01:プロローグ
「社長。上場、おめでとうございます!」
その言葉を、今夜だけで何度聞いただろう。
差し出されたグラスに自分のものを軽く合わせ、私は笑顔を返した。
「ありがとう。みんなのおかげよ」
嘘ではない。てか、こいつの名前なんだっけ……田中? 野中? 山元だっけ?
今日という日を迎えられたのは、社員たちが努力を重ねてきたからだ。もちろん、私自身もそのつもりで働いてきた。会社を立ち上げ、何度も壁にぶつかり、それでも前に進み続けた。
そして今日、ついに株式上場を果たした。
起業した頃には想像もできなかったほど、大勢の人が私の成功を祝ってくれている。もっとも、ここまでの道のりが順風満帆だったわけではない。
厳しすぎる。人使いが荒い。血も涙もない。
陰ではずいぶんなことを言われてきた。
悪魔、サキュバス、果ては大魔王サタン。
私がいないところで、いったいどんな話が繰り広げられていたのだろう。
まあ、いい。
今日くらいは全部笑って許してあげよう。
「社長! その格好、似合ってますよ!」
「ありがとう。あなたもね」
本人は狼男のつもりだろうが、良くて秋田犬にしか見えない。
今日はハロウィン。
『祝賀会の参加者は仮装をすること!』
そんなことを言い出したのは、幼馴染で副社長の愛菜だった。
私が着させられたのは、小悪魔の格好だった。
黒を基調とした衣装に、羊のようにくるりと巻いた赤い角としっぽ。
こういう機会でもなければ、仮装なんて一生しなかっただろう。
「やっぱり、真にはこれでしょ!」
そう言って手渡したあの時、愛菜の笑った顔の方が私には悪魔に見えた。
祝賀会の会場は、都内のビルの屋上。
夜風が気持ちいい。
グラスを片手に人の輪から離れた私は、フェンスのそばまで歩いていった。
眼下にはスクランブル交差点。仮装した人々が、思い思いの格好で集まっている。
魔女、吸血鬼、骸骨。
映画の登場人物らしき集団が、笑いながら横断歩道を渡っていた。
誰かが写真を撮り、誰かがふざけたポーズを取る。
その姿を眺めているうちに、自然と言葉がこぼれた。
「……楽しそうでいいわね」
私だって楽しくないわけじゃない。
念願だった上場を果たした。私は成功したのだ。
それに仲間たちが祝ってくれている。
これ以上、何を望むというのだろう。
それなのに。
あの交差点にいる人たちは、今日という一日を、ただ楽しむために集まっている。
明日、何かを達成するためでもない。誰かに認められるためでもない。
そんなことを考えている時点で、私はどうかしているのかもしれない。
「社長ーー!」そろそろ記念撮影を――」
「ええ、今行くわ」
そのときだった。
カンッ。乾いた金属音がした。
「……え?」
背中を預けていたフェンスが、不自然に傾いた。
足元を小さな金属片が転がっていく。
ボルト?
そう認識した瞬間には、もう遅かった。
身体が後ろへ倒れ、伸ばした手は何もつかめず、視界いっぱいに夜空が広がった。
嘘でしょ?! なんで今日なの?
せっかく――
そこで、私の意識は途切れた。
◇
「いたっ!」
お尻に鋭い痛みが走った。
「ちょっと、何なのよ!」
思わず声を上げ、床に突いた手で身体を起こす。
床?
私は何度か瞬きをした。
ついさっきまで、ビルの屋上にいたはずだ。フェンスが倒れて、私も一緒に落ちて――。
なのに、今いるのは薄暗い部屋だった。
石造りの壁。見覚えのない道具が並ぶ棚。
足元には、何かの模様を描いた大きな円がある。
そして、その向こうに。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ!」
妙な笑い声を上げる、つばの広いとんがり帽子をかぶった女の子がいた。
小柄な身体を大きなローブで包み、両手で杖を握っている。少なくとも、私よりずっと幼そう。
「成功じゃ!」
見た目に似合わない、ひどい濁声で続ける。
「悪魔の召喚に成功したのじゃ!」
「……はい?」
「ふぉっふぉっふぉっふぉっ! ついに! ついに悪魔が召喚できたのじゃ!」
女の子は杖を掲げ、ひとりで大喜びしている。
私は床に座ったまま、その姿を眺めた。
悪魔? 召喚? 何の話?
まさかとは思うが、愛菜が考えたハロウィンの余興か何かだろうか。
それにしてはずいぶん凝った舞台装置だ。
いや、待って!
私は確かに屋上から落ちた。
あの高さから落ちて、無傷で済むはずがない。
「ちょっと、あなた」
「なんじゃ、悪魔よ!」
「ここはどこ?」
「わしの研究室じゃ!」
「そういうことじゃなくて」
「ふふん、驚くのも無理はない。お主は今、偉大なる魔術師によって異界から召喚されたのじゃからな!」
小さな胸を張る女の子。
偉大なる魔術師……って。自分で言うんだ、それ。
「……異界?」
「そうじゃ!」
「あなたが、私をここへ?」
「そのとおり!」
「どうやって?」
「悪魔召喚術に決まっておろう!」
どうやら会話は成立している。
ただし、話の内容がまったく理解できない。
そもそも私は人間だ。
「契約により、お主は今後わしの使い魔じゃ!」
「……使い魔?」
「うむ!」
「私が?」
「うむ!」
「あなたの?」
「そうじゃ!」
私は女の子を見つめた。
向こうも得意げに私を見つめ返している。
なるほど。
この子は私を悪魔だと思っているらしい。
無理もない。今の私は小悪魔の仮装をしている。
頭には角のカチューシャ。腰にはしっぽ。
事情を知らなければ、悪魔に見えなくもないだろう。
「ええと、まず確認させて。私は悪魔じゃないの」
「なんじゃと?」
「人間よ。ただの人間」
「何を言っておる。どう見ても悪魔ではないか!」
「これは仮装。分かる? 衣装なの」
「いしょう?」
「そう。だから、この角だって――」
私は頭に手を伸ばした。カチューシャを外せば済む話だ。
角をつかみ、上へ引っ張る。
「……ん?」
外れない。髪に引っかかったのかしら。
もう一度、少し力を込める。
「いたっ!」
痛い。角を引っ張ったら、頭まで痛くなった。
どういうこと?
「……外れない?」
「何をしておるのじゃ?」
「外れない?! 鏡! 鏡はどこ?!」
「か、鏡ならあそこにあるが……」
女の子が指さした。
壁際の大きな姿見に私は急いで駆け寄った。
鏡に映っているのは、紛れもなく私。
見慣れた顔。黒い小悪魔の衣装。
そして、頭の両側から伸びる羊のようにくるりと巻いた赤い角。
「……嘘」
恐る恐る再び、触ってみる。
硬い。詰まった硬さだ。プラスチック製のおもちゃじゃない。
根元を確かめても、カチューシャの土台がない。
「……しっぽも?!」
鏡の中で、私の腰から伸びたしっぽが動いた。
振り返り、右へ左へ。自分の意思で動かせる。
「ふぉっふぉっふぉっ! どうじゃ! これで自分が悪魔だと理解したか!」
「……理解できるわけないでしょ!」
「ひっ!」
女の子が肩を跳ねさせた。
……あら。
悪魔を召喚した本人が、悪魔に怒鳴られて怯えてどうするのよ。
私は額に手を当てた。落ち着こう。
感情的になっても状況は変わらない。何が起きたのか、順番に整理する必要がある。
「あなた、本当に魔術師なの?」
「し、失礼な! わしは正真正銘の魔術師じゃ!」
「それなら、私がどうしてこんな姿になったのか説明できる?」
「悪魔召喚に成功したからに決まっておろう!」
「だから、私は元々人間だったのよ」
「悪魔が人間だった頃のことなど、わしが知るわけなかろう!」
……駄目だ。話がかみ合わない。
ただ、ひとつ気になることがある。この子は本当に悪魔を召喚したのだろうか。
それとも、私をここへ呼び出した結果、悪魔の姿になってしまったのだろうか。
少なくとも、この子は後者の可能性など考えていないように見える。
「ところで、あなた。私を召喚して何がしたいの?」
「決まっておる!」
女の子が再び胸を張った。
「わしを馬鹿にした連中を見返すのじゃ!」
「……は?」
「今に見ておれ! 悪魔を従える偉大な魔術師と知れば、奴らもわしを認めざるを得まい!」
「そのために召喚したの?」
「そうじゃ! わしの偉大さを奴らに思い知らせてやるのじゃ!」
私は黙って女の子を見下ろした。
小柄な身体……威厳を出そうとしているのだろうが、どうにも迫力が足りない。
どうやら、この子は人々から認められたいらしい。
そのために悪魔の恐怖を利用するというわけか。なるほど、目的は理解した。理解はしたけれど。
「……それ、私に何の得があるの?」
「なんじゃと?!」
「あなたの名誉回復に協力する理由が、私にはないんだけど」
「つ、使い魔なのじゃぞ! 使い魔は主人の命令には従うものじゃ!」
「その契約、私は同意していないわよね?」
「じゃ、じゃが、契約は成立しておる!」
「本人の同意もない契約なんて、普通は問題になるわよ」
「ふ、普通と言われても……」
女の子が困った顔をした。
私は小さく息を吐く。
会社を経営していた頃なら、こんな曖昧な話をそのまま進めることは絶対になかった。
契約内容、義務、期間、解除条件……。確認すべきことはいくらでもある。
「その契約書はどこ?」
「けいやくしょ?」
「契約の内容を確認したいの」
「それなら、ステータスを見ればよかろう!」
「……ステータス?」
「そうじゃ! 自分のステータスを見るのじゃ!」
急にゲームで聞くような単語が出てきた。
女の子に言われるまま試してみると、目の前に文字が浮かび上がった。
「……何これ」
半透明の板のようなものに、見覚えのない項目が並んでいる。
名前:握薪真
種族:悪魔
その他、いろいろ。
問題は契約内容だ。私は表示された文字を一つずつ確認していった。
契約主:モルガ・グリムワルド
そして、その一番下。
『契約期間――1000日』
1000日。
私はその数字を、しばらく見つめていた。
今日、私は会社を上場させた。人生を懸けて追いかけてきた成功を、ようやく手に入れたのだ。
なのに、その日の夜にはビルから落ちた。
そして今、見知らぬ世界で、見知らぬ魔術師の使い魔になっている。
あの交差点で笑っていた人たちの姿が、不意に頭をよぎった。
あの人たちは、明日もあぁやって楽しく過ごすのだろう。
私は、もう一度目の前の数字を見た。
1000日もある。
それだけあれば、きっと――。
「ふぉっふぉっふぉっ! どうじゃ、わしの偉大さが分かったか。――ふんぎゃ!」
背後で濁声と物が崩れ落ちた音が響いた。
私は振り返る。
そこには、崩れ落ちた山の中で目を回す小柄な魔術師がいた。
……まずは、この子をどうにかしないといけないらしい。




