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Canonシリーズ

神と天使と天使の守護者

作者: 藤夜 要

 たった一枚の家族写真を眺めながら、独りでまったりとブランデーを嗜む。貴美子はロウキャビネットに飾ったそれを手に取り、目を細めてじっと見つめた。

 穂高と翠の誕生日を兼ねた初めてのクリスマス・パーティを催した時、『Canon』で撮った“家族”の写真。

 翠と穂高と望一家、克美と芳音と、そして、自分。

 キッチンを背景に、セルフタイマーでカウンター席に並ぶ六人。中央には、芳音と望を抱いた穂高。ぎこちない笑みを浮かべている。その両脇に、女子高生も呆れそうなほどの短いスカートを履いたサンタクロース姿の克美と翠が、少女のような幼い笑みをかたどりこちらを見つめている。彼らの後ろに立ち、その両肩を強く抱いていたあの時の自分。少し芝居掛かった笑顔になっていると今でも思う。

 本当ならば自分の立っている場所に本来いるべき人がいない。あの時密かにそう嘆いていた。

「本当は、あんたがアタシの立ち位置に立ちたかったんじゃないの……辰巳」

 いかにも取り敢えず色を置いたと言った感じの、適当にメッシュした黒い髪。乱雑にそれを束ね、似合わない伊達眼鏡で顔を隠していた。貴美子にしてみれば、彼にその風体はあり得ないと驚かされた、無精ひげを放ったらかしたままのだらしない顔。

 なのに相変わらず片時も離さず紫煙を燻らせたまま笑って出迎えた彼の姿を見たあの瞬間、貴美子はそれが辰巳だとすぐに解った。

 両手では足りないほどの歳月が過ぎたのに、今でも再会した時の辰巳が鮮明に思い出せる。貴美子の目だけに、映っていないはずの彼の姿が写真に浮かび上がった。

「どうしてアタシの言うことを聞いてくれなかったのよ……」

 貴美子は手にしたフォトスタンドをテーブルに置くと、翳る瞳をゆっくり閉じた。




 始まりは、高卒でなんの資格も持たないただの営業社員の時だった。

 ふた言目には「女の癖に」と能力以外のことで馬鹿にされ、むきになって我武者羅になっていた若い頃。それさえなければひょっとすると、平和で平凡な、普通の主婦や母になっていたのかも知れない。だが、初めて貴美子の琴線に触れるような相手との出会い方が、あまりにも悪かった。

 貴美子は海藤組の息が掛かった建設業者の営業物件に手を出し過ぎた。彼らの泣きついた先は、大元締めだった海藤組。貴美子はその所為で組の者達に拉致された。いかにも前科を誇りにしていると思わせる強面達が、貴美子の目の前で自分を沈める場所を話し合っていた。業界における暗黙のルールの汚さに憤慨した若さが裏目に出た。それをこの期に及んでから悔やんでも遅かった。

『親父が言ってた女って、これ?』

 そう言って部屋に入って来たのは、まだあどけなさを残した少年だった。ただ、その涼しげな瞳が、少年のそれとは懸け離れていた。いつからこの世界で手を汚しているのかと疑わしく感じる、暗く澱んだ憂う瞳。口許はだらしなく笑っているのに、目がまったく笑っていない。噂には聞いていた海藤組の『色好きのぼんぼん』が、こんなに若く、かつ荒んだ瞳をしている奴だとは思わなかった。

『これ、俺がもらう。親父にこの部屋借りるって伝えておいて』

 ふざけた口調でやんわりと、だが絶対に拒否をさせない口調で、彼は年長の男達に指示をした。彼らに下卑た笑みが零れた。そのあとの屈辱を耐えさせたのは、その直前に貴美子の頭を掻き抱き、辰巳がそっと耳許に囁いた

(命は助けてあげる。その代わり、今からすることには我慢して。ごめん)

 という悲痛な声だった。三歳も年下の彼に組み敷かれた時に抱いた屈辱感は、いつしか恋情に変わっていた。




 どれだけ彼に振り回されて来たんだろう。

 閉じた目をうっすらと開けて、再び写真へ目を落とす。弾ける笑みを浮かべる克美を見て、こみ上げる想いに自嘲が漏れる。あの頃の貴美子は克美のことを、こんなに慈しめるとは思ってもみなかった。

「あんたが相手じゃあ、誰も敵わないわよ」

 オレンジの弾けたような笑顔の克美を、ピンと指で弾いてまた笑った。


 偽りの愛人生活に終止符を打たせたのが、守谷姉妹だった。

『あ、えっと、前に枕ドロで財布を取られた女。あんまりにも待遇悪い上に、子持ちだったから、つい……拾って来ちゃった』

 辰巳が、らしくもなくうろたえて言い訳をしたのは初めてだった。貴美子から庇うように辰巳が自分の背にかくまったのは、彼自身が「惚れたかも」と言っていた加乃ではなく、まだ九歳の克也――克美の方だった。

 自分も含めた他者に関心など寄せたことのない辰巳が、他人を自分のマンションへ連れ込んで来ただけでも屈辱だった。その本命がそんな幼い子供だと知った途端、壊れそうになった何かを必死で保とうと強がった。

『丁度よかったわ。マンションの契約をしてあったの』

『嘘、聞いてない。それにまだ親父の目が』

『悪気があって黙っていた訳じゃないわ。あんたが捜査対象から外された分、海藤に追尾が集中するって高木さんから聞いてたの』

 うろたえる彼を見て溜飲が下がった。咄嗟に引き止める腕が自分を掴んでくれた。自分が捨てられるのではない。自分の方から辰巳なんか捨ててやるのだ。漂う数秒の沈黙が、貴美子の崩れ掛けたプライドを立て直した。

『こっちも愛人ごっこに飽きて来たところだし、お互いに都合がよかったじゃない』

 そう言って、仮初の愛人関係は終わった。

(腫れた惚れたに出逢った順とか、そんな低脳な女じゃないわ、アタシは)

 虚勢を張ることで、自分のプライドを保った。これ以上辰巳に加害意識を持たせたくもなかった。そんな同情は欲しくない。そんな勝気な気性が災いし、なんでもない風を装た貴美子は、引き止める辰巳の腕を振り払ってマンションを出た。


 忘れたくて、無茶をした。恋愛ごっこもたくさんした。それでも。

「やあ、貴美子嬢。元気にやってるみたいだね」

 七年振りに突然電話を寄越して来た彼の声を聞いた途端、蓋をしていたものが一気に溢れ出して貴美子を叫ばせた。

『やあ、じゃないわよっ。何年行方知れずにしてるのよ! 黙って消えて連絡先も解らないし、高木さんはだんまりだし。今更どのツラ下げて図々しく電話なんかして来てるのよっ』

「そのツラ拝みに、ちょっと信州まで来てみないか?」

 甘ったるい声でそう言われれば、断るどころか即座に飛び出す、まだ若い自分がいた。

 今度は何かと思えば、あれだけ組の人間達を震撼させて来た奴が、甘えた声で

「貴美子しか、信頼出来る堅気がいないんだ」

 と消えそうな儚い笑みを浮かべて呟いた。そして辰巳は別れてからあとの出来事をすべてを貴美子に話し、嫌と言わせない態度で克美と翠の守護を押しつけた。




「ホント、正に“押しつけた”って感じよね。まったく」

 グラスのブランデーを飲み干して、誰にともなくごちてみる。

 あんな大それた計画を知ったら、自分が断れないと計算済みで。

 ――あんたに拾ってもらった命だから。必ずこの恩に報いるわ。

 それは、本当の気持ちだった。続いた言葉も本当の気持ちだったのに。

『それにしても高い利子ね。ことが済んだら、必ずあんた自身にぼったくり分を返してもらうから』

 生きて帰れと言外に命じた。彼を必要としているのが、克美だけではないと、初めて自分の本音を告げたのに。その言葉を聞いた途端、辰巳は一瞬眉をひそめて視線を逸らした。それには一切触れず、

『俺に代わって、ふたりを頼む』

 とだけ言って、深々と頭を下げて顔を隠した。唇が震えた。奥歯をきつく噛みしめ過ぎて。

 人に頭を下げるのが大嫌いなあの男が、あんな小娘ふたりの為に深々と自分に(こうべ)を垂れた。まさかそんなことをされるとは思ってもみなかった。

「なーにが、『俺はおねーさんが好みなの』、だ。頭の中は克美で一杯だった癖に」

 心の中に収め切れず、今はもういない人に向かって文句を垂れる。目尻から、ぬるい未練がひと筋伝っていった。


 子供のようで大人びていて、ここ一番のところで冷徹で。悪戯に人の運命を掻き回す、その力の強大さが計り知れない奴。貴美子の目には、辰巳はさながら“神”のように映っていた。

 一見弱いようでいて、人を惹きつけてやまない翠は、そこにつき従う天使のようで。

 そんな翠が嫌いだった。ともに暮らすことになってしまった分、克美よりも嫌いだった。

 その理由が嫉妬心に起因するという自覚があった分、自己嫌悪を催させるひと回り以上年下の小娘達が、貴美子はとても嫌いだった。




 貴美子が一番戸惑ったのは、克美も翠も自分を慕って一点の曇りもなく信頼を寄せること。抗うように保ち続けた嫌悪感が、彼女達を目の前にするとあっという間に掻き消されてしまうこと。

 我ながら損な性格だと思う。頼られ慕われてしまうと、つい期待に応えようと頑張ってしまう。どんなに嫌い疎んでも、純粋に寄せて来る彼女達の自分への好意が、彼女達の好ましい部分や愛しく感じる部分を貴美子の目に見せつけて来る。高校時代から天涯孤独だった貴美子の中で、必要とする瞳が貴美子の嫌悪感を別のものへとすり替えていった。


 翠への気持ちが変わったのは、一緒に暮らし始めて間もない夜の異変からだった。

『兄さん、やめ……い、ゃ……あっ』

 その声に、隣で眠る貴美子まで飛び起きた。

 何があったのかは、おおよその事情を辰巳や高木から聞いていた。

『俺に穢された貴美子にしか、彼女の気持ちは解らないだろうから』

 そう言って彼女を託されていた。

 あの夜叫んだあとで目覚めた翠は、翠であって翠ではなかった。

『うわ、何これ、実体化してるし。あ? おばさん、誰?』

 そのゆがんだ瞳が翠ではない別人と知らせていた。憎悪一色に染まった“それ”の暗い瞳は、七年前、まだ辰巳を憎んでいた頃の自分の瞳と同じだった。悲しくて、同時にこちらの嫌悪感を煽る澱み方をしていた。

『あんたの……味方よ』

 絞り出す声は、白々しかった。

『翠の味方ぁ? じゃあ、俺の敵じゃん』

『俺? ……あんたは、何?』

『てめえの敵だよ』

 翠を壊す邪魔する奴は、みーんな俺の敵――“彼”はおどけた調子で節をつけてせせら笑った。左右非対称のゆがんだ微笑。自分自身のことまで嘲る荒んだ声。翠は被害者だというのに、自分で自分を「敵」と呼んだ。翠自身を敵と見做す存在を生み出してまで、誰のことも憎めない翠。

『……なんて、バカなのよ……』

 醜い嘲笑が驚きで目を見開く。その顔も次第にぼやけていった。初めて来栖翠という大嫌いな他人に対し、別の感情が貴美子の中に溢れ返った。

 堪え切れず、翠の体を引き寄せて抱きしめた。

『こんなもんまで作っちゃって……。アタシより弱い癖に、あんたって子は。……あんたはさっさと失せなさい』

 まだ、生まれたての“彼”は、短時間ですぐ消えた。がくりとうな垂れて間もない内に、翠の意識が戻って来た。貴美子の腕の中に納まっている自分に気づくと、彼女は身を強張らせ、突き放そうと身をよじって抗った。

『いやぁ! 離してっ、アタシはそんなこと頼んでない! 依頼は』

 逃すまいと、更に強く抱きしめた。自分が辰巳ではないと知らしめる為に彼女の頭を自分の豊満な胸へと埋めさせ、怯える彼女を必死でなだめた。

『アタシよ、貴美子よ』

 抗う力が一瞬止まった。

『くぅ、大丈夫。あんたを襲う奴は、もう誰もいないわ。ここは、東京よ』

 そして、初めて自分の昔話を聞かせた。

『アタシもね、あんたと同じ、被害者だったの。辰巳に無理矢理犯された。あんたの苦しみは、少なくともほかの人よりは解るつもりでいるわ。……だから、信じて。溜め込んだものをアタシに預けて、心の膿を吐き出しておしまいなさい』

 頑なだった彼女の心と連動して強張った体が緩んでいく。

『貴美子さん……だから、アタシの後見人になってくれた、の?』

『アタシ自身の為にね。救いの手が欲しかったのに、アタシにはなかったから。代償行為、っていう自己満足よ』

 あんたが吐き出すことで、アタシが救われるの。微笑とともに告げた貴美子の言葉が、彼女の防御線を打ち破った。

『こんな形で兄さんを失くしたくなかったのに……ッ』

 まだ十六歳だったあどけなさの残る少女は、唯一の同類にすがりつき、泣き狂った。

『女でなんか生まれて来たくなかったっ。そしたら兄さんと違う形で分かり合えたかも知れないのにっ』

 こんな形で女だなんて思い知らされたくなんかなかった。

 もう、恋なんかしない。

 そんな翠の胸の内が、貴美子のそれを代弁するように吐き出された。

 貴美子は痛いほど解る翠の吐露を、泣き疲れて眠るまで、苦悶に顔をゆがめながら聴き続けた。

『必ず時間が解決してくれるから。あんたは何ひとつ悪くなんかない、ってことだけ、忘れるんじゃないわよ』

 彼女を抱きしめる腕に、自然と力と愛情がこもっていた。




「とかなんとか言ってた癖に。ちゃっかり望まで授かっちゃって」

 整えられたワインレッドの爪先が、今度はフォトスタンドで微笑む翠を弾く。それはカタカタと軽く前後に揺れると、また何事もなかったように落ち着いた。翠は相変わらず幸せそうな笑みを浮かべたまま、何も語り掛けては来なかった。

「……なんか、もう疲れちゃった」

 本当は、辰巳が死んだあの時に、とっくに自分の心も死んでいた。

 もう、自分が守護すべき儚く弱い魂は、どこにもない。自分を必要とする者も、いない。翠は辰巳の傍らへ還ってしまった。克美には、芳音という生きる支えがあるのだし。

 辰巳につき従う翠を羨望した。辰巳の永遠の“女”でいられる克美に嫉妬した。何ひとつ残っていない、抜け殻のような自分が惨めだとしか思えない。

 強かに酔いが回った頃、眠れないからと翠のつき添いのついでに自分にも処方してもらった精神安定剤の存在をふと思い出した。

 キャビネットの扉を開けて、救急箱からそれを取り出した。これを全部一度に飲めば、自分も彼の許へ逝けるのだろうか。

 そんなことを考えながら、シートに包装された錠剤を、ひとつひとつ開けてはテーブルの上に並べていた。

「きゃっ」

 突然鳴り響いた携帯電話の着信音が、そんな貴美子の肩を震わせた。

「やだ、アタシ……」

 何をしようとしていたんだろう。ぞく、と背筋に寒気が走る。だがそんな動揺は一瞬だけで、すぐに電話へ手を伸ばした。こんな深夜の電話は、大概火急の件であることが多いからだ。

 携帯電話に手を伸ばしてディスプレイを見れば、『Canon』の文字。克美が店から電話を掛けて来たのが窺えた。

「はい、久我」

『……ボク、克美』

 低いアルトの声が、彼女の異変を告げていた。

「どうしたの? 芳音に何か?」

 努めて穏やかな声で口にしたが、妙な胸騒ぎが収まらない。翠の死亡で一時期はあと追いをし兼ねないと気を揉んだ時期もどうにかやり過ごし、今は店も再開出来ている。自分へ心の中でそう諭すのに。

『貴美子さん、ホントのこと、教えて』

「何よ、いきなり。なんのこと?」

『翠のノーパソ、やっと見たんだ』

 どくん、と大きな音がした。幻聴だと頭では解るが、何かが音を立てて崩れていく。

「そう……それで?」

 そう問う声が、掠れている。一瞬の内に酔いが醒め、明日のスケジュールの調整が脳の半分を占めていった。

『三年前の銃乱射事件……あれ、ホントは辰巳だったんでしょ?』

「あんた、辰巳を信じないの? 手紙を」

『大丈夫。ホントのこと、教えて。ボクね、翠の生き方を見て、思ったんだ。待つのにも疲れちゃったし、前を見て歩かなくちゃな、って』

 だから事実を知りたいという克美の声は、電話を取った瞬間よりも明るい。貴美子は彼女の言葉を信じることにした。

「……もう、いないわ。あんたとそっちへ逃げる前に、高木さんとふたりで既に決めていたことだったみたいだから」

『貴美子さん、いつから知ってたの?』

 十二年前から、と答えるのに時間を要した。

「ごめん……克美。アタシじゃあ、あのふたりを止めることが出来なかった」

 辰巳が加乃を手に掛けたことと、自分の辰巳への想い以外は、すべてありのままに事実を話した。どれだけ辰巳が克美の為に生きて来たかを知って欲しくて。

「あんた独りの命じゃないんだからね。下手なことするんじゃないわよ。明日行くから」

『大丈夫だよ。ボクだってもう子供じゃないんだから』

 そう言って苦笑を漏らす克美に、こちらが思うほど動じた気配を感じない。貴美子は安堵の溜息をそっと漏らした。

「克美、辰巳はね」

 克美が事実を知る時に、伝えようとしていた言葉。辰巳の最期を見守った赤木が、その後貴美子を訪ねて来て教えてくれた。辰巳の口にした最期の言葉。

 ――最期くらい、言ってもいいかなあ……俺の……本当の、胸の内。

 最期に呼んだのは、克美の名だった。彼は“胸の内”を言葉に出来ないまま、SITの確保を逃れる為に自らこめかみを撃ち抜いた。

 最期まで、彼の中は克美で満ちていた。それを告げようとしただけなのに。

『もういいよ、貴美子さん。ごめんね。ボクら、姉妹揃って貴美子さんから辰巳をとっちゃった』

 上ずる克美の声が、貴美子の心臓を蹴り上げた。

(フェイク?!)

 意図した想いが彼女にまったく届いていないことに、事実を告げてから気づいてもあとの祭りだった。

『克美?! あんた何』

 勘違いしてるの、と言い終える前に、通話が途切れてしまった。

「あ……どうしたら……」

 アルコールが頭の回転を鈍らせる。嫌な汗がこめかみを伝う。守ると誓ったあの日から、むしろその存在に自分こそが守られて来たというのに。今の自分にとっては家族同然の存在なのに――失くしてしまう、かも知れない。

 その不安と恐怖が、素直に人の助けを求める行動へと駆り立てた。受信メールから引き出したのは、ロスに出張中の穂高が宿泊しているホテルのコールナンバー。渡部薬品の経営陣になり果せたとは言え、まだ新参者の立場でしかない自分だ。何をするにつけても、まだ今は専務のあと押しが必要な立場だった。

 そのナンバーをハイライト表示させ、コールしようとボタンを押す直前に、今話そうと思った相手からのコールが響いた。ワンコールも待たずに通話ボタンを押して耳に当てる。

『うぉ、早』

「今掛けようと思っていたとこよ。こっちの用件を先に喋らせなさい」

 克美とのやり取りを穂高にまくしたて、明日の休暇を願い出た。その間にも、既に軽い旅支度を整える。翠を失い克美まで――そんな苦痛は、さすがの貴美子にも忍耐の限界を感じさせた。

『落ち着けって。久我さん』

「これが落ち着いていられるかっていうのよっ。克美が何かやらかしてからじゃ遅いのよっ」

『だからこそ落ち着けって、話を聞けっつってんの、貴美子さん』

 その声に、どきりとする。「さん」づけでさえなければ、辰巳を思い出させる穂高の苦笑。いつの間にか、立場が逆転しつつある現状に、言葉には出来ない複雑な心情が貴美子をざわつかせた。

「……何よ」

 そんな問いは愚問だった。彼の余裕が、誰がどう対応すべきか既に貴美子へ知らせていた。

『俺から今すぐ、克美に連絡を入れるっす』

「……あんたは、大丈夫なの?」

 翠の話題に触れない訳にはいかないだろう。彼女が克美に遺したメッセージ。

 ――前を向いて生きて。辰巳さんがいないとしても、芳音がいる。

 貴美子でさえ、思い出すだけで涙腺が緩む。最期まで微笑を絶やさず、笑って見送って欲しいと乞う儚い瞳は、きっと穂高にとって貴美子以上の苦痛だろう。

 だが。

『翠の心友なら、俺にとっても一応、ね。そこまで冷たくないっすよ』

 そんな言葉が即答で返って来た。自分の中に燻るものをさらりとかわすその余裕が、貴美子に彼の成長を感じさせた。

「ありがと。……頼むわ」

 それから一時間も経たない内に、穂高から憤慨気味の連絡が入った。

『喧嘩を売ったら高値で売れたんっすけど。あいつは礼ってもんを知らんのかっつう』

 その口振りに笑わされ、そしてそれ以上に安心をもらった。

「何言ったのよ」

『男の趣味が悪いのは自業自得や、とっとと忘れろって言うたら、俺にだけは言われたくない、だと』

 克美は穂高の「もう大丈夫だな」という言葉に、はっきり「うん」と答えたと言う。

『あいつに何かあったんかな、思うて久我さんに電話して正解でしたね』

 翠の夢を見た、と彼は言った。克美を助けて欲しい、と泣きながら彼に訴える、夢。

『俺にしか出来ないとか言われて、よう解らんけど、とりま久我さんに聞いてみようか、と。夢なんて眉唾を信じたことないんっすけどね』

 言われて初めて得心する。最愛の人に去られたのは、何も自分だけではなかったのだ。むしろ、見ているこちらの方が心配になるほど赤裸々に翠への慕情を晒していた穂高の方が、克美への説得力があったに違いない。

「頼りない保護者ね、アタシは」

『何言ってるんっすか。俺より翠の信頼が厚かったから、貴女にばかり相談してたんやないですか、あいつは』

 そのひと言に、癒される。無力ではなかったのだ、と。辰巳との契約を守れていなかった訳ではないのだと慰められる。

「ありがと。……ねえ、穂高」

 初めて穂高に感じる、完全なる白旗。 

「一応これでも身内なんだから、呼び捨てでいいわよ、別に。家族を苗字呼びなんて水臭い」

『あ、そうっすか。んじゃ、貴美子さんで。呼び捨てたらどこぞのおっさんと勘違いして喰われそうで怖いさかい』

「誰が食うか!」

 不遜な笑い声が耳に心地よく響く。涙を流して笑う自分がいた。まだ、笑える。笑っていられる。翠が望んだ、幸せをかたどる笑みを浮かべて――生きて、いける。

『ってな訳で、あいつは大丈夫やさかい。そう簡単に貴美子さんをさぼらせへんさかいに、明日も本社の方、頼みます』

 爆笑にひと区切りつくと、穂高はそんな憎まれ口を投げて来た。

 むせてしまって、声が巧く出せない。安堵の陰に、悔しさが見え隠れする。こんな自分ではなかったはずなのに。年下の子の前で嗚咽を漏らす無様さが口惜しい。

 そんな貴美子の耳許に、

『年を取ると涙もろくなる、言いますけど、まだ貴美子さんには早過ぎるんと違いますか』

 という更なる憎まれ口が、優しく響いた。

『身動きが取れないさかいに、ダイレクトなフォローは貴美子さんにしか頼めないんで、よろしくっす』

 それが、翠の願いやさかい、と優しい関西弁が愛しげに亡妻の名を呼んだ。

 克美の守護を、という穂高の言葉が、昔辰巳の発したそれと、重なった。




 薬を全部、シンクへ流して捨て去った。自分を絡め取ったあの衝動はなんだったのだろう、と他人事のように感じる自分がいる。

 寂しくないといえば嘘になる。ただ、それ以上に。

 亡き最愛の人よりも、今身近に生きている、彼の愛し子と守護した天使の娘が愛おしかった。叶わなかった“母”というものになれなかった分、時折穂高の自宅を訪れる時に会える望の笑顔が楽しみだったことを思い出した。たまの休暇に『Canon』を訪れ、彼とよく似た彼の遺児と遊ぶ楽しさが、果てる望みを萎えさせて来たのを思い出した。


「アタシには、飽くまでも最後まで“守護者”でいろ、ってことなのね」

 随分前に穂高から返された『海藤辰巳興信所』の名刺を弄びながら、それに向かって独語する。

「あんたに作った借りの礼にしては、ホント、採算が合わな過ぎるわ」

 文句とちぐはぐな微笑が零れる。くるくると回していたそれを、パシリと二本の指で挟み取ると、貴美子はそれを真っぷたつに引き裂いた。

 辰巳が消えたあとをこうして思い返してみれば、なんだかんだと言いつつ自分の毎日は満たされている。

 仕事を認める上司につき、ともに上り詰める野望を分かつ、穂高という相棒がいる。そして彼は相棒であるとともに、自慢の娘婿という家族でもある。

 願っていた子供との時間を満喫させてくれる、“家族”という帰る場所も出来た。ただの女でいたなら、その両方をパーフェクトに望むことなど出来なかっただろう。

「けど、しょうがない。これでチャラにしてやるわ」

 辰巳が自分に遺してくれた“最も願った生き方”を、ようやく素直に受け止められた自分に心地よさを感じていた。

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