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夜明け前【前編】



夢か、現実か。わからないまま目を開ける。夜明け前。何時かもわからないけれど。直感的にそう思う。


『夜明け前が、一番暗いんだよ。』


誰かから聞いたその言葉が、ずっと頭の中をぐるぐるとしている。世界ごと回るみたいに、ふわふわとした感覚に陥る。そこでいつも目が覚める。きっとここは現実だ。

誰かに呼ばれた気がして、体を起こそうと力を入れる。けれど自分の腕では耐えきれないほどに体が重く感じて、そのまま布団に倒れこむ。


「まお、起きなさい。学校は?」


やっぱり呼ばれていたみたいだ。お母さんの声が、扉の向こうからする。届くか届かないかくらいの声量で、声を絞り出す。


「いけない、」


届いたのか届かなかったのか分からないけれど、お母さんの気配が扉の前からなくなった。きっと、学校に休みの連絡を入れに行ったのだろう。学校に行けなくなってから、何日たったのだろう。

私の世界は真っ暗だ。北も南もわからない。ずっとずっと、夜明け前みたいだ。



 加賀美真生


悪夢を見る。何かに追いかけられる夢。いつも途中で転んで見えない何かに苦しめられる。どこなのかもわからない道を私はただ走っている。追いかけてきているのが得体のしれない何かなのか、それとも誰かなのかさえもわからない。ただ逃げなければと思う。恐怖が私の足元を掬って、うまく走れない。どんどん近づいてきて、そして私を追いかけてきていた何かが私を吞み込もうとする。そしていつも、ここで目が覚める。


「………っかは、………夢か。」


息が止まっていたのか、止めていたのか分からないけれど息苦しさで目を覚ます。時計を見ると、アラームが鳴る2分前だった。最近、寝ても寝ても疲れが取れずに何となく体が重い。

「私だってそうよ、そんなの。あなたよりひどい人だっているのよ。大体学生の分際で偉そうに…」


お母さんに言ってみたけれど、案の定言葉の針が返ってきただけだった。抜けばどうにかなっていた言葉の針たちは、最近刺さったままチクチクと痛む。放っておくと身体に浸み込んで血管を伝って心臓に刺さるんじゃないかと、怖くなる。けれどもう、刺さった針を抜く体力はない。

長い悪夢から目が覚めたはずなのに、今も夢の中にいるように思えてしまう。


お母さんの言葉が痛いと感じるようになったのはいつからだろう。以前はもう少し優しかった。元々不器用な人なんだとは思っていたけれど、最近はそれすらも思えなくなってしまった。


『みんなは頑張っているのにあなたはどうしてできないの』

『もっと早く色々できないの?』

『はあ、もう。あなたに頼んだ私が馬鹿だったわ』


こういう言葉たちが、言われた瞬間から今に至るまでの間に何度も思い出されて、私の中にどんどん入り込んでくる。そのたびに苦しくなる。

お母さんが私を思って言ってくれていることは分かっているのに。心がどうしても傷を負ってしまう。そんな自分を殺してしまいたくなる。


三年二組。私はその教室の廊下側前から2番目の席に座る。朝のホームルーム前の教室は、まだ人がまばらだ。部活のない人たちが数人いるくらいで、教室の空気なんてきっと有り余っているはずなのに、息苦しくなる。つけていたマスクを少しだけ浮かせて深呼吸をしてみるけれど、呼吸が整わない。サッと周りを見る。誰一人として私のことなど注目していない。それはわかっているのに、どこからともなく声が聞こえてくるような気がして、私は席を立つ。

教室を出て、階段を下りる。一階まで駆け下り職員室を通り過ぎて保健室も通り過ぎる。その先に『相談室』と書かれた教室が出てくる。私はそこを静かに開ける。ほのかにマスク越しに畳の香りが鼻をかすめる。


「あら、まおさん。おはよう。」


くるりとこちらに振り向いて、女の人が挨拶をしてくれる。首から下げられた名札には『相談室担当医 たちばな ちはる』と書いてある。

たちばなさんは、相談室担当医┄┄臨床心理士┄┄としてこの学校に勤務している。『先生』とはなんか違うから『たちばなさん』と呼んでいる。


「たちばなさん、苦しい。」


私を席に促しながら、たちばなさんはノートとペンを取り出して、私と向かい合うようにして座る。


「うん、どこがくるしい?」

「たぶん、ここらへん。」


私は自分の心臓らへんを手のひらで示す。たちばなさんは、私と目を合わせてから言う。唇の下にあるほくろが特徴的だ。


「うん、そうかぁ。どんな時に苦しく感じる?」

「教室とか、あとは朝…」

「教室とか、朝か。朝は、起きた時?それとも学校に行く前とかかな?」


少し考えて、首を横に振る。

「わかんない、けどずっと、くるしい。なんか、いたい」

「痛い?」

「言葉の針が、痛い。」

「そうかぁ。言葉の針を飛ばしてくる人が、いる?」


少しだけ声のトーンを落として、静かに聞いてくれる。たちばなさんの声は、なんだか安心する。


「…おかあさん」

「そうかぁ。お母さんか。どんな時に、針を飛ばしてくるかな?」


一度だけ、深く呼吸をしてから答える。さっきより、呼吸がしやすくなった気がする。


「わたしが、生意気なこと言ったときとか、おかあさんの機嫌が悪いときとか…」

「生意気なこと?例えばどんなことを言ったときかな?答えられる範囲でいいよ」


私は、お母さんに今朝言ったことをそのまま話した。たちばなさんは少しだけ黙り込んで、それからふと、私を見た。


「まおさん。あのね、聞いてほしい。これは、まおさんが何歳だとか学生だからとかそういうの関係なしに、人としてのお話」


私は、黙って頷く。たちばなさんはペンを置いて、机の上に放り出されたままの私の手を少しだけ強く握った。


「まおさんの心と身体は、今きっと悲鳴を上げているの。たすけて、くるしいよ。って。そういう時にしっかりと休まないと人は壊れてしまうことがあるの。若いから大丈夫、とか誰だってあるとか思うと思うし、言われると思う。だけどね、それはあなたが休まなくていい理由にはならない。あなたの苦しみを、無視していい理由にはならない。笑う理由にも、怒る理由にもならない」


たちばなさんは、私の手をしっかりと握って目を見て、そう言った。私は何も言えずに少しだけ目を泳がせる。


「まおさんのくるしみも、痛みもまおさん以外が決めていいものではないの。他人からは軽く見えても、まおさん自身がどう感じているかが重要なの。まおさんにしかわからない。だからそれを、これから少しずつ声にしていってほしい。」


なんだか泣いてしまいそうになって、顔に力を込める。たちばなさんの握っていてくれる手が、あたたかい。


「私の声、お母さんにちゃんと届かない。お母さん、聞いてくれない」

「お母さんには、絶対に届くようにする。私がする。だから今は、それまでは私にまおさんの声を聞かせてくれないかな」


頷くと同時に朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響いた。



いたい、痛い、いたい。


どこかは分からない。心臓ら辺かもしれないしまったく別のところなのかもしれない。ただ、ずっと、チクチクと痛い。

お母さん、お父さん、弟の凪斗(なぎと)と会話すらしなくなったのはいつからだろう。ここ一週間はたぶん誰とも顔を合わせていない。


コンコン。

控えめなノックが二回。凪斗だ。


「姉ちゃん、ごはんどうするって母さんが」


凪斗は、小学三年生だ。まだ幼い弟にこんな気を使わせて、私は一体何をしているんだろう。どうしてしまったのだろう。


「ごめん、たべられない」

「わかった」


この状況を把握しきっている人間なんて、この家には居ないのかもしれないけれど、分からないなりに凪斗は、寄り添おうとしてくれているのかもしれない。凪斗は優しい子だから、私の知らない所で家の中の空気を少しでも良くしようと、してくれているのかもしれない。


凪斗と会話をしたのは三週間ぶりだ。最近はずっと、声をかけられても答える気力すらなかった。食べることも何かを飲むことすらもできていない。このまま死ぬのかもなぁ、なんて馬鹿なことをぼんやりと思う。家族にも迷惑かけて、先生にも友達にもたちばなさんにも、会わせる顔がない。だったらもういっそ、死んでしまえたら。

視界が歪んで霞んで、私は眠った。

翌朝、お母さんの声で目が覚めた。


「まお、起きなさい。病院行くよ」


頭がぼんやりとしていて、体も重だるい。しんどい、行きたくない、動けない。頭がそんな言葉で埋め尽くされる中、お母さんに着替えさせられて、車に乗せられた。

三〇分ほどで、車がどこかの駐車場に入った。病院と聞いていたのに、かかりつけの病院とは違った、お母さんに、手を引かれてほとんど引きづられるようにして歩く。うまく歩けなかった。足元が泥沼のように、重く、まとわりついてきた。

お母さんが受付で何かを話している間、立っているのもしんどくて近くの椅子に座る。少ししてからお母さんが無言で【問診表】と書かれた紙を渡してきた。

名前や生年月日を記入してから、【問一】と書かれた文字から横に読む。


【問一】精神科を受診するきっかけとなった症状


精神科。

私は頭の中で繰り返す。

その言葉を聞くのと目にするのは二回目だった。学校へ行けなくなる直前、たちばなさんから勧められていた。私はあの時もらった資料をどうしたのだろう。

隣に座るお母さんを横目で伺う。お母さんは、どうして私をここへ連れてきたのだろう。聞きたかったけれど怖くて、紙に視線を戻す。

続いて、【問二】【問三】と合わせて【問一〇】まである問診表を不安を募らせながら埋めていった。


一時間ほど待って、名前で呼ばれた。医師と話す前に看護師さんから説明と軽い診察を受けた。お母さんは、待合室から動かなかった。

向かい合った看護師さんは二〇代後半くらいで髪を一つにしていて、優しそうな真面目そうな見た目をしていた。


加賀美(かがみ)()()さん」


私の名前を読み上げる。私がさっき書いた問診表を読んでいるんだろう。膝の上の置いた手をぎゅっとする。マスクの中で、口もきゅっと結ぶ。


「かがみさん。お話、聞いてもいいかな」

 

看護師さんの問いかけに私は頷く。看護師さんは、精神科がどんなところなのかを簡単に説明したあと、問診表を膝の上に置いてこちらを見た。


「かがみさん。体が重くて、食欲もないって書いてくれてあるね。学校にも、三週間ほど前から行けていない。…問診表には書いてないけれど、希死念慮┄┄死にたいとか消えたいちゃいとか、そういう感情はある?」


私が問診表の【問一〇】を書かなかったからだろうか。それとも、確かめるという規則でもあるのか。分からないけれど、私は頷いた。お母さんが今ここに居なくてよかったと思った。大事に育てた娘が死にたいと思っているなんて、そんなのお母さんが死にたくなってしまう。

看護師さんは問診表に書かれたことを確かめるように、補足するように私の話も聞いてくれた。三〇分ほどして、次は医師の診察ですので。と診察室に通された。


診察室には六〇代半ばの男性がいた。おじさんというよりおじいちゃんという表現がしっくりきそうな見た目をしていた。おじいちゃん先生は、診察室に入った私を見るなりにっこりと笑った。目尻のシワがよりいっそう濃くなった。少したれ目だ。


「かがみ まおさんだね。はじめまして。精神科医の、原田(はらだ)です。緊張してるかな」


ゆっくりと聞き取りやすい声量と速度で話してくれる。おじいちゃん先生┄┄原田先生┄┄の問いかけに私は小さく頷く。それを見ておじいちゃん先生は、はっはっと笑った。


「そりゃぁ、そうだよねぇ。いきなりこんなところに連れてこられて、心も身体も頭も追いついていないんだろう。少し深く、呼吸を三回してみようか」


その言葉に促されて、先生と一緒に少しだけ深く、三回呼吸をした。すると不思議なことに少しだけ緊張が解けた気がした。膝の上に置いた手を少しだけ緩めた。

先生は私と向かい合う。


「かがみさん。君は、家が嫌い?」


唐突な質問だった。学校に行けていないことや、体が重いことを聞かれると思っていたから。拍子抜けした。


「………へっ?」


目を丸くしているであろう私と目を合わせて、先生は続ける。


「家が嫌い?それとも、お母さん、お父さん、弟さん。家族の中で嫌いな人がいる?」


私は考える間もなく首を横に振る。私は、お母さんもお父さんも凪斗も好きだ。先生は、軽く頷いてまた口を開く。


「学校ではどうかな」


私は同じように首を横に振る。友達も先生たちもたちばなさんも好きだ。


「家の中で、いちばん会話をするのは誰かな?お母さん?」

 

少し考えてから、頷く。すると先生はふっと遠くを見るような目で私を見る。なんだか少し、怖かった。


「お母さん、かな。言葉の針を飛ばしてくるのは」


混乱した。

どうして知っているの、たちばなさんにしか話していないのに。


「たちばなさん、かがみさんの学校で相談室担当医をしている彼女から、話を聞いたんだ。少し古い、付き合いでね。彼女と、僕しか知らないことだ。混乱させてすまない。けれどね、かがみさん」


遠くを見るような目だった先生が、今度はしっかりと私を見た。


「これは、大事なことだ。言葉を軽く見てはいけないよ。言葉で相手がどのくらい傷ついてしまっているのか、それが分からないから「このくらい大丈夫」とそう思ってしまうんだ」


黙ったままの動けないままの私に先生は続けて言う。目がそらせなかった。


「言葉は凶器だ。言葉は色々な場面で簡単に変化する。使う側、受け取る側によっても変化する。そんなつもりがなくても、相手を傷つけてしまうことだってある。そしてそれは、大抵気づくことができない。どうしてだか、分かるかい?」


私は黙って首を振る。


「目に見えないからだ。使う側が凶器として言葉を使った場合は、使う側だけが傷つけることを知っている。けれどね、使う側ですら凶器だと思わずに言葉を使った場合は、受け取った側が傷ついてしまったことを使った側は分からないことがほとんどなんだ」


手のひらに、力がこもったのが分かった。


「そしてお母さんは、言葉で君を傷つけていることを知らない」


泣いてしまいそうになった。

私はたぶん、どこかで分かっていた。だから言葉の針が痛い、という感覚を覚えたんだろう。そしてお母さんにそのつもりがないことも、知っていた。だから私は、お母さんを嫌いになれない。



診察室に、先生とお母さん。それから私がいる。それだけだ。それだけのはずなのに、息が苦しく感じる。その理由はきっと、先生がお母さんに対して今の私の状態を説明したからなんだろう。


「ふざけないでください」


お母さんのよく通る声が、左側から聞こえた。膝の上の手が少しだけ震えている。怖くて、お母さんのほうを見れない。


「わたしがまおを傷つけている?まおが今こんなんなのはわたしのせいだって言うんですか?大体この子が甘えたことを言うからわたしは、現実を教えただけです。身体が重い?動けない?みんなそうじゃないですか。わたしだってそうです。それでも、みんな働いてるし、学校へ行っているんです。それなのに甘えじゃないですか、そんなの」


言葉の針が、左側から飛んでくる。私に対してなのか先生に対してなのかそれは分からない。先生は、ただ黙っていた。その間にもお母さんはヒートアップする。


「それなのに、休むことが必要です?何言ってるんです?この三週間、ずーっと休んだじゃないですか。受験生なのに、三週間も!!周りの子はその間にも勉強しているのに、頑張っているのに。休むだなんていうのは簡単ですよ、けどね、この子は受験生なんです。未来がかかっているんです。もう一〇月ですよ、休んでいる暇なんてないんです。休むなら受験が終わってからでもいいんじゃないですか。三か月も休んでいたらこの子の未来は終わりですよ!!責任取ってくれるんです?取れないでしょう!他人が家庭のことに口出ししてこないでください!!」

「まおさんの、心と身体の話をしているんです。目には見えない部分の話をしているんです。お母さん、まおさんの未来が大切なら、今から僕がする話を、しっかりと聞いてください」


先生の声に、私は自然と顔を上げる。お母さんは、肩で息をしていた。先生はお母さんをじっと見つめて、お母さんの息が整うのを待つ。


「まおさんは、今休むべき状態の子です。身体が重く、動けない、学校に行けない。何かを食べることも飲むこともできていない。これだけ日常生活に支障をきたしている。この生活を、まおさんの受験が終わるまで無理やり続けさせるのであれば、そうしてみたっていいと思います。ただ、ただその場合、まおさんの状態は今よりもっとひどくなっているかもしれないんです、命に関わってくるんですよ」


お母さんはいつの間にか下を向いていた。唇を噛んで、言葉を殺しているように見えた。


「お母さん、今日まおさんを精神科へ連れてきたのは、まおさんの未来のことを考えてのことではないですか?何か原因があるはずだ、とそう思ったからではないですか?」


私は、その日初めてお母さんをしっかりと見た。横顔だけだったけれど、細い目が、見開かれていた。

数分間、無言の時間が流れた。何となく、居心地の悪さはもう感じていなかった。


「……まおが、」


口を開いたのは、お母さんだった。下を向いたままだった顔を上げて、先生と向き合っている。


「まおが、何も食べれていないことは分かっていたんです。何かあるんだろうなとも。だから学校に行って、相談室担当医のたちばなさんとお話をしました。そこで、精神科の受診を勧められたんです」





加賀美(かがみ)小和(こより)



ペタペタと、スリッパの跡が二人分、静かな廊下に響き渡る。職員室を通り過ぎ、保健室を通り過ぎた先に『相談室』と書かれた部屋があった。『外出中』の札をひっくり返して『在出中』に変えた。ふんわりと畳の香りが鼻をかすめる。


「改めまして、相談室担当医の立花(たちばな)()(はる)といいます。千回晴れると書いて、ちはるです」


私は、促された席に座りながら真向かいに座ったその人を観察した。首から下げられている名札には『相談室担当医 たちばな ちはる』と書いてある。唇の下のほくろが、なんだか印象的な人だ。少し、緊張している。娘のことで学校に来ることは久しぶりだった。特に、問題もない、おとなしい子だったから。


「はじめまして、加賀美(かがみ)小和(こより)です。小さい和で、こよりと言います」


なんだか流れで、自分の名前を説明してしまった。昔から私は、この名前があまり好きではない。

ふぅ。と息を吐く。こんなことを話しに来たのではない。娘のことを、まおのことをこの人は何かを知っている。


「あの、まおのことであなたは何かを知っているんじゃないですか。最近あの子、部屋から出てこなくて、ご飯も食べていないんです。いじめとか、何か、あったんですよね?」

「落ち着いてください、かがみさん。今のまおさんの状態は、どんなものだと思っていますか」


私が聞いたのに、全く違うことを聞き返してきたことに少し腹が立ったけれど、グッと我慢した。


「甘えじゃないですか。学校に行きたくなくて、勉強したくなくて反抗しているだけでしょう。それか、いじめがあって学校に行きたくないとか」


相談室担当医は、じーっと私の目を見つめてきた。たぶん私が落ち着くのを、待っていたんだと思う。一分近く、無言の時間が流れた。


「まおさんの今の状態は、病院へ行くべきものです。学校に行けない、ご飯を食べられない。もう、三週間近くになるんじゃないですか。それは非常に危険な状態です。まおさんの心にも、それから身体にも何かの原因がある、ということなんです」

「心、ですか?」


全く想定していなかった言葉に、驚いた。


「心です。まおさんはとても、とても強い子です。けれど今は、心が悲鳴を上げているんです。日常生活にまで影響が出るほど、危険なんです。だから一度、まおさんを精神科へ連れて行ってはもらえないでしょうか?」


精神科。聞きなじみのない単語。人生において関わりのないはずの場所。思わず、笑ってしまう。


「精神科?そんなところに連れて行って、どうしろっていうんです?」


次の言葉を放つために息を吸った一瞬で、発言権を奪われた。仕方なく、呼吸に変えて吐き出す。目の前に座る相談室担当医は、真剣な目で真剣な表情をしていた。


「精神科というと、行きづらい場所。というイメージをされがちですが、普通の病院と何ら変わりありません。内科が身体を治療するように、眼科が目を、耳鼻科が鼻や耳を治療するように、精神科は心を治療する。ただそれだけの違いです」


一旦、言葉を切る。いつもの私ならそこで口を開くけれどその時は、次の言葉を待った。待たなければいけないような気がした。


「お母さんに頼みたいことは一つだけです。精神科へ連れて行って、まおさんの心を治療するお手伝いをしてほしいんです。何か困ったことがあれば、私が全面的に協力します」


私はそこでやっと口を開く。ただ、さっきまでの勢いは消えて、なんだか落ち着いていた。荒れた感情を落ち着かせるような力がこの人にはあるのかもしれない。


「……わかりました。とにかく一度、連れていきます」



加賀美真生



知らなかった。お母さんが、私のことで学校にまで行っていたなんて。たちばなさんに会っていたなんて。お母さんが、私のことを心配してくれていたなんて。

私はしっかりとお母さんを見る。お母さんは相変わらず、私の方を見ない。


「たちばなさんが、言ったようにしてみようと思ったんです。まおの心を治療する手伝いをしようと」


お母さんはそこで息を吐いた。それから吸い込んで、口を開く。不安そうな顔をしていた。


「けれど、どうしたらいいのか。どうすることが正解なのか分からなくて、休むことが必要だっていうのは分かりました。だけどまおが受験生であることに変わりはないんです」


言いたいことを言い切ったのか、お母さんは言葉を求めるように先生を見る。私もつられて、先生を見る。

先生は微笑んでいた。優しい優しい目でお母さんを見て、私を見て。もう一度お母さんを見る。


「僕から一つ、提案をさせてください。参考程度に聞いてもらって構いません。高校を全日制ではなく通信制のところにするのはどうでしょうか。通信制に通いながら、治療をするのも一つの手だと思います」


 通信制高校。聞いたことはある。だけど自分がそこに通う想像なんて今まで一度もしたことが無い。私には縁のない場所だとさえ思っていた。お母さんもそうだと思っている。だからなんだか怖くて、お母さんの方をそうっと見る。お母さんも、同じような顔をしていた。きっとお母さんも私と同じ考えのはずだ。通信制高校はきっと、お母さんの中でも選択肢には入っていないんだろう。


 「わたしは、まおの意思を尊重したいと思っています…」


 お母さんはそう言った。

 まおの意思を尊重したい。そう言った。驚いた。お母さんがそんなことを言うなんて、思ってもいなかった。お母さんはずっと、私の声なんて聞いてくれないと思っていた。私の思い込みだったのかもしれない。私はずっと、お母さんと話すのを避けていたのかもしれない。逃げていたのかもしれない。 私は、お母さんの方をちゃんと見る。お母さんは相変わらず、私を見ない。それでも私はお母さんを見る。私がこれまで目を背け続けた分、今度は私がお母さんを見つめる。

 沈黙が流れる。私もお母さんも言葉を発しない。先生が代わりに口を開く。


 「まあ、すぐに決めなきゃいけないことではないから。次の診察で少し聞けたらなと思っています。さて、ここからはお薬の説明になるんだけれど┄┄」


 そこからは、薬の説明になった。眠剤をもらって次の病院は二週間後になった。



 家に帰り、お母さんとダイニングテーブルに向き合う。目の前には温かいうどん。久しぶりのご飯だった。小さな声だけれどお母さんと一緒にいただきますをして、食べ始める。久しぶりに口にしたご飯はとても美味しかった。じんわりと体が温まってきて、それから心も温かくなるのを感じた。

 ふっ、っと音が私の口から洩れる。頬を何かが流れ落ちていくのを感じる。視界がどんどん滲んでいく。ご飯を食べながら泣いたことある人はきっと仲間だ。視界の端でお母さんが少し驚いているのが見える。涙は止まらない。自分がどうして泣いているのか分からない。ただ、三週間ぶりに食べたご飯はとても美味しかった。ご飯を食べられることがとにかく嬉しかった。汁まで飲み干した私にお母さんが小さく笑った。お母さんが笑っているのも久しぶりに見た。なんだか、嬉しかった。


 「汁は、味が濃いからやめておいた方がいいと思うけど…。まあ、今日はいいわ」

 「お母さん…美味しかった。ありがとう」

 「そう、よかったわ」


 お母さんと言葉を交わしたのも久しぶりだった。洗い物をしているお母さんの方を見る。今、お母さんと呼びかけたら、お母さんはこちらを見てくれるだろうか。怖い。怖いけど今声をかけなきゃ、私はお母さんと話せなくなってしまうような気がした。

 喉が震える、怖い。けど、


 「お、おかあ、さん」


 小さな声、ほとんど息みたいな声。洗い物をしているお母さんには届かないような、水に消されてしまいそうな声。もう一度、言いなおそうと息を吸う。


 「……なに」


 私が再度口を開く前にお母さんが口を開いた。聞こえていた、聞こえていた。そして、返してくれた。私の方を見はしていないけれど、返してくれた。それだけで嬉しくてまた泣いてしまいそうになった。だけどなんとか堪える。


 「私を、心配してくれてありがとう。あと、」


 私の方をお母さんは見ない。いつかのようにお母さんと目を見て話したい。だけどそれは、いつかでいい。


 「ありがとう」

 「さっき聞いたわよ」


 お母さんが少しだけ微笑んだように見えた。本当はどうなのかは分からない。だけど、自分が発した言葉にちゃんと言葉が返ってくるこの状況が嬉しかった。

お母さんが怖くて顔を見られないような時があった。お母さんを嫌いになってしまいたいと思ったこともあった。でも私は、本当はお母さんが優しいことを知っている。本当は子供思いなことを知っている。だから私はお母さんにどんなに言葉の針を飛ばされても、お母さんを嫌いにはなれなかった。お母さんがわざと言っているわけではないのを知っているいたから。それでもたくさん傷ついて、悲しくて仕方がなかったこともあったけれど。

私はお母さんが大好きだから。お母さんを信じていたい。

 これから少しづつ、お母さんと話をしていきたい。お母さんとも自分とも向き合えるようになりたい。私は私を好きになりたい。




 それから一週間後、私は毎日ご飯を食べるようになった。もちろん家族みんなで。学校にはまだ戻れていないけれど、お母さんもお父さんも無理に行かせようとはしなかった。多分私が自分から行くのを待っていたんだと思う。私が自分で決断して動くのを、待ってくれていたんだと思う。


 「お母さん、話がある。聞いてほしい」


 その日お母さんは、趣味の花壇の手入れをしていた。庭に面した廊下に座ってから、お母さんに声をかける。お母さんがこちらを振り向かなくても私は良かった。けれどお母さんは振り向いて、廊下に座っている私の横に座った。そのことに驚き、お母さんの方を見た。けれどお母さんは庭の方を見たまま私の方は見ない。私も、庭の方を見る。お母さんがたくさん植えたのだろう。ガーベラやコスモス、バンジーなどが咲いていた。大切に育てたのだろう。それぞれ綺麗に咲き誇っていた。


 「私、これからちゃんと学校に通って、高校に行きます。すごくすごく遅れちゃったけど、頑張ります」


 お互い前を見たまま、沈黙が流れた。風に乗って花々の香りが運ばれてくる。色とりどりの花たちが風に揺れる。


 「そう、まおがそう決めたのならそうしなさい」




 一か月半ぶりに学校に登校した。朝の早い時間、まだ教室には人がまばらだ。前と変わらない席に座る。久しぶりに来たからかちらちらと視線を感じる。やはり教室が息苦しく感じるけれど、前ほどではない。今日の授業内容を確認し、教室を出る。逃げるのではなく、会いに行くためだ。

 階段を降り、職員室の廊下を進み職員室前の名札を確認する。先生が出勤した際にひっくり返す札だ。黒色になっていると、出勤していることになる。私は黒文字になっていることを確認して、保健室を通り過ぎる。通り過ぎたその先に私の会いたい人がいる。

 ノックをすると、変わらない朗らかな声が聞こえた。少し緊張しながらドアをスライドさせる。畳の香りがほんのりと鼻をかすめて、下に向けていた顔を上げると、以前と変わらない笑顔のたちばなさんが居た。たちばなさんの顔を見てホッとする。たちばなさんに手招きされ私は相談室に入る。たちばなさんは私の顔を見て静かに微笑んだ。


 「すっきりした顔をしてるね。何かあったのね?」


今日の私はマスクをしていない。もう必要ないと判断したからだ。これまでの私は周りの目ばかり気になり、見られているのではと思うと怖くてマスクを手放せなかった。けれど、今日からの私はきっと大丈夫だ。


「私の、お母さんに会ったんですね、たちばなさん」


たちばなさんは微笑んだまま、頷いた。それから私と向かい合うように座る。たちばなさんはお母さんと話したことを説明してくれた。お母さんが話してくれたことと同じだった。それからたちばなさんは私をしっかりと見た。嬉しそうな、安心したような笑顔がそこにはあった。


「戻ってきてくれて、嬉しいよ。ありがとう、まおさん」



私は目の前で微笑むたちばなさんを見つめる。なんだか泣きそうになった。喉の奥が締め付けられるように痛くなる。我慢したって溢れ出してきてしまう。私のことを心配して、考えて行動に移してくれたことが、嬉しかった。そんな風に誰かのために考えて行動できるような人に、私もなれたらと思った。

 

「たちばなさん、ありがとう、ございます…っ」


顔を覆って涙を流す私にたちばなさんは静かに寄り添ってくれた。背中をトントンするわけでも、声をかけるわけでもなく、ただ静かに隣に居てくれた。私にはそれがたまらなく嬉しかったし、有難かった。

少しして落ち着いてから、たちばなさんにこれからちゃんと勉強をして高校に行くことを話した。たちばなさんはおかあさんと同じように、頑張れも応援してるも言わなかった。


「どんな道に進んでも、まおさんが進むと決めたのなら進んでいけるよ」


たちばなさんなりの、応援なのかもしれない。「大丈夫だよ」というお守りなのかもしれない。


一か月半ぶりの学校は、よくも悪くも何も変わっていなかった。変わらずにみんなワイワイしているし、それぞれの受験に向かって勉強していた。私もこれまでの遅れを取り戻すために、休み時間は机と向き合った。私が志望する高校はそれなりに偏差値が高い。今の学力じゃ足りないことは私も知っている。学校が終わり、家に帰ってからも勉強した。私たちの中学から近いこともあって、ほとんどの生徒が志望しているらしい。私の唯一の友達ももちろんその中の一人だ。夢を持っている人や、大人から見たら馬鹿馬鹿しい理由だと言われるかもしれないけれど、夢も特にない一般中学生からしたら「友達と同じ高校に行きたい」というのはしっかりとした理由だ。試験面接などでは、もっとしっかりとした理由を言うけれど、本音は前者だったりする。


「おねえちゃん、顔色少し良くなったねえ!」


ご飯中、凪斗が嬉しそうな顔でそう言った。私は、自分の顔色がどんな感じなのか気にしたことがないので、よく分からないけれど、お父さんもお母さんも頷いたので、きっと私は顔色が悪かったんだろう。しっかりご飯を食べるようになったのと、眠剤のおかげで以前より眠れるようになったからかもしれない。

今日の夕飯は、オムライス。凪斗のリクエストらしい。お母さんの作るオムライスは、ケチャップライスではなくバターライスだ。凪斗は、それがお気に入りらしい。確かにおいしい。きっと料理上手なお母さんのことだからケチャップライスも美味しいのだろうけれど。

私はお母さんとも、お父さんとも凪斗とも以前より会話するようになった。お母さんは笑うようになった。私も前より笑うようになったと、思っている。



「まお、なんだか明るくなった??」


唯一の友達、なつきにも違いは分かるらしい。なつきとこうして話すのは五か月ぶりくらいだ。中学は違うクラスで、なつきは委員会にも部活にも所属しているのであまり話す機会がない。たまに学校内で出くわしたときに数分間話す程度だ。なつきは明るくクラスの中心にいるようなタイプだ。そのため、友達も多い。大体は数人の友達の中で笑っている。教室の自分の席で静かに座っている私とは正反対のタイプだ。私は毎回、自分から声をかけることはなく、空気の様に通り過ぎようとするけれど、毎回なつきはそんな私を見つけて駆け寄ってきてくれる。最初こそは「こいつ誰?」みたいな雰囲気を周りの子たちから感じたが、三年間ずっとなのでもう慣れてくれたみたいだ。前に数人から「なんでなつきと仲良いの?」と聞かれたことがあるけれど、そんなの私にだって分からない。同じ小学校で六年間同じクラスだったというだけの繋がりだ。小学生の頃は仲良くしていたけれど、中学に上がったら関りが無くなった。というよくある展開になるんだろうな、と勝手に思っていた私になつきは変わらずに話しかけてくれた。なぜなつきが私に話しかけてくれているのかは私にだって分からない。かといって理由を聞くような度量は私にはない。理由を聞くことはこれからもないんだと思う。どんな理由であれ、なつきが私に話しけてくれることに変わりはない。私はそんななつきと、これからも仲良くしていたいと思う。

仮に高校が離れたからといってなつきとの関係が終わってしまわないことを祈ってはいるが、もしかしたら。があるかもしれない。高校ではクラス一緒になるといいね、と笑っているこの子を、私は高校でもできるだけ近くで見ていたいと思う。だから私は志望している高校に進学したい。時期はすでに十一月。高校の受験日は二月中旬だけれど、私には約一か月半の遅れと元々の学力の壁がある。分からないところ(主に休んでいた期間の授業内容)をそれぞれの教科担任に聞きに行ったり復習したり、苦手な科目はお願いして放課後に教わったりした。

そんな日々を過ごしていたらあっという間に二月。三日後に受験日が迫っていた。今日は土曜日。私はなつきの家にお邪魔している。なつきから「最後の追い込みしよう」と勉強会の誘いを受けたのだ。なつきの友達たちがいるんだろうと予想していたのに、約束の時間に集まったのは私だけだった。それがいまから五分前。驚く私をなつきは笑顔で迎え、自分の部屋に案内した。部屋の中心に丸いテーブル。壁際にベッド。といったレイアウトだった。飲み物を持って部屋に戻ってきたなつきは、私が立ったままなのを見て、ドアの手前側に座るよう促した。なつきは部屋の奥、ベッドのある方に座った。そこから二時間勉強してちょうど正午だったので二人でスパゲッティを食べた。


「午後は、お互いの苦手なところ復習してこっか」


なつきの提案で私は数学。なつきは地理を。時に教えあいながらもそれぞれ勉強をした。夕方四時くらいまで休憩をはさみながら、勉強をして過ごした。こうして最後の追い込み勉強会は幕を閉じた。

それから三日後、私たちは受験に全力を注いだ。最後の時間が終わった瞬間、緊張が解けたのか疲れが押し寄せてきて、私は少しの間立てなかった。周りの声がなんだか遠くに感じていた。そんな私を現実に引き戻したのは、なつきだった。


「まおー、生きてるー??」

「う、うん。生きてる大丈夫。疲れちゃって、えへ」


そんな会話をしていたら、なつきに声がかかった。同じ中学の子達だろう。これからお疲れ様会をしようというものだった。なつきは当たり前に私を誘ってくれたけれど、私は関わったことの無い子達だったし、向こうも私をお呼びではないような雰囲気だったので、用事があるといって、断った。本当は用事なんてものはない。まっすぐ帰宅するだけだ。

こうして私の受験はひとまず終わった。結果は三月だ。とりあえず終わったことに安心したのか、なんだか地面から浮いているような感覚に襲われる。そのまま、帰宅した。


「おかえりなさい。お疲れさま」


玄関を開けて、お母さんに出迎えられる。お母さんが小さいけれどしっかりと聞こえる声でそう言ってくれた。まだ目を見て話してはくれないけれど。私は、ただいまとありがとうをお母さんに伝えて、自分の部屋に戻った。


その後の学校は、ほとんどが卒業式の練習だった。まだ自分が卒業するなんて実感がない。それでも、時間は進んでいく。あっという間に卒業式の前日になった。最終リハーサルを終えた放課後、明日の準備で忙しいかなと思いつつ、私は相談室に向かった。ドアにかかっているプレートは、『在室中』になっていた。そのことにホッとする。いつもより少しだけゆっくりと、丁寧にノックをする。中からはいつも通りの声で入室を促される。いつも通り鼻を畳の香りがかすめていく。最後だと思うと、そんな些細なことでさえ泣く要因になってしまう。


「あら、まおさん。来てくれたんだね」


ズッと、鼻水を啜る。涙が顎の先で渋滞している。今日はたちばなさんに感謝を伝えるために来たのだ。この三年間、私が学校に来られていたのはたちばなさんのおかげだ。クラスに馴染めなくて孤独だった一年生。勉強についていけなくなって自分の頭の悪さに失望していた二年生。そしてお母さんの言葉の針に耐えられなくなってしまった三年生。どんな時もたちばなさんは相談室に居てくれた。私がどんなにひどい顔をしていても、今みたいに泣きながらドアを開けても、変わらずに笑顔で迎えてくれた。

私はきっとこの人が居なかったら、学校に通うことができなかったと思う。本当に感謝しかない。

涙で震える喉をなんとか落ち着かせようと、息を吸い込む。たちばなさんは私が何か伝えようとしているのを感じ取ったのか静かに待っていてくれた。数回深く呼吸をして、しっかりとたちばなさんを見る。


「三年間、ありがとうございました!!」


私は、三年間の感謝をできる限り鮮明に伝えたくて、大きな声で伝えた。たちばなさんは微笑んで、いつかと同じように私の手を優しく包んだ。


「お礼を言うのはこっちだよ。私を頼ってくれてありがとう。たくさん話をしてくれてありがとう。まおさんは他者を思いやることができる。許すことができる。とっても素敵な子だよ。私と出会ってくれて、ありがとう」


私は声を我慢できなかった。幼い子供のように声を上げて泣いていた。たちばなさんも泣いていた。けれど、声は上げずに静かに泣いていた。たちばなさんのような大人になりたいと、改めて思った。


しっかり泣いて、泣きはらした目で玄関に向かうと、なつきがいた。こんな時間までいるなんて珍しいなと思っていたら、なつきが顔を上げた。


「まお、よかった。話があってさ。」


私は靴を履き替えてから、なつきの元に向かった。

 なつきはしばらく無言で、私の少し前を歩く。そのせいで顔が見えないけれど、なんだか元気がないように感じる。結局なつきは、いつもの分かれ道まで何も話さなかった。ここで話すのかなと思いながら、立ち止まる。なつきも止まったが、こちらを振り向くことはせずに私に背中を向けている。私から声をかけようかと思ったが、なつきが何かを話すのを待つことにした。数分間、振り向かずにいたなつきが勢いよくこちらを向いた。私は目を見張った。なつきは泣いていた。静かにぼろぼろと両方の目から涙を流していた。私はなつきが泣いてるところを見るのが初めてだった。だからちゃんと混乱した。どうしたらいいのか分からなくて、何もできなかった。その間になつきは自分で落ち着いて、それから笑った。これまで見たことの無い顔だった。悲しみと、怒りと、諦め、困惑が混じったような笑顔だった。

 なつきは、ゆっくりと深く呼吸をした。この子は、自分で自分を落ち着かせられる力がある。混乱したままの頭で、すごいなと思った。


 「わたし、同じ高校行けなくなっちゃった」


 言葉を言葉として理解できなかった。ただの音が私の耳に届いた。一瞬にして脳が機能でもしなくなったのか。私は、音を漏らす。


 「へっ?」


 なつきは涙を流したまま、私の目を見た。


 「お父さんがね、転勤、するんだって。京都なんだって。だからね、だからっ」

 

なつきはそこで顔を自分の両手で覆った。しゃくりを上げながら泣いている。私の脳はここでやっと機能し始めた。ゆっくりと、言葉を言葉として理解していく。そうして、理解した瞬間、目の前が滲んだ。ぼろぼろと頬を伝っていく感覚がある。そこで私はようやく自分が泣いていることを知った。途端に悲しみが襲ってきた。

 なつきだって精一杯の抵抗をしたんだろう。よくこういう時、一人残って一人暮らしをする展開があるけれど、実際は難しいのかもしれない。私たちの住む街から最低でも六時間かかる。何かあった時、すぐにいけない距離に娘を一人置いていくのは心配なんだろう。物語の中みたいにはいかないのが現実だ。なつきが怒っているようにも見えたのは、親に対してか、自分の無力さにも怒っているのかもしれない。


 「まおと、高校行きたかったよぉっ。わたしが中学生じゃなきゃ……子供じゃなきゃ、なんで、なんでぇ…っ」


 それからしばらく、分かれ道で私たちは抱き合って泣いた。お互い明日は目が腫れているだろうけれど、そんなのどうでもよかった。自分の無力さが、憎かった。

 


次の日。私は中学を卒業した。案の定、私もなつきも目が腫れていた。中学、たちばなさん。そして唯一の友達、なつきとの別れだった。よく晴れた日だった。




加賀美真生 高校


 四月七日。私の隣になつきはいない。そのことがまだ私を悲しみに突き落そうとしてくる。私は、何とか踏ん張って、入学式に向かった。張り出されたクラス表を、人の間から見る。私は一年五組だった。ちなみに一学年八組まである。クラス内で知っている名前を探したが、私が覚えていないのか、それとも同じクラスに居ないのか同じ中学の子は見当たらなかった。


一年五組。と書かれたドアをくぐる。すでに半分ほどの人数が居た。黒板に張られた出席番号順に決められた席番を確認する。「加賀美真生」は出席番号十八番、教室の真ん中あたりの席だった。前の席の人は大沢(おおさわ)(じゅん)、後ろの人は、木嶋(きじま)千尋(ちひろ)というらしい。周りには同じように自分の席に座っている人、同じ学校だったのか仲良さげに話している人、近くの席同士で自己紹介をしている人たちなどに分かれていた。ふと、教室の一番前、窓側に座っている子が視界に入ってきた。名前は見ていないので分からないが、出席番号一番なので、「あ」から始まる苗字だろうか。肩までの綺麗な黒髪が誰かが開けたんだろう窓から入ってくる風に揺れていた。私はふと、一つに縛った自分の髪を毛先だけ前に持ってくる。手入れなどしていないキューティクルのかけらもない髪だ。話すことがあれば、どんな手入れしているのか聞いてみよう。そんなことを考えていたら、先生が来て並んで体育館に向かった。入学式を終えて、教室に戻ってきた。出席番号順にそれぞれ席に着く。入学式で発表された担任が、これから一年間の挨拶をした。名前を川市(かわいち)(あらた)と言った。二十九歳、同居人は猫らしい。優しそうな感じの人だなという印象だった。次に自己紹介の流れになった。もちろん、出席番号順だ。先ほどの彼女が静かに立ち上がった。それから、全員に顔が見えるように振り向いた。まあるい目のかわいい子だった。

有本(ありもと)鈴子(すずこ)です。猫が好きです。よろしくお願いします」



彼女から順に名前と好きなものや、好きなことを言っていく。バスケが好きな子や、読書が好きな子、中には人間観察が趣味だという子もいた。ぼんやり聞いていたら、私の番が回ってきた。

やばい、特に何も考えてない…。頭の中で焦る。とにかく立たないと、ととりあえず立つ。


「え、と、加賀美真生です…お願いします」


少し早口で言い終えて、座る。自己紹介なんて普通のことなのに心臓がドキドキする。周りを見てみたが誰も気にしているような人なんていない。マスクをとることには成功したけれど、周りを気にしてしまう癖はまだ消えないらしい。

 ふう、と小さく息を吐いて落ち着かせていたら、右斜め前の人が立った。私がわたわたしている間に結構進んでいたらしい。ここからはちゃんと聞こう、と右斜め前を見る。顔の下半分が、マスクで覆われていた。まあ、この時期なので、マスクをしている人なんて珍しくはない。


 「佐倉(さくら)(しん)。よろしく」


 あっさりした挨拶だなと思ったけれど、そういや自分も似たような挨拶をしたなあ、と思う。そこから、順調に挨拶をしていき、自己紹介は無事終わった。

それから授業の日程確認や教科書販売の確認など、とにかく確認作業が多かった。聞きこぼれのないように少し集中して聞いた。入学初日はそんなこんなで終了した。

次の日から早くも授業が始まった。と言っても最初なのでレクリエーションが主だった。英語の授業のレクリエーションでは隣の人と英語で自己紹介をしましょうという名目通りに隣の人と自己紹介をしあった。こんな感じで入学してから二日間はなんだかあわただしく過ぎていき、あっという間に三日が過ぎた。私はまだクラス内の誰とも、ちゃんと会話をできていない。ほんの少し、焦っている。周りの子達がどんどんグループを作り出しているのを見ると、やはり焦ってしまう。


「キナコー。どこー??キーナ―コー!」


びっくりした。何だろう。キナコって何だ。

声のした方に向かってみる。その間にも、声の主は「キナコ」を探している。私の家とは違う方向に延びた道があった。私はその先に行ったことはないけれど、声はその道の先から聞こえる。道は道だし、困ってるみたいだし。と言い聞かせて私は進んでいく。見知った制服が見えた。肩までの綺麗な黒い髪が風に揺れている。

こんな感じのこと、前にもあったような…。あ、同じクラスの有本さんだ。何探してるんだろう。声をかけようか迷ったまま、少し様子を見ることにした。もしこれで声をかけて、向こうが覚えてなかったら気まずいし…。そんなことを考えながら様子を見ていると、ふと目が合った。しまった、目が合ってしまった。


「あ、ねえ!!かがみさん!!!私、同じクラスの有本鈴子なんだけど、お願いしたいことがあるのー!!!」


どうしようと慌てていたら、名前を呼ばれて驚いた。三日しか経っていないのに、もう名前を憶えたんだろうか。驚いていても仕方ない。向こうは丁寧に自己紹介までしてくれてんだし。私、名前呼ばれちゃったし。


「は、はい!!!」


小走りで有本さんのもとに駆け寄る。よく見たら有本さん制服が汚れているし、髪の毛もぼさぼさだ。よほどのことがあったんだろう。


「私ね、猫と、おばあちゃんと暮らしてるの!でね、その飼ってる猫がいなくなっちゃったの!!一緒に探してもらえないかな??」


顔の前で両手を合わせて、お願いされる。


「え、う、うん、分かりました!


勢いに押されて私は話したこともないクラスメイトと猫を探すことになった。三毛猫の雌。まだ一歳で、小さい子らしい。教えられた情報をもとに、手分けして、三毛猫を探した。探し始めて三十分。三毛猫らしき猫を見かけたので、もしかしたらと思い、追ってみる。古いけれど、しっかりとした民家に入っていった。私は急いで、有本さんに連絡をした。先ほど、見つけた時にすぐに連絡をとれるようにと、交換したのだ。有本さんはすぐに来た。私を見つけてからすぐに猫が入っていった民家を見て、安堵の表情を浮かべた。


「キナコ、お家戻ったんだ…よかった、お外出るの初めてだから心配した…」


ということは、このお家、有本さんのお家ってこと?大きいお家だなあ。

そんなことを思っていたら、お礼がしたいから上がって、と言われて断る間もなくお邪魔する形になってしまった。外見同様にしっかりとした造りの玄関だった。広い廊下が真ん中にあって、その両端に部屋がある造りになっていた。部屋に通される前に、一緒に住んでいるというおばあさんに挨拶をした。おばあさんが使っている部屋までは、縁側を通る必要があった。大きな窓から日の光が降り注いでいて、とても気持ちがよかった。普段からよく使っているみたいで、よく二人と一匹で光合成ごっこをしているらしい。日向ぼっことどう違うのか気になったけれど、聞かないことにした、仮に違いがないとしても、光合成ごっこの方が楽しそうだ。


「おばあちゃん、ただいま」


部屋の外から声をかける。有本さんのおばあさん、どんな感じなんだろう。中から声がして、有本さんが襖を開けた。正面にその人はいた。白い髪を後ろで一つにしている。随分若く見えた。耳についている青色のピアスか、それともイヤリングかは分からないけれど、日に当たって綺麗に光っていた。


「すず、おかえり。キナコは見つかったかい」


思ったよりも低い声だった。有本さんと同じで、まあるい目をしていた。けれど有本さんとは違う雰囲気を感じる。


「そちらの子は、友人ができたのかい」


おばあさんの目が私をとらえた。少し怖く感じて、身構える。雰囲気の違いが分かった。目が鋭いんだ。表面の肌を通り越して、いきなり骨の髄まで見られているように感じる。そんな怖さがある。私は身構えながらも、答える。


「あ、あの。有本さんと同じクラスの者です…」


そう答えてから名乗ればよかったんじゃないかと思った。隣から笑い声が聞こえた。有本さんが爆笑していた。ふと見ると、おばあさんまで笑っていた。


「ふ、あははははっ。おばあちゃんこの子はね、同じクラスの友達の加賀美真生さん、キナコを探すの手伝ってくれたんだ」


有本さんがニコニコで私の肩に手を置く。私が何か反応をする前に有本さんとおばあさんが会話を始めてしまった。私が入る隙など無く困っていたらそれを察したのかおばあさんがこちらを向いた。やはり目力に緊張する。


「加賀美さんといったね。今から飲み物を出すから少し寄っていきなさい」


断るのも申し訳なくて、小さな声で返事をしてから有本さんの横に小さくまとまる。有本さんは膝元にいるキナコを可愛がっていた。顎や耳の後ろなどを撫でている。そのたびにキナコが喉を鳴らす。隣で小さくまとまっている私のことなんかきっと眼中にもない。

私は静かに葛藤していた。撫でたいに駆られている。私も撫でていいかなとか何か声をかければ済む話なのだろうけれど、ほとんど話したことがないクラスメイトだ。有本さんは友達だと言ってくれていたけれど、おばあさんに説明するのがめんどくさかったのかもしれないし。

悶々と一人で考え込んでいたら、肩をちょんちょんとつつかれる感触があった。閉じていた目を開けて、つつかれた方向を見る。有本さんが微笑んでいた。


「ねえ、触る?」


キナコを顔の前まで持ってきて触りやすくしてくれる。もしかしたら私、駄々洩れだったのかもしれない。声に出ていたとか…。

しょうもないことを考えている間にも、キナコをもって待っていてくれる。


「い、いいの…?」


恐る恐る聞くと、もちろんと頷いてキナコを渡してくれた。ふわふわの毛並みが鼻に当たってくすぐったい。あたたかくて柔らかい。自分の膝の上に置いて、有本さんがやっていたように顎や耳の後ろを撫でてみる。人なれしているのかすぐにゴロゴロと喉を鳴らし始める。さらに、ぐでんと横になり、お腹まで見せてくれた。


「わ、めずらし!キナコがお腹まで見せるなんて!!加賀美さん猫飼ってる?」


横から覗き込んできた有本さんはその距離のまま、私の方を見る。私は首を振る。


「ううん、うちペット禁止だし。お母さんがアレルギーだから飼ってないよ」


そう。だから飼えない。でも私は猫が好きなので街中で猫を見るとつい撫でに行ってしまう。その成果があったのかもしれない。


「猫、好き?」

 「うん、すき…!」


 有本さんの質問に答えると有本さんは、ニコッと笑った。


 「じゃあ、うちに来たらいいよ」


 まさかの提案だった。戸惑いとうれしさがこみ上げてくる。だけど有本さんの顔を見て、戸惑いが消えた。


 「いいの!?」

 「友達だもん。当たり前だよ。それに、猫好きに悪い人はいないからね~」


 友達という久々に聞いた言葉に感動していたら、襖が開いた。おぼんにジュースとお菓子を持ったおばあさんが現れた。有本さんがそれを受け取る。おばあさんは私を見て、ほんの少し笑ったように見えた。


 「鈴子を頼んだよ。加賀美さん」


 さっきは、すずと呼んでいたのに、今はしっかりと鈴子と呼んだ。迫力に押されて頷く。呼び方が違うことに何か理由があるのだろうか。私が考えている間におばあさんはサッと部屋から出て行ってしまった。友達初日の私が聞いていいのかと悩んでいたら、その日はキナコを撫でて、少し有本さんと話をして終わった。

 



 「加賀美さん。診察室へお入りください」


 聞きなれた声が私を呼ぶ。ノックを三回してスライド式のドアを開ける。見慣れた白い部屋が目の前に現れる。白衣を着た先生に挨拶をしてから、椅子に座る。


 「まおさん。こんにちは。少し待たせてしまったね、疲れたでしょう。ごめんね」


 原田先生は、椅子を半回転させてパソコンから私へと身体を向けてくれる。ここ一か月の調子、様子などを細かく丁寧に聞いてくれる。もう十回目の精神科。私の症状はかなり良くなった。と自覚があるし、先生もそう言ってくれた。


 「さて、まおさん。この間のお話は覚えているかな」


 数十分診察をしてから、先生が口を開いた。私はもちろん覚えていたので頷く。私は今日、この話をしに来たといっても過言じゃない。


 「まおさんがどうしたいかを聞きたいな。一緒に考えていきたいよ」


 原田先生は出会った時から変わらない。世の中の精神科医がどうなのかは分からないけれど、先生は最初からずっと、『私自身がどうしたいか』を最優先に話をしてくれる。そうして私の意見を尊重しつつ、自分の意見も混ぜ込みながら一緒に考えてくれる。一緒に悩んでくれる。私はその先生の姿勢に、何度も助けられてきた。正直、ずっとこうでいいんじゃないかとも思った。精神的に落ち着いて、学校に通えるようになったのも眠れるようになったのも、先生と出会えたからで。どうしたいかを、どうするかを一緒に考えてくれた先生がいたからで。もうこれは依存に近いんじゃないかとも思う。私がこのままを望めば先生はまた、どうしたらいいかを一緒に考えてくれるだろう。今一番いい選択肢を一緒に探してくれるだろう。そして私はそれに甘えるんだろう。そうなってしまうんじゃないかと、簡単に想像ができてしまう。だからだ。だから私は、しっかり考えた。今一番どうしたらいいのかを。


 「私は、通うのをやめようと思っています」


 緊張からかしっかりと声が震えた。だけど、伝えたいことは伝えられた。私は目の前の先生を見る。


 「うん、まおさんならそう言うんだろうと、思っていたよ。正直最近のまおさんは少し依存気味だったように見えたから、心配だったんだ」


 さすがはプロだと思った。ちゃんと見られていた。ちゃんと見透かされていた。けれど、ちゃんと見てくれていた。


 「ちゃんと自分で選んだ選択だ。すごいよ」


 子供扱いではなくて、本当に心からの言葉なんだと思った。嬉しくて、思わず泣いてしまった。いや、実際は嬉しかっただけじゃない。悲しくて、寂しかった。初めて来たのが中学三年の十月。そこから今が高校一年の七月。たったの九か月。それに加え、基本的に通院は一か月に一回。十回会うか会わないかだ。それだけのはずなのに、すごく濃く感じる。

 きっとそれは、私が毎回救われていたからなんだと思う。一か月に一回だけだとしても私のまとまらない話を、ちゃんと聞いてくれてまとめて、解決策や代案を一緒に考えてくれて。ほかの人からしたらそれだけで?と言われるかもしれないけれど。それだけで、それだけで私は救われていた。だからこそ、この決断は勇気を出しての決断だ。このまま精神科に通い続け、毎月話を聞いてもらって、気持ちを楽にさせることもできたと思う。楽なままでいられたとも思う。そうやって今を生きている人たちだっているんだと思う。そういう人たちを否定する気はないし、私なんかが否定できるわけない。これは私が私に下した決断だ。


 「まおさん。今日できっと最後だ。だから言うよ。自分の心や体をどうか大切にしてほしい。すごく難しいことだ。できる人なんかなかなかいない、僕だってできていない。ただ僕はね、自分の命だけは何が何でも最優先にしている。命さえあれば、生きてさえいればどうにだってなる。これから先、自分の心や体を大切にできなくなったとしても、自分の命だけはどうか最優先にしてほしい。できなくなりそうだったら、此処に来たっていい。その時周りにいる人を頼ってもいい。君はきっとこれからたくさんの人に出会うよ。生きることをやめてしまわない限り、出会いは続くんだから。僕はこれから君の人生の過去になる。僕と出会ってくれてありがとう」


 先生はそう言い終えると、お疲れさまでしたと言った。私は椅子から立ち上がり、ありがとうございましたと言い、診察室から出た。受付に行き、診察を終えたことを告げて、いつものようにファイルごと渡し、会計で呼ばれるまで待つ。

 スマホを取り出して、通知を確認する。すずちゃんからの連絡が来ていたので返す。


 「佐倉さん。診察室へお入りください」


 聞いたことのある名前だな、くらいだった。ただここら辺では聞いたことがなかったから、他にもいるんだなくらいで、顔を少し上げた。

 私が座っているところから四つ前の席の人が立ち上がった。背格好が、何となく似ていた。そのことに少しドキリとする。鞄を持つために少しこちらからでも顔が見えた。顔半分を覆い隠すマスク。さらっと揺れる前髪。その下から除く目。片目しか見えなかった。だから確信ではない。だけど、似ていた。入学から三か月が経った今も誰とも話さず、お昼には必ず早退をするため、誰もマスクの下を見たことがない彼に。

 秘密を見た気がした。おそらく誰も知らない彼の秘密。ほんの少し高揚感に浸っている自分がいた。少し浮き足だった感覚で会計を済ませて、本当に彼だったらと考えながら家路につく。


 「なんで私、こんなに気になってるんだろ」


 自分の部屋に入ってから暫くして、ふと思う。対して話したこともないクラスメイトの秘密を知ったからといって、特に何かあるわけでもないだろうし。そもそも、名前が同じで似ているだけの可能性だってあるんだし。

 うーんと首をひねっていると、一階からお母さんの声がした。お風呂が沸いたから入って、とのことだ。とりあえず考えるのをやめて、お風呂に向かった。そしてお風呂に入りながら、次学校で会った時にでも聞いてみようかなという考えに落ち着いた。



 「おはよ、まお」

 「おはよう、すずちゃん」


学校に行く途中ですずちゃんと合流して歩く。今日はいるかなあと思いながら歩いていると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。


「まおさん、今日はなんだかご機嫌ですねえ」


顔に出ていたのかもしれない。すずちゃんがからかいモードに入りそうになっている。危ない危ない。


「なんでもないよ~。今日のお弁当何かなって考えてただけ!」


すずちゃんの追撃をかわしながら学校へと向かった。

私もすずちゃんも部活には入っていないので、登校時間は割と遅めだ。というか遅刻ギリギリが常だ。そんなことだからクラスはもう全員揃っていることが多いんだけど。


「あれ、いない」


肝心の彼の席は空だった。遅刻かなと思ったけれど来なかった。先生も、「佐倉は休みな」としか言わない。次の日もその次も。彼が姿を見せなくなってから一週間がたった。さすがに休みすぎじゃ、と思い、先生に聞いたけれど個人情報のため詳しいことは何も教えてもらえなかった。もう来ないのかなと思っていたらその次の日。相変わらず遅刻ギリギリに教室へ駆け込むと、約一週間ぶりに席が埋まっていた。というか、数人が席を囲んでいて、肝心の人物は見えなかった。知らない間に友達ができたのかと思ったけれど、それにしては様子がおかしい。


「おい、おまえ。聞いてんのかよ、なあ」


遠巻きに眺めていると、クラスの中では中心にいる柴くんが声を荒げた。


「見てるこっちが暑くて仕方ねえんだよ。半袖の時期だろ、久々に学校来たから教えてやってんのに、無視してんじゃねえよ!」


あっと思った時には遅かった。無視されたのが癪に障ったのか、柴くんが佐倉くんにつかみかかった。佐倉くんも抵抗したが数秒、柴くんが早かった。ブチっとボタンが飛ぶ音がして、ほんの少し悲鳴らしきものも上がった。柴くんと佐倉くんがつかみ合ったことで悲鳴が上がったのかと思っていたけれど、違った。佐倉くんの周りにいる人達のものだった。柴くんもその周りを囲んでいた男子たちもなぜか黙りこくっている。私はどんな状態なのか知りたくて、人と人の間から覗いてみた。そうして悲鳴、その後の沈黙の理由が分かった。


「もうこれで分かっただろ」


静かに制服を着なおして、それから教室を出て行った。朝礼のチャイムが鳴るも、しばらくはほとんどが動けずにいた。先生が来て、声をかけられるまで私も動けなかった。

ほんの一瞬。見えた。細い身体。そこに無数に散らばる痣。模様のように幾度も重なってできたような痣。それを見た瞬間、既視感みたいなものを感じた。胸の奥がざわざわする。見たことがある、気がした。お腹や背中。服で容易に隠せてしまう場所にあった痣。


 


 その日の夜。久しぶりに夢を見た。私ではない女の子目線の夢。顔の見えない誰かから酷く殴られる夢。こぶしや、そこら辺にある木で殴られる。私目線でないことが分かったのは、記憶になかったからだ。でも、女の子を通して見る周りの様子は何となく見たことがある気がした。声は聞こえなかったけれど、殴ってくる相手はいつも女の子に何かを言っていた。怖かった。逃げ出したかったけれど、動けるのは女の子だけで、私の意思じゃどうにもできなかった。殴られて、殴られて。夢の中で女の子が意識を失ったところで目が覚めた。起きた時に汗がぐっしょりで、気持ちが悪かった。休日だったので、シャワーを浴びた。久しぶりに寝覚めが悪かった。お母さんの用意してくれた朝ごはんも食べられなかった。お母さんが何か言いたげだったけれど、何か聞かれる前に部屋に籠った。心臓がドキドキと悪い感じが続いている。とにかく気持ちが悪い。何か思い出しそうな感じがある。

 コンコンコンと三回ノックが聞こえた。誰だろう。凪斗は出かけているしお父さんは確か車いじりをしているはずだし。お母さんは庭をいじっているだろうし。


 「まお、入っていいかしら」


 お母さんだ。お母さんだ。


 「お、おかあさ、ん、どうしたの」


 ドアを開けてお母さんと向かい合う。立ち話もなんだし、というお母さんの提案で私の部屋で話すことになった。お母さんと私の部屋で話すのは、初めてだった。それにちゃんと話すのは本当に久しぶりだった。だからすごく緊張した。


 「まお、何かあった?」


 お母さんは私の目を覗き込んで、しっかりと目を合わせる。私はそうされると、逃げられない。私もお母さんと目を合わせてから言う。


 「なんでわかったの、お母さん」

 「何年あなたのお母さんしてると思ってるの。気づくわよ、それくらい。それに今度は早く対処した方が、きっとまおにとってはいいでしょう」


 驚いた。お母さんはこんな人だったか。分からない。私が見えていなかっただけかもしれない。


 「夢を、見たんだ」

 「夢、ね。どんな夢かは聞いていいのかしら」

 「夢の内容は、お母さんが知ってるかもしれない。私もなんだか見たことのある内容だったから…」


 少し沈黙が流れる。私は少し考えてから話す。


 「誰か分からないけど、女の子だった。その子目線で話が進んでいくの。誰かに殴られていて」


 お母さんが小さな悲鳴みたいなものを溢した。ふとお母さんを見る。青ざめていた。それに小さく震えている。


 「お、おかあさん…?どうし—」

 「ご、ごめんなさい、ごめんなさ、おかあさ、ごめっ」


 見たこともない顔で震えて小さくうずくまっている。私が混乱している間も、お母さんは震えて「ごめんなさい、おかあさん」を繰り返している。

 おかあさんが、おかあさんと言ってる…。それっておばあちゃんのこと?


 「こより。こより」


 いつの間にかお父さんが部屋に来ていた。お母さんの名前を呼びながら静かにうずくまっているお母さんの横に座る。それから背中に手をまわしてさする。


 「こより、大丈夫だよ。もう居ないよ、大丈夫」


 その間にもお母さんは息を荒くしている。もうほとんど過呼吸になっている。そんなお母さんをお父さんは、優しく介抱している。大丈夫大丈夫と声をかけ続けている。

 何が起こっているのか分からない。だけど、お母さんにはきっと何かがあって、それをお父さんは知っている。

 しばらくしてお母さんが落ち着いたのを確認して、お父さんが私に部屋からお母さんを連れて出て行った。


 「まお、このことは気にしないでね」


 お父さんが、小さく笑ってそう言った。多分私が不安にならないようにしてくれたんだと思う。


 私の夢と、お母さんが何か関係しているんだろうか。



 悶々としていたら、夜になり、朝になった。今日は学校なので行かなければいけない。お母さんはあれ以降、いつも通りになっているように見える。お父さんもいつも通りに見える。


 「行ってきます」


 


加賀美小和 過去


 物心ついた時から、わたしはお母さんが怖かった。一日の中でお母さんは何度も気分が変わる。数分前に機嫌がいいと思っていたらすぐに機嫌が悪くなったり、泣き出したりした。まるで小さな子供みたいだった。「わたしの言うことが聞けないなら出ていけ」と殴った後は必ず、「ごめんね、ごめんねぇ。私はこよちゃんがいないと生きていけないの。だから出ていかないでね」と泣き出した。と思ったら「お前がいるせいでわたしは結婚できなかったんだ。お前なんか死んでしまえ」と水を張った容器に何度も顔を押し付けられた。殺されるかと思った。毎日今日こそは殺されてしまうんじゃないかと、怖くて泣きながら家に帰った。だけどあの頃のわたしは、嫌でもあの家に帰るしかなかった。殺される恐怖と戦いながらも生きるには、帰るしかなかった。

 お父さんと呼べる人はいなかった。代わりに男の人が毎日家にいた。それも毎日違う人だった。その人たちも様々で、お母さんと言い争っている人もいれば、愛し合っている人もいた。だけど大抵はどんな人も、二回目に来るのを見たことがなかったので、お母さんとそりが合わなかったのか、単に別れたのか。それともわたしの存在を知ってか。理由は分からないけれど、長くは続かなかったことは確かだ。


 お母さんはわたしが「お母さん」と呼ぶことを極端に嫌がった。間違えて呼ぼうものなら気絶するまで殴られ続けた。こぶしで殴られるのはまだよかった。フライパンや包丁を出されたときは本気で死を覚悟した。フライパンが凹むほど殴られたときはこのまま殺されるんだと悟った。包丁が左の太ももをかすめて、傷口がパカっと開いて血がドバドバ出てきたときは、意外と落ち着いていた。人間こんなに血が出るんだなと感心していたくらいだ。焦って救急車を呼んだのはお母さんだった。


 「すみません、料理でよそ見をしていたら」


 というようなことを必死に伝えているのを見て、人って怖いんだなと学んだ。目に涙まで溜めていた。それが小学校四年のことだ。中学生ともなると、もう諦めていた。家に帰るたびに増え続ける痣も、知らない男の人の匂いも。お母さんの派手な格好も。どうでもよかった。そのころからは自分で料理をしていたので冷蔵庫に材料があれば食べるものにも困らなかった。お母さんの機嫌がいい日は一緒に食べたりした。機嫌が悪い時は料理はひっくり返され「お前、誰の金でこんなもの作ってるんだ」と怒鳴られ、髪をつかまれて這いずりまわされた。それでもわたしは生きることに執着した。生きて生きて、いつかお母さんをお母さんと呼んでいい日を待ち望んでいた。どんなに殴られても蹴られても殺されそうになっても。わたしはお母さんが好きだった。


 機嫌がものすごくいい時に作ってくれる甘い卵焼き。わたしはそれが好きだった。大体はお酒に酔って上機嫌なときだったので、毎回味が微妙に違っていたし、真っ黒になったこともあったけれど。それでも砂糖たっぷりなところは変わらなかった。わたしが唯一知る、『お母さんの味』だった。わたしも何度か作ってみたことがある。それこそ、料理をするようになったのも、初めて作ったのも砂糖のたっぷり入った卵焼きだった。初めて作った時は形は変だし、真っ黒になるしで全然うまくいかなくて、泣きながら食べた。真っ黒に焦げてはいたけれど、ちゃんと砂糖の甘さがあって、そこだけはお母さんのと同じで泣きながら食べた。しっかり甘くて、だけどほんの少ししょっぱかった。


 けれど、高校に入ると、わたしにも反抗期がきた。殴ってくるお母さんに対抗して殴り返したこともあった。倍で殴られるだけになってからはもうしていないけれど。

 それに毎日家に連れ込んでいる男の人の目つきも変わった。わたしがいることを知った人たちは二回、三回と家に来るようになった。二階に上がるわたしを見る男たちの目が嘗め回すようにこっちを見ているのも分かっていた。だからお母さんに内緒で部屋に簡単だけど鍵を取り付けた。部屋に入るときも出る時も細心の注意を払って過ごしていた。そのせいで自分の家なのに、毎日疲れ切っていた。


 高校三年の秋。家に帰るや否やお母さんに殴られた。倒れたわたしの上に馬乗りになり、髪をつかみ涙まで零している。


 「お前のせいだ!!お前のせいで私はいつまでも不幸なんだ!!!」


 そんなことを叫んでいた。後で少し落ち着いた時に話を聞いたら、順調に交際していた人が、実はわたしのことが好きで紹介してくれと言われた、と泣きながら言われた。そこからまたヒートアップして二時間殴られた。ボコボコに腫れた顔じゃ学校にも行けなくて、その週は休んだ。こんな感じに休んでいるせいで出席日数はギリギリだった。教師からも言われていたけれど、教師は信用ができなくなっていた。


 「教師なんて自分らが出世できるようにしか働かない」

 

小さなころから言い聞かされていたせいだろう。小学校も中学校も高校も。わたしが痣だらけ、顔を腫らして登校するので、何かあったんだと聞いてくる教師たちには嘘を言って誤魔化した。誰のことも信用なんてできなくなっていた。どうせ裏がある。どうせ信じられない。そう思い込んでいた。何も信じられなかった。

 ただ高校は出ておきたかった。高校を出て家からも出たかった。この人といるからわたしはダメなんだ。お母さんはわたしといるから不幸になってしまうんだ。と思っていた。あの頃のわたしは本気でそう思っていた。実際、どうだったかは分からない。わたしはお母さんと離れても誰も信じられなかったし、襲ってくる恐怖もなくならなかった。何度も何度もお母さんに殴られる夢を見た。一時期は錯覚さえしていたと思う。いつお母さんが怒鳴り込んでくるか、気が気じゃなかった。やっとの思いで就職した会社もあまり行けなくなり、入社一年でやめてしまった。夜になると怖くて、上手く眠れなくなった。お母さんの怒鳴り声や泣き声など、普段聞いていた通りに頭の中で再生される。耳にこびりついているらしいその声は本物のようで、わたしを苦しめた。その恐怖から逃げるようにお酒を飲むようになった。毎日、酔って記憶がなくなるまで飲んで無理やり眠った。現実からとにかく離れたかった。どんどん襲ってくる恐怖をお酒を飲んでやり過ごした。そうでもしないと、生きていられなかった。

 そんな日々を繰り返していたら当然、体はぼろぼろになった。それにお金もなくなりそうだった。これだとやばい、生きていられなくなる。と思った。こんなんになってまでわたしは、生きることに執着していた。生きることは絶対にやめたくなかった。すがるように募集中だったカフェに面接に行った。そこで出会ったのが、今の夫・加賀美(かがみ)(しゅう)だった。見た目なんかボロボロでとてもじゃないが接客業なんてできる容姿ではなかった。それなのにわたしを一目見たその時店長だった夫が、なぜか何も聞かずに採用してくれた。自営業のカフェで、人手が欲しかったから助かったよ、と言われた。その次の日からわたしはそこのカフェ『(よる)(すみ)か』で働くことになった。そのカフェは通常のカフェではなかった。夜にだけ開く『夜が怖い人、眠れない人限定』のカフェだった。ちなみに募集要項は『夜が怖い人、眠れない人』と書いてあった。わたしは眠れないわけではなかったけれど、夜限定に惹かれた。夜にどんな人が来るのかすごく、興味があった。


 開店は、夜九時。閉店は、朝五時。

 とにかく色々な人が来た。高校生くらいの人や、同い年くらいの人、中年のおじさんなど。夜に眠れない、怖い人がこんなにもいることに驚いた。来店した人はそれぞれの時間を過ごしていた。おかわり自由のドリンクを飲んで本を読んでいる人や、音楽を聴いている人など。本当に色々な人がいた。

 わたしはカウンター係で来店した人たちの注文を承っていた。最初は注文を受けるがその後はそれぞれなので、大して忙しくはない。店内のお客さんがそれぞれに過ごしている様子をカウンター内から見ていた。店長はというと、同じくカウンター内に居たけれどコーヒーをつくっていた。コーヒーのいい香りが店内にずっと充満していた。


 「こよちゃん」


 店長はわたしのことを出会ってからずっと、こよちゃんと呼ぶ。その時わたしは二十四歳で、「こよちゃん」と呼ばれるような歳ではない。それにその呼ばれ方をされると、お母さんのことを思い出してしまう。


 「店長、その呼び方やめてくださいって言ってるじゃないですか。苗字にしてください」

「えー、でも君の苗字かわいくないからなあ」


 苗字にかわいいもかわいくないもないと思うけど。確かに私の苗字は珍しいとは思うし、漢字もかわいくはないと思うけれど。


 「こよちゃんは、自分の苗字が嫌いなの?」


 店長とはこうやって話すことがよくある。お客さんがそれぞれに過ごしてくれてるのもあって、結構暇なのだ。


 「きらいなのは、名前の方ですよ。小和なんて名前ババ臭いじゃないですか」

 「ええー、なんだ。嫌いなら僕とおそろいの苗字になりませんかって言おうと思ってたのになあ」


 この人はこういうことを簡単に言う。何回目かになるプロポーズをわたしはスルーする。最初にしてきたときは驚いた。出会って二時間後だった。わたしの何が良かったのか。それとも単にからかっているのか。未だに分からない。


 「ねえ、こよちゃん、いい加減に答えてよー」

 「何も知らない人となんて結婚できません。ていうかわたしは結婚願望なんてありませんから」


 わたしは誰とも一緒になんてならないしなりたくもない。それと同時に、一緒になってはいけないと思う。きっとわたしが誰かと一緒になってしまったら、お母さんと同じことを繰り返してしまうような気がしている。それに何かで読んだことがある。『過ちは繰り返される』と。わたしはきっと繰り返してしまう。だから誰とも、一緒になんかならない。誰のことも信じられない。

 わたしにプロポーズしてきたこの人のことだって、わたしは信じられていない。


 「こよちゃんはさ、過去に何があったの。このお店に来る人は大抵夜が怖いって言うんだ。こよちゃんも、そうなんじゃないの?」


 だからこの店に応募してくれたんじゃないの。と聞いてきた。いつものふわふわとは違って、少し落ち着いた様子だった。そこだけは年上なんだなあとは思った。この人の、この感じが苦手だ。調子が狂う。


 「そんなの、店長には関係ないじゃないですか。わたしのことだっていつまでもからかうのやめてくださいよ」


 つい、大きな声を出してしまった。ハッとして周りを見渡すと、数人のお客さんがこちらを見ていた。すみませんと謝って少し落ち着くために裏に引っ込んだ。


 「ごめんね、こよちゃん。からかってるわけじゃないよ。本気だよ。僕は本気で君と結婚したいと思ってるんだよ。一目ぼれしたんだ」


 ふう、と息を吐いて店長と向き合う。少し癖のある髪に丸眼鏡。かっこいいと言われる部類だろう。それにしても一目ぼれなんてどういうことだろう。あの時のわたしは自分でもわかるくらいに酷い恰好をしていたのは分かっている。まともに食べていなかったし、お風呂だってちゃんと入っていなかった。メイクもしていなかったし、肌もぼろぼろだったはずだ。自分で言うのもなんだけど、一目ぼれする要素なんてどこにもなかったはずだ。


 「信じてないでしょう。本当なのになあ。そうだ、急に結婚なんて言うから現実味がないんだね。じゃあ、」


 わたしとしっかり目を合わせてから、言う。


 「僕と、結婚を前提に付き合ってください」


 


 夫との出会いは大体こんな感じだ。わたしが押されに押されて、付き合って結婚した。そうして、過ちを繰り返したんだ。あの日、あの場所に行ってしまったから。


 高校を卒業してから結婚して五年。合わせると、十一年間。わたしはお母さんに会っていなかった。会いたくなかった。それなのに私は結婚して五年後、実家に帰った。四歳になる真生を連れて。理由は親戚の法事のためだった。親戚の人たちがたくさん来るし、お母さんも六十を超えてもうすぐ七十になるからもう人を殴れる体力なんてないだろうと、思っていた。


 お母さんはちっとも変わっていなかった。感情の起伏が激しいのもすぐに手を出そうとしてくるのも。わたしは極力、親戚の中にいることに徹した。お母さんと二人きりにならなければ殴られることはない。

 失敗したのはトイレに立った時だった。親戚のいる部屋とは離れていて、話で盛り上がっている部屋にはきっと声も聞こえない。

 トイレから出たところを殴られた。お母さんは何かに怒っていた。


「結婚をしたくせに挨拶も来ないなんて何様だ。誰がお前をここまで育てたと思っているんだ。何様なんだよ、お前。せっかく育ててやったのに」


そう言われてやっと気が付いた。お母さんはわたしが挨拶に来なかったことを怒っているんだ。夫は挨拶をしたいと言ってくれたけれど、わたしが会いたくなかった。そのわがままを許してもらったのだ。

 久しぶりにボコボコに殴られた。だけど親戚がいる手前、顔は一切触れてこなかった。相変わらず、賢い人だった。賢くて、ずるい。三十分程度、かなり殴られた。罵声らしきものも浴びせられたけれど、何を言っているのかを聞き取る気力もなかった。

 三十分程度で解放された。思ったよりも短い時間だった。親戚たちが集まっている手前、そんなに長い時間殴ることもできなかったんだろう。殴られ続けた体が痛む。この様子じゃあ暫くは治らないだろう。多分お風呂に入るたびに傷口に沁みて悶えることになるだろう。



 また思い出してしまった。しばらく思い出してもなかったのに。まおから夢の話を聞いたからだろうか。どうしてまおがあんな夢を見たんだろう。まさかあの時、まおが居た…?いや、そんなはず。いや、でも。


 「こより、調子はどう?」


 ノックとともにドアが開いた。夫の柊だった。


 「うん、大丈夫よ。ごめんなさいね」

 「いいんだよ。それにしてもあんなになるなんて、結婚した当初以来じゃない?なにか、あった?まおの部屋にいたのも気にはなるけど」


 出会った当時からこの人は変わらない。ふわふわしているくせに急に落ち着いた様子になる。そして怖いくらいにわたしのことを見透かすんだ。この人に隠し事はできない。


 「まおが、夢を見たらしいの。その夢が……なぜか私の記憶と似ていたの。それもすごく。……わたしの、記憶なんじゃないかって、くらいに……似てて」


 これ以上話すとまた思い出してしまいそうになる。忘れられたと思ったけれど、まだ根強く私の中にこびりついているらしい。


 「……まおが、その夢を見たのは、こよりの記憶ではないさ。誰かの記憶がほかの人の記憶となって夢に出てくるなんてことは、ありえないと思う。だからまおの夢は、多分ちゃんとまおの記憶だ。まおは見てしまったんだと思うよ、あの時のことを。そしてそれがどうしてか今になって夢として出てきたんだ」


 まおとちゃんと話してみよう。もう繰り返したくない過ちがある。もう二度とわたしと同じような思いをさせたくない。いや、させないと誓ったのに、わたしは、


 「こより。大丈夫だ。まおは賢いよ。だから大丈夫。話せる時でいい、僕も向き合うよ。多分、向き合わなきゃいけないんだ」




加賀美真生


 お母さんのことが気になってはいるけれど、理由を聞けないまま二週間が経った。お母さんもお父さんも、あれから普通に過ごしているように見える。



 「まお。今日の夜に少し時間もらえるかしら」


 学校へ行こうと玄関を開けると同時に、お母さんがそう言った。私はドアノブをつかんでいた手を放して、お母さんの方を向く。


 「う、うん。わかった」


 お母さんは私の返答を聞いて、小さくいってらっしゃいと告げた。私も行ってきますと返して、今度こそ玄関を開けた。


 「まお、おはよう」

 「わ、すずちゃん。おはよう」


 いつも通りの場所ですずちゃんと待ち合わせてから学校に通う。この時間にここだと、遅刻ギリギリだろう。


 「……まお、なにか、あった?」


 学校が見えてきたところで、すずちゃんが声をかけてきた。いつもならどうでもいいことを話しながらの登校なのに、私が黙っているからだろう。心配をかけてしまった。


 「え、ううん。なんにもないよ」


 私の声にすずちゃんは寂しそうな顔をしたのが見えた。見たことの無い顔だった。友達に話すには重い話だから、誤魔化すことにする。もしかしたら話せる時が来るかもしれないけれど、それはもう少し分かってからがいい。話すにも、きっとそっちの方がいい。


 「なにか、話せそうなら話してね。……待ってる、から」

 「うん、ありがとう」


 

 この日は、放課後すぐに家に帰った。話があると言われたのは夜だから、この間のことや聞きたいことをまとめておこうと思った。

 今日の夜は、ハンバーグだった。今回はお父さんのリクエストだった。お母さんの作るハンバーグはデミグラスソースではなくて、ケチャップだ。お母さんが作るデミグラスも美味しいんだろうけれど、私はこのハンバーグが割と好きだ。添えてある温野菜風のブロッコリーや、ジャガイモも野菜の甘みが出ていてとても美味しい。


 「まお、明日はあなたのリクエストの日だけれど。何か食べたいものはあるかしら」


 家では、凪斗→お父さん→私→お母さんの順で晩御飯のリクエストをすることになっている。

 ここ最近のご飯を思い出して、考えてみる。

 シチュー、焼きそば、肉じゃが、パスタ。そして今日がハンバーグだ。明日はあっさりしていた方がいいかな。と思いながら候補をあげる。


 「久しぶりにお刺身とか、最近は暑いから冷しゃぶとか…どうだろう」

 「わかったわ、考えておく」


 そこからは特に会話もなく、各々テレビを見る。


 ご飯を食べ終えて夜八時。お母さんに呼ばれてリビングに行くとなぜかお父さんもいた。いつもなら仕事の準備をしているのに。


 「お父さん、今日お仕事は?」


 席に座りながら斜め向かいに座ってコーヒーを飲みながらテレビを見ているお父さんに声をかける。お父さんはカフェをやっているらしい。夜にだけ開くカフェ。行ったことはないけれど、結構人が来ると聞いたことがある。


 「んー?今日は臨時休業。大事な用事があるからね」


 お父さんの言う用事はきっと、今日のお母さんとの話のことだ。普段ふわふわしているように見えるけれど、案外しっかりしているのを知っている。お母さんより五つ上だと聞いたことがある。


 「まお、ココアでいい?」


 キッチンに居たお母さんに聞かれて、頷いた。私は小さなころから夜はココアを飲む。もう習慣になっている。そのことをお母さんが覚えていてくれたことが嬉しかった。それにお母さんの作ってくれるココアは昔から変わらずにホイップ付きだ。この組み合わせはなかなかに美味しい。カロリーがとか気にしてなんていられない。このココアさえあれば私は明日も学校に行ける。

目の前に置かれたココアのコップには今日もホイップが乗っていた。


 「どうして、いつもホイップを乗せてくれるの??」


 お母さんに聞いたつもりだった。現にお父さんが淹れてくれるココアはホイップが乗っていない。それなのにお父さんが答えた。それもなぜか自慢げに。


 「ふふ、それはね、昔こよりが考えてくれたメニューなんだよ。これがお客さんに大好評でね」

 「もう、いいでしょう。また今度で」


 お母さんが少し照れているように見えた。初めて見る顔だった。お母さんはお父さんの前だとこんな表情をするんだなと思った。夫婦だからか、それとも心を通い合わせた二人だからだろうか。もしかしたら両方かもしれない。


 「まお、今日は話があるの」


 お母さんの声でふと我に返る。お母さんは真剣なような、少し強張ったような顔をしている。その隣のお父さんは、反対ににこやかな表情で私を見ている。


 「まお、わたしは……わたしはね、お母さんがこわいの」


 初めて見るお母さんの顔だった。先ほどよりも強張った顔をしている。テーブルの上に出ている手も少し震えているように見えた。そんなお母さんの肩にお父さんが手を置く。お母さんは、ハッとしてお父さんを、見た。お父さんが何か言おうと口を開いたけれど、お母さんが先に首を横に振った。お父さんはそれを見て、小さく頷いた。お父さんがお母さんの肩に置いていた手を、テーブルの上にあったお母さんの手に添えた。お母さんも小さく頷いてそれから、息を吸った。


 「わたしの、おかあさんは、わたしを殴ることで、生きがいを感じている人だったの」


 お母さんの言葉の意味が一瞬理解できなかった。

 殴ることで、生きがいを感じる……。どういうことだろう。


 私が考えている間にも、お母さんは言葉を続ける。


 「わたしは小さな頃からお母さんに殴られている記憶しかない。わたしの記憶の中のお母さんはまるで小さな子供みたいだった。感情の起伏が激しくて、怒ったと思ったら急に泣き出したり、機嫌がよくなったり。わたしは殴られる対象でしかなかった。お母さんはわたしのことを大事だと言っていたけれど、お母さんはわたしのことなんかどうでもよかったの。ただ都合よく殴れる対象がすぐ近くにいただけ。その証拠にお母さんはわたしが「お母さん」と呼ぶのをすごく嫌がったの。間違えて呼んだ時には気絶するまで殴られたわ」


 喉が、ヒっと鳴った。怖くて想像するのも怖かった。私の記憶の中のお母さんのお母さんはあまり覚えていないけれど、確か優しかった気がする。だからこそ、そんなことをする人には見えなかった。人は見かけによらないとはこういうことなのかと、思った。


 「わたしの毎日は、生きることに必死だった。わたしは気が付いたら生きることに執着するようになった。お母さんから早く離れたくて、高校を卒業と同時に県外に引っ越したわ。だけど結婚して五年たった時、まおは確か四歳の時ね。親戚の法事があるから来いって呼ばれて、まおを連れて行ったの。多分まおの夢の中に出てきたのは、小さい頃のわたし。どうしてわたしが小さかった頃の記憶がまおの夢に出てきたのかは分からないけれど。もしかしてまおは、あの時わたしが殴られているのを見たんじゃないかしら」


 小さかった私の、記憶。四歳の、おばあちゃんの家で……。

グワッと記憶の波が押し寄せてきた。走馬灯みたいに頭の中を記憶が埋め尽くしていく。人間、覚えていないようなことも案外覚えているものなんだなと、思った。


 私は確かに見た。あの時は確か、梅雨が明けたばかりで蒸し蒸しと暑かった。知らない人たちばかりで人見知りが今より激しかった私は、親戚だと笑う人たちが怖くて、誰もいない所に行きたかった。知らない土地で知らない人たちに囲まれて、疲れてもいた。お母さんを探して家の周りを歩いていた時、お母さんの後ろ姿が見えた。ホッとして駆け寄ろうとしたら、目の前に誰かが現れて、お母さんを殴った。白髪の短い髪の人が最初は誰なのか分からなかった。だけど、お母さんが最初に挨拶をしていたのを思い出して、それがおばあちゃんなのも思い出した。そこまで思い出して、子供ながらにおかしいことに気が付いた。


 どうして、おばあちゃんは自分の娘を殴っているんだろう…?


 その間もボコボコに殴られていた。どうしてお母さんは殴られているんだろう。何をしたらこんなに殴られてしまうんだろう。それにおばあちゃんは何か言っている。呂律が上手く回っていないのか、何を言っているかまでは分からない。けれど、それが人に向けて言っていいような言葉じゃないことだけは分かった。


 聞いているだけで体が震えるような言葉で―。


 「まお、まお」


 誰かが私の肩をつかんだ。ハッとして見るとそれはお母さんで。そこで自分が泣いていることに気が付いた。


 「まお、ごめん。こんなことになって。思い出させてごめん」


 抱きしめられた感触があった。一瞬何が起こったか分からなかった。誰に抱きしめられたのかも分からなかった。長い髪が頬に当たる。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。そこでやっとわかった。わたしを抱きしめていたのはお母さんだった。記憶上お母さんに抱きしめられたのは、これで二回目だった。柔らかい感触に包まれる。なんだか泣きそうになった。先ほどまでとは違う涙だ。どんな感情なのかは自分でも分からなかった。


 「おかあ、さん。大丈夫…?」

 「どうしてまおが、それを聞くのよ」

 「だってお母さん、泣きそうな顔をしてる」


 お母さんは言われて初めて気が付いたんだろう。もうほとんど泣いていたのに。私が今度は抱きしめ返そうとしたらその前に大きな手が私たち二人を包み込んだ。さらに温かいぬくもりに包まれる。お父さんだった。


 「二人とも、頑張ったね」


 お父さんのせいでまた、私たちは泣くことになった。その日の夜は泣きはらした目を氷で冷やしてから眠った。



 次の日、まだ少し腫れていたけれど、こんなことで学校なんて休んでいられない。もしかしたら今日は、佐倉くんが来るかもしれないんだ。


 「まお、おはよう…って目が腫れてるよ?」


 案の定すずちゃんにつっこまれたので、正直に話すことにした。とはいっても少し端折ったりオブラートに包んだりはしたけれど。朝からするにしてはやっぱり重い話になってしまった。すずちゃんのことだから明るく流してくれるかもと思ったけれど、高校生が受け止めるにしてはやっぱり重かったようだ。話さなきゃよかったかもと後悔を始めたところにすずちゃんの声が飛んできた。


 「まお、話してくれてありがとうね。私、まおと出会えてよかった」


 抱きしめるのが流行っているんだろうか。最近人のぬくもりの凄さが分かってきた。人のぬくもりは、簡単に言うと、世界を救う。大げさかもしれないけれど、私的には正解だ。

 朝から素敵な友達のぬくもりに触れて、ぬくぬくで学校に向かった。

 ちなみに今日も、佐倉くんは来ていなかった。



有本(ありもと)鈴子(すずこ) 過去


 桜井鈴子。十三歳。今年の春に両親が交通事故で死んだ。悲しみに暮れていたら小学校からの親友に「うざったい」と一言、縁を切られた。不幸は続くらしい。次は一体どんな不幸が┄┄。


 「すず、こんなところで何をしているんだい。もうすぐ晩御飯だよ」

 「おばあちゃん」


 両親が死んで、悲しんでいた私の前に現れたのは、母方の祖母を名乗る人だった。初めて会ったはずのその人は涙を流して放心している私に、お饅頭をくれた。いきなり差し出されたお饅頭を流れで受け取ると、「今日から家に来な」と言い放った。周りに居た親戚の人たちが「おばあちゃんじゃあ無理だよ。もう年なんだし」と口をはさむと、おばあちゃんはしっかりと自分の足で立ち、ピンと背筋を伸ばして言った。


 「なあに。お金のことしか話さないで、肝心の子が泣いているのにも気が付かないあんたらに引き渡すよりは、マシだと思うがね」


 そう言い放ち、私の手を黙って引きながら家に連れて帰った。そこから素早く的確に物事が進んだ。気持ちの整理がつく前に私は有本(ありもと)祥子(しょうこ)に引き取られていた。


 「おばあちゃんは、どうして私を引き取ってくれたの?」


 引き取られて生活を始めて、三週間が経った頃不思議に思っていたことを聞いてみた。その時は確か晩御飯の時間で、肉じゃがと豆腐のお味噌汁、キュウリの塩漬けに白米だった。どれもとても美味しくて、白米は二回おかわりした。

 おばあちゃんは口に放り込んだ人参をしっかりと噛んで飲み込んでから口を開いた。どんなことを言われるのか、少し緊張していた。崩していた膝を正座に戻したくらいだ。


 「さあ、なんだったかね。年を取ると記憶力が無くなるからね、覚えちゃいないよ」


 拍子抜けした。せっかく直した正座も崩したくらいだ。


 それから二週間後に、親友だった加奈子が私に「うざったい」と告げて消えた。結構、かなり凹んだ。唯一の友達といってもいいくらいだった。そんな子から急に縁を切られたのだ。意味が分からなかったし、涙は止まらなかった。おばあちゃんが作ってくれたご飯も喉を通らなかった。少しの間はおばあちゃんはそっとしておいてくれたけれど、三日目にはおばあちゃんの部屋に呼ばれて何があったのかを問われた。


 「すず、何があったかは整理が付いたらで構わない。だけど、最近ご飯をまともに食べていない理由がそれなら、まとまっていなくてもいい。話しなさいな」


 問い詰められている感じはなかったけれど、なんだか迫力を感じる。話してしまった方が楽になる感じがする。


 「実は┄┄」


 一通り話し終えた時には、おばあちゃんの迫力はなくなっていた。代わりになんだか呆れたような顔をしていた。


 「そんなこと。と言いたいところだが、すずにとってはきっと大事なことなんだろう。それこそ、ご飯が食べられなくなるほどには」


 ため息とともにおばあちゃんは言う。ほれ、とおばあちゃんはお饅頭をくれた。おばあちゃんはいつでもお饅頭を持っているんだろうか。くれたお饅頭の端をかじる。ほんのり甘いあんこが口の中に広がる。あの時と同じ味だ。同じお饅頭なのだから当たり前なのかもしれないけれど。


 「すず、いいかい。一つだけ確かなことだ。これは私が生きてきた年月で得た知恵みたいなものだ。聞くも聞かぬもすずの自由だよ。人は、一人でも生きてはいけるものだよ。ただ、生きていくうえで、一人は無理だよ」


 なんとなくわかったような、分からないような…。

 首をひねっていると、おばあちゃんが出会って初めて笑った。


 「ははは、なあに。今すぐ分かろうなんて無理なものさ。私が長い年月をかけて分かったことなんだから」


 


 私はそこから気にしないように過ごしてはきたけれど、やっぱり心のどこかではしっかり傷になってしまっているらしい。私はそれから人と関わるのが少し怖くなってしまっている。友達に、どこまで踏み込んでいいのか分からない。


 今回もそうだ。私はこの子、まおのことにどこまで踏み込んでいいのか分からなかった。高校で初めてできた友達、できれば失いたくなかった。だから私はまおが何かを話してきてくれるのを待つことにした。話してくれなかったらまだ私は、そこまでの友達じゃないんだと肩を落としただろう。

 まおは、話してくれた。きっと私が知らないことがたくさんあったのだろう。朝から気分が落ちてしまわないように気を遣って言わずにいてくれたこともあるだろう。まおは出会った時から、何か抱えていそうな子だった。今回はたぶん、そのほんの一部分だろう。だけど、それを話してくれたことが嬉しかった。相手に私を選んでくれたことが何よりも嬉しかった。


 私は縁を切られた加奈子とはもう長らく会っていない。同じ地域に住んでいるし、高校も一つ隣の駅なので、もしかしたら会うかもしれないけれど、会ったとしても加奈子はきっと知らないふりをするだろう。中学を卒業するまでも、最初から知らなかったかのように振る舞っていた。私はそうされる度に傷ついていたけれど、今はもうきっと傷つかない自信がある。少し強くなったのかもしれない。


 「すずちゃんすずちゃん」


 今はこの子との時間を少しでも大切にしていきたい。こういう思いが重いと言われてしまうのかもしれないけれど。


 「どうしたの」

 「あのね、宿題のことなんだけど、忘れちゃって…。見せてくれないかな」

 「見せるのはダメだなあ。まだ時間あるし、一緒に解くならいいけど」

 「いいの!?ありがとう~。すずちゃん様!」


 とりあえず今は、このままでいることを許してほしい。誰に頼むわけでもないけれど。



加賀美真生



「まお、気を付けて」



時刻は午前十時。私は昨日体育の授業で捻挫をして、今日の朝念のために病院に行っていた。遅刻にはなるけれど、今日は四時間目に小テストがあるから、それまでに学校に行きたい。家から学校までは徒歩でも三十分くらいでそんなに遠くはないから充分間に合うけれど。すずちゃんがきっと心配しているだろうし、小テストの確認もしておきたい。



 「いそげいそげ~、って」


 目の前を作業服が通り過ぎた。最近になって工事が始まった建物だ。


 「佐倉くんだよね」


 工事の音で多分私の声は誰にも届いていない。独り言だから当たり前だけれど。今度は聞こえるように声を張り上げてみる。彼のことだから無視されるかもしれないけれど。


 「佐倉くん!!佐倉くんだよね!!!!」


 工事現場に向かっていた背中が一瞬止まった。最近は全然見かけていないけれど、あれは確かに佐倉くんだ。でもなんか、少し瘦せているように思う。ご飯をしっかり食べていないんだろうか。少し心配になって、また歩き出していた背中を追いかける。意外と歩くのが早い。話しかけられないように必然的に早歩きになっているんだろうか。いつもなら走って追いかけるけれど、今は捻挫しているから走れない。仕方なく声を張り上げる。


 「待って。佐倉くん!!!!」


 やっぱり佐倉くんだ。だって今もまた一瞬止まった、かと思ったらまた歩き出してしまう。


 「ねえ、今日小テストある!!!!!」


 そう言い終わると同時に振り向いた。結構な勢いだったので少し驚いた。いつもの感情の読めない顔をしていた。なんだか少し怖い。


 「おまえ、だれ。なんなのさっきから人の名前大声で呼びやがって。小テストよりも大事なことがあるんだよこっちは。声かけてくんな」


 静かに言い放たれた。怒っていたように思えた。人の名前を呼ぶことが誰かを怒らせてしまうことがあるんだと、この時初めて知った。「ただの興味」が人を怒らせる原因になることがあるんだ。私が呆然としている間に佐倉くんは工事現場の中に消えて行ってしまった。


 「ごめん、なさい」


 私は私にしか聞こえないような声で謝った。私はまだ知らないことが多すぎた。だからきっと佐倉くんを怒らせたんだ。どうしてこんなにも佐倉くんが気になるのか分からないけれど。



 「まおー、足どうだった?大丈夫?って、何かあったの?」


 学校に着くとちょうど休み時間だった。すずちゃんが私の顔を見るなりそう聞いてきた。だいぶ酷い顔でもしていたんだろうか。無理に口角をあげてみるけれど、多分察しのいいすずちゃんにはお見通しなんだろう。心配そうな顔は変わらない。潔く諦めて話してしまおうかとも思ったけれど、誰かに話していいのか、また佐倉くんが怒るようなことになるかもしれない。佐倉くんは隠したいことなのかもしれない。もう少し整理が付いたら話してみよう。そう決めて、今だけは無理を押し通した。無理には聞いてこないすずちゃんの優しさも利用した。我ながら性格が悪いと思う。


 そこから一週間経っても佐倉くんは学校に来ない。またあの工事現場にいるんだろうか。確かめてみたいけれど、私たちが学校に行く時間にはまだ、誰もいない。だから確かめようにも確かめられない。どうしようか考えていたら三時間目の終わりに教室のドアが開いた。なんとなく見なくても分かった。来たのはたぶん佐倉くんだ。思った通り、私の席の右斜め前に座った。そこは確かに佐倉くんの席だった。以前より肌が黒くなっているように見えた。やっぱりあの工事現場で働いているんだろうか。だからあまり学校にも来ないんだろうか。


 「佐倉くん」


 三時間目が終わってすぐに声をかけてみた。周りが少しどよめいた。あの時の一件があるからだろう。佐倉くんは無視を決め込んでいるみたいだ。


 「ねえ、佐倉く┄┄」


 私がもう一度声をかけ終わる前に、佐倉くんは教室から出て行ってしまう。私は反射的に追いかけた。もうほとんど捻挫は治っているけれど、まだ少し怖くて慎重に歩く。


 「待って、佐倉くん」

 「お前、なんなのほんと。ストーカー?それとも何、俺の痣見てカワイソウとでも思ったわけ?きもいんだよ、話しかけてくんなよ」

 「確かに、佐倉くんの痣を見たよ。最初はそこからだったけど。佐倉くんに興味があるの」

 「は、偽善者か。とにかくもう話しかけてくんな」


 向き合っていた体をドン、と軽く押されてその拍子に治りかけの足が痛んだ。


 「いっ、、たた」


 休み時間だったこともあり、周りには結構な人がいて軽く騒ぎになった。私が痛む足をかばって転んだことより先生まで駆けつけてきてしまった。


 「加賀美、どうした」


 数学の教科担任の末永(すえなが)先生だった。少し怖くて苦手な先生だった。必要以上の会話はしてくれないし、子供が嫌いな先生だと生徒の間で噂になっていた。その先生が一番早く駆けつけてくれたことに驚いた。それに私が足を痛めていることに気が付いて、肩まで貸してくれた。


 「今さっき、一緒に居たのは佐倉か。アイツとなにかあったのか。足を痛めていることとなにか関係があるのなら、呼び出すこともできるが」


 保健室まで連れて行くと肩を貸してくれたので、一緒に歩いていると抑揚のない声でそう聞かれた。私はあわてて言う。


 「いえ、足は一週間前に体育でやったもので…。佐倉くんを怒らせてしまって…」

 「そうか。まあ、佐倉も色々と事情があるんだ。根は人思いの優しい奴だよ。佐倉が怒って加賀美を突き放したのも、きっと佐倉なりに加賀美を思いやってのことだろう」


 この先生が人のことをこんなに話すのを初めて知った。それに佐倉くんのことをよく知っているように感じる。前から知っているみたいな。


 「ほら、保健室についたぞ。あとは養護教諭に任せる」


 ノックを三回して養護教諭の返事を待ってからドアを開けて、私が一週間前に体育で捻挫したこと、先ほど生徒とぶつかって足をまた痛めたことを伝えてくれた。私を椅子に座らせてから、保健室から出て行った。養護教諭は、あらあらと少し笑っていた。私のけがのことかと思ったけれど、そんな性格が悪い人ではなかった。


 「末永先生、今日三回目なのよ。一回目は男子生徒が朝部活でけがをしたって担いできて…。確か二回目は二時間目の最初ね。数学の授業中に腹痛で動けなくなった子をお姫様抱っこをして連れてきたわね、ふふ」


 そんなに重なることがあるのかと驚いた。だけどあれ、と思った。


 「確か末永先生って、数学研究部の顧問じゃ…」

 「そうなの。だからどうして朝部活でけがをした運動部の子を連れてきたんだろうって。あとから聞いてみたのよ。そうしたら、けがをして保健室に連れて行こうとしてたらどこからか末永先生が現れて、颯爽と担いでくれたんだって言ってたわ。見かけによらず力持ちなのね」


 ふふと笑ってから、私のけがの具合を診てくれた。足はもうほとんど完治しているけれど、もう少し様子を見て慎重に歩いてねと言われた。それから湿布を貼って様子見になった。


 「あっ、まお、足けがしたんだって?大丈夫??」


 教室に戻ると、私がけがをしたことがなぜかクラス中に知れ渡っていた。しかもけがの理由が佐倉くんだということになっていた。佐倉くんはいなかった。


 「うん、様子見だって。それと佐倉くんは関係ないよ」


 誰に言うでもなく、付け足した。私の不注意が招いたことだ。佐倉くんは関係ない。きっと末永先生の言うように、佐倉くんは私が自分といるとよくないと思ったのかもしれない。だからあえて突き放したのかもしれない。

 実際はどうとかは分からないけれど、佐倉くんは皆が言うような人じゃないと私も思う。

 極端に人と距離を置くのは、きっと何か理由があるんだと思う。それが佐倉くんのあの痣となにか関係しているのかは分からないけれど、何かあるのは確かだと思う。もしかしたら大人が介入しないといけないことかもしれない。


 「まお」


 すずちゃんの声で引き戻される。いつの間にか四時間目が始まろうとしていた。タイミングがいいのか悪いのか、数学だった。末永先生がこちらを静かに見ている。無言の圧力を感じた。すみませんと小さく謝って席についた。それからは特に何もなく、授業は進んだ。末永先生は佐倉くんが居ないことには触れなかった。ただいつも通りに淡々と授業をした。私の苦手な二次関数は出てきたし、問題も当てられた。本当にいつもの授業だった。

 四時間目が終わってすぐに末永先生に話しかけようとしたら、すぐに教室を出て行ってしまった。それもいつもと変わらないけれど、こういう時困るなあと思った。慎重に足を進めていたら、先生の歩くスピードに間に合わない。できるだけ急いで先生の後を追うように前の扉から教室を出る。


 「う、わあ」

 

 出たところに先生がいた。私が来ることを予想していたみたいだ。私が出てきてぶつかったことにも驚かずにいつもの顔で私を見下ろしている。


 「せ、先生、どうして」

 「加賀美は分かりやすいな。考えていることが顔に出ていたぞ」


 そう言いながら先生は私の方に体を向ける。私は少し姿勢を正してから、頭を下げる。


 「先生、保健室まで連れて行ってくださりありがとうございました」

 「佐倉と何があったのかは聞かないが、踏み寄るのなら慎重にな。加賀美だって人に明かしたくないことは、あるだろう」


 それじゃあ、と言い、末永先生は歩いて行った。その後ろ姿をぼうっと見ているとすずちゃんに名前を呼ばれた。


 「まおー。お腹空いたよ、お昼食べよー」


 そう言われて教室に戻る。席をくっつけて向き合って座る。今日の私のお弁当はサンドイッチだ。お母さんの作るお弁当は、いつも美味しい。特にたまに作ってくれるサンドイッチは、私の大好物だ。たまごサンドやツナ、ハムとレタスなど。冷蔵庫にあるものによって内容が変わるからいつも楽しみにしている。目の前のすずちゃんのお弁当は、白米に卵焼き、大根の煮物にポテトサラダなど。


 「すずちゃんのお弁当、今日もおいしそう。私のツナサンドとなにか交換しない?」

 「ん、いいよお。好きなのとってけえ」


 お弁当のおかずを交換するのが、私たちのお昼の楽しみだ。今は夏だから教室で食べているけれど、もう少し涼しくなったらまた裏庭のベンチで食べることがこれからの楽しみだ。その日は結局佐倉くんは戻っては来なかった。


 そこから四日間、佐倉くんは姿を見せなかった。もしかしたらもう来ないかもしれないと思いながらも、私は佐倉くんを待った。佐倉くんの言う通り私はただの偽善者なのかもしれない。私も私自身がどうしたらいいのか分かっていない。だからもう一度佐倉くんと話がしたかった。話をして何かが変わるのかは分からないけれど、何か分かるような気がした。中学の時の自分のことを最近思い出すようになったのが、何か関係しているのかもしれない。ただの思い違いかもしれないけれど。ただ、何か行動に移したかった。中学の時、お母さんやたちばなさんがしてくれたように、私も動けるようになりたい。いつからかそう思っている。

 現代文の授業中、教室の後ろの扉が開いた。教室の時間が一瞬止まる。私はこの瞬間が苦手だったりする。何か悪いことをしたわけではないのに、罪悪感が湧いてくる。そんな私をよそに足音は躊躇なく近づいてくる。自分が所属しているクラスに入るのだから躊躇する理由なんてないのだろうけれど。足音は私の席を通り過ぎて右斜め前の席に座る。鞄を机の横にかけ、教科書たちを取り出す。授業を受けにきた学生なら自然な行動だ。何もおかしなことはない。それなのに目が釘付けになるのは、佐倉くんの袖口にあった。誰も気が付いていないんだろうか。私が見すぎていたからかもしれない。佐倉くんの袖口の奥、つまりは手首のあたり。一瞬だったけれど、あれは火傷の跡だ。お母さんの手の甲にも似たような跡があるのを日頃から目にしているから、見間違うことはないはずだ。やっぱり佐倉くんは何かを隠しているんだろう。身体中に飛び散った痣、長袖、手首のあたりにある火傷の跡。考えたくはないけれど、誰かから暴力を受けているのかもしれない。それを私が聞いたところで佐倉くんはきっとまた何も言わないんだろう。もしかしたら私をまた突き放すかもしれない。何かから、守るために。

 私の都合のいい考えかもしれない。佐倉くんはボクシングか何かをしていて、それで痣があるのかもしれないし、火傷の跡だって不注意で負ったものかもしれない。ただの私の考えすぎで、佐倉くんはただの口の悪い人なだけかもしれない。たとえ本当のことを知ったからといって私には何もできないかもしれない。そもそも佐倉くんが話してくれるとは今のままじゃ思えない。うざがられて、無視されて突き放されて終わると思う。何も知らない、ただのクラスメイトなんだから当然と言えば当然なんだけれど。どちらかというと、きっとおかしいのは私の方なんだろう。私だってどうして彼にこんなに執着しているのか分からない。分からないからこそ、分かろうとしてしまっているのかもしれないけれど。



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