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夜明け前【後編】

佐倉(さくら)(しん)


 俺の家は俺が物心つく前から、親父しかいなかった。部屋は常にごみのせいで臭くて、小学生のころからその匂いが身体に沁みついていたのか、俺には誰も近づかなかった。俺はそれが有難かった。俺の家庭がおかしいことはもうずっと前から気づいていた。先生たちも異変には気づいたんだろうが、家庭のことには口を出せなかったんだろう。

部屋中に散乱するゴミ袋、シンクに溜まったままのいつ使ったかも分からない食器たち。生ごみからは腐った臭い、そこに群がるショウジョウバエ。増えていくお酒の空き缶。常に空っぽな冷蔵庫。朝からお酒を飲んでいる自分の父親。年中長袖しか着られない自分も。どこかおかしいことは、幼いながらに理解していた。だけどそれを、他人に言うことはしなかった。それをしたところで無駄なことも理解していた。自分の身体に増え続ける痣。「罰」として何時間も殴られ続ける時間が異常なことにも、気づいてはいた。帰ってくるのが遅い、機嫌が悪い時に目の前に居た、勝手にご飯を食べていた、勝手に風呂に入ったから。そんな理由で毎日何時間も殴られていた。カップラーメンを食べようと沸かしたお湯をかけられたこともあった。特に何をしたわけでもないのに。そういう日々をずっと過ごしてきた。だからいつの間にか、誰のことも信じられなくなっていた。

いくら洗っても身体中沁みついたお酒の匂いも、身体中に散らばった痣も消えなかった。ただ痛いだけで、どんどん身体に浸み込んでいくようにさえ思えた。それならいっそのこと、別の匂いに包まれてしまえばいいと思った。だから中学を卒業してすぐに工事現場に働きに出た。汗や鉄、何よりほかの人間とドロドロに混ぜ合わさったようなところだった。色々な人間がいた。最年少は俺だったが、高校に行きながら働いているという人間が三人もいたからか、中学を卒業してすぐに入った俺のことなんか気にせずに接してくれた。必死に働いて、一刻も早く家から出たかった。自分の感情に抗うことができずに酒に溺れ、犬コロのように自分の子供を蹴り、殴る。ストレス発散の道具にしか思っていない。そんな人間から、早く離れて俺は初めて自分の人生を始められる。十五年を、なかったことにするために。

そして、必死に働いて一年でそれなりにお金がたまり眠りこけているところを見計らって、家を出た。そして高校卒業を目標に一年遅れで高校に入学した。先生に事情を説明して、長袖でいることを許してもらった。高校に入学した今も、工事現場で働いている。それがあるから大抵お昼には早退している。そのことや、長袖でいることに突っかかってきた奴がいたが、どうだってよかった。大体、俺の事情を知ったからと言って、今更何かできるわけでもない。最近、変に絡んできた奴がいたが、そいつだって面白がっているに違いない。大体、親父からは離れられたんだ。身体に残った痣もいつかは消える。この記憶もいつかは消してみせる。夜になると体が震えるのも、もう治ったはずの傷や火傷跡が痛くて仕方がないのも、時々心臓が早くなって叫び出したくなるのも。大丈夫だ、耐えろ。踏ん張れ。ここで踏ん張れば、次に進める。次に進めば、きっと何か変わる。何かは変わるはずだ。耐えて、踏ん張ってそうやって次に進んできただろ。俺はあの人から解放されたんだ。これは過去だ。俺はもう自分の人生を歩いていいんだ。この人生は俺だけの人生だ。


三日か、四日ぶりに学校に行った。現場に忘れ物を取りに行っていたら授業に遅れてしまった。常習犯だからもう、何とも思わないけれど。教室のドアを開けて、黒板を確認する。現代文の授業だった。遅れてきたときに感じる独特な空気間をまとう教室を無視して自分の席に座る。それから教科書を取り出す。

 特に面白くもない授業を聞き流す。これから先何の役に立つのかも分からない。将来やりたいことが関係してくるのなら話は変わってくるのかもしれないが、今のところ俺の将来に現代文は特に必要がない。卒業するためには一定数の点数を取らなければ留年になりかねないが。お昼で早退するような俺はもう、留年確定だろうからもうほとんど諦めている。高校を卒業するのを目標に入学をしたけれど、仕事を優先しているため進級するための出席日数がもうあと少しで足りなくなるらしい。

俺が仕事を始めたばかりの頃、同じ現場に高校に通いながらの奴がいたが、三人が三人とも全日制高校に通ってはいなかった。通信制高校や、定時制高校に通っていた。その理由が最近分かった。仕事に通いながらの学校は難しい。



「あの、佐倉くん」



現代文の授業が終わってすぐ、後ろから遠慮がちの声が俺を呼んだ。頭の中でふと思う。以前にも似たようなことがあった気がする。それに気が付いて危うく舌打ちをしそうになるが舌を噛んで耐える。振り向かずに無視を通す。ここの誰とも慣れあうつもりはない。宿題の提出とかかもしれないがもちろんやってきていないから、たとえそういう類でも俺には関係ない。だから無視をする。


「佐倉くん」


声が近づいてきて俺の肩をつついた。指先だろうか。いきなり触れられたこと、くすぐったさに全身が嫌悪感を示す。反射的に体を固くする。自分を守る範囲を突然踏み荒らされたことに怒りも抱く。舌を噛む。怒りを覚えた時にやってしまう癖だ。気持ちが悪い。得体のしれない存在が俺のすぐ近くにいる。それだけで恐怖が俺を襲う。いとも簡単に過去に引きずり込まれてしまう。だから俺はずっと他人との距離を一定に保ってきた。誰も俺の柔いところを知らない。それでいい。これから先も、それは変わることはないだろう。

とりあえず俺に勝手に触れてきたこいつを一刻も早く遠ざけたい。さっきから心臓がドクドクと脈を打っている。気持ちが悪い。


「あっ、ねえ、まって」


 追いかけてこようとする声に既視感を覚える。なんとなく声も似ているようにも感じる。なによりこのめんどくさい感じに、怒りが湧いてくる感じ。何度も何度も舌打ちを我慢するこの感じも。言葉で表せないような身体の内側から得体のしれない、けれどよくはない感情が沸き上がってくる感じ。

 教室のドアを少し乱暴に開けると廊下で騒いでいた奴らが、びくりと動きを止めた。そこからきっと俺と目を合わせないようにサッと視線を逸らす。こんなのはもう慣れっこだ。変に絡まれるよりはこっちの方が断然いい。言葉を選んで誰かと話すのも、気を遣うのも面倒臭い。そんな気力を使うくらいなら仕事に使いたい。だから追いかけてきているこいつを早く撒きたい。

 人がいないのを見て、立ち止まる。教室から追いかけてきた足音も止まる。誰かは知らないが早く消えてほしい。


 「お前まじでなんなの。てかだれ」

 「あ、私は加賀美真生っていうよ。佐倉くんと同じクラスなんだけど…って、それはいまはいいの。佐倉くんに聞きたいことがあって。その左手の火傷跡と身体の痣は何?」

 「お前に関係ないだろ。それを知ってどうすんの?先生にでも言う?いったところで何も変わらないのに?」


 言いながら自分の身体から怒りが漏れ出てくるのを感じる。久しぶりに感じたこの感じに少し戸惑う。その間にも目の前の女は続ける。


 「先生には言わないよ。ただ何かに苦しんでるのなら知りたいなって」

 「お前が、何をできるんだよ!!子供のくせに!!いいか、今お前がやってるのはただの自己満足だ!!カワイソウな奴に優しくする自分がかわいいだけだ!!自分の欲を満たすのに人のこと使ってんじゃねえよ!!そういう奴が一番汚いんだよ!!!!」


俺の過去もこれまでの苦しみも何も知らないくせに。

分からないくせに、分かろうとするのは優しさなんかじゃない。ただの偽善だ。こいつはその事に気がついていない。だからこんなにも自分勝手に踏み荒らせるんだ。

怒りが湧いてくる。

いつの間にか掴んでいたそいつの制服の胸ぐらに寄ったしわが視界の端で見える。それを掴んでいる自分の手に、いつ受けたか分からない消えかけの痣があるのも。この痣はいつ消えるんだろうか。お風呂に入っても沁みなくなったからもうすぐ消えるはずだ。つけられた痣が消えるたびに、自分の過去の記憶も消えていけばいいのにと思う。実際はそんな都合よくはいかないけれど。消したいと思う度に、頭の中であの頃のことが再生される。人間の記憶はそんな都合がいいものではないらしい。

俺はそいつの顔もよく見ずに踵を返す。どうせもう話しかけては来ないだろう。ここまで言ったんだ。もう関わっては来ないはずだ。俺になんて関わらないほうがいい。


「お疲れ様でーす」

 

今日は学校が終わってから現場に入った。夜の間に作業をするらしい。明日は学校が休みなのでそのまま家に帰ればいい。久しぶりの休みだ。と言っても特に予定もないしただ家に帰るだけだが。


「おお、心。学校おつかれー」

新城(しんじょう)さん、お疲れ様です」

俺が現場入りすると大抵いつも声をかけてきてくれる。新城さんは俺が初めて入った現場で一番初めに声をかけてきてくれた人だ。昼ご飯やジュースなんかを度々奢ってくれる。俺より十歳上らしい。人のことは信用ができないが、この人のことは少しだけ信用している。何というか危なっかしい感じの人だ。現場職に就いてから八年らしい。だから仕事のことは大抵この人に聞けばわかる。仕事をしているときはとても頼りがいのある人なんだが、ボロは大体休憩中に出る。少しの段差に躓いたり、真夏にホットコーヒーを買ってきたり。ほかにも色々あるらしい。特に興味がないから覚えていないけれど。


「どうだあ、学校は。友達できたか」

「いや、できてないっすよ」

「はっは、好きな人はどうだ、できたか?」

「友達もできてないんすよ、好きな人なんかできるわけないじゃないすか」


 腕組みをした新城さんがこれまで何度も見せてきた真剣な表情を見せる。この人がこういう顔をするのは大体仕事中だが、たまに仕事中以外にもこういう顔をする。そしてそういう時は大概、大人臭いことを言う。俺はそういうのが苦手だ。ただ年を取っただけの子供で、大人なんて偉くも何もないくせに。


「心、時々大人みたいな顔をするお前のことを、俺は何も知らない。お前のことなんか本当に何も知らない。てか、知ろうとも思わない」

「はは、ひでえこと言いますね」

「人なんて大体そんな奴らばっかだよ。自分以外興味なんてねえさ。それでも、この人のことを知りたいって思う瞬間が来る時があるんだわ。お前が、そういう人といつか出会えたらいいなとは思ってるさ。中学卒業したばっかのなんも知らねえ子供の時のお前を知ってる。俺にはそうなった事情なんて知ったこっちゃねえ。ただ、そうすることしかできなかったお前に、俺には想像もできないことがあったんだろうなってのは想像できる。お前がマスクを外さないのも関係してるのかもしれねえが、そんなの俺には関係ねえ。お前の過去なんかどうだっていい。俺に分かるのは今、お前が学校に行きながら働いてるすげえ奴だってことだ。だからお前に少しでも信頼できる人間ができたらいいなと思ってるよ。絶対いつか出会えるぞ。絶対だ」


この人がどうしてこんなことを言うのか、分からなかった。ただこの人が出会った時からずっと一定の距離を保ち、俺を見ていたんだと思った。何かに気が付きながらそれを言わずにいてくれたんだと知った。この人を少し信用できる理由が分かったような気がした。


「うす、ありがとうございます」


そんなことを話していたら、時間になっていた。俺は今日も生きていくために働く。





加賀美真生



「お前が、何をできるんだよ!!子供のくせに!!いいか、今お前がやってるのはただの自己満足だ!!カワイソウな奴に優しくする自分がかわいいだけだ!!自分の欲を満たすのに人のこと使ってんじゃねえよ!!そういう奴が一番汚いんだよ!!!!」



胸ぐらを掴まれたのは人生で初めてだった。掴まれた制服がしわになったその先で、掴んでいる佐倉くんの手が視界に入ってきた。さっきは見えなかった右手の方だった。制服の袖から除いた手に、確かに痣の跡があった。いつつけられたのかはわからない。ただ、反射的につい目を背けたくなってしまう。佐倉くんは私の顔を見もせず離れた。ただ私は見ていたので分かった。手を離す前に、バツが悪そうな顔をしていた。

その後は特に何もなく、一日が過ぎた。佐倉くんも今日は珍しく放課後まで学校に居た。鞄の他にリュックを持っていたから、仕事があるのかもしれない。学校近くに新しく工事をしているところがあったのでもしかしたらそこかもしれない。


放課後いつものようにすずちゃんと帰路につく。夏の五時はまだまだ明るい。西の空からの夕日がまだ私たちを夏の暑さの中に残させている。だらだらと話をする私たちの横をジョギングをしているお兄さんが走り抜ける。


「まお、そういえばさ、現代文のあとまたいなかったけどもしかして」

「あ、うん、佐倉くんと話してたの、また怒らせちゃったんだけど…はは」



夕日が私たちの影を道路に照らし出す。最近髪を結び始めたすずちゃんの髪が左右に揺れているのが、道路に映し出されている。


「どうしてさ、そんなに佐倉くんのこと気にしてるの?」


すずちゃんが私に聞いたことはいたって普通だ。ただの素朴な疑問だ。最近急に佐倉くんを追いかけ初めているのを、疑問に思ったんだろう。自然なことだ。それなのに私は質問に答えられず言葉に詰まった。


「どうしてかな、私も分かってないんだよね…。なんか気になる」

「ふうん…??好きなんじゃない??恋してるんじゃない??ふふ」

 「ち、ちがう!!よ……多分」


 最初は否定したけれど、本当にそうなのかと言いながら思って、結局はちゃんとは否定できなかった。どうして佐倉くんを追いかけているのか私は分からないままだ。それなのに身体が勝手に佐倉くんを追いかける。磁石が引き合わさるように。自然に。


 「ま、でもさ。佐倉くんだって佐倉くんの事情があるんだし、全てを分かりたいなんてなかなかできないと思うよ。まおが何をそんなに知りたがってるのかは、分かんないけどさ。一方的な感情をただぶつけたって、傷つけるだけな時だって、あるし」


 すずちゃんが時々する、ここではないどこかに意識が飛んでいる顔をした。私は隣にいるこの子のことですら、まだ知らないことばかりだ。それこそ、すずちゃんの過去なんて私は知らないままだ。こういう顔をする理由だって私は知らない。隣にいる子のことですら知らないことだらけなのに、私は佐倉くんを追いかけてどうしたいのだろう。すずちゃんが言うように恋でもしているんだろうか。

 そのまますずちゃんの家に行って、キナコを撫でてから少しすずちゃんと話した。それからすずちゃんとわかれてから家につくまで考えた。私だってこれまで人を好きになったことがある。その感情とはどこか少し違うようにも思える。だけど、恋だともいえるような感情。佐倉くんの痣や火傷の跡、顔半分を覆うマスク。さらりと揺れた前髪から覗く少しツリ目気味の目。それからあの罰が悪そうな顔。映像でも見ているかのように鮮明に思いかえすことができる。


「佐倉くん。話したいことがある」


次の日、早朝五時。私は佐倉くんのいる工事現場に行って、仕事終わりの佐倉くんが出てくるのを待った。自分でもストーカー気味なことをしている自覚はある。だけどこうでもしないと彼はきっと話を聞いてくれない。急に声をかけた私に驚きもせずに、めんどくさそうな顔をした。それからやっぱり無視をして早歩きで歩いていく。私はそうなることも承知で、後を追う。私の家の方向とは反対に歩いていく。


「佐倉くん、あのね。この間佐倉くんに言われたこと考えたの。『自分の欲を満たすのに人を使うな』って言われて、私がしてたことがただの自己満足だったって気づいた。佐倉くんの言う通りだった。ごめんなさい。でも、佐倉くんを追いかけてたのは、佐倉くんが気になるからでもあって、私多分佐倉くんが好きなんだと思う。今日はそれを伝えたくて」

「だったらなんだよ。それだってお前の勝手な感情だろ」

「そうだよ、私の身勝手な感情だよ。それでも伝えたかったから伝えたの。答えてくれなんて思ってない。佐倉くんがどうしてそんなに他人に怖がってるのかも私は知らないし、佐倉くんの痣も火傷の跡も何があったのか私は何も知らない」

「俺が、怖がってる??」

「そうだよ、人と関わるのを怖がってるように見える。私の中学時代にそっくりだもん、」


勢いよく佐倉くんが振り向いて、私の胸ぐらを掴んだ。人生で二回目だ。こんなに頻繁に掴まれるなんて思ってはいなかったけれど、覚悟はしていた。佐倉くんは何か言いたそうに息を吸ったけれど、それは言葉としては出てこなかった。ただの息として吐きだされて、佐倉くんはそれを何度か繰り返した。私にはそれが、言葉を探っているように見えた。目の前の人間を傷つけない言葉を、頭の中で形成しているように思えた。


「おまえに、何が分かんだよ、何も知らないくせに偉そうなこと言いやがって」


佐倉くんは息を溢すように言った。胸ぐらを掴む手に力がこもった。私はその手を、自分の右手で触れる。佐倉くんはびくりと震えたけれど、払いのけたりはしなかった。私はそのことに驚いた。下を向いているので表情は分からないけれど、触れた手が震えているのが分かる。


「知らないよ、佐倉くんのことなんてなんにも知らない。だから知りたいってすごく思ってるの。言える範囲でいい。知ったからって何かできるわけじゃないと思う。どうにもできないことだって、あるから。だけど、ほんの少しでも佐倉くんが楽になったらいいなって思う」


佐倉くんは、しばらく口を開かなかった。胸ぐらを掴む手を少し緩めた。私の手は、払いのけなかった。そこから少しして糸が切れたように手の力を抜いた。触れていた私の手に体重がかかる。私はそれを受け止める。

夏の夜明けは早い。もうすでに日が昇っていて、私と佐倉くんを照らしている。まだ日が昇ったばかりなのに、じりじりと肌を焼くような暑さに包まれる。


「お前、名前なんだっけ」

「真生。加賀美真生だよ」



私は触れている手に力を込めた。佐倉くんも黙ったまま握り返してくれた。頬に涙が伝ったように見えたけれど、見ないふりをした。



「佐倉くん、おはよう」


月曜日、学校に行ったら佐倉くんが居たので声をかけてみた。無視されるんだろうなあと思いながら期待せずに席につくと、佐倉くんが振り向いた。多分、初めて目が合う。ツリ目気味の目が、私をとらえる。マスク越しに佐倉くんが息を吸った。


「おはよう」


私より先に、クラス中が驚きの声を上げた。私は目を見張るだけにとどめた。嬉しくて、思わず口が緩む。佐倉くんは周りの反応を無視していつも通りに前を向いた。


「まお、佐倉くんと仲直り?できたんだね」


しっかり見ていたすずちゃんが小声で声をかけてきた。私は、小さく頷く。気を抜くとすぐに口が緩んでしまう。それもしっかり見ていたすずちゃんが嬉しそうに笑う。


「恋、してますねえ」


私のこの感情が恋なのかは、まだしっかりとは分かっていない。佐倉くんには好きなんだと思うと言ってしまったけれど、実際のところまだ分かっていない。これまで抱いてきた感情とはどこか違うような気もしている。


私たちはあれから少しだけ話して別れた。まだ佐倉くんとはしっかり話せていない。佐倉くんの過去のことだってまだ知らない。佐倉くんは工事現場で忙しいし、学校でもそんなに話せないよなあ、と思っていたら仕事に行く前と、終わった後なら話せると言ってくれたので約束をした。場所は工事現場から五分くらいのちょっとした空き地に決まった。人通りも少ないし、ここなら誰かに見られる心配も聞かれる心配もないからという理由だった。

今日もこれから佐倉くんが夜から現場入りだと言うので学校が終わってから行く予定だ。私の家からも近いところなので、いつものようにすずちゃんと帰って荷物を置いてから行くことにしている。友達との時間も大切にしていきたい。




「佐倉くん、もう来てたんだ。ごめんね、待った?」

「いや、別に」


何回目かの待ち合わせだけれど、いつも会話がなんだか恋人のデートの待ち合わせのようで、笑ってしまう。そんな私を佐倉くんは横目でチラリと見て不思議そうな顔をしたけれど特に理由は聞いてこない。私は笑った顔のまま佐倉くんと同じように土管に腰掛ける。佐倉くんとは少し距離を開けて。

夏の夕方はまだまだ明るい。午後五時を過ぎてもまだお互いの顔がはっきりと見える。どこか空中を見ているのか、ぼんやりとした顔をした佐倉くんに気づかれないように見る。スッとしたツリ目気味の目しか見えない。どこかに意識が飛んでいるかのような顔で私が見ていることなんか気づきもしない。お互いの呼吸しか聞こえない。私の心臓が少し大きく鳴っているけれど、佐倉くんにはきっと聞こえていないだろう。


「加賀美さ、死にそうになったことってある?」


会って十五分経った頃、佐倉くんがおもむろに口を開いた。聞いてはいないけれど、佐倉くんはきっと死にそうになったことがあるんだろう。私は少し考えてから首を横に振る。佐倉くんはそれを見てからまた口を開いた。


「俺さ、あるんだよ。小さいころから中学出て一人暮らし始めるまでずっと。毎日が死ぬかもしれない日だった。気が付いた時にはもう家には親父しか居なくて、働きもせずに酒飲んで、挙句子供に暴力するような奴でさ。真夏に食うもんが何もなくて、しばらく水でしのいでた時なんか、死ぬんかなって本気で思った」


佐倉くんの声が、私を包んでいく。私の身体は、雨水を含んだ布のようにどんどん重くなっていく。


「しばらく帰ってこないときなんかもあって。どこで会ったのか知らねえけど、女の家に転がりこんでたらしくて。やっと帰ってきたと思ったら振られたらしくて機嫌が最悪で、俺は都合よく家に居たから殴られたよ。ひでえよなあ、なーんも悪くねえのに。『お前がいるせいで振られた』とか言われてさ。いや、知らねえよ。俺は産んでくれなんて頼んだ覚えもないのに、なんでか俺のせいになるんだわ。勝手だよなあ、ほんと」


過去を見ているのだろうか。ぼんやりとした目に怒りや、虚しさが映る。まだ何もできない子供で、嫌でも帰るしかなくて。生きるためには帰るしかなくて。だけど、帰るたびに死にかけて。ただ必死に生に縋り付いてきた人が纏う空気間。私はそれに覚えがあった。お母さんと似ていた。お母さんもこんな空気間を纏っていた。ただお母さんとは少しだけ、何かが違うような気がした。お母さんは「生きることに執着している」と言っていたけれど、佐倉くんからはそういうのを感じない。それどころか、まるで、


「死のうと、思ったんだよ。中学の卒業式が終わったその日に。あの日も、ボコボコに殴られて、それが終わってすぐに死のうとしたんだ。もう、どうでもよくて。高校になんかとてもじゃないけど行く金なくて、生きる理由もなかったし。死ぬには十分な理由があったから、じゃあ死のうって。それまで動くのもきつくて重かった身体が、軽くなったんだ。世界との繋がりが消えたみたいに、確かに一瞬軽くなった」


私には到底想像もできないような人生だったんだろう。佐倉くんは「死にたい」側の人間だった。だから、お母さんとは違う感じがあるんだ。同じような経験をした人間でも、同じ人間ではないから違うんだなと思った。当たり前のことで、当然のことかもしれないけれど。

佐倉くんはまだ、どこか遠い世界に居る。


「でも、死のうとしたところにちょうど、今世話になってる新城さんて人がいて、死ぬくらいなら死ぬ気で働いてみないかって言われて。特に理由も聞かずに今のところで働けるようにしてくれたんだ。そこから俺は言われたとおりに死ぬ気で働いて金稼いで、一年で家を出たんだ。そこからはこの間話した通り、高校卒業認定とるために通い始めたって感じ」


ゆっくり、佐倉くんは戻ってきた。仕事の時間が近くなってきたからだろうか。先ほどまでのぼんやりとした顔ではなくて、しっかりと目の前の景色を見ているようだった。腕時計に目をやって、土管から地面に降りた。佐倉くんはここからはもう、仕事モードだ。


「じゃ、今日はここら辺で。仕事の時間になるからもうそろそろ行くわ。送っていけねえけど、大丈夫か?」


佐倉くんはやっと私を見た。しっかりと目を合わせた状態で、私は頷く。時刻は六時過ぎ。もうすぐ、夜が来る。空き地を出て私は左へ。佐倉くんは右へ。手を振ると、佐倉くんも振り返してくれる。私はそれを見てから背を向けて歩き出す。佐倉くんはきっと今日も私が見えなくなるまで見てくれている。

暗くなり始めているから少しだけ歩くスピードを速める。鼓動が早くなっているのは多分、スピードを速めたせいだけではないんだろう。私は口元が緩むのを感じながら家に急いだ。





佐倉心



加賀美真生と空き時間で話すようになって、もうすぐ一か月が経とうとしている。自分の感情と向き合うことから最近、逃げるようになった。話すときに目を見られないでいることに、理由があることには気が付いているけれど、わざと気が付かないようにしている。この感情と真正面から向き合ったら俺はきっと、生きることが今よりもっと怖くなってしまう。誰にも言っていないけれど、ずっと死ぬことに執着している。たった一度、死ぬことに囚われてしまったがために俺は逃れられなくなってしまった。月に二度ほど、精神科へ通院している。薬を服薬して無理やり眠っている。「生きる」という行為が俺はずっと怖くて仕方がない。あんなに嫌で自分から逃げ出した家に戻ってしまおうかなんて考える自分がいる。消えてほしいと願う痣が一つ消えるたびに不安感に襲われる。痣が薄くなるのを見て、何故か焦る自分がいる。

┄┄ああ、俺は、死にたいんだな。

ふと、そう思って、それがすとんと落ちてきたときに少しだけ気持ちがマシになるのを感じた。そこでようやく自分が死にたがっていることに気が付いた。死ぬことに囚われていることを自覚してからは、とにかく自分の身体から痣が消えていくのが怖くて仕方がない。今も夢に出てくる親父に救われるような気持ちを抱いている。それと同時に憎い。どうして殺してくれなかったんだと、叫びたくなる。きっと加賀美には分からないだろうと思う。「死にたい」と思ったことがある人間にしか分からない感覚なんだろうなと思う。同時に、どうか分からないままでいてくれとも思う。こんな気持ち、分からないままでいい。分からないままでいいからどうか否定しないでくれと思う。今はまだ思うだけに留めておくから、だからどうか。


「加賀美には、話せねえなあ…」


加賀美と別れてから工事現場までの道を歩く。スーパーの袋を下げて歩いている人とすれ違う。「生きるため」に生活をしている人間だろう。俺はどうだ。今こうして働いているのは一体、何のためなんだろうか。初めはきっと俺も生きるために働いていたはずだ。だからこうして高校にも通っているんだろう。それなのに今の俺は、答えが分からない。どうして働いているのか、今の俺には分からない。死に囚われているくせに、どうして働いているのだろう。心の底では、本当は生きたいとでも思っているのだろうか。


「よお、心」


聞きなれたような、どこか知らないような声に呼ばれた。鼓動が自然と早くなっていくのを感じる。怖くて声のした方を向けない。その間にも足音は近づいてくる。力強く肩を掴まれて、無理やり向かされる。

┄┄酒の匂いだ。

匂いにつられて顔をあげる。よく知っているような、全く知らないような顔が俺を覗き込んでくる。反射的にのけ反る。ぼろぼろの服に、乱雑にそろえられた短い髪。記憶の中よりも老けたように見えるのは確実に時間が経っているからだろう。だけど、記憶の中と同じ、嗅ぎなれた酒の匂いはする。


「探したぜ、急にいなくなりやがって。なあ、誰が育ててやったと思ってんだ?」


周りの目を気にしているのか抑えた声で、だけどはっきりと怒りを灯した声で俺の中の記憶を刺激する。

大人はいつだって身勝手だ。まるで小さな子供みたいに。育ててやったなんて、一体どの口が言っているのだろう。散々殺しかけて、お前なんかがいるせいでと喚き散らし、自分だけ酒を好きなだけ飲み、俺には食べ物すらまともに与えてくれなかったくせに。それなのに自分が育ててやったのだから感謝しろ、恩を返せと言うように纏わりついてきて。

俺が、わんわん泣き喚いて「お願いします。どうか育ててください」とお願いしたわけじゃない。ただ大人たちが勝手に作って産んだんじゃないか。育てるのは親の義務だろう。それなのに、恩着せがましく、どの立場からものを言っているのだろう。

強烈な酒の匂いがして気持ちが悪い。吐き気がする。


「お前、働いてんだろ??さっきのかわいい子は彼女か??お前だけ幸せになっていいと思ってんのか。俺はお前のせいで人生棒に振ったって言うのによ、なあ?生きるために金が要るんだよ。生活保護は酒代で飛んでいっちまってよ。月五万。払えるよな、そのくらい」


俺にだけ聞こえるような声で、酒の匂いまでさせていつまでも俺の記憶を刺激してくる。忘れられたと思っていたけれど、身体はしっかり反応して震えている。そしてそれは親父にはバレているだろう。俺は結局あの頃から何も成長していない、中学生の子供のままだ。


「渡さないって言うなら、彼女に頼んでもいいんだぞ。まあ、金だけじゃ済まないかもしれないけどなあ」


自分でも驚くくらい自然に、鞄の中の財布を掴んでいた。それに気が付くと気持ち悪く歪んだ笑みを浮かべて俺の手からそれをひったくった。素早くお金を抜いて捨てるように投げた。俺の足元に頼りない音を立てて財布が落ちる。俺はそれを視界の端で捉える。


「来月の二十五日、またここで」


そう言い残して、家だと思われる方向に歩いて行った。親父が指定した日にちは悔しくも給料日だった。

なんとか身体を動かして足元の財布を拾う。中身を確認すると、綺麗にお札だけが抜き取られていた。身体が重だるくなる。鉛でもつけられたかのように、親父のことが纏わりついている。離れられたと思っていた。思い違いをしていたんだろうか。俺の身体は、動かない。


「おーい、心!!仕事始まるぞー!!」


俺の身体を動かしたのは、新城さんの声だった。青い顔をした俺を見て、新城さんは何か言ってくれていたけれど、上手く聞き取れなかった。脳が正常に機能していないみたいだった。言葉を音として変換しないまま現場に入り、身体だけを動かした。暫くして脳が正常に機能し始めた頃には、俺は今日は帰れと荷物をまとめられていた。言われるがまま、その日は家に帰ることにした。

家に着いたのは二十一時。仕事が始まって二時間しか経っていなかった。ずっと心臓がドクドクと脈打っていた。とにかく気持ちが悪かった。トイレに駆け込んで吐いた。けれどどんなに吐こうとも、気持ち悪さは抜けなかった。酒の匂いもどうしてか消えなかった。身体を洗う気力もなく、着替えもせずにベッドに倒れこんだ。自分の身体からなのか、記憶の中にこびりついた匂いなのか分からないけれど、酒の匂いに包まれたまま眠りに落ちた。

目を覚ましたのは、どこからか鳴る音だった。目を開けて音の出所を探る。手を伸ばしたところに何かがあった。ブーブーと震えている。スマホだった。基本的に目覚ましはかけないので誰かからの連絡だろうが、学校か新城さんか加賀美くらいしか登録はしていない。顔の前まで持ってきて画面を見る。連絡は加賀美からだった。時刻は午前十一時。今日は金曜日で仕事は午後からなので、今頃本当なら学校に行っているはずで。来ないことを不思議に思った加賀美が連絡をしてきたんだろうと思った。


【佐倉くん、体調悪い?大丈夫??】

【今日は、空き地行かない方がいいかな?】


思った通りだった。俺は指だけ動かして返信する。すぐに返信がきた。内容を確認だけしてスマホを放る。なんだかどうでもよかった。

┄┄今なら死ねるかもなあ。

ぼんやりとそんなことを思う。ふ、っと笑ってみる。頬を何かが伝う感覚があったけれど、無視をする。いつも通りに舌を噛んでやり過ごす。こんな風になったのはいつからだろう。泣くことも怒ることも、諦めるようになった。どんな感情も舌を噛めば、どうにかなった。その度にちゃんと、死にたくなった。

周りの人間に危害を加えないように、突き放すようになった。俺は誰かと一緒に居てはいけない。必ず傷つけてしまうから。だから、加賀美からも本当は離れなきゃいけない。それが頭でわかっていながらも、出来ていないのは加賀美に対して恋愛感情に似たものを抱いてしまっているからだろう。

加賀美と話している間は、不思議と心が穏やかになる。「ただの高校生」になれる。しょうもないことで笑っていられる。そんな風になるのは、いつぶりだろうか。もしかしたら初めてのことかもしれない。俺だって年相応の顔をして、息をしてみたい。死ぬことをやめて、これからを生きられるようになりたい。「生きる」という行為を、全身で受け入れられるようになりたい。

親父に月五万円を渡さないといけないがために、俺は更に働く時間を増やした。そのせいで加賀美とはあまり話せなくなってしまっているが、加賀美が俺といることで親父に目をつけられずに済むなら、いいかもしれないなと思う。ただ、このことは加賀美に話せていないから、少し申し訳ないなと思う。それと、いつかは話さないといけないなとも思う。

次に親父が現れたのは、約束通り次の月の二十五日だった。仕事終わりの俺を待っていたんだろう。現場から出たところを捕まった。あたかも仲良しかのように肩に手を回してくる。他の人に聞かれないようにするためだろう。俺にしか聞こえないような声で、金を要求してくる。

今日、加賀美との待ち合わせがなくてよかった。加賀美を親父と会わせるわけにはいかない。


「しーん。約束の日だ。分かってるな?」


今日も酒臭い。身体に染みついてしまう前に離れよう。

俺は黙って財布から五万円だけ抜いて、押し付けるように渡した。親父は早速五万あるかを数えてまた歪んだ笑みを浮かべて、また来月なと言い残して俺から離れていった。親父が俺から離れたあとも、酒の匂いが俺を包んでいた。それが嫌で、少しでもマシになればと思い、上着を脱いだ。両腕に幾つもある痣。それは見えていないだけで俺の全身に散らばっている。右手の火傷の跡に、左手には消えかけの痣。この状態のまま大通りに出たら、夜遅いとはいえ周りの視線が痛いほど集まるだろう。

俺は、上着をバサバサと鳥が羽を動かすみたいに上下に振って、また着なおした。先程よりは酒の匂いが薄れているような気がする。身体に染みついてしまう前に、早く帰ろうと思い急いで家に向かった。家に向かう最中、心臓が周りに聞こえるんじゃないかというほど大きく脈打っていた。俺の中の今はもう上手く笑えなくなっているであろう、閉じ込めてしまった小さな子どもが飛び出してきそうな感じがした。慌てて呼吸を整えるように大きく吸って、静かに吐き出してみる。まだ心臓はドクドクと脈打ってはいるが、先程よりはマシになった気がする。とりあえずもうすぐ家に着く。今日はもう、早くに寝てしまおう。明日は朝から学校に行く予定だ。

明日は、仕事の前にすこし時間ができるから、久しぶりに加賀美と話す時間が出来ればと思う。そのことを加賀美にメールで送る。一分も経たないうちに返信が来た。その内容に俺は思わず口元が緩む。同時に加賀美に対しての感情が動くのを感じた。





加賀美真生


【明日学校終わりにいつもの場所で話さない?】


三週間ぶりに佐倉くんから、メールが来た。自分時間をそれなりに楽しく過ごしていたけれど、やはり身体は正直なのだろう。通知音が鳴るとほとんど同時に、スマホを手に持って通知を確認していた。それと同時に、口元が緩んだ。意識が全て佐倉くんに向けられ、すっかり恋する乙女になる。


【久しぶりだね!うん!いいよ!学校終わったら向かうね!】


絵文字をつけようかどうか悩んだけれど、びっくりマークだけにして送った。最近は学校でもあまり話せていなかったから、とにかく嬉しい。

メール一つで人はこんなにも笑顔になれるのか。相手が好きな人だからなのか。これまで何回か人を好きになったことはあるけれど、こんなに気持ちが高揚するのは初めてのことだった。

ベッドで抱き枕を抱きしめて転がっていると、一階からお母さんに呼ばれた。返事をして降りていくと、珍しくキレイめな服に身を包んでいた。どこかへ出かけるのだろうか。不思議に思っていると、お母さんの後ろからお父さんが顔を出した。


「まお、今日の夜急遽人が足りなくなってしまってね。こよりにお願いすることにしたんだ。夜ご飯終わったら僕らは仕事に行ってしまうんだけれど、大丈夫かな?」


お母さんがお父さんのお店の手伝いをするのを見るのは初めてのことだった。元々お母さんがお父さんのお店にバイトとして行ったのが出会いだとは聞いていたけれど、私が生まれるのと同時にお母さんはやめてしまったらしい。だからお母さんがお父さんのお店に行っているのを私は見たことがない。こっそり見ようかとも思ったけれど、バレたら何か言われるのは確定しているので、今日は静かに寝ていようと思う。それに明日は佐倉くんとの待ち合わせがあるので、ちゃんと寝て万全にしていきたい。


「わかった。大丈夫だよ。ふたりとも頑張ってね」


私の声に、ふたりが微笑んだ。

ふたりが仕事に行くので、いつもより少し早めの夕食になった。今日の夕食は肉じゃがで、じゃがいもはホクホクで玉ねぎは甘くてお肉はほろほろとしていて、凄く美味しかった。久しぶりに白米をおかわりしたら、お母さんもお父さんも嬉しそうだった。

ご飯を食べ終わってベッドにダイブする。胃がパンパンで少し食べすぎたなと後悔がこみ上げてきたけれど、すぐに美味しかったからしかたない、に切り替わって幸福感が私を包み込んだ。この状態のまま眠ってしまいたかったけれど、お風呂入らなければいけない。面倒臭い気持ちに負けないようにするために、重い身体を起き上がらせた。


次の日。久しぶりに佐倉くんとの時間が取れたのが嬉しくて、朝からルンルンだった。身体中からあふれ出ていたのかもしれない。すずちゃんが会うや否やにやにやとからかうときの表情になった。


「まお、おはよう~って、さては佐倉くんがらみだなあ。なになに聞かせろ~」

「な、なんでもないよ~!ただ今日久しぶりに佐倉くんが時間ができたから話そうって!!」


そう答えると、すずちゃんはまだからかうときのままの表情でふうん、と笑った。私はなんだか少し恥ずかしくなって頬を両手で包んだ。絶対今、にやけてるか顔が赤くなっている気がする。

佐倉くんと時間のある時に話すようになってもうすぐ、三か月が経とうとしている。時期はもうすぐ九月だ。夏休みはほとんど話せなかったし、ここ三週間もまともに話せていなかったから本当に久しぶりで完全に気持ちが高ぶっている。

学校につくと、佐倉くんはまだ来ていなかった。もうすぐチャイムが鳴る。今日は遅刻だろうか。


一時間目、二時間目が始まっても佐倉くんは来なかった。三時間目は数学だ。数学の教科書を準備してすずちゃんと話していたら、私のすぐ脇を誰かが通り過ぎた。ふわりと香る柔軟剤に混じった汗や鉄、何とも言い表せない匂いが鼻をくすぐった。反射的に私の身体は反応する。サラサラの黒髪に少し黄ばんだ制服。その制服は長袖。衣替えまであと二週間あるから周りは半袖の上にカーディガンを羽織っている。その中に浮き上がるように見える背中。佐倉くんだった。ただ背中や、腕あたりが少し汚れているのが気になった。声をかけたかったが運悪く末永先生が来てしまったので、みんなそれぞれの席に戻った。そこから順調に特に何もなく、残りの授業を受けた。今日もお昼はすずちゃんとおかずを交換したし、体育の持久走は疲れた。佐倉くんと特に話すこともなく一日が終わった。佐倉くんは先生に呼ばれて放課後、職員室に行ってしまった。私とすずちゃんはいつも通りに帰路についた。結局放課後まで佐倉くんと話せなかったけれど、これから佐倉くんと話せるので気分はルンルンだった。すずちゃんといつもの場所で少し話してからわかれた。

佐倉くんはもういるだろうか。私服に着替えて鏡の前で髪を整える。

待ち合わせ場所に行くと、佐倉くんはまだ来ていなかった。もうすぐ九月になるからか、午後五時過ぎになると日が落ちるのが早くなってきた。少し肌寒く感じることが多くなってきた。今日は風がほとんどないのでそこまで寒くはない。この気温が私は過ごしやすくて結構好きだ。


「うっ」


いきなり後ろから思いっきり殴られた。みぞおちあたりが痛い。胃液が上がってくる感覚に襲われる。相手の顔を確認する前にまた一発殴られた。今度こそ、胃液に混じった何かが口から出る。痛くてうずくまる。その間に私の身体の前側に腕が回ってきた。私が反応する前に口をふさがれて、声を出せない状態にされる。頑張って動くも、お腹あたりを集中的に殴られて身動きすら取れなくなる。意識が遠のいていくのを感じて慌てて舌を噛む。何とか意識を保って抵抗しようとするも、立て続けに殴られて動けなくなる。

服の下に手が入ってくるのを感じて思わず身を固くする。私の抵抗も虚しく力には勝てない。気持ち悪い感触がして、身体中に鳥肌がたつ。声を出そうにも出せない。目に涙が溜まってきて、視界が滲む。思わず目を閉じる。


「ぐっ」


男のうめき声がして、気持ち悪い感触が消えた。口も解放されて息を思いっきり吸う。身体を起き上がらせると、見慣れた背中が誰かに覆いかぶさっていた。殴っているのか骨と骨がぶつかるような音が続く。


「さくら、くん…?」


私の振り絞った声はほとんどが息で届かない。止めようにも先ほどまでの恐怖のせいで身体が固まったように動かすことができない。声を出そうにも何かが詰まっているかのように出すことができない。私がそうしている間に佐倉くんが覆いかぶさっていた人が佐倉くんを振り切って大通りの方に走っていった。すかさず佐倉くんも追いかけていく。私も何とか身体を動かして後を追った。大通りに出る前に複数人の悲鳴らしきものが聞こえた。 

次に私が見たのは、佐倉くんが誰かに覆いかぶさって首を絞めているところだった。周りの人たちが佐倉くんを引き剥がそうとするも、佐倉くんはそれを振り払って首を絞め続けている。何かを叫ぶように発しているが、なんて言っているのかは分からない。勢いに圧倒されていると、誰かが通報したのか警察が来て周りにいる人と協力して佐倉くんを引き剥がした。佐倉くんが離れると同時に首を絞められていた相手が逃げるようにして走って行ってしまった。警察の一人が何か言いながら追いかけようとしたけれど、もう一人に止められてやめた。


「待てよ!!おい、ふざけんなよ!!!なんでだよ!!なんでいつも俺の大事なものばっか奪おうとすんだよ!!ふざけんなよ!!!!おい!!!」


佐倉くんは警察の人に押さえつけられて、少しの間、男の人が去って行った方向に叫んでいたけれど警察の人になだめられて少しづつ落ち着いていった。


「あ、あのっ」


私はやっと出るようになった声を振り絞って、人の群れの中に入った。警察の人の視線が私に向けられる。私は一瞬怯んだが、このままいくと佐倉くんが捕まってしまうかもしれないと思ったら、力が入った。絶対にそんなことにはさせない。


「佐倉くんは、私を助けてくれたんですっ!だから、あの」


私が言葉を切るとすぐに警察の人が、とりあえずふたりとも署で話を聞きますので。とパトカーに乗るよう促された。促されるまま私と佐倉くんはパトカーに乗った。野次馬の視線が痛いほど集まる。その視線から逃げるように私はパトカーの中で身を縮こませた。初めて乗るパトカーは他の車とは大して差がなかった。内側から開かないこと、運転席に警察官がいることを除けば普通の車と変わらなかった。


警察署についてすぐに私と佐倉くんは別々の部屋に通された。私についたのは女性の警察官だった。通された取り調べ室というらしい部屋は、三畳ほどで机と椅子、それから大きい横長の鏡があった。刑事ドラマで見たことのあるような無機質な冷たい部屋だった。そうすると、部屋には似合わないように感じるこの鏡は、マジックミラーというものなんだろうか。こちらからは鏡にしか見えないけれど、向こうからはこちらが丸見えで、誰かが見ていたりするんだろうか。そう考えると、なんだか緊張してしまう。

目の前に気配を感じて、慌てて意識をそちらに向ける。三十代くらいの女性だった。眉毛に少しかかるくらいの前髪と、顎のラインで切りそろえられた髪がさらに若く見せている感じがした。目が少しきりっとしていて、なんだか少し迫力を感じる。


「えーと、初めまして。私は桜井(さくらい)って言います。これから真生さんのお話を聞いていくね」


柔らかい、心地のいい声だった。聞いていると、落ち着く感じの声だ。ぺこりと頭を下げる。何を聞かれるんだろうと、少し心臓がドキドキする。膝の上に置いた手をぎゅっとする。


「真生さんは、佐倉くんが首を絞めていた相手のことは、知ってる?」


黙って首を横に振る。見たことの無い人だった。


「佐倉心くんとは、同じ高校なんだよね。どういう関係なのかな」

「友達です。待ち合わせをしていたんです」


桜井さんの後ろでパソコンをカタカタしているの人は、多分記録をしているのだろう。


「真生さんは、佐倉くんと待ち合わせをして、その後に男の人と会ったのかな」


私はしっかりと首を振って、息を吸う。誤解なくしっかりと伝わるように。


「いえ、佐倉くんが来る前に襲われたんです。あの、男の人に。佐倉くんは助けてくれたんです。だから佐倉くんは、なんにも悪くないんです」


桜井さんはしっかりと私と目を合わせて、小さく頷いた。それからすぐに立ち上がって、少し待っててねと言い、部屋から出て行った。




佐倉心


待ち合わせ場所に行ったら、見たことのある服を着た人間が誰かに覆いかぶさっているのが見えた。嫌な予感がした。加賀美との待ち合わせ場所だったから。まさかなとも、思った。だって月に五万円渡すことを条件に、加賀美には近づかないという約束をして、親父は確かにそれを承諾したはずだ。襲われているのが誰かなんて考えなかった。ただ、誰だとしても見ず知らずの誰かの欲に犠牲になっていいわけがない。近づいて確信した瞬間に、俺はもう自分では制御できなくなった。怒りと戸惑いと、焦りが俺を包み込んで一気に飲み込んだ。

 まずは引き剥がさなければと思い、とりあえず力いっぱいに殴った。親父はうめき声をあげて吹っ飛んだ。俺の目には親父しか映っていなかった。仰向けになった親父に馬乗りになって力いっぱい殴り続けた。不思議と痛くはなかった。親父を殴るのなんて初めてのことだった。誰かをこんなに殴るのが初めてでだんだんと疲れてきて、一瞬力を緩めたのが良くなかった。親父が俺を突き飛ばして、大通りの方へ走っていった。加賀美を傷つけられた、という思いから俺は追いかけた。幸いにも俺の方が足が速く、すぐに追いつくことができた。俺の頭の中はとっくに怒りで埋まっていて、俺自身にはどうにもできなくなっていた。大通りなことも忘れて、追いついた親父にもう一度馬乗りになり今度は殺す勢いで首を絞めた。途中誰かに止められそうになったが振り切って続けた。気が付いたら警察に押さえつけられていて、親父の姿はなかった。


 「佐倉心くん。これから君の取り調べを行う。俺は筒井(つつい)だ」


手首がズシリと重い。鉄製の手錠が俺の両手首を拘束している。三畳ほどの広さの部屋は少し空気がこもっていて閉塞感がある。目の前に座った男性警察官は観察するようにじっと、俺を見つめている。今何時だろうか。もう仕事が始まっているだろう。無断で休んでしまった。今度会った時にちゃんと謝ろう。


 「君が馬乗りになっていた男性は、君の知り合いか」


抑揚のない声で問われる。俺の左側に設置されている横長の鏡は、マジックミラーだろう。俺はそちらを少し見る。


「俺の、親父です。加賀美が襲われてたから、ムカついて」

「殺してやろうという感情はあったか」

「あったかもしれないし、なかったかもしれません」


その辺の感情は自分でもよくわかっていない。怒りやら戸惑いやらがぐちゃぐちゃになっていたからあの時の自分の感情なんて分からない。ただ、許せない気持ちが強く存在していたのは確かだ。


「どうして君の親父さんが彼女を襲ったのかはわかるか」

「わかりません。約束をしたのに」

「約束とはなんだ」


俺は、息を吸う。


「月五万円を渡す代わりに、加賀美には近づかないって約束をさせたんです」

「親父さんとは別で暮らしているのか」


俺は黙って頷く。目の前の男性警察官は俺の目を見て少し力を抜いたように見えた。


「君は、高校に通いながら働いているのか。えらいな」

「親父から離れるにはそうするしか、なかったんで」


俺の答えに、少し遠い目をしてそれから俺の目をしっかりと見た。先ほどまで感じていた圧は感じなかった。


「親父さんは、どんな人だ」


答えるのに考える時間はいらなかった。自然と口が動いて俺は気が付いたら過去のことをすらすらと話していた。本当はこうして誰かに話したかったのかもしれない。話すうちに俺の中の小さな子供が顔を出していた。

親に甘えられなかった。ほめてもらえなかった。認めてもらえなかった。そういう、本来であれば子供の頃に満たされたはずの部分が満たされることのないまま、大人になるしかなかった。俺はずっと、大人になりきれずにどこかで泣いていたのかもしれない。

 一通り話し終えた頃には俺の頬は涙で濡れていた。小さな子供のように声をあげて泣いていた。しゃくりをあげて泣きじゃくる俺を、男性警察官は黙って見ていた。


 「そうか。頑張って、きたんだな。生きていてくれてありがとう。ここからは警察がどうにかする。君は多分、罪には問われるだろうが執行猶予が付くはずだ。親父さんはどうなるかは正直まだ分からないが、君と加賀美さんの証言から強制わいせつ未遂罪には問われるだろう。君にしてきたことが確実に罪に問われるかは、まだ定かではない。ただ、親父さんが君にしたことは決して許されることではない。…最善を尽くしてみせるよ」


そう言って、俺の手首にある手錠を外して警察署の外まで送ってくれた。加賀美はお母さんが迎えにきて、もう家に帰ったらしい。外はもう真っ暗で、時計を見ると八時半を過ぎたところだった。新城さんに連絡をして経緯を軽く話すと、今日はとりあえず休め、と言われた。気遣いに感謝して電話を切った。

八月終わりの夜は、少し肌寒い。こういう時長袖でよかったと思う。


「あ、きたよ。佐倉くん。この間の騒ぎ佐倉くんが起こしたんだって。警察にも連れていかれたって」

「馬乗りになって首絞めてたって聞いたよ。怖いよね。てかよく平然と学校来れるよね」


数日後学校に行くと、思った通り噂になっていた。想像の範囲内だったから無視をする。席につくと、教室内の視線が集まってくる。こんなのはもう慣れっこだ。だから何ともない。どうだっていい。


「佐倉くん。おはよう」


背後から聞きなれた声で名前を呼ばれた。顔だけをそちらに向ける。加賀美だった。少しバツが悪そうな、心配そうな顔をしている。俺はそんな顔をしている彼女に言う。


「おはよう、加賀美。この間のこと気にしなくていいからな」


加賀美はさらに心配そうな顔をした。彼女がこんな顔をするのは、まだなにか心配する要素があるからだろう。


「この間、あの後、どうだった?」

「大丈夫だったよ。特に何もなかった」


加賀美がこれ以上心配しないように、答える。本当は今日この後も警察から呼ばれているし、弁護士とも話すことになっているが、これは言わないでおこう。暫くは仕事も休みにしてもらっている。

順調に授業を終え、放課後すぐに警察署に向かった。入り口で筒井さんにあったので声をかけると、この間とは違う部屋に通された。少しして、弁護士が来てこれからのことを話してくれた。この間筒井さんが言ったように、執行猶予が付くだろうとのことと、三か月以内には決定するだろうとのことらしい。親父のことはまだ強制わいせつ未遂罪が確定するだろうということくらいしか分からないらしい。とにかく親父が捕まるなら俺としては安心する材料になる。

俺は判決が出るまで仕事を休むことになった。三か月近く収入がなくなるのは痛いが仕方がない。親父もしばらくは警察署で取り調べを受けるらしいから、金の催促に来ることもないだろう。仕事を休むことになった今、加賀美との時間をつくれるのは嬉しいことだった。

早速加賀美に連絡をしてみる。すぐに絵文字付きのメールが返ってきた。顔がほころぶ。

┄┄ああ、俺は加賀美が好きなのか。

これまでなんというのか分からなかった感情が、今やっとわかった。俺は加賀美真生に恋をしているらしい。加賀美に「好きなんだと思う」と告白されてから四か月近くが経つ。今加賀美が俺をどう思っているのかは分からない。それに執行猶予が付くかもしれないけれど、裁判沙汰になる俺となんか一緒に居ない方がいいのかもしれない。彼女が変な目で見られるのは嫌だ。


九月になってから三か月が経った十二月。俺の執行猶予つきの判決が下された。期間は五年。これまで通り普通に暮らせるし、五年間の間に犯罪を犯さなければ罪に問われることもないらしい。親父はというと、まだ裁判が始まったばかりだが俺と加賀美の証言から実刑判決はほとんど確定らしい。


俺は、裁判が終わってすぐに仕事をやめた。引き留めてはくれたけれど誰も俺を知らない場所で、はじめからやり直したかった。だから学校もやめた。誰にも何も言わずに街から出たかった。

学校を辞めることを担任に伝えに行った帰りに、特に話したこともない教師から呼び止められた。確か名前は、末永。


「佐倉くん。君は、これから続いていく道がどんなものだと思いますか」


抑揚のない声で話すそいつは、突然意味の分からないことを聞いてきた。無視をしようかとも思ったけれど、立ち止まって考えてみた。


「分かんないっす。今までが苦しすぎたし。それに俺、生きていたくもないんで」


どうして話したこともない教師にこんなことを言っているのか、自分でも分からなかった。ただ、本心だった。


「君は、僕には想像もできないような環境で育って、今日まで生き抜いてきたんだと思います。だから君は、死ぬことに執着しているのではないですか?」

「そうですよ。俺、死にたいんですよ。生きてていいのか、分かんないんです」


そう答えた俺に、そいつは柔らかく笑った。いつも何を考えているのか分からない、興味のなさそうな顔しか見たことがなかったので、少し驚いた。


「君は、君の人生をほかの誰かにゆだねるのですか?君の人生なのに、君の命なのに誰かに許しを得るんですか?」


笑っているけれど、違った。目だけは笑ってなんかない。


「佐倉くん。君の人生ですよ。紛れもなく君自身の人生です。どんな道を進んでもいい。時には逃げることも必要です。逃げたっていいと僕は思います。どんな道を選んだとしても、それは間違いではありません。君は、これから何年、何十年と過ごしていくんです。この先の君の人生が。君にとって息のしやすいものであることを僕は願っています。それでは」


言葉を置くだけ置いて、そいつは職員室に入っていった。俺は帰りながら考えたが、すぐに答えなんか出なかった。


高校を辞めてすぐに街を出た。新しいところに住み始めてすぐに違う会社の工事現場担当で働き始めた。それと同時に大型車の免許を取るために、自動車学校に通い始めた。

しばらく加賀美から連絡が来たけれど、返さなかった。それでも加賀美からの連絡は一向に止まらなかった。加賀美からの連絡が一か月続いたところで、俺は手紙を送ることにした。手紙にしたのは、そっちの方が思いが伝わると思ったからだ。今は、電子機器が主流だが俺は手書きの方が結構好きだったりする。

 久しぶりに便箋を買った。加賀美を思って加賀美に似合いそうなものを選んだ。こういう時間も好きだったりする。自分の字はあまり好きではないが、しっかり思いが伝わるように少し丁寧に書き始めた。



加賀美真生


十二月に入ってすぐに、佐倉くんの執行猶予が決定した。嬉しくてその日のうちに佐倉くんに連絡したけれど忙しいのか、疲れて寝てしまったのか返信は来なかった。夜も遅かったので、明日になれば来るだろうと思い眠った。


 「来ないな…」


次の日の朝、スマホを確認したけれど佐倉くんからの返信はないままだった。学校には来るかもと思って学校に行ったけれど、私を待っていたのは佐倉くんが一身上の都合で退学したという報告だった。クラスではそのことでだいぶざわついていた。佐倉くんのことをよく知りもしないのに、みんな勝手なことばかり言っていた。本当のことなんてきっとみんなどうだっていいのだろう。だたいつも何も変わらない毎日が退屈でその暇つぶしに佐倉くんを使っているだけなんだろう。本当に勝手だ。

佐倉くんに連絡をしてみたけれど、既読もつかなかった。忙しいのかもしれない。そう思ったけれど、三日、四日経っても佐倉くんからの返信はなかった。返信どころか既読にもならない。私からの連絡だけが画面に連なっていく。


【佐倉くん。学校辞めたって聞いたよ。どうしたの】

【忙しい?また返せるときに返してくれたら嬉しいです】

【仕事、やめちゃったの?どこにいるの。会えたら会いたい】


既読が付かない。返ってもこない。佐倉くんはもう私と話してくれないのかもしれない。私の連絡だけが画面いっぱいになったのを見て、涙が出た。どうしたらいいのか分からない。好きだと思っていたのは私だけだったのか。佐倉くんも少しは私のことを意識してくれていると、思っていた。私の思い違いだったのだろうか。私は、どうしたらいいんだろう。悶々と考えていたら家とは違う方向に来てしまっていた。懐かしい道だった。中学生の頃、三年間通った通学路だ。秋になるとほんのり金木犀の香りがするこの道が私は好きだ。ただこの時期はもう花の香りも何もしない。十二月のこの道は少し寂しい感じがする。

 気が付いたら中学の前まで来ていた。もう周りは真っ暗だ。学校の電気はもう付いていないから誰もいないんだろうか。せっかくここに来たのだからたちばなさんに会いたかったけれど、来た時間が悪かったかもしれない。時計を見るともうすぐ午後八時だ。さすがにもう誰もいないだろう。


 「あれ、まおさん??」



 聞きなれた、だけど懐かしい声が私を呼んだ。一気に私を安心感が包む。ゆっくりと振り向くと、たちばなさんが鼻の頭を赤くして立っていた。そういえばたちばなさんは寒いのが苦手だったはずだ。しっかりと手袋をしている。


 「たち、ばなさ┄┄」

 「わ、どうしたどうした」


 顔を見た途端、一気に涙があふれだした。縋るようにたちばなさんに抱き着く。たちばなさんはしっかりと受け止めてくれた。私は涙がこぼれるようにこれまでのことを話していた。たちばなさんは黙って聞いてくれた。涙は止まらなくて、目に体温が集まっていく。話し終えた頃には目はすっかり腫れていた。


 学校近くの公園に移動して、近くの自動販売機でホットココアを買ってもらった。ふたりでベンチに座って、それぞれ飲み物を飲む。あたたかい飲み物を喉が通ると身体の緊張が少し緩む感じがして、また泣きそうになった。一度緩むと、なかなか元に戻らない。同じくココアを飲んだたちばなさんがほうっと息を吐いて、それから静かに息を吸った。


 「大変なことがあったんだねぇ。素敵な出会いもあったんだね」


 にこりと微笑んで、たちばなさんは柔らかくそう言った。それから私の手を包んだ。たちばなさんの手は冷たいけれど、私の手と重なると少し暖かくなる気がした。


 「その、佐倉くんて子は、まおさんのことが好きだから離れたのかもしれないよ。まあ、これはわたしの想像だけどね。だから話半分で聞いてね。……まおさんのことが好きだから一緒に居るとまおさんに迷惑がかかると思って離れたんじゃないかな。だとしたらまおさんからの連絡に返信がないことも説明が付く。まあ、わたしの想像だからね」


 念押しするように、たちばなさんは言った。


「あのね、まおさん。もうひとつ、ほんの少し長く生きてきたわたしからのアドバイス」


たちばなさんはほっそりとした指を自分の唇に当てて、ほんの少し口角を上げる。

秘密事を告げるみたいに、静かな声で。


「出会うべき人とは、出会うべくして出会うの。そして、切れる縁はどう結んでも、どう繋げても切れる。ただ、切れない縁はどう切ろうとしても切れないの。まおさんはこれからきっとたくさんの人と出会って、たくさんの縁に恵まれるわ。いつか、振り返った時その中に当たり前に存在してる人や縁がまおさんを守ってくれる。そして、まおさんも知らないところで守っているわ。生きているから、辛いことやきついこともたくさんあるでしょう。だけど、どうか生きることを辞めないでほしい」


たちばなさんは私の手をやわらかく、しっかり握った。たちばなさんの手の温もりがあたたかくて、心がホッとした。そこから、私は静かに頷いた。たちばなさんの話を聞いて私は少し落ち着いた。たちばなさんの想像の話が腑に落ちたからかもしれない。私はベンチから立ち上がって、たちばなさんの方を見る。たちばなさんはいつものように優しい表情で私を見上げている。


 「たちばなさん、話聞いてくださってありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げると、たちばなさんは笑った。


 「ううん、いいのよ。わたしもまおさんどうしてるかなあって心配だったし。話せて嬉しかったよ~」


 また今度ねといい、公園で別れた。家に帰るまでに色々考えた。

 たちばなさんの言う通り佐倉くんが本当は私に気を遣って離れたのだとしたら…。

 

「まお、大丈夫…?」


 数日後、あまりにも元気のない私を見かねて声をかけてきてくれた。私は心配をかけないように笑ってみせる。すずちゃんはその顔を見て、さらに不安そうな悲しそうな顔をした。


 「ね、まお。何かあるんなら少しでいいから話してほしい。話せる範囲でいいからさ。わたしって、そんなに頼りない…?そんなに信用できないかな…?」


 すずちゃんが少し気を張った顔をする。思い切って言ってくれてるんだと、そこで気がづいた。同時に私は友達にこんな顔をさせてしまったんだと、反省する。すずちゃんの過去のことは私はまだほとんど知らない。ただ、すずちゃんがこんな顔をするのはきっと過去のことが何か関係しているんだろうと思う。すずちゃんはあんな顔をしてまで私を助けようとしてくれている。きっと怖いはずだ。すごくすごく怖いはずだ。

 ちょうど、お昼だったので空き教室で話すことにした。普段誰も使わない教室なので少し埃っぽい。それにストーブも点いていないのですごく寒い。ひざ掛けと、あたたかい飲み物を自動販売機で買っておいてよかった。私はココアを、すずちゃんはレモンティーを買った。

 教室に入って少しの間、沈黙が私たちを包んだ。何からどう話したらいいのか分からなかった。少し、頭の中で整理する。ふたりの息遣いだけが聞こえる。


 「すずちゃん、私ね今悩んでるの」

 「うん、佐倉くんのこと、かな」


 すずちゃんは、軽く頷いて私の方を見た。しっかりと私と向き合ってくれる。私はこの子を大切にしたい。


 「佐倉くんが学校辞めてから、連絡が取れなくてね。もうすぐ一か月近くになるかな。既読にもならなくて、佐倉くんにとっての私は何だったんだろうってこの間まで考えてて…。でもこの間中学の時のすごくお世話になった先生に会う機会があって、私佐倉くんのこと、相談してみたの」


 すずちゃんは黙って聞いていてくれる。私は整理しながら話す。


 「佐倉くんが何も言わずにいなくなったのは、佐倉くんが私を思ってのことなんじゃないかってそう言ってくれて…本当のところはどうか分からないんだけど、なんだか少し落ち着いたんだ…」

 

 私はそこで言葉を切る。ここまでは何とか整理できたけれど、問題はここから先だ。昨日の夜、佐倉くんから手紙が届いた。記載されていた住所はここから三時間ほどの街だった。見かけたりしないかなと思っていたけれど、この街に居ないんじゃ見かけるはずもない。


 「うん、だけどまおは今、何か違うことで悩んでるんだね?」


 さすがはすずちゃんだ。人のことをすごくよく見ている。私はこの子のこういうところがとても好きだ。同時に心配でもある。この子の優しいところがいつか、この子自身を傷つけてしまうんじゃないかと怖い。


 「…昨日、佐倉くんから手紙が届いたの。この街にはもう居ないみたい。でも私が悩んでるのはそこじゃなくて、内容で、ね…」

 「手紙の内容が、どうしたの。何か、酷いことでも書いてあったの?」


 私は持ってきていた手紙をすずちゃんに渡す。封筒は淡い緑色で、便箋も淵が淡い緑色でとてもかわいい。少し不器用だけれど、佐倉くんなりに丁寧に文字を書いてくれたんだなと分かる。思わず顔がほころんで、彼に対して愛おしさがこみ上げてくる。

 すずちゃんがそっと受け取って、大切なものを受け取るようにして手紙を開く。


 『加賀美真生さま

 拝啓、加賀美真生さま。

 急にいなくなってごめん。これ以上一緒に居たらきっと加賀美にも迷惑がかかる。たくさん話せて嬉しかったよ。だけどもう会えない。俺ら、もう会わない方がいい。』

 

 たった二行の手紙だった。それだけで私は涙が止まらなかった。思い出して今でも泣きそうになる。

 すずちゃんは黙って手紙を私に返してくれた。私はそれを同じく黙って受け取る。同時に身体に衝撃が走った。それからぬくもりに包まれていることに気が付いた。鼻をかすめるシャンプーの香りがすずちゃんに抱きしめられたことを知らせてくれる。久しぶりに人のぬくもりを感じて、なんだか泣きそうになった。最近また涙腺が緩んできている。柔らかい感触が私を包んでいて、幸福感に似たものを感じる。私もゆっくりと抱きしめ返してみる。


 「佐倉くん、まおのことすごく大切に思っているんだなって思ったよ…。まおのこと、好きなんだなってわたしは思ったよ。まおは手紙を読んでどう思った?」


 身体を話して私たちは近い距離で見つめあう。


 「すごく、大切に思ってくれてるんだって、思った」

 「うん、わたしもそう感じたよ。もう会わないほうがいいって書いてもあったけどさ、きっとまた会えると思う。どんな形で会えるかどうかわかんないけどさ、でも絶対また会えるよ」

 「絶対…?」

 「うん、ぜーーーーったい。会える。だからまお、また会えるまで頑張ってみない?」

 「がんばる…?」

 「うん、まお、この間進路相談表に書いてたでしょ?人を救う仕事がしたいって」


 なんだか恥ずかしくなった。顔に熱が集まるのを感じる。先生には「もう少し詳しく書いてください」と注意されてしまったけれど、今の私にはこれが限界だ。


 「まおに、すごく合ってると思ったよ。まおだからできることが必ずあると思う。人を救うって色々な方法があると思うんだ。直接的じゃなくても間接的に人を救うこともできるから。まおにしかできないことは絶対ある。あと二年、一緒に探していこうよ」


 ね。と私の手を握ってくれた。

 それからすずちゃんといつも通りにお昼時間を過ごした。



佐倉心


 加賀美に手紙が届いたころだろうか。

 俺からの手紙を読んだらもう彼女から連絡が来ることはないと思っていた。酷い内容を書いた自覚はあった。だからこそ、もう来ないとわかる。もし俺が同じ立場なら勝手だと怒り、連絡をすることはなくなるだろう。きっと加賀美だってそうなるはずだ。

 今は自動車学校の講習中だ。ひっかけ問題があって少し苦戦している。この問題をつくった人はきっと、性格が悪い。

 ピコンと、スマホが鳴った。職場からの連絡だろうか。問題集に目を通すのをやめて、スマホを確認する。目に入ったのは「加賀美」の文字。まさかと思った。まだ手紙が届いていないんだろうか。さっと通知に目を通す。


 【佐倉くん。手紙読んだよ。ありがとう。私、がんばる】


 手紙は届いたようだった。それなら尚更だ。どうして連絡が来たのだろう。それに文章の最後に書いてある頑張るって何のことだろう。そこまで考えて自分の口元が緩んでいることに気が付いた。もう会わないと言っておきながら何を笑っているのだろう。俺はどれだけ自分勝手なのだろう。舌打ちをしそうになってそのまま舌を噛む。それからしっかり死にたくなった。


 俺はいつまでこんなに自分勝手に生きるのだろう。さっさと死んでしまえばいいくせに、死んでしまいたいくせに俺は気が付くと生きることを選んでいる。そんな矛盾に気が付くたびに死にたくなる。いつまでも子供で、自分の感情優先で。


┄┄君は歳の割には大人すぎるよ。もう少し子供でいてもいいと思うよ。


昔、中学を卒業したての頃、眠れなくて街をさまよっていた時に偶然見つけた店の店主から言われた言葉を、なぜだか今になって思い出した。

 あの頃俺は中学を卒業したての十五歳で。確かに周りの大人からしたら子供だった。だからあの店の店主は、あんなことを言ったのだろう。だけどそれはもう今の俺にはきっと通用しない。だって、もう十七歳だ。来年には十八歳になる。そうしたらもう法律上は大人扱いになる。なりたくもない大人に足を踏みいれてしまう。そうなったとき俺はどうするだろう。死ぬことを選ぶのだろうか。それとも結局生きることを選ぶのだろうか。そうして俺は矛盾に気が付くたびに死にたくなるのだろうか。俺はいつまでこんな風に息をするのだろう。いつまで精神科に通いながら、薬を飲む生活を続けるのだろう。

「死にたい」に囚われながらいつまで生きるのだろう。

そうして何度絶望するのだろうか。


 生きている資格がない。生きていたって仕方がない。死ぬことに執着しているくせに、俺は今日もこれから仕事に行く。無意識に生きることを選んでいる。



 「佐倉、遅刻だぞ」


 新しい職場から家が少し遠いのもあって自動車学校からそのまま行った方が早い。なので自動車学校がある日は、そのまま職場に向かうことにしている。それでも学校が終わる時間と仕事が始まる時間がぎりぎりで走らなければ間に合わない。今日も走ったが講習が終わってから少し考え込んでいたら学校を出るのが遅くなってしまった。


 「すみません。急ぎます」


 ここの現場の人たちは程よく無関心で有難い。あれこれ聞いてくる奴はたまにいるが、適当に流して過ごしている。新城さんのようななにかとおせっかいの人がいないので、ここの人たちとはあまり話すことがない。お互いのことなんて名前と年齢くらいしか知らない。今の俺にはこのくらいの距離感がちょうどいい。今日は夕方から朝方まで道路整備の仕事だ。平日だから夜中はそんなに車通りが多くはないけれど、合図のタイミングを間違えたら事故になりかねないので、しっかり連携を取りながら車の流れをスムーズにしていく。俺はこの仕事が結構好きだったりする。人間関係や人生も、このくらいスムーズならよかったなと、たまに思う。けれど自分の人生だ。諦めなければここからだってどうにかなるんじゃないかとも、思う。そして、これから先の人生を考えている自分に気が付いて絶望する。俺は最近、ずっとそんな日々を繰り返している。

朝方になって、ようやく俺の仕事の時間が終了した。俺は荷物をまとめて家に向かう。その途中で日が昇ってきて俺を照らす。夜勤明けの目には、朝日は結構痛い。

ポケットの中のスマホが鳴った。メールの通知音だった。今は朝の六時だ。一体誰からだろう。確認すると、俺を弁護してくれた弁護人からだった。内容を確認する。


【親父さんの実刑判決が決定しました。刑期は五年。執行猶予はなし。これで暫くは親父さんは刑務所です。】


事務的な内容で、親父の刑務所行きを知った。見るだけ見て閉じようとしたところに続けて連絡が来た。


【これからは、君の人生です。】


短いけれど、きっと弁護人なりのエールだ。そうだ。ここから先は親父に金を渡す人生でも、危うく罪を犯すような人生でもない。俺の人生だ。そんなの、俺だってわかっている、頭ではもうずっと考えていることだ。だけど、いつになっても身体も心も理解してくれない。いつだって「死」に向かおうとしてしまう。

親父が刑務所にいる期間は五年。それを長いとするか短いとするかは人それぞれなんだろう。俺にとっては、たったの五年だ。五年経てばアイツが戻ってきて、また俺を探し出して金をせびるんじゃないかと、不安になる。いや、その頃に俺が生きているのか分からない。もしかしたら死んでいるかもしれないが。

幸い俺はまだ精神科に通っている。街を出ても、変わらずに同じ精神科に通っている。そして次の通院日は今日だ。いつもあまり話さないけれど、今日くらいは話したって許されるはずだ。もっとも、許すも何も、元々俺が勝手にそうしていただけだけれど。

家に帰って、一旦寝よう。受診時間は午後八時だ。一応アラームをかけて硬い布団に潜り込む。隣の部屋からは慌ただしく動く音がする。これからが生活時間の人間なのだろう。基本的に朝方に帰ってきてそこから就寝する俺とは、正反対の人間だ。そこまで考えて、ふっと笑う。そういう人たちの方が、多いのかもしれない。夜勤の人たちがいるから経済は回っていて、病院なんかもしっかり機能しているんだろうけれどやっぱり日中に働いている人口の方が多いんじゃないかとは思う。まあ、今はそんなことはどうだっていい。とりあえず眠ってしまおう。起き上がって睡眠薬を決められた量よりも多く噛み砕くように飲んで、もう一度布団に潜り込む。疲れているから、きっと眠れはするはずだ。薬も飲んだし、きっと。


アラームの音で目が覚めた。身体を起こして、背伸びをする。身体が重だるい。肩に鉛でも乗っているかのようだ。最近ずっとなので、とりあえず無視して布団から出る。時計を確認して歯磨きをしながら適当な服に着替える。精神科のある街までは三時間ほど。平日の夕方だから知り合いに会う可能性があるかもしれない。会わない方が嬉しいが、念の為帽子をかぶる。最近、日中に人に会うのが怖くてあまり外には出られない。けれど病院なので出なければならない。午後五時を少し過ぎてから家を出た。

駅に向かって歩く。越してきたばかりだけれど、俺は結構この街が好きだ。この街はまず、お年寄りが多い。商店街にはおばあちゃんやおじさんたちがそれぞれのお店を構えている。野菜は常に新鮮だし、海が近いから魚も安くて美味い。せんべい屋さんなんかもある。それから川がとても多い。家から駅に向かうまでに三つの橋を渡る。その橋は三つとも橋の色が違う。『梅の子大橋』は赤色。『海の子小橋』は青色。『桜子橋』は淡いピンク色だ。名前の通り、梅の子大橋は大きくて、海の子小橋は小さい。桜子橋は中くらいだ。この街の橋は他にもたくさんあるけれど、そのどれもが色にちなんだ名前になっている。その理由はこの街が色の名前になっているからだ。実はこの街に決めたのはそれが理由だったりする。

そんなことを考えて電車に揺られていたら懐かしい名前の駅につくことを、電車のアナウンスが告げた。電車がホームに入り速度を落としていく。平日のこの時間は人が多い。周りにいるのは部活帰りの高校生や、リュックを背負った集団などが主だ。観光客だろうか。電車が停止して俺は数人と一緒にホームに降りた。駅から病院までは十分もかからない。俺は大通りを避けて裏通りを進む。人通りが一気に少なくなる。病院の看板が見える。裏通りから行くと、病院の裏側に出る。築何年だろうか。外壁はところどころはがれているし、黄ばんでいる。ただ中は外見から想像できないほどに綺麗で、落ち着く感じになっている。病院だからだろうけれど、とても居心地のいい空間になっている。

病院とは言っているけれど、ここには内科と精神科しかない。待合室は別々になっているのでそれぞれの患者が顔を合わせることはあまりない。俺は精神科と書かれたドアを開ける。見知った受付の人に診察券と保険証、それから自立支援医療の紙を渡す。自立支援医療は「更生(こうせい)医療(いりょう)」「育成(いくせい)医療(いりょう)」そして「精神(せいしん)通院(つういん)医療(いりょう)」の障害をもった人が継続して治療を受けられるように医療費の自己負担額を軽減するためのものだ。

一般的に三割負担のところが自立支援医療を使うと一割負担になる。精神科の治療費は他のところに比べて高いので、続けて治療をしていかなければならない俺からしたらものすごく助かっている。


「佐倉さん、診察室にお入りください」


もう何十回目かになる聞きなれた声が俺を呼んだ。診察室のドアには『原田(はらだ)(とし)(のぶ)』と先生の名前が書かれている。年齢は六十半ばらしいが見た目はなんだかおじいちゃんのようだ。

俺は診察室のドアを三回ノックする。中から声がしてドアを開ける。


「こんにちは、佐倉くん。少し待たせてしまったね。ごめんね」


原田先生はいつもこう言う。俺はそれに毎回黙って首を振る。


「ここ最近の調子はどうかな。うまく眠れているかな」


先生の問いかけに俺はまた黙って首を振る。眠れば眠ろうとするほど眠れなくなる。最近は少し多く飲んでなんとか眠っている。今日はこのことを話にきた。薬を決められた量より多く飲むことがダメなのは俺だってわかっている。


「薬、多く飲まないと最近、眠れないです」


俺の言葉に原田先生は少し困った顔をした。けれどすぐにいつものにこやかな顔に戻った。そこから少しの間俺と原田先生の間に沈黙が流れる。


「そうか。あまりよくはないね。少し薬を増やしてみようか。今使っているのがデエビゴとクエチアピンだけれど、もう一つミルタザピンという薬なんだけれど…この薬は抗うつ薬としても使われているんだ。副作用として眠気が出るからそこがうまく出てくれることを願いながらちょっと使ってみようか。どうかな」


問いかけに俺は黙って頷く。

┄┄ああ、また薬が増えた。

そこからも体調や希死念慮など、色々なことを聞かれた。大体十五分くらいで診察は終わった。そこからはいつも通りだ。会計を終えてふと、時計を見る。午後八時半を少し過ぎたところだった。俺の足は不思議と駅とは反対の方向へと向かっていた。そこに行くのは約二年ぶりだったけれど、身体は覚えていた。お店の雰囲気も何も変わっていなかった。『夜住か』。名前も店内の心地よさも、店主も何も変わっていなかった。一度しか来ていないのに、何だかすごく懐かしかった。

 木製のまあるいドアを押して開ける。開店してすぐだからだろうか。俺以外にお客はいなかった。カウンターには六つの椅子。テーブル席は二人席が八。四人席が六。俺はカウンターの椅子に座る。


 「いらっしゃいませ」


 少し低い、けれどやさしさがにじみ出ているような声が降ってきた。被っていた帽子をとって、声のした方を見上げる。少しくせ毛のかわいい感じの男の人がいた。一瞬、困惑した。けれど、二年だ。そんなに見た目は変わらないのかもしれない。

 差し出されたメニュー表を見る。二年前よりもメニューが増えている。メロンソーダやオレンジソーダなどのソーダ類が増えている。俺はその中からココアのホイップ盛りを頼んだ。子供の頃に飲んだことはないけれど、なんだか懐かしさを感じる。甘さ控えめなココアに甘いホイップが乗っているのが、好きだ。まだあってよかった。


 「はーい、ココアのホイップ盛りです。お兄さんかっこいいからホイップ多めにしといたよ。というか、なんだか見たことがある気がするんだけど、どこかで会ったことあるかな?」


 人懐っこい人なのだろうか。カウンター越しに身を少し乗り出して、ニコニコとした顔で聞いてくる。俺はココアに口をつける前にコップを置く。


 「あ、はい。二年前に一回だけですけど…」

 「二年前っていうと…高校一年生の時かな」

 「あ、いえ。俺働いてたんで…その仕事終わりに寄った感じっす」

 「あ、思い出した。君、死んでた子だ」

 「………は?なんすかそれ」


 人懐っこい顔のまま、その人は笑った。店内にいるのが俺だけでよかったと思うくらい。大きな声だった。その笑い声の大きさに俺はびっくりした。この人は確かに言った。死んでた子だって。意味が分からなくて、頭の中をはてなマークが飛び交う。俺がそうしている間にもその人は笑う。何がそんなに可笑しいのだろうか。


 「いや、ごめんごめん。わかんないよね。うーんそうだなあ。今、ここには君と僕だけだ。だから話そうかな。僕の昔の話なんだけどね」


 そう前置きをしてからその人は、このお店をどうして夜限定にしたのか。それからここで初めて雇ったバイトの子の話、そして今はその人と子供二人と暮らしていることなどを楽しそうに話してくれた。このお店を始めた理由は少し驚いた。この人懐っこい笑みを浮かべているこの人にも、夜が怖くてうまく眠れない過去があったなんて。人は見かけによらないんだなと思った。同時にもしかしたら表に出さないだけで、夜が怖くてうまく眠れない人や、上手く生きることもできない、息をすることだって難しい人たちは結構いるんじゃないかと思った。思えば精神科に通っている人たちも、俺が周りを見ていなかっただけでかなりいるのかもしれないなと思う。

 夜十時を過ぎると、だんだんと人が増えてきた。平日のこの時間にこんなにも多くの人が来るのかと、驚いた。サラリーマンらしき人や、学生っぽい人、母親の年代の人など。本当に色々な人が来る。本を読んだり、音楽を聴いたり、スマホを触ったりとみんなそれぞれの過ごし方で夜を楽しんでいる。こんな夜があってもいいかもしれないなと思う。夜に怯えなくて済む。眠らなきゃ眠らなきゃと焦って薬をたくさん飲まなくても良くなるかもしれない。ここでなら、いつか。



加賀美真生


 佐倉くんが学校を辞めて、早くも一年がたった。時期は高校二年生の十二月初旬。もうすぐ進路を確定させて夢に向かって、動き出さなければいけない。周りのクラスメイト達はそれぞれの進路に向かって、もう動き出している。あと一年あると思っていたけれど、違う。もう、一年しかないんだ。時間が過ぎるのはあっという間だ。すずちゃんも獣医になるためにもう既に大学を決めてそこに向かって猛勉強している。私はというと、漠然とした状態でまだ何になりたいかまでは決められていない。先生は「まだいいが、もう少し具体的に考えてください」と言われている。進学校とまではいかないけれど、それなりに進学に力を入れている学校だからだろうか。先生の手助けも厚く、各大学の案内なんかもたくさん来る。それぞれのパンフレットが置いてあるコーナーから、複数の大学案内を取る。

 『人を救いたい』。そんな漠然とした夢で、まだそれをできるのがどういうものなのかは、分かっていない。一口に人を救うといっても、人を救うことにつながる仕事はたくさんある。私はまだその中からどれにしたらいいのか、自分がどうしたいのかがまだよく分かっていない。もうすぐ三年生になる。そうしたらもう一気に受験モードになるだろう。就職の人たちはきっとすぐに各会社の見学や体験に行くだろう。そして夏休みには受験組もそれぞれ試験が始まる。ということは、それまでに大学を決めていなければならない。どの大学に行くかによっては勉強をする科目や範囲も変わる。遅くても春先には決めておかなければ、受験に響くことになるだろう。後、三か月。もう時間はない。私は、何になりたいのだろう。


 「まお、どう?」


 パンフレットを持って教室に戻った私にすずちゃんが駆け寄ってきた。私は首をひねる。それを見てすずちゃんがそうかあ、と考え込むように唸る。すずちゃんの右手のひらの側面が黒くなっている。勉強をしていたんだろう。なんだか少し遠く見えた。私だけが取り残されているような感覚。これは自覚しない方がいい感情だ。きっと自覚したら焦ってしまう。私は中学生の時よりも、自分の感情のコントロールの仕方を分かってきている。どうしたら苦しくなるのか、この感情を自覚してしまったらどうなるのか。


 「末永先生」


 放課後。私は数学資料室のドアを開けた。末永先生は窓際の椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。教室や職員室にあるような椅子ではなくて、古い木のまあるい椅子だった。末永先生は、こちらをチラリと見て手を挙げた。近くにある椅子に座る。数学資料室は普段あまり使われていないみたいで埃の匂いと、末永先生の飲んでいるコーヒーの匂いが混雑している。


 「どうしました」


 いつものように抑揚のない声で、問いかけられて私はなんて言ったらいいのか分からず黙り込む。そんなこと気にしていないようで、マイペースにコーヒーを飲んでいる。


 「先生は、どうしてこの仕事を選んだんですか」


 先生は考えているのか、特に何も考えてはいないのかよく分からない表情で、コーヒーカップをテーブルに置く。そこから少し黙り込んで、私を見た。


 「教師が、嫌いだったからです」


 返答の意味が分からなくて、まばたきをする。


 「教師が嫌いだったから、僕自身が好きだと思う教師になってやろうと思ったんです。僕は、君たち生徒からは好かれてはいないと思います。好かれなくてもいい、ただ君たちが道に迷った時に僕はそれを見つける手助けをしたい。君たちがけがをしたときにはすぐに駆けつけて、君たちのこれからに支障が出ないようにしたい。そういう教師に、僕はなれているでしょうか」


 だから先生は、けがをした生徒の元に誰よりも早く駆けつけていたのか。ずっと不思議だったことがやっとわかった。この人は、誰も分からないようなところでちゃんと生徒のことを見ているんだと思った。分かりずらいけれど、とてもやさしい人なのかもしれない。


 「加賀美さん。君はこの先どうしたいですか」

 「……わかりません、人を救いたいって思いはあるのに、じゃあどうしたらいいのかが、分からないんです」

 「素敵な夢じゃないですか。君によく合っていると思いますよ」


 私はなんて答えていいのか分からずに黙り込む。


 「君は、とてもやさしい。人を救う仕事はたくさんあります。どの仕事も大変なものです。時には自分も苦しくなってしまうことだってあるでしょう。それでも君の『人を救いたい』という思いが揺らがなければ、きっと生きていけると思います」

 「…生きて、ですか?」


 先生はテーブルに置いたコーヒーカップに口をつけて、コーヒーを一口飲んだ。


 「そうです。生きてさえいれば大体はどうにかなります。ただ、命だけは最優先にしてください。仕事や学業なんてどうだっていい。命より優先するべきものなんてありません」


 前にも言われたことだった。『命だけは最優先に』。この言葉はこの先私の中に根強く残るだろう。そうしてきっと、この先私が苦しくなった時や道に迷った時には私を助けてくれるだろう。

 

 「生きるということは、凄いことです。毎日食べて飲んで。そうして生きていく、それを何十年と続けていくんです。生きてるだけでいいなんてそんなことは言いません。僕はそれが通用するのは子供までだと思っています。無条件に守られている間だけ。そこから先は自分の足でどうにか進んでいくんです。時に守られながら、守りながら。そうして僕たちは生きていくんだと思います」


 そう言う先生はどこか遠い場所にいる感じがした。ここではない、過去だろうか。私は知ることもないようなことだろう。先生はここまでどうやって生きてきたのだろう。息をするのさえ怖く、夜に眠れない日もあったのだろうか。生きていればきっと、生きているだけの苦しみや悩みがあるだろう。私もこれからたくさんの苦しみや悩みに直面するだろう。それが少し怖くもあり、楽しみだったりもする。

末永先生の目が、今度は私を捉える。


 「君がどんな道を選んだとしても、間違いではありません。どんな道を選んだとしても、苦しく、迷うからです。残酷かもしれませんが、これが現実です。ただ、それは絶対ではありません。生きる上で必要だと言うだけです。時には逃げることも必要です。道は続いています。どんな道だとしても君なら進んでいけると、僕は思っています」


 これは末永先生なりのエールなのだと思った。私は、ありがとうございますと頭を下げる。私はそのまま数学資料室を出て、職員室に向かった。担任に進路が決まったことを報告するためだ。私は、自分の胸に手を当てる。大丈夫、大丈夫。私は、私が信じた道を進んでいい。




佐倉心 四年後


 俺はあれから、二十四歳になった。ずっと同じ現場で働いている。変わったことと言えば大型免許を取ったことと正社員になったことだ。やれることが以前よりも増えて忙しさに追われるようになった。そのおかげか、加賀美のことを考える時間も、親父のことを考える時間も少なくなっている。いいことなのか分からないけれど、とりあえず今は仕事に専念したい。正社員になったから給料も増えた。貯金もそれなりにできてきた。それでも俺は変わらずに同じアパートに住んでいる。クリーム色の外壁、見る角度によってはケーキに見える。俺が好きな小説家の物語に出てきたのと似ていたので、即決めした。


 「お疲れさまでした。お先に失礼します」

 「おー、しっかり休めよ」

 「ありがとうございます」


 今日は仕事をお昼で切り上げた。半日でいいから有休をとれと上司に言われたからだ。家に帰ったところで特にすることもないけれど、とりあえず休もうと思う。こんなに明るい時間帯に帰るのは久しぶりで、なんだか得した気分になる。何か買って帰ろうかと思ったけれど、確か冷蔵庫にはまだ食材があったはずだし、パンもまだあったはずなのでスーパーを通り過ぎる。

 アパートに向かうまでにこの街で有名な桜並木を通る。この街の住民以外にもほかのところからの観光客もいる。以前よりは日中に出歩けるようになった。人の多いこの道も、俺は意外と好きだ。風によって桜の花びらが舞い上がる。日に当たって青く見えるこの瞬間が俺は好きだ。ここを通る人たちはみんな上ばかり見ていて足元の散ってしまった桜には目を向けない。確かに咲き誇る桜はとても綺麗だ。下に目を向けている人なんて┄┄。


 「加賀美…?」


 俺と同じで、下を向いて散ってしまった桜を掬い上げている人がいた。そんなはずはない、と思う。けれど、そうかもしれないとも思う。あの街からは三時間。桜並木を見に来ていても不思議じゃない。それに、多分加賀美ならきっとそうする。

自然と帽子を深くかぶる。俺はもう、彼女と一緒に居てはいけない。逃げるようにアパートへ向かう足を速めた。アパートの自分の部屋のドアを閉めると同時にその場に座り込む。日々力仕事なので体力も筋肉もあるけれど、それとは違う。心が疲れ切っているときに感じる身体の重みが、俺を地面に吸い込ませる。暫く立てなかった。手をついて何とか身体を起こす。

 忘れられたと思っていた。仕事が忙しくなって、過去のことを考えている暇もなくなって。少し気が楽になった気がしていた。けれど違った。逃げていただけだ。考えることから。そう思ってから思い出した。まだ高校に通っていた頃、退学する前にある先生に言われた。


 『逃げたっていいと僕は思います。どんな道を選んだとしても、それは間違いではありません』


 その先生とは、普段関わりなんかなかった。いつも抑揚のない声で喋る人だなという印象しかない人だった。だからこそ驚いた。生徒のことなんて見ていなさそうだったのに、それは勘違いだったのかもしれない。俺のことも、どのくらい見ていたのだろう。どのくらい知っているのだろう。何も知らないのかもしれない。それでも、少しだったけれど話して分かった。人は長く生きているほど、苦しみや迷いが多くなる。この人もそうなのかもしれないと思った。俺が知らないだけで夜が怖く感じたり、人に会うのが怖かったりしたことだってあるかもしれない。そういうことがあったのか分からないけれど、この人の言う通り自分の道は自分で進んでいくしかない。自分で選んだのだから。


 丸一日、仕事がないのは久しぶりだった。俺は冷蔵庫で冷やしていたビールを取り出す。親父のようにはなりたくないと思いながらも、身体はお酒を欲する。ただ眠りたいだけなのだと、分かっている。最近は睡眠剤と一緒にお酒を飲んでいる。年々、睡眠剤の量も強さも増えている。通っている精神科は変わらない。先生も変わらずに原田先生だ。こんなに長く付き合うことになるとは、中学を卒業したばかりだった俺は思いもしなかっただろう。俺がこうなってしまうことを一体誰が想像できただろう。

 『軽度のうつ病・全般(ぜんぱん)(せい)不安(ふあん)障害(しょうがい)』。これが俺に下された診断名だ。二年前に診断された。自分に下された病気を俺はどういうものなのか、調べた。

『うつ病』というものがどんな病気なのか、俺はちゃんと調べて初めて知った。軽度の理由は、どうにか頑張れば動けてしまう。取り繕えてしまうかららしい。

 俺の場合は家庭環境が関係しているかもしれないとも、言われた。とにかくこういう精神的な病気は、自身が考えているよりも長い付き合いになることを、診断されたときに原田先生から聞いた。

 俺はぬるくなってしまったビールを口に含む。過去に執着していたってどうにかなるわけじゃないことを、俺だって理解している。ただ、俺が望んだものは過去にしかない。もうどうにもならないことを俺はずっと悔やんでいる。同時に憎んでいる。

 俺だって、泣きわめいてわがままを言ってみたかった。一度くらい、親父と笑って話がしたかった。親からの愛情を感じてみたかった。暴力なんかじゃなくて、抱きしめてほしかった。そんな、もう過ぎてしまった過去に俺はいつまでも縋りついている。「親なんだから愛してくれるよ」とか、「親なんだからまた会って話せばわかりあえるよ」とか「時間が経てば大丈夫になるよ」とか。そういうのが通用しない関係だってある。親の前に一人の人間だからだ。

俺自身が俺を苦しめていることを、俺はきっと随分前から気が付いていた。多少不幸でいる方が楽なことも、弱い立場でいることに甘えていることにだって、俺はとっくに気が付いていた。けれど、分かっていたって気が付いていたって、どうにもできない部分がある。正論は確かに正しいけれど、正しいだけじゃ救われないことがある。きっと沢山ある。ただ、寄り添ってほしいだけの時がある。何も言わずに隣に居てほしいだけの時がある。それだけで救われることが、ある。正論や根性論じゃどうにもできないことが、ある。

 

神様、いるんなら返事をしてくれ。いや、返事なんかしなくたっていいから、聞いてくれ。俺は、生きていいのか。笑って過ごしていいのか。人生を、歩んでいいのか。教えてくれよ。

怖い。人に会うのも、笑うのも、生きるのも、死ぬことも。怖くて、怯えて。どうしたらいいのか分からなくて。正解がないことくらい俺だってわかっている。それでも、分かっていても求めてしまう。これでいいんだよ。ここに居ていいんだよって誰かに認めてもらいたい。抱きしめてもらいたい。頭を撫でて笑いかけてもらいたい。俺の中にいる小さな子どもを愛してほしい。



加賀美真生 大学


 私はあれから、ぎりぎりまで悩んだ。人を救いたいという夢がどの仕事にも関わっていることに気が付いて、自分の考えが本当に漠然としすぎていたことを反省した。悩みに悩んだ末、私は心理学を学べる大学に進んだ。カウンセラーになりたいと思ったからだ。たちばなさんのようになりたいという思いに、私の心は強く反応した。どうなるかは分からないけれど、今はこの道を進んでみようと思った。

 大学二年生になってすぐにすずちゃんに誘われて、電車で三時間のところにある街で有名な桜並木を見に行った。そこは佐倉くんからの手紙に書いてあった街だった。もしかしたらとは思った。けれど、あれから四年だ。期待はしていなかった。

 下を向いてみた。散って踏まれた桜たちが、上から降ってくる光に照らされていた。何気なくそれを掬い上げてみる。日に照らすと、少しだけ青く見えた。桜だからピンクだと、勝手に思っていたけれど、違う見え方があるんだと思った。人間も、そうなのかもしれない、と思う。見る人によって、見え方は変わる。正解はない。どんな見え方でもそれがその人なのだろう。

 私とすずちゃんは写真を撮ったり、近くのお店でご飯を食べたりしてから自分たちの住む街に帰った。すずちゃんとわかれて私は帰路につく。


 「ただいま」

 「おかえりなさい」


 家に入ると、お母さんが庭の手入れをしていた。春だからたくさんの花が咲いて楽しそうだ。私はお母さんに声をかけてから、自分の部屋に入る。弟の凪斗は、友達と遊びに行っているらしい。

 自分の机に向かって、ノートを開く。その日あったこと、感じたことを書き留めておくものだ。大学に通い始めてからつけ始めた。自分が何にどんなことを思ったのか、感じたのか。それを文字として残しておくと、自分のことを客観視できてとてもいい。自己理解を深めるためにも、できるだけ書くようにしている。これも実は心理学のためのものだったりする。まずは自己理解を深めるところから初めて、そこから焦点を他者に向けていくようにしている。それに自己理解を深めておくと、気持ちの安定さが変わってくる。おかげで私は以前よりも気持ちに余裕が持てるようになった。


 「佐倉くん、会いたかったな…」


 高校を卒業しても、大学に進んでも。私の思いは変わらなかった。私は「絶対」を信じている。この世界に絶対はないかもしれないけれど、それでも信じるくらいはいいだろう。

 簡単に近くの人とも遠くの顔も分からない人ととも繋がれる世界になって。遠くの人に自分の言葉が届くようになって、きっといいことなんだろうけれど。文字だけだと伝わりきらないこともあって。だから私は、しっかり伝えたいときはメールも手紙も使わない。会いに行って直接顔を見て伝えるようにしている。だから佐倉くんには、手紙もメールも送っていない。直接会って、顔を見て伝えたい。だから私は、絶対を信じている。

 日々、やることだらけでレポート提出や他の課題に追われていると薄れていってしまうこともあるけれど。佐倉くんを忘れたことはない。さらりと揺れる前髪から覗く切れ長のツリ目気味の目。身体中に散らばった痣。左手の火傷跡。それから一度だけ見せてもらった口元にある火傷跡も。今でも鮮明に思い出せる。思い出すたびに思う。


┄┄佐倉くんが好きだ。




 次の土曜日。私は再び、三時間かけて同じ街に居た。今度は一人だ。佐倉くんを探しに来た。いるかどうかは分からないけれど、私の知ってるところではここしかない。佐倉くんが今何をしているのかは分からないけれど、とりあえず近くの工事現場をあたってみよう。桜並木から一番近い工事現場は、五分くらいでついた。入り口に居た作業服を着ている人に聞いてみる。左胸のところに佐川と刺繍してある。


 「すみません、ここに佐倉心くんっていませんか?」


 煙草を吸っていたその人は怪訝そうに私を見た後に、煙草を右手に持って中に顔を向ける。


 「さくらー!!」


 鼓膜が揺れるくらいの声でさくらと呼んだ。私の探している佐倉くんかはまだ分からないけれど、会えるかもしれないという高揚感に包まれる。待っている間に佐川さんは煙草を消した。


 「あんた、さくらの彼女?ま、なんでもいいけど。頑張りな」


 煙草の匂いのする口でそう告げて、中へ入っていった。少ししてから足音が近づいてくる音がして、それが私の前で止まった。鼻をかすめる匂いが私の鼓動を早くさせる。下に向けていた顔をあげると、目を見開いた佐倉くんがいた。懐かしさと、会えた嬉しさで泣きそうになった。久しぶりに会った佐倉くんは何も変わってなかった。髪は少し伸びたかもしれない。私が口を開く前に佐倉くんが我に返ったように口を開いた。


 「加賀美、なんで」

 「会いたくて、探しに来たの。ねえ、あれから四年が経ったよ。今年の十二月で五年が経ってそしたら佐倉くん、もう自由だよ。だからさ、そしたら」


 私の声を遮るように佐倉くんの手が私の顔の前に出される。佐倉くんは少し苦しそうな顔をしていた。そこから数十秒沈黙した。多分、言葉を探していたんだと思う。


 「もう、会わない方がいいって、手紙読んだろ。俺たち一緒に居ない方がいいんだよ」


佐倉くんは、苦しそうに歪めた顔のままだ。


「それに、加賀美は知らないかもしれないけど。五年が経つってことは、親父が刑務所から出てくるってことなんだ。親父のことだからきっとまた、俺の前に現れる。そうなったら、また加賀美が傷つくことになるかもしれない。だから、」

 「なんで?私に迷惑がかかるとか思ってる?それなら余計なお世話だよ。佐倉くんのお父さんがもしもう一度現れたとしても、私はあの頃とは違う。もう、大人だよ。それに、私は佐倉くんのことが、今も好きだよ。佐倉くんもそうだと思ってた。違う?」


 私は気持ちが早まっているのだろう。早口になる。佐倉くんは一瞬目を見開いた後に、また少しの間沈黙した。困っているのかもしれない。眉が少し下がっている。


 「好きだったよ、確かにあの頃は」

 「今は、もう違う?」


 首を軽く横に振った。


 「今は、分からないんだ。仕事が忙しくて、考えてる暇もないくらいで。時々、思い出すくらいで。だけどそんなの加賀美に失礼だろ」


 こういうところが、好きだ。人に対して真正面から向き合ってくれるところ。だから私はこうなるかもしれないことも、想像がついていた。佐倉くんはきっと、私から離れる。


 「私だってそうだよ。大学のレポートとか課題とかで忙しくて、実習だってあるから佐倉くんのこと考えるのなんて、時々だよ。それじゃ、だめなのかな。時々思い出して、時々会って。そういうんじゃ、だめかな」


 佐倉くんは、少し黙って考えてくれる。人の気持ちを蔑ろにはしない。だから私のこの思いが佐倉くんを困らせるものなことを、私は分かっている。押し付けるものじゃないことも分かっている。だから佐倉くんが首を振ったら、もう諦めるつもりで今日はきた。


 「考えても、いいか」


 私と佐倉くんは新しく連絡先を交換して、分かれた。

 帰りの電車に揺られながら、早速連絡する。


 【十二月、また会いに行くから】


 待ってる。とは、送らなかった。これ以上負担をかけたくなかったからだ。画面を閉じて、私は日々に戻った。



 日々に戻ってしまえば時間はあっという間だった。授業にレポート、その他の課題に実習。それから夏休みからバイトを始めた影響で佐倉くんのことを考える時間はほとんどなかった。それでも忘れはしなかった。忘れられるものではなかった。時々思い出して考えている時間がとても楽しかった。佐倉くんもこうならうれしいなあ、とも思った。

 気が付くと夏を終え、秋になり。冬になった。私は佐倉くんの執行猶予が十二月のいつまでなのかを、正確には知らない。だから十二月に入ってしばらくはそわそわしていた。


 【十七日に会えるか】


 十三日の夜に佐倉くんからの連絡が来て、そわそわがさらに増した。早く会いたくて仕方がなかった。

 十六日のニュースで明日は雪予報だと知り、嬉しくなった。もしかしたら佐倉くんと雪が見れるかもしれない。新しいブーツを買って、気分は最高だ。そして来た、十二月十七日。待ちに待ったこの日。私は新しいブーツを履いて電車に乗った。空はまだ薄い曇りで雪は降りそうにない。三時間電車に揺られて駅のホームに降り立つと、佐倉くんが居た。マフラーを風に靡かせ、白い息を弾ませながら佐倉くんに駆け寄る。佐倉くんはセーターにジーンズ。それとマフラーを巻いていた。


 「佐倉くん。来てくれたんだ。ありがとう。ごめんね、待った?」

 「いや、別に」


 いつかのような会話をしながら、私たちは駅から街に出る。空は先ほどよりも少しどんよりとした曇りに変わっている。もう少し暗くなったら雪でも降るかもしれない。佐倉くんと並んで歩きながら、尋ねる。


 「どこに向かってるの?」


 佐倉くんは前を見たまま答える。風で佐倉くんと私のマフラーが靡く。私の口から白い息が漏れる。


 「この街の俺のお気に入りの場所。もうすぐだよ」


私たちは白い息を吐きながら、並んで歩く。以前よりも近くで。駅からここまではほとんどがゆるい上り坂になっている。日が落ち始めてどんどん寒くなる。途中、自販機であたたかい飲み物を買ってまた歩き出す。私は、ココアを。佐倉くんはおしるこを。おしるこを飲んでいる佐倉くんがかわいく見えて笑う。


 「ここ、俺のお気に入りの場所」


上り坂を登りきった所で、そう言って佐倉くんが案内してくれたのは、小さな公園だった。ただ、日が落ちはじめたからかもう遊んでいる人影はない。私たち二人だけだ。どこで話すかの話し合いで私はブランコを。佐倉くんはなぜか滑り台の上を提案した。じゃんけんで佐倉くんが勝ったので、私たちは滑り台の上に移動した。


 「わ…結構高い」

 「加賀美、前、見て」


 佐倉くんにそう言われて前方を見る。雲の隙間からほんの少し出た太陽が街を照らしているのが見えた。この公園は少し高台にあるからか、滑り台に上ると街全体を見下ろせるらしい。横に立った佐倉くんがマスクを外して、白い息を吐きながら話す。久しぶりに見た火傷跡は変わらずにそこにあった。それさえも、愛おしく感じた。


 「加賀美にこれを見せたかったんだ。どんなに疲れてても、死にたくなってもさこの景色見ると浄化されていくって言うか…なんか大丈夫だって、思えるんだ」


 佐倉くんはもう、景色じゃなくて私を見ていた。佐倉くんはこれまでの時間を埋めるように言葉を紡いでいく。


 「俺、前よりも死にたくなってるんだ。何回か、死のうともした」


佐倉くんは、怯えたような顔をした。


「多分これから先も繰り返すんだと思う。そうなったら加賀美には迷惑も心配もかけることになる。苦しめたくはないんだ」


佐倉くんが何を言おうとしているのか、分かってしまう。



「だから」

 「だから一緒には居られない?…私がそんなに頼りなさそうに見える?」


私はじっと、佐倉くんを見つめる。


「前も言ったけど私もう、あの頃とは違うよ。自分で選んでここに居るよ。私の意思で今、佐倉くんに会いに来てるんだよ」


佐倉くんの目が、もう一度私を捉える。


「一緒に生きていこうなんて言わないよ」


私と佐倉くんの視線がぶつかる。佐倉くんはただ、怯えたような顔でこちらを見ている。


「私は許される限り佐倉くんの隣に居たいって、それだけで。だから佐倉くんが許してくれるなら、」


 私はそこで、言葉を切る。佐倉くんが今度は苦しそうな表情で私を見つめる。マスクを外してまで私と向き合おうとしてくれた彼を、私は傷つけたくない。彼の中にいる、小さな子供のことも、私はできることなら傷つけたくはない。もうこれ以上苦しめたくもない。できることなら精一杯の力で抱きしめてあげたい。


 「私と、これから何年かなんて分からない。何十年かもしれないけどさ、過ごしてくれませんか」


 告白というよりもプロポーズだなと内心思う。これを彼が受け止めてくれるかは分からない。ただ、私はこの先何年続くのか分からないこの道を、彼と進んでいきたい。何十年後かの未来にいる私の隣は、彼がいい。

佐倉くんの頬を、静かに涙が伝う。佐倉くんが涙を流しながら頷くのを待って、私は飛びついた。ぬくもりが、あたたかくて涙が出た。


 「俺、死にたくなっちゃうよ。それでも、いいの?」

 「いいよ」

 「うまく、眠れないよ」

 「一緒に起きてゲームでもしてようよ」

「うまく、生きられないよ」

 「一緒にいろんな道選んでいこうよ。道は続いてるんだから」

 「俺、生きてていいのかな。ここに居て、いいのかな」

 

 私は、私の腕の中で泣きじゃくっている小さな身体を精一杯抱きしめる。彼は小さく身体を震わせている。

 私は、抱きしめる力を少し強くして言う。彼の中にいる小さな彼にも、届くように。


 「いいんだよ。ここに居ていいの。佐倉くんの居場所は、ここにあるんだから」


 二人して泣きながら、抱きしめあった。

 私は、私の選んだこの道を進んでいこうと思う。

 命を、最優先に。

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