街角で
ポプラ並木の公園を抜け、大通りを二つ過ぎたら、角を曲がって三件目。
ベージュの小さな立て看板のある、小さなコーヒーショップ。
ここの店のオリジナルブレンドがおいしいんだと、自称『通』を名乗る叔父にお使いを頼まれた。
お手製の地図まで手渡されたが、行ったことが無い店になど一人で入りたくないと苦言を呈する。言外に「それくらいテメェで行きやがれ」と匂わせたつもりだったが、空気を読む能力を善意に吸収されてしまっている叔父は、感知することなく大らかに笑って、じゃあ一緒に行こうかと見当違いな結論に至り、ご丁寧に同伴する形となった。
お前は本当に出不精だな、などと、いらぬ感想までぶら下げながら。
そこで私は『ソレ』に出会った。
ソレは先客だった。ケーキの並んだショーケースの前に立ち、カウンター越しに店主と思しき男性と会話をしていた。
上等なフロックコート。洒落た鍔付き帽子、整った顔立ちの伊達男だったが、何より私の第一印象は(…長い)だった。踵の高いブーツを履いていたのも理由だろうが、それを抜いても背は高かった。私が平均身長より低いことを差し引いても、だ。もっともそこは別段気に入る部位ではなかったが。
叔父は顔見知りらしく、お互いに会釈をしていた。それから他愛ない天気の話などをすると、ソレは紙袋を抱えて店を後にした。
後で聞いた話だと、私は随分しげしげとその客を観察していたらしい。普段から無表情無関心を憂いていた叔父は良い傾向だと喜び、コーヒーの買い出しは私の仕事にされてしまった。
「あの人は最近奥さんを亡くされた寡暮らしでね、この街は奥さんの故郷だから、知り合いは少ないみたいだよ」
聞いてもいない情報と共に渡される現金。無言の強制だ。
勿論意識も興味も持った覚えは無く、ただ外側からそう『見えた』だけで押し付けられた雑用に、私は盛大に嫌な貌をしたが、それすら照れ隠しと受け取って笑顔で送り出す叔父の頭を灰皿で殴ってやろうかと、その時は真剣に思案したものだ。
ポプラ並木の公園を抜け、大通りを二つ過ぎたら、角を曲がって三件目。ベージュの小さな立て看板の、小さなコーヒーショップが見えるまでに、私はとりとめも無く思考を巡らせる。
出掛けに言われた一言が、奇妙に引っ掛かっていた。
『お前は、もう少し他人に興味を持ちなさい』
何故に興味の湧かぬことに興味を向けねばならぬのか。意識して向ける時点でそれは興味と呼べないのではないか。全くもって理解に苦しむ注進だったが、それならば少し動いてみるかと思案する。
気まぐれの虫が騒いだのは、吹く風に甘い春の気配を感じたからだろう。春は間違いを起こしやすい。
店の中で、先回りしていたかのように佇む例の男を見つけ、前置き抜きでいきなり問うた。
「奥さんはどうして亡くなったのですか?」
やはり後で言われたことだが、私には会話のキャッチボールたる才能が皆無だという。よく相手が憤慨しなかったと呆れられた。
正直、この時先方が何を感じていたのかは分からない。限界まで見開かれた双眸は驚きを呈していたが、少なくとも狼狽や憤怒は見受けられなかった。
時間から弾き出されたように、見つめ合ったまま固まる。このまま行けば恋でも始まるかしら、などと下らない疑問符を浮かべながら返答を待つ。
「―――死に病で」
蜉蝣の羽ばたきに似た、小さな呟きが返事だと理解したのは、更にたっぷり二十秒は経過した後。
微かに唇に弧を描いた男を二度三度まばたきして見つめ直し、今度は私が狐につままれた顔をする番だった。あっさり応じたのもさることながら、余りに平凡な答えには無意識のうちに落胆してしまった。冗談でも「私が殺しました」などと言ってくれれば、久しぶりに他者に声をかけた甲斐もあったものを。
閑話休題。
「あ」
「…ああ、君は…こんにちは」
ぎこちない笑みを浮かべ、細目が私を見下ろした。
あれ以降、何がどうしてそうなったのか、顔を見ればお互いに「ああ」と言い合う関係になった。
「店主、さくらんぼのクラフティを」
「私、ダークチョコとミントのケーキ」
「ここのクラフティはおいしいよ?特に焼き立ては格別だ」
「私、さくらんぼ嫌い」
眼も合わせずに即答すれば、傍らで苦笑する気配がした。
「あ」
「…やあ、君か」
「何か?店主、オリジナルブレンド。それからお菓子も…何にしようかな」
「日射しが強くなってきたね」
「そうね…白桃のムースタルトにするわ」
「あ、僕と同じだ」
「……………」
帰り道、日傘を忘れた。
「こんにちは、今日は暑いね」
「そろそろ袖無しのワンピースを新調しなきゃ。水色がいいわ」
「涼しげでいいね―――オレンジババロアを」
「カスタードプディング―――この店のプディングはカラメルじゃなくてメープルシロップなのよ」
「それは知らなかった。おいしいの?」
「おいしいから、買ってるのよ」
陽光に炙られた外気が、窓ガラスから覗いている。
「―――四種のベリータルト。ワンホール」
「前もそれを頼んでいたね。ベリーが好きなのかい?」
「そうよ」
「なのにさくらんぼが嫌いか…」
「だから?」
「いいえ別に―――ラムバナナとシナモンのトルテを」
枯れ葉が時を刻む音がする。
「アップルパイはカスタードを抜いて」
「珍しいね、僕はアップルパイにカスタードとレーズンは外せないけどな」
「邪道だわ。アップルパイはアップルパイなんだから、リンゴの甘煮だけでいいのよ」
「そういう人もいるんだね。どちらかといえばホットの方が好きだけど」
「それは、私も同感」
会話はいつも、店の外に出ない。
「コーヒーよりも断然ココア」
「一緒にお菓子を食べるのに?口が曲がるよ」
「失礼ね、シンプルなショートブレッドには濃厚なココアが似合うのよ」
「ココアとクッキーか。濃いな。無難にブラックで頂くよ」
「チャレンジ精神が薄いのね。将来きっと禿げるわよ」
「どういう理屈なの?それ」
灰色の冬が、足踏みをしている。
くるくる、くるくると。
季節が巡った。
ポプラ並木の公園を抜け、大通りを二つ過ぎたら、角を曲がって三件目。柔らかな春の大気を掻き分けて、踵を鳴らして闊歩する。
「いらっしゃいませ」
いつもの時間、いつもの場所。扉を潜り、先に出迎えたのは店主の声。視界に飛び込んだのは、背景のはずのショーケース。
見慣れた店に、あるべきものが、欠けていた。
その日を境に現れなくなった。
名前も知らなかった、あの人は。
何度目か、会話の無い買い物を終えて、紙袋を抱えたまま、帰途の最中にふと思った。
―――あれは、きっと季節のようなものだったのだろう。
追ったところで届かない。
惜しんだところで戻らない。
そう自分の中で結論をつけて、欠けた部分を埋め合わせた。
「豆が切れてるぞ」
独り言のようにぼやいた叔父が、ソファーに座る私に訊ねる。
「どうしたんだ?最近は頼まなくても行ってくれたのに」
「最近行ってたからこれからも行く道理は無いでしょう。今日が昨日の続きだとでも思っているの?三十路過ぎてそんな簡単な世界の理も理解できてないなら、生まれる前からやり直したらどう」
本から顔を上げること無く発した連続射撃を背中に、叔父は逃げるようにコートを羽織って出ていった。
数十分後、打って変わって陽気な足取りで帰宅した叔父は、紙袋を二つ下げていた。
胡乱な眼差しを向ける私に、小さい方の紙袋を渡して言う。
「それは、お前の分」
「わざわざ別包装?資源の無駄、環境に優しくない。不適切よ」
「俺からじゃないよ、シキさんからだ」
何故か酷く嬉しそうな叔父の顔を見上げたまま、私は言葉を失う。
「ご実家のお兄さんから連絡が来たらしくて、そっちに戻ったそうだ。急ぎだったらしくて店にも顔を出せなかったって、店主に便りが届いてね。お前には感謝していると伝えてくれって」
紅茶と小箱を手に階段を登り、自室へ引き上げた。
…何か、感謝されるようなこと、したっけ。
店のロゴが入った白い箱の蓋を開けると、真っ赤な色彩が視覚を貫いた。ちょこんと収まっていたのは、私の好きなとりどりのベリー達―――ではなく。
燦然とした光沢を放つ、紅玉の輝きが敷き詰められたそのタルトを束の間睨み、ナプキン越しに直接掴んだ。
「…さくらんぼは、嫌いだって言ったでしょう」
かぶり付いて毒づけば、酸っぱい味が口の中に溢れ、頬を内側からつまんだ。
「じゃあ、よろしくな」
「わかった」
財布ごと渡されたので、駄賃として数枚を自分の財布に移し、お気に入りの帽子を頭に乗せて表に出た。青空の下で、さやかな空気が「先に行ってるよ」と囁いて、傍らを通り抜けていく。
ポプラ並木の公園を抜け、大通りを二つ過ぎたら、角を曲がって三件目。ベージュの小さな立て看板が見えるまで、いつもより少し視線を上げて歩いてみた。
甘い春の風が吹いている。鼻孔から口腔へと流れ込むそれを、ゆっくり味わった。舌先で転がしながら、きっとこれはあの時の風の娘だろうと、我にもあらず叙情的な感慨に浸る。
「こんにちは、また会いましたね?」
店の前で不意に声をかけられた。振り向くと、パンの入った袋を胸に抱いた、柔和な雰囲気の女性がにこにこしながら立っていた。下ろした長い髪が、春風を孕んでふわりと広がる。
「こんにちは、買い物帰りですか?」
「そうなの、貴女は?」
「雑用です」
とりとめのない言葉を交わしながら、一緒に扉をくぐる。
「ガトーフレーズとスコッチトリュフ、それからクルミと栗のパウンドケーキ―――貴女は?」
「まだ決めていないのよ。何にしようかなぁ」
前屈み気味にケースを覗き、無邪気な横顔を見せる相手に、私はちょっと首を傾げて笑った。
「―――ここのお店、さくらんぼのタルトがオススメですよ。もうお召し上がりになりましたか?」




