第8章 凍てつく独房と暴走する金属の怪物
◾︎警察署の外れ 生い茂る植え込みの深い影の中
音無賢人は、石像のように動かず、警察署全体を「耳」で包み込んでいた。
(……聞こえた)
賢人の脳内に、署内の会話がクリアに響く。
『……金剛寺』
『……ドローン』
『……接触』
(あの女記者たち……やはり金剛寺と繋がっているのか。ドローンを使って氷川に接触しようとしている)
さらに、応接室からの会話も拾う。
『……音無賢人。彼が、現場にいたんだ』
(……バレたか。防犯カメラまでは気が回らなかったな)
賢人は小さく息を吐いた。
警察は自分の存在を認識した。だが、彼らが自分を「指名手配犯」として追うのか、それとも「協力者」として見るのかは、まだ判然としない。
(……俺は今、喉から手が出るほど味方が欲しい。だが……まだだ)
賢人は自分の震える手を握りしめた。
(彼らが敵か味方か、まだ確信が持てない。ここで姿を晒すわけにはいかない)
賢人はさらに深く茂みに身を潜め、気配を完全に「無」にしたまま、次なる情報を求めて神経を研ぎ澄ませた。
◾︎同時刻 警察署から数キロ離れた砂浜
ザパーン……ザパーン……。
打ち寄せる波打ち際から、ずぶ濡れの巨大な物体が這い上がってきた。
「……ぐ、ぁ……げほっ! げほっ!」
熊井猛だ。
彼は海水を吐き出しながら、重い体を砂浜に引き上げた。
「……ハァ、ハァ……! 畜生……一体何が起きやがった……?」
熊井は混乱していた。
さっきまで警察署の前にいたはずだ。それが気づけば空の上にいて、次の瞬間には海面に叩きつけられていた。
「……あのスーツの野郎か? いや、あいつは殴っただけだ。……なら、あのヒョロい野郎か?」
熊井は濡れた髪をかき上げ、充血した目で警察署の方角を睨みつけた。
理屈は分からない。だが、一つだけはっきりしていることがある。
「……ナメやがって。タダで済むと思うなよ」
熊井はギリギリと歯を食いしばった。
「次は油断しねぇ。最初から『熊』の全力で……全員ひねり潰してやる!」
全身から湯気のような殺気を立ち昇らせ、びしょ濡れの怪物は再び警察署へと歩き出した。
◾︎警察署 廊下
トイレの前のベンチで、サラ・コッホはバッグの中に隠した小型ドローンの設定を調整していた。
「ねえ、アレックス。もしドローンで氷川……じゃなくて、音無の情報を聞き出せたとして、彼本人にコンタクトが取れたら、なんて伝えるつもり?」
横で携帯をいじるフリをして見張りをしているアレックスは、低い声で答えた。
「……決まってる。『とりあえず身を隠せ』、『警察署には近づくな』……だろうな」
サラは手元のコントローラーを操作しながら、寂しげに笑った。
「そうね。それが、私たちの『祖国』と『この国』……両国の破滅を阻止する唯一の方法だものね」
「ああ。音無をグレイに渡せば戦争が変わる。それを防ぐには、奴を逃すしかない」
「……その後の私たちの処遇、処罰に関しては?」
「後から考えようぜ。今は、目の前の任務(裏切り)に集中だ」
「ふふ、オーケー。相棒」
サラはバッグを持って女子トイレへと入っていった。
個室に入ると、換気ダクトのカバーを外し、そこへ虫のような極小ドローンを放つ。
標的は地下留置場。氷川智宏だ。
この会話を、二人の男が別の場所から聞いていた。
一人は、署の外の茂みに潜む音無賢人。
(……『両国の破滅』? 俺を逃がすことが、それを防ぐことになるのか?)
賢人は彼らの会話から、明確な意思を感じ取った。
(彼らはスパイだ。だが……敵じゃない。むしろ、俺を守ろうとしている?)
もう一人は、応接室にいる谷雄一。
「谷」の能力で、廊下の会話を完全に拾っていた。
(……おいおい、どういうことだ? 『両国の破滅』? ただのスクープ狙いじゃねぇ。そんなスケールのデカい話なのか?)
谷は額に汗を滲ませ、隣にいる白川真純に向き直った。
「……白川」
「はい? どうしました、谷さん」
「怒らないで聞いてくれ。……俺は今、能力を使った」
「えっ!?」
谷はバツが悪そうに頭をかいた。
「廊下にいる記者たちだ。あいつらの会話を盗み聞きした。……あいつら、ただの記者じゃねぇ。海外のスパイだ」
白川は驚いた顔をしたが、すぐにふっと表情を緩め、小さく笑った。
「……奇遇ですね、谷さん。実は私も、先ほど使いました」
「……え?」
「防犯カメラの映像を見た時です。『川(因果)』の能力で、音無賢人がなぜあそこにいたのか、その流れを読みました。彼は……鈴木さんたちを助けるために、あえてリスクを冒して能力を使ったんです」
二人は顔を見合わせ、僅かにほくそ笑んだ。
「……共犯ですね、俺たち」
「ええ。始末書じゃ済みませんよ」
谷は真剣な表情に戻った。
「情報を共有しましょう。音無賢人は、スパイたちに狙われているが、同時に逃がそうともされている。……俺たちは警察として、彼をどう保護するかです」
「はい。彼を犯罪者としてではなく、重要参考人として……いえ、被害者として守りましょう」
同じ応接室のソファ。
鈴木浩三と髙橋俊明は、冷めたコーヒーを啜りながら話していた。
「しかしよぉ、その『音無』って兄ちゃんも可哀想になぁ」
鈴木が天井を見上げてぼやいた。
「姿が見えねぇんだろ? なのに、あんな変な連中(氷川たち)に目をつけられて……一体どんなトラブルに巻き込まれてるんだか」
「同感ですね」
髙橋も頷いた。
「俺たちと同じ覚醒者……。もし会えたら力になってやりたいところですが」
「違げぇねぇ。覚醒者として、覚醒者の犯罪やトラブルを減らせればいいんだが……」
鈴木は自嘲気味に笑った。
「現状、俺たちにできるのは、目の前を偶然通りかかった困ってる人を助けるくらいだからなぁ」
「それが一番大事なんですよ、鈴木さん。……ま、俺たちがここにいることで、彼への囮くらいにはなれてるかもしれませんし」
外の茂みの中。
賢人は、全ての会話を聞いていた。
(……刑事の二人は、俺を守ろうとしてくれている)
(鈴木さんと髙橋さんは、俺に同情し、心配してくれている)
(記者の二人は……俺を逃がすために国を裏切ろうとしている)
賢人は拳を握りしめた。
(……六人。動機はそれぞれ違うが、全員が俺に敵意を持っていない。……いや、味方だ)
孤独だった賢人の胸に、熱いものが込み上げた。
もう、コソコソ隠れる必要はない。彼らを信じて、情報を渡し、共に戦うべきだ。
賢人は意を決して立ち上がった。
「無」の能力を解く。
気配を、音を、存在を、世界に晒す。
彼は堂々と警察署の自動ドアをくぐった。
◾︎警察署 正面玄関
ウィーン。
「こんにちは。ご用件は?」
受付の警察官が事務的に尋ねる。
賢人はフードを上げ、はっきりとした声で告げた。
「……音無賢人です。担当の刑事さんに会わせてください」
その声は、応接室まで届いた。
ガタッ!
谷と白川が、弾かれたように席を立ち上がった。
「まさか……!」
「正面から!?」
二人が慌ててロビーへ飛び出そうとした、その時だった。
ズドォォォォォォォン!!!
署の地下、留置場の方角から、建物全体を揺るがすような異様な轟音と衝撃が響き渡った。
「な、なんだ!?」
「爆発!?」
音無賢人が姿を現したのと同時刻。
地下では、「最悪の事態」が動き出していた。
◾︎警察署・地下留置場(音無が署に入る数分前)
冷たく硬い感触が、頬に伝わってくる。
消毒液と、淀んだ空気の臭い。
「……ん、あ?」
氷川智宏は、重い瞼をゆっくりと開けた。
視界に映るのは、無機質なコンクリートの天井と、太い鉄格子。
「……ここ、どこだ? 留置場?」
氷川はのっそりと体を起こし、頭を振った。記憶が曖昧だ。
確か、警察署の前で黒スーツの大男(鈴木)に話しかけ、氷漬けにしてやろうと能力を発動した瞬間……プツリと意識が途切れた。
「……貧血か? 俺が?」
氷川は自分の手首を掴み、脈を測った。正常だ。
「ハハッ、笑えねぇ。俺、貧血で倒れたことなんて一度もないんだけどなぁ……。不摂生がたたったか? 健康面、気をつけないと死ぬなこりゃ」
氷川が首をコキコキと鳴らしながら独りごちていると、向かいの独房から野太い声がかかった。
「そうだぜ、にいちゃん。健康面は大事だぜぇ?」
「あ?」
氷川が顔を上げると、鉄格子の向こう側、薄暗い独房の中にあぐらをかいた男がいた。
小太りで、ふてぶてしい顔つきをした男——郵便局強盗の犯人、金子だ。
「……誰だ、アンタ」
「俺か? 俺は金子だ。……『覚醒者様』だぜ!」
金子はニヤリと笑い、誇らしげに両腕のミトンで自分の胸を叩いた。
「俺は選ばれた人間なんだ! ここにいるのは警察が俺の力にビビってるからよ。すぐにここを出て、またデカいことやってやるんだ」
(……うわぁ)
氷川は心の中でドン引きした。
その目は「コイツ、頭いってんのかな?」という冷ややかな侮蔑に満ちていた。
状況もわきまえずに自慢話。典型的な、力に溺れただけの小者だ。
だが、氷川は表情には出さず、人当たりの良い笑みを浮かべた。
「へぇ、そりゃすげぇや。俺も覚醒者なんだけどさ、気が合いそうだね」
「おっ、そうか! 仲間か! なら俺が出たら手下にしてやってもいいぞ?」
「あはは、光栄だねぇ」
氷川は適当に話を合わせながら、ふと、あることを思い出した。
(……待てよ。こいつ、もしかして)
「……ああ、そうだ金子さん。あんた、顔広そうだし知ってるかな?」
「なんだ?」
氷川は鉄格子越しに身を乗り出し、声を潜めた。
「**『音無賢人』**ってガキ、知らないか?」
「ッ!?」
その名前が出た瞬間。
金子の体が、電流が走ったようにビクンと跳ね上がった。
氷川は観察を続ける。
金子の顔から、サーッと血の気が引いていく。
あぐらをかいていた足が震え出し、視線が狂ったように宙を彷徨い始めた。
留置場の壁、廊下の影、天井の隅。
何もない空間を、何かに怯えるように凝視している。
(……いるのか? また、あいつが……そこに……!)
あのパトカーでの恐怖。音のない恫喝。心臓を直接握り潰されるような、あの冷たい感触。
金子はガタガタと震え出し、独房の隅へ、後ずさりした。
「お、おい? どうした?」
「し、知らねぇ……!」
金子は裏返った声で叫んだ。
「俺は知らねぇ! 何も知らねぇぞ! 名前も聞いたことねぇ!」
その過剰な反応。
焦点の定まらない怯えた目。
明らかに「何か」を知っている、異常な態度。
氷川は鉄格子越しに、ニチャリと粘着質な笑みを浮かべた。
(……ほう?)
「へぇ、知らないのかぁ。……その割には、随分と怖がってるみたいだけど? まるで、今そこに『誰か』がいるみたいに」
「う、うるせぇ! 知らねぇって言ったら知らねぇんだよ! 向こう行け!」
金子はベッドの上にある毛布を頭から被り、ダンゴムシのように丸まってしまった。
「うぅ……うぅ……」と小さく呻き声が聞こえる。
氷川は指先でコンコンと鉄格子をリズミカルに叩いた。
(……ビンゴだ。こいつ、音無と接触してる。しかも、相当な恐怖を植え付けられてるな)
氷川の目に、サディスティックで、かつ計算高い光が宿る。
恐怖で支配された人間ほど、扱いやすい駒はない。
(こいつぁ……使えそうだ)
留置場の冷たい空気の中で、氷川は新たな「玩具」を見つけた子供のように、静かに嗤った。
「なぁ、金子ちゃん?」
氷川は軽薄な調子で話しかけた。
「そんなにビビらなくても大丈夫だって。ここには音無なんていないよ」
「……ひっ! そ、そんなん分かんねぇだろ!」
金子は毛布を被ったまま叫んだ。
「あいつは化物だ! 見えねぇんだよ! 今だって、俺の目の前に立って笑ってるかもしれねぇんだぞ!?」
「あーはいはい、分かった分かった」
氷川は立ち上がり、鉄格子に指を掛けた。
「じゃあさ、証明してあげるよ。金子ちゃん、今からこの部屋の壁も天井も、全部凍らせるからさ。……君、ベッドの上に移動してくんない?」
「は、はぁ? 何言って……」
「いいから。死にたくなきゃ早く乗りな」
氷川の目からハイライトが消える。金子は悲鳴を上げて、狭いパイプベッドの上に飛び乗った。
「い、いいぞ……?」
「——『氷』」
パキィィィィィン!!
空気が悲鳴を上げた。
氷川を中心とした爆発的な冷気が、鉄格子をすり抜け、金子の独房へと雪崩れ込む。
床が、壁が、天井が、そして廊下のコンクリートさえもが、瞬きする間に分厚い氷で覆われた。
「う、うわぁぁぁ……!?」
金子はポカンと口を開け、白く染まった世界を見渡した。
ダイヤモンドダストが舞う極寒の牢獄。
目の前の優男が、自分とは「覚醒者」としての格が違うことを、嫌というほど見せつけられた。
「……さあ、金子ちゃん。見てみなよ」
氷川は氷漬けになった独房を指差した。
「部屋中カチコチだ。もしそこに透明人間がいたら、そいつの形に氷が盛り上がってるはずだろ? ……残るはあんたのベッドの上だけだ。何かいるかい?」
金子はゴクリと喉を鳴らした。
恐る恐る、自分の座っているベッドの空間に、ミトンで拘束された両手や足を伸ばしてみる。
空を切る感触。何かにぶつかる感触はない。
ブンッ、ブンッ。
「……いない」
金子の顔に、じわじわと生気が戻ってくる。
「い、いない……何もいない! ここには音無がいない!!」
「いないぞぉぉぉぉ!!」
金子は歓喜のあまり叫び、ケタケタと笑い出した。
「ヒャハハハ! いねぇ! あの野郎、いねぇぞ! 俺は自由だ!」
金子は涙目で氷川の方を振り向いた。
「す、すげぇよあんた! あんたのおかげで助かった! ……あの、これから氷川さんのこと、『アニキ』って呼んで良いですか!?」
氷川は内心で舌を出した。
(……あぁ、いいけどさ。チョロすぎて引くわ。ま、使えなくなって用が無くなったら捨てるか)
「いいよぉ。よろしくな、相棒」
氷川がニッコリ笑うと、金子は身を乗り出した。
「そうと分かればアニキ! このミトン外してくだせぇ!」
金子は布で覆われた両手を突き出した。
「この金属だらけの部屋なら、俺の能力で好きなだけぶっ壊せますよ! ……へへへ、まずは手始めに、ここにいる警察官全員、嬲り殺しにしましょうぜ!」
金子の目に狂気が宿る。
だが、氷川は人差し指を振った。
「ノンノン、金子ちゃん。嬲り殺しはダメだ」
「えぇ~? なんでです?」
「俺さぁ、ここにいる人たちに『聞きたい事』があってきたんだよねぇ。死なれちゃ困るわけ。だから……」
氷川は冷酷な目で釘を刺した。
「手と足だったら幾らでもやっちゃっていいから、胴体と頭は攻撃しないでね? ……約束できる?」
金子は一瞬怯んだが、すぐにヘラヘラと笑った。
「ヘイ、アニキ! 手足ですね! 了解っす!」
(……マジでチョロいなぁ~)
氷川は呆れながら指示を出した。
「じゃあ、そのミトンの拘束具を前方に突き出して」
「こうすか?」
「そうそう。そのまま鉄格子にくっつけて」
金子がミトンを鉄格子に押し付ける。
氷川が触れると、一瞬でミトンの繊維と鉄格子が氷結し、一体化した。
「よし。これで固定された。……金子ちゃん、思いっきり手を引っこ抜けばいけるんじゃない?」
「なるほど! さすがアニキ、頭いいっすね!」
金子は鉄格子に両足をかけ、顔を真っ赤にして踏ん張った。
「ぬんっ! ……ぐぐぐっ……ふんぬぁぁぁぁ!!」
スポォォォン!!
勢いよく両手がミトンから引き抜かれ、金子は尻餅をついた。
自由になった両手。指先に感じる鉄格子の感触。
「やった……やったぞぉぉぉ! 自由だぁ!」
金子は狂喜乱舞した。
氷川はパチパチと拍手をした。
「おめでとう。……よぉし金子ちゃん、今度は君の番だ! 派手に頼むよ?」
(さっさとしろよ。時間がねぇんだ)
「へい! 待ってました!!」
金子は立ち上がり、両手を広げた。
「見てろよ警察共! 俺を閉じ込めやがって!」
——『金』。
ドクン、と地下空間全体が脈動した。
バギィッ! メキョォォッ!
鉄格子が飴細工のようにねじ曲がり、独房の扉が吹き飛ぶ。
それだけではない。壁の中を走る水道管、ガス管、配線管。全ての金属が金子の意思に呼応して暴れだす。
ズドォォォォォン!!
ガス管が破裂し、凄まじい爆音が響き渡る。
「ヒャハハハハ! どうですかアニキ! 俺の能力! 凄いでしょう!?」
金子は破裂した配管を蛇のように操りながら、得意げに振り返った。
氷川は瓦礫を避けながら、大袈裟に頷いた。
「あぁ凄いね! 君はやっぱり凄い才能の持ち主だよ!」
そう言って調子に乗せつつ、氷川は冷めた目で金子の背中を見つめていた。
(……金属操作ねぇ。規模も精度も、金剛寺の『超劣化バージョン』だなぁ。ま、目くらましには十分か)
「行くぞオラァ! 道を開けろ!」
「はいはい、お供しますよ」
周りの金属の形を変えながら進む暴走機関車・金子。
その瓦礫の道を、両手をポケットに入れたまま悠々と歩く死神・氷川。
最悪のコンビが、地上への階段を登り始めた。




