。ガランフ本土の刑務所の前で二人と別れた後、刑務所から最も近い港を通じての船舶会社への問い合わせが功を成し、こうしてナセリ兄妹の二人が乗る船へと自身も乗り合わせる事が出来、さらにメルクーリから彼らに御茶を奢る事によって彼女の思惑通り斯うしてシメオン・ナセリから話を聞き出す機会を改めて得たワケだ。もっとも、その機会を得る事に関しては上手くいったものの、その上で話を聞き出す事に関しては此の船と違って難航状態が続いていたのだが。


「妹にも迷惑をかけて……三年間も時間を無駄にして、俺は後悔してるんだ」


 真面目な表情のまま話すシメオン・ナセリの言を聞きながら、メルクーリはティンダーピストルを使って愛用の東洋製如心煙管に火を付け、それを一口 吸った。今の彼女はサングラスを外しているため、彼女の菫眼が露わになっている。


「……もう二度と国家憲兵とかの世話にはならないさ」


 そこまで話すとシメオン・ナセリは自身の席側に置かれたコーヒーの残りを飲み乾した。メルクーリの中で彼が密輸ルートを知っているか否かについての疑念が晴れたワケではなかったが、少なくとも今の彼の態度からは特にコレと言った怪しさは感ぜざるを得なかった。


「……カシルコ島の港に着いたら、列車で国許に帰る」

「……国は確か、バスティナだったわね」


 ナセリ兄妹の出身地であるバスティナというコミューンは、メルクーリが所属する分庁舎が有るアジャクシオンから北西へ155キロの地点に存在する、カシルコ島第二の港湾都市だ。


「ん。だからさ……俺の事は、もう放っといてくれ!」


 シメオン・ナセリはカップを置くと椅子から立ち上がり、テーブルの下に置いていた自分の鞄を持った。この船内喫茶店から去ろうというのだろう。


「おい、エディス。船室に戻るぞ」

「ナセリさん!」


 此方に背を向けて歩を進めながら妹のエディス・ナセリへ一緒に船室に戻るよう促すシメオン・ナセリ。彼に促されたエディス・ナセリも席を立ち、シメオン・ナセリの後に続こうとした。メルクーリは自身も立ち上がって、シメオン・ナセリへと詰め寄った。


「もう一度だけ聞くけど、どうしても話す気はないのね?どうなの?」

「くどいですよ、少尉さん」


 メルクーリが念を押すべく問うと、シメオン・ナセリは苦笑を浮かべながら返事をすると其のまま去っていった。エディス・ナセリがメルクーリの近くまで来た時に深めに会釈してきたので、彼女は自身も会釈を返した。


「……ここの奢りの金、無駄になったわね……」


 メルクーリは船室へと戻っていく二人の後姿を見送りながら、そう呟いた。シメオン・ナセリから少しでも聞き出し易いようにする為に、お茶を奢ったのに其の出費も無駄となってしまった。さらに、カシルコ島の港に着くまでに再度 会って話を聞く機会は無い事も無いのだが、先程のシメオン・ナセリの言動と態度からして真偽は兎も角これ以上の進展は期待できそうにもなく且つ出所して一応は罪を償い終えたばかりの者を拘束して強引に尋問するワケにもいかない以上、事件の手掛かりを求めて態々 本土まで足を運んで来た事自体が最早、水泡に帰しつつある。自身のカシルコ島への帰りの途上で密輸ルートの内容を聞き出すという一石二鳥とは行きそうにもなく、流石にメルクーリも憮然となった。彼女は仕方なくナセリ兄妹へ奢った分を含めた代金を支払うべく、勘定書を持って船内喫茶店のレジへと向かった。

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