誰かの日々
群像劇のようなものが書きたかったので。
「負けたのよ」
過去の記憶を辿ると、女の声が響く。「負けた」という悲観的なニュアンスを持つ言葉を発しているのに、女の声はむしろ「勝った」と言いたげに溌剌としている。
美しい赤い唇の端が上がり、天女の笑顔を覗かせながら誰もが目を奪われ、きっと惹きつけられる。彼女はそういう女だった。
それが何年前の出来事で、どんな状況で男の耳に入ったのか、知る者は最早男以外いない。いるはずもなく、いてはいけないのだった。
「だからね、私は許すことができたの」
彼女の声が、今はもう遠い。
秋。
例年よりも早く、冬の足音がきこえる寒々しい空の下を男は歩いていた。
頭から靴の先まで真黒の大男。
しかし街中では人目を引く格好でもなく、素直に人混みに埋没していた。
街はもうすぐ訪れるハロウィンに向けてオレンジ色に輝いている。
「白痴化したクリスマスよりも、私は好きだな。というかクリスマスは柄じゃないもの」
女が語ったものだ。なるほど、言われてみれば日本でのハロウィンというイベントは、十月三十一日になるまでが最高に盛り上がるように感じる。
当日は人目を忍んで街中を妖しい雰囲気が包む。と感じているのは本人たちだけであるにも関わらずだ。
本人たちとは仮装をした子供であり、その親であり、浮ついた若者である。
しかし、女がいなくなった今、男にはハロウィンでさえも白痴化しているのではないかと考えていた。街を歩けばどこもオレンジ色をした、中身がくり抜かれた南瓜の品々が並び、食品メーカーはこぞって同じようなオレンジ色の菓子をばら撒いているのだから。
感化されやすい。
日本人は病的に変化を受け入れやすい。政治に対する暴動が社会現象になったのは遥か昔だ。
だから。
男は口に出さずに言う。だからアレは死んだ。反感を抱かず従順で、人の痛みを知らない者が多いから、と。
考え事をしながら男は街を歩く。
風は冷たいが、男の視線は尚冷たく凍てついている。
まるでこの世の不幸を全て見て来たかのように。
これを男が聞いていたのなら、「間違ってはいないな」と皮肉もなく言うだろう。