第47章 無傷の敗北と深まる溝
■洋館・食堂
暴風が去った後のような静けさが戻った食堂。
破壊された家具の破片と、床に伏した対策局のメンバーたち。
その中心で、六名は悲しげに眉を下げ、東義昭を見つめていた。
「……残念です。
日本の治安を守ってくれているのは、本当に嬉しかったんですけど……どうやら、分かり合えないようですね」
六名は深い溜息をつくと、粉々になったダイニングテーブルの破片にそっと手を触れた。
「——『修』」
淡い光が漏れる。
すると、木片が生き物のように巻き戻り、傷一つない新品のテーブルへと修復された。
「……なっ」
東が息を呑む。破壊の修復。
六名はそのまま、壁に叩きつけられて呻いている鈴木浩三の元へ歩み寄った。
「鈴木さん。……乱暴してごめんなさい。痛かったですよね」
六名が鈴木の肩に触れる。
「——『修』」
「……う、お?」
鈴木の呼吸が整う。打撲の痛みが嘘のように引いていく。
次は髙橋俊明。
「髙橋さん。……怖い思いをさせてごめんなさい」
「——『修』」
「……あ、痛みが……消えた……」
そして、サラとアレックス。
「あなた達も、ごめんなさい……」
「——『修』」
二人の身体からダメージが抜ける。サラは呆然と、自分の身体を見下ろした。
最後に、床に伏している音無賢人の前にしゃがみ込んだ。
首を掴まれた跡が赤く残る賢人に、六名は慈しむような目を向けた。
「……音無さん。
ご両親のこと……そして今のこと。本当に、ごめんなさい」
六名の温かい手が、賢人の首筋に触れる。
「——『修』」
痛みが消える。窒息の苦しみが消える。
だが、賢人の胸の痛みだけは、より深くえぐられたようだった。
全員の治療を終えると、六名はすっくと立ち上がった。
「……分かりました。交渉は決裂です」
六名は穏やかに、しかし断固として告げた。
「でも、皆さんのやっている事は応援しています。
どうか、日本の治安をこれからも守ってください。……そして」
六名の目が、真剣なものに変わる。
「お願いなのですが……僕の計画の邪魔は、しないでください」
「……邪魔?」
東が聞き返す。
「ええ。覚醒者が生まれてから、日本の犯罪は増えました。理不尽な暴力が溢れました。
……あなた方のおかげで、それも減りつつあります。それは認めます」
六名は窓の外、夜の東京の方角を見た。
「ですが……やっぱり、覚醒者がいなかった時代の方が、犯罪件数も少ないし、世の中の混乱も少なかった。
平和で、退屈でしたからね」
六名は苦笑いを浮かべた。
「僕は、あの退屈が恋しいんです…。だから……ある程度『掃除』を済ませた後、能力の根源が見つかり次第、僕はそれを壊します」
六名は賢人を振り返った。
「その時……音無さん。
もし良かったら、僕を殺しにきてくださいね?
……約束ですよ?」
賢人は拳を握りしめ、言葉が出なかった。
殺意と、理解不能な感情が入り混じり、ただ彼を見上げることしかできない。
「……では。今日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
六名は深々と頭を下げた。
しかし、隣に立つ宗方は直立不動のままだ。
「ほら、宗方!」
六名が宗方の袖を引っ張る。
「宗方も謝って! いきなり乱暴したでしょう?」
「……六名様。私は貴方をお守りしただけです」
「ダメだよ。ちゃんと謝らないと」
「……はぁ」
宗方は不本意そうに、しかし主人の命令には逆らえず、慇懃無礼に頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。
以後、手加減いたします」
二人が出口へと向かう。
東は、去りゆく六名の背中に向かって、最後に一つだけ問いかけた。
「……待て、六名君」
「はい?」
六名が振り返る。
「一つ聞きたい。
君は先ほど、傷ついた局員や壊れた家具を『修』という言葉で直したが……。
それは、君自身が、君自身に『修』という名前(能力)をつけたということかな?」
鋭い指摘。
六名の能力は「名付け」だ。彼自身が能力を行使したということは、彼自身が「何らかの名前」を纏っていることを意味する。
それは彼の能力の核心に迫る質問だった。
六名は、東の目を見て、悲しそうな顔をした。
「…………」
「……答えんか」
「……答えません」
六名は、寂しげに微笑んだ。
「だって……信用できないんですよね? 僕のこと」
「……ッ!」
東が、そして賢人が息を呑む。
それは先ほど、賢人が六名に突きつけた拒絶の言葉だった。
「信用できないから教えない」。その因果が、今ここで返ってきたのだ。
「……では」
六名は改めて、真っ直ぐに東に向き合った。
「これからも、日本の治安を守ってください。
優しい人が、秩序を守る人が……笑顔で過ごせるような世の中を作ってください。
心から、応援しています」
六名はペコリとお辞儀をした。
宗方が六名の肩に手を置く。
シュンッ……。
音もなく、二人の姿が空間から消滅した。
後に残されたのは、修復された家具と、無傷に戻ったメンバーたち。
そして、あまりにも大きく、重苦しい「敗北感」。
誰も言葉を発せなかった。
対策局の中は、墓場のような静寂に包まれていた。
六名と宗方が消え去った後の食堂。
そこには、奇妙なほど完璧に修復されたテーブルと、傷一つないメンバーたちが残されていた。
破壊されたはずの家具は元通り。壁の亀裂も消えている。そして何より、宗方の一撃で砕かれたはずの骨や内臓が、違和感すらなく完治している。
物理的な損害はゼロ。
だが、彼らの精神に刻まれた敗北感は、瓦礫の山よりも重く、冷たくのしかかっていた。
「……ふざけるなよ」
沈黙を破ったのは、アレックス・ターナーだった。
彼は自分の拳を強く握りしめ、震える声で呻いた。
「完敗だ。……戦術も、装備も、数も関係ない。
あいつら、俺たちを赤子のようにあしらいやがった」
「ああ……」
鈴木浩三が自分の腹をさすった。先ほどまで壁に叩きつけられて激痛が走っていた場所だ。
「痛みが消えてやがる。……あいつ、俺たちをボコボコにした後で、治していきやがった。
まるで、壊したオモチャを直して『ごめんね』って言う子供みたいにな」
「……屈辱ですね」
髙橋俊明が眼鏡を置き、両手で顔を覆った。
「殺す価値もないと判断されたのか……それとも、本当にただの純粋な『慈悲』なのか。
どちらにせよ、僕たちは手も足も出なかった」
東義昭は、六名が座っていた空席を睨み続けていた。
彼の頭脳は、感情を排除し、冷徹に状況を分析しようとフル回転していたが、その演算結果は絶望を示していた。
「……戦略の前提が崩れた」
東の声に、全員が顔を上げる。
「今の六名の能力……『修』と言ったな。
対象の修復、あるいは状態の巻き戻し。他者や無機物にそれを行使できるということは、奴は当然、自分自身にもその概念を付与していると考えるべきだ」
「つまり……不死身ってことですか?」
谷雄一が脂汗を拭う。
「あるいは『無傷』『不滅』か。
奴は自分自身に『修』以外にも複数の名前(能力)を重ねがけしている可能性が高い。
宗方の転移速度、そして六名自身の防御力と修復力……。
真正面から挑めば、我々は1分以内に全滅する」
物理的な「詰み」。
だが、それ以上にメンバーを苦しめていたのは、もっと根本的な、倫理の根幹を揺るがす疑問だった。
「……あの」
幸田美咲が、震える声で口を開いた。
彼女の視線は、テーブルに残された赤い瓶——キムチに注がれている。
「六名さんは……本当に、『悪』なんでしょうか?」
その問いに、空気がピリリと張り詰めた。
音無賢人が鋭く反応し、美咲を見る。
「……どういうことだ、幸田さん」
「だって……」
美咲は瞳を揺らした。
「彼は、私たちを殺しませんでした。怪我も治してくれました。
『日本の治安を守ってくれて嬉しい』って……あの言葉、私には嘘には聞こえませんでした。
それに……このキムチだって、毒なんて入ってなかった。本当に美味しかった……」
美咲は訴えるように全員を見渡した。
「彼は、ただ寂しいだけなんじゃないですか?
やり方は間違っているけど……心から『平和』を願っている。
それを一方的に『悪』と断じて、殺し合いをして……本当に解決するんでしょうか?」
「……ふざけるな!!」
ダンッ!!
賢人がテーブルを叩きつけた。
「奴の気まぐれに騙されるな!
あいつは、笑顔で『殺していいですか』って聞く奴だぞ!?
俺の両親を……ただの『掃除』として殺したんだ!
それが悪じゃなくて何なんだ!」
「分かってます! でも……!」
美咲は賢人の剣幕に怯えながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「彼には、悪意がないんです!
私たちが『雑草を抜く』のと同じ感覚で……世界を綺麗にしたいだけなんです!
話し合えば……何かが変わるかもしれないじゃないですか!」
「話し合いだと!?
『君たちはゴミだ』って言われたのが聞こえなかったのか!?」
今度は黒田が叫んだ。
「俺たちは変わろうとしてる! 必死に生きてる!
それを鼻で笑って踏み躙ろうとする奴と、どうやって分かり合えってんだ!」
議論が加熱する。
「殺すべき敵」なのか、「理解すべき迷子」なのか。
「……一理あるわね」
意外にも、サラ・コッホが静かに美咲に同意した。
「えっ? サラさん?」
賢人が驚愕する。
「誤解しないで。私はあいつが危険だと思ってるわ。
でも……『悪人』というよりは、『災害』という表現が的確かもしれない」
サラは腕を組み、天井を仰いだ。
「台風や地震に『善悪』はないでしょ?
彼は、人間というよりは……『現象』に近い。
純粋すぎる理想に従って動いているだけ。
だからこそ、こちらの常識や説得、そして『怒り』さえも通用しない」
「……だとしたら、どうすりゃいいんだよ」
鈴木が頭を抱える。
「話も通じねぇ、力でも勝てねぇ。
おまけに、向こうはこっちを『応援してる』とか言い出す始末だ。
……戦う気が失せるぜ」
「それが奴の狙いかもしれんぞ」
谷が鋭く指摘する。
「圧倒的な力の差を見せつけ、さらに恩(治療)を売ることで、こちらの戦意を削ぐ。……高度な心理戦だとしたら、とんでもないタマだ」
「……いや。奴にそこまでの計算はない」
田治見薫が、新しい酒を開けながら気だるげに吐き捨てた。
「医者から見ても、あいつは異常だ。
計算じゃねぇ。本気で『仲良くしたい』と思いながら、本気で『邪魔なら殺す』と思ってるんだよ。
……脳の構造が、アタシらとは違うのさ」
田治見は自分の手を見た。
「あいつの『修』の力……。アタシの『治』とは違う。
アタシは代償(肉)を払って治すが、あいつは『直れ』と命じるだけで理を書き換えた。
……あんなデタラメな存在、生かしておけばいつか世界ごとおかしくなるぜ」
議論は堂々巡りを繰り返す。
殺すべきか、対話すべきか。
災害として備えるべきか、悪として裁くべきか。
夜が更けても、誰一人として明確な答えを出せない。
東は、沈黙を守ったまま、彼らの議論を聞いていた。
(……迷いが生じているな。組織としては最悪の状態だ)
圧倒的な暴力と、不可解な善意。
六名の振る舞いは、対策局の結束——「正義」という基盤を、根底から揺さぶっていた。
「……答えは出んよ」
東が静かに告げた。その一言で、場が静まる。
「彼が神か悪魔か、あるいはただの子供か……それは今の我々には判断できない。
だが、一つだけ確実なことがある」
東は窓の外、漆黒の闇を見据えた。
「奴は『リセットによる平和で退屈な日本』を望んでいる。
能力のない世界。……つまり、ここにいる君たちの『力』も、存在意義も、全て無かったことにする未来だ」
東は全員を見渡した。
「君たちは、それを望むか?
鈴木君は山を守る力を。髙橋君は家族を守る力を。
サラ君たちは生きる場所を。そして音無君は……戦う力を。
全て捨てて、ただの無力な人間に戻りたいか?」
「……」
全員が押し黙る。
以前なら「イエス」と言ったかもしれない。だが、今は違う。
「……嫌ですね」
髙橋が眼鏡を直した。
「この力があったから、守れたものがありますから」
「俺もだ」
賢人が拳を握る。爪が食い込むほどに。
「俺は……この力で、両親の無念を償わなせる。
無かったことになんて、させない」
「……ならば、方針は変わらん」
東が結論を下した。
「六名は、我々の存在を否定する『脅威』だ。
それが善意だろうが悪意だろうが……我々は、我々の未来を守るために、奴を止めるしかない」
議論は一応の着地を見た。
だが、それは論理的な解決ではない。生き残るための「決意」の再確認に過ぎない。
心の奥底に刺さった「六名の悲しげな笑顔」という棘は、抜けることなく彼らの胸に残り続けていた。
本当にこれでいいのか? 彼を殺すことは、正義なのか?
答えの出ない問いを抱えたまま、対策局の夜は更けていく。
眠れぬ夜の向こうに、次なる試練が待ち受けていた。
■奥多摩・隠れ家(居間)
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!! 酷いよぉぉ!!」
古びた平屋の居間に、六名の泣き声が響き渡っていた。
六名は、ちゃぶ台に突っ伏して、声を上げて泣きじゃくっていた。
「よしよし……。お可哀想に、六名様」
宗方が、六名の背中を優しくさすり続けている。
その手つきは慈愛に満ちているが、フードの奥のガラス玉のような瞳には、対策局への底知れない憤怒の炎が揺らめいていた。
「なんで……なんで分かってくれないんだよぉ……!」
六名は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えた。
「僕は……僕は、彼らのこと、本当に凄いと思ってたんだ!
日本のために頑張ってて、強くて、カッコよくて……!
だから、応援してたのに!」
六名は拳で畳を叩いた。
「『信用できない』だって……!
僕、あんなに正直に話したのに! キムチだって、みんなで食べてほしかっただけなのに!」
拒絶された悲しみ。
彼の論理では、「音無の両親を殺したこと」と「平和で退屈な日本を願う気持ち」は矛盾しない。
だからこそ、なぜ音無たちが怒り、自分を拒絶したのかが、感情レベルで理解できず、ただただ悲しかった。
「……ええ、ええ。分かります」
宗方の関節が、ギチギチと軋んだ音を立てる。
「愚かな連中です。六名様の純粋な御心を、土足で踏みにじるとは。
……やはり、あの時皆殺しにしておくべきでした」
「ダメだよぉ……!」
六名は泣きながら首を振った。
「殺しちゃダメだ……! あんなに日本の為に頑張っているのに…でもなんでぇ……!」
「……はい。仰せの通りに」
宗方は六名を抱きしめた。
硬いプラスチックの体だが、六名にとっては一番安心できる場所だ。
(……許せません)
宗方は、泣きじゃくる主人の頭を撫でながら、冷徹な思考を巡らせた。
(六名様をこれほどまでに傷つけた彼らを、生かしておくなど言語道断。
……ですが、私が暴力を振るえば、六名様はまた悲しまれる)
宗方は葛藤した。
主人の敵は排除したい。だが、主人の命令(乱暴はダメ)には逆らえない。
(ならば……)
宗方の中で、一つの決意が固まった。
(暴力は封印しましょう。
私が単独で赴き……彼らと『対話』をしてくればいいのです。
六名様の素晴らしさを、あの愚か者たちに理解させるまで……徹底的に)
「……うぅ……ぐすっ……」
泣き疲れたのか、六名の声が次第に小さくなっていく。
子供のように、宗方の胸に顔を埋めたまま、寝息を立て始めた。
「……おやすみなさいませ」
宗方はそっと六名を持ち上げ、布団へと運んだ。
涙の跡を拭い、掛け布団を丁寧に直す。その仕草は、聖母のように優しかった。
宗方は立ち上がり、部屋の隅で気まずそうにスマホをいじっていた清原を見た。
「……清原さん」
「うおっ、ビックリした。……寝たかい?」
清原が小声で返す。
「ええ。……しばらく、六名様をお願いします」
「ん? どっか行くのか?」
「少し、忘れ物を取りに」
宗方はエプロンを外し、ウインドブレーカーのジッパーを上げた。
その全身から、普段の穏やかさとは違う、冷たく鋭いプレッシャーが放たれる。
「すぐに戻ります。……もし六名様が起きられたら、『お茶菓子を買いに行った』とでも伝えてください」
「あ、ああ……分かったけど。無茶すんなよ?」
清原が引きつった笑みを浮かべる。
「ご心配なく。……私はただの、お使いですから」
宗方は六名の寝顔に一礼すると、闇夜へと足を踏み出した。
シュンッ……。
音もなく姿が消える。
夜の帳が下りた世界へ、主人の心を救うためだけに動く「人形」が解き放たれた。
その行き先は、対策局の本部——あの洋館だった。




