誰かの日々-樋笠良の場合-
大学の研究室で二晩過ごした樋笠は、古びたソファから身を起こした。
ブラインドを下ろし忘れた窓からは燦々と陽光が差し込んでおり、樋笠は不快だと言わんばかりに目を眇めた。
卒論作業が冗談じゃなくなってきた十月。
一人暮らしの樋笠は自分用のパソコンを持っていないので、普段は大学の情報室で論文の作成を行っていた。一昨日からは、無理矢理教授の部屋を借りている。
大学教授の研究室は、すぐにでも住み着けそうだった。
空調、冷蔵庫、洗面台にテレビ。コインランドリーは大学を出て徒歩一分、風呂はサークル棟のシャワー室を借りればいいのだから。家帰んの面倒くせえ。樋笠は欠伸をしながら本気でそう思った。
とりあえず教授が来るまでに散らかった室内を片付けようと腰を上げると、その時になってつけっ放しだったテレビの音が聞こえてきた。
「寝ぼけてるなー、俺そんなに年じゃねえっての」
ぶつくさ言いながらも毎朝の習慣で、樋笠はニュース番組にチャンネルを切り替える。
時計は午前七時を指していた。
『おはようございます。朝ヨミ月曜担当の森です。今日の東京はどんよりとした曇り空ですねー』
女子アナの、低血圧には堪える素っ頓狂な笑顔が癇に障った。
ザマーミロ。
樋笠は胸中で呟いた。
都会暮らしではない人間全てではないが、少なくとも樋笠は東京人に僻みじみた感情を持っていた。なんだよ都会め、チャラチャラしやがって。中年の上司への悪口の方が、まだ理由が確実で可愛げがあると感じてしまう非生産的な妄言である。
ごそごそと床のプリントを拾い、脱ぎ散らかした衣類を一まとめにする。
丸二日ほとんど籠りっきりだったので、樋笠の顔には無精ひげが浮いていた。
「後から剃らねーとな」
身だしなみはきちんとしておかないと教授の樋笠への評価が下がりかねない。単位の問題である。
「さてゴミ箱はっと……溢れてるし」
見れば研究室自体が一部腐海と化している。
樋笠が陣取っていたのはソファとテーブルのみだったので、十五畳ほどある室内のほとんどは元からが何かの巣窟であるかのように論文や専門書が雪崩を起こしっぱなしで放置されている。無事なのは給湯スペースだけだった。
ここの家主が学問以外不能なことを思い出した樋笠は、何度目かのため息交じりに清掃にいそしみ始める。単位、もしくは卒論もこれでチャラになればいいのにと思いながら。
後はコーヒーメーカーを洗うだけとなったときに聞こえてきたのは、殺人事件の報道だった。
この大学の割と近所で人が殺されたらしい。
「おっす。不健康な顔してるなぁ」
報道を遮るようにノックも無く研究室に入ってきた人物に、樋笠はちらりと目を向けた。
此処におとない無く入る人物は部屋の主ただ一人である。
「ここ空気悪いっすよ」
「その要因はお前にもあるぞ。なんだそのヨレヨレのタンクトップ、無精ひげ。僕はケダモノを室内に飼ってたのか」
家主、改め時真教授は樋笠を一瞥して溜息とともに、そう吐き出した。
樋笠が身につけているのは擦り切れたジーンズと同じく擦り切れた黒いタンクトップ。なぜかスニーカーだけは真新しかった。百八十センチを超える長身も加えると威圧感がある。
「すんません、卒論に没頭してました」
ぼりぼりと頭を掻きながら一応素直に謝る素振りを見せる樋笠。
時真教授は着ている白衣に手を突っ込みながら周囲をもう一度見渡し、自分のデスクが前よりデスクとして見栄えのするものになっているのを見ると「まあいいか」とそれ以上樋笠を追及することはなく、ポケットから折りたたまれた紙を取り出し黙々と折り始めた。
「コーヒー」
「は?」
「飲みたいから淹れてくれ」
「今から洗おうとしてたんすけど」
「なんだ、片付け終わってなかったのか」
「あんたまさか外で覗いてたんですか」
「ここは僕の部屋だよ。覗くとは言わない」
当然とばかりにそっけない態度の教授に、樋笠はどうしようもない脱力感に襲われたが、何も言わずに黙々とコーヒーメーカーを水洗いし、フィルターをセットする。
「どの豆ですか?」
「君の好きなのでいいよー」
途方もなくめんどくさそうに欠伸を噛み殺し折り紙をしながら、時真教授はデスクからファイルを探し出して今日の時間割を眺めている。学生の個人情報が詰まった部屋に頼み込まれたからと言って樋笠を泊まらせるあたり、教授は大雑把な性格だった。
樋笠は戸棚にある数種類のコーヒー豆を引っ張り出しながら、一番消費量が少ないブレンドの口を開けた。五杯分程をフィルターに入れて蒸らし、ミネラルウォーターを注いで黒い液体がサーバーに落ちるのをボーっと眺める。
「バラバラ殺人だってさ、君」
「ああニュースの、近所らしいっすね。バラバラですか」
「うん。両腕と両足がないんだって。この辺も物騒になったもんだ」
なみなみとコーヒーを注いだカップを教授に手渡しながら、樋笠は唐突に飛来した紙飛行機を、反射的に蚊を叩く要領で潰してしまった。
「折角作ったのに」
「俺は悪くないです」
紙飛行機は教授がネットから抜粋した件の事件概要だった。
「君こういうの好きでしょ」
テレビではどうやら特集が組まれているようで、一通り全国の出来事を紹介した後仰々しいテロップと共に殺人事件の報道が再開されていた。
「手足見つかってないんすね。近所って、たった一駅向こうじゃん」
最後の台詞は独り言のようで、樋笠は文字を追っていく。
「そうそう、ここ来るまでも渋滞で大変だったよ。警察もさー、通勤時間くらい考慮してほしいよね」
「いや、もしホントにそうだったら威厳もへったくれもないっすよ」
『繰り返します。今日未明○県○市にて殺人事件が発生しました。午前四時ごろ、新聞配達をしていた男性が道路脇に倒れている人物を発見し事件が発覚しました』
『死亡推定時刻は午前零時から三時の間。犯人は犯行後、血痕が残っていたことから鹿倉大学佐々森キャンパスのサークル棟付近に侵入し、敷地内を進み逃亡したようです』
「うちのガッコ……」
「新聞にも書いてあるでしょ」
『被害者は二十代女性。所持品は全てなくなっており、身元確認に難航しているようです』
『学内は現在も警察による実況見分が行われています』
「ここサークル棟と一番遠くてよかったねえ。でも君、昨日の夜サイレンとかきかなかったの?」
「……サイレンがけたたましいのはいつものことっすから」
「野次馬根性もないんだね、君」
コーヒーをがぶ飲みする教授の傍らで、樋笠も同様にコーヒーをすすっている。緊張感皆無の室内にアナウンサーの深刻そうな実況だけが響いていた。
『続報が入り次第お伝えします』
「じゃあ俺授業あるんで失礼します」
「一限はまだまだだよー。もう少し片付けてくれると嬉しいなあ」
「自分でやってください。こんなんだからあんたの研究室は誰も近づかないんですよ」
「否定しないけど、人が来ないのを利用して居座ってる君がいるからねえ」
現在時刻は八時過ぎ。
授業開始までは一時間ほどあったので、樋笠は食堂に向かうことにした。