第44章 三つ巴の現場
■東京郊外・氷の柱の前
「ア、アァ……! テメェェェ!!」
氷川智宏の喉から、理性を焼き切れた獣のような咆哮がほとばしった。
目の前にいる音無賢人。自分を地獄(実験体)へ追いやった元凶。
トラウマと憎悪が沸点を超え、氷川は手枷を嵌められたまま、血走った目で両手を突き出した。
「死ねぇぇぇ!!」
ヒュオッ!
至近距離から、鋭利な氷の刃が賢人の眉間へと放たれる。
賢人は身構えるが、距離が近すぎる。
(——マズい!)
その瞬間。
「——『清』、鎮まれ」
凛とした声が響いた。
グレイの横にいた清原が、パニックになる現場を収めるために、咄嗟に能力を発動したのだ。
バシャァァァァァッ!!
氷川が放った氷刃、そして背後にそびえ立っていた30メートルの巨大氷柱が、一瞬にして分子結合を解かれ、数トンもの「水」となって崩落した。
「うわぁっ!?」
「冷たっ!?」
周囲の野次馬やマスコミが、頭から水をかぶり悲鳴を上げる。現場は水浸しの大混乱だ。
賢人も顔を拭いながら、驚愕に目を見開く。
(……氷が一瞬で水に? 鈴木さん以外にも、能力を無効化する人間がいるのか!?)
その混乱の中、予期せぬ事態が起きていた。
焦った清原が、とっさに能力の範囲を広げすぎ、隣にいたグレイ司令官まで巻き込んでしまったのだ。
「……あ?」
グレイの目が、パチクリと瞬いた。
頭にかかっていた濃い霧が、強風で吹き飛ばされたように晴れていく。
宗方に植え付けられた『平和で退屈な日本を望む』という強烈な暗示が、清原の『清(無効化)』によって強制解除されたのだ。
「……私は、今まで何を……?」
グレイが額を押さえてよろめく。ここがどこで、自分がなぜこんな場所にいるのか、記憶の整合性が取れない。
「おっと、危ない!」
清原が慌てて支えようとする。額には冷や汗が流れている。
(やっちまった……! 範囲指定をミスった!)
「大丈夫ですか、グレイさん? 貧血ですかね?
ほら、私たち『古くからの友人』じゃないですか、肩を貸しますよ」
清原は宗方が作った設定(友人)を必死に取り繕おうとした。
だが、正気に戻ったグレイは、冷徹な軍人の目で清原の手を振り払った。
「……友人?」
グレイは清原を凝視した。
「貴様、誰だ? ……私はなぜ、こんな民間人と馴れ合っている?」
「……あちゃー」
清原は頭をかいた。
「……戻っちまったか」
その一瞬の隙。
敵の司令官が混乱し、側近が動揺したコンマ数秒。
それを「内輪揉め」と判断した髙橋俊明は、絶好の好機を見逃さなかった。
「——今だ!」
シュンッ!
髙橋が瞬時に移動し、呆然としている氷川の腕を掴んだ。
「借りていくぞ!」
「あ?」
ヒュンッ!
氷川の姿が消える。
「なっ、転移か!?」
清原が気づくが遅い。
髙橋は間髪入れずに戻ってきた。今度は、混乱しているグレイの背後に現れる。
「司令官殿も、ご同行願います!」
「なにッ!?」
シュンッ!
グレイの身体が掻き消える。
護衛の兵士たちが銃を構えるより早く、髙橋はさらに賢人と鈴木を回収し、戦場から離脱した。
「き、消えた……!?」
清原が周囲を見回すが、誰もいない。ただ、水たまりだけが残されている。
「……クソッ!宗方や六名様にどう言い訳すればいいか…」
清原が歯噛みする頃には、彼らは既に遥か彼方、洋館の中だった。
■洋館・エントランスホール
シュンッ! ドサドサッ!
空間が歪み、五人の男たちがホールの床に転がり込んだ。
「……う、っぷ。……連続転移はキツいですね……」
髙橋が膝をつき、胃を押さえる。
「……あ? ここは……」
一緒に転移させられた氷川智宏は、目を白黒させていた。
空間転移の感覚に脳が追いついていない。
だが、ふと横を見ると——そこには、憎き音無賢人が膝をついていた。
「……音無ぃぃぃ!!」
状況把握よりも先に、脊髄反射で殺意が体を動かした。
「殺してやる! ここで死ねぇぇ!!」
氷川は叫びながら、至近距離から氷の杭を生成しようとした。
「——『無』、消失!」
賢人が即座に反応する。
氷川の手に集束しかけたエネルギーを、「無」の力で相殺し、霧散させる。
「なっ……!?」
チリリリリリリ…………!!
間髪入れずに、鈴木浩三が懐から出した鈴を激しく打ち鳴らした。
「おらよ! 暴れんじゃねぇ!」
鈴の音がホールに反響する。
氷川の体から力が抜け、指先がただの肉の塊に戻る。
「……クソがっ!!」
氷川はその場にへたり込み、あぐらをかいて不貞腐れた。
「またこのパターンかよ……。やってらんねぇ」
一方、グレイ司令官もまた、床から立ち上がり周囲を見渡していた。
古びた洋館。そして、自分を取り囲む能力者たち。
ここが敵地——「対策局」の本部であることは明白だった。
「……なるほど。拉致されたわけか」
グレイは軍服の埃を払い、冷静さを取り戻していた。
記憶の混濁はあるが、現状分析能力は衰えていない。
「手荒な真似をする。……これが日本の『おもてなし』かね?」
「緊急事態だったのでね。失礼した」
階段の上から声がした。
東義昭が、護衛のサラとアレックスを従えて降りてくる。
サラはM4カービンを、アレックスはハンドガンを、油断なくグレイたちに向けていた。
「久しぶりだな、グレイ司令」
東は階段を降りきり、二人の捕虜の前に立った。
その目は、かつての政治的な駆け引きの時よりも、さらに鋭く光っていた。
「時間がない。単刀直入に聞こう」
東はグレイと氷川を交互に見た。
「氷川君のその様子……。貴様ら、裏で何をしていた?
そして……『六名』とは何者だ? 貴様らは奴と何の関係がある?」
いつ、あの神出鬼没の少年がここへ現れるか分からない。
情報を引き出すための、一分一秒を争う尋問が始まった。
■洋館・エントランスホール
チリリリリリリリ…………
鈴木浩三が鳴らし続ける鈴の音が、ホールを支配していた。
その音色の前では、最強の氷使いも、ただの無力な捕虜に過ぎない。
東義昭は、床に座らされた氷川智宏を見下ろし、冷徹に告げた。
「……氷川君。単刀直入に聞こう。
お前の持っている情報……『六名』と『金剛寺』について、全て吐け」
「ハッ! 嫌だね」
氷川は拘束されたまま、ふてぶてしく唾を吐いた。
「俺に何の得もねぇじゃねぇか。少しは頭使って考えろよ、バァカ」
「……フン」
東は眉一つ動かさず、諭すように言った。
「私は、お前の為を思って言っているんだぞ?」
「はぁ? 俺の為ぇ?」
氷川は呆れ果てたように天を仰いだ。
「情報をタダでよこせって脅しといて、何が『俺の為』だ?
全く……政治家ってのは、頭の湧いてる奴しかいねぇのかよ」
横で拘束されているグレイも、怪訝な顔で東を見ていた。
(……妙だな。東という男は、もっと合理的な交渉をするはずだ。
『お前の為』などという安い情で動く男ではない。……何かの符丁か?)
東は眼鏡の位置を直し、最後の警告を発した。
「……そうか。それがお前の選んだ道だな。
だが、まだ助かる。もう一度だけ言うぞ。
……早めに口を割った方が、『五体満足でいられる』という意味で、お前の為だぞ?」
「あぁん? 脅しかよ。怖くもなんとも——」
「——おい、東。交渉決裂か?」
東の背後から、気だるげな、しかしドスの利いた声が響いた。
ジャージ姿の女——田治見薫が、缶チューハイ片手にぬらりと現れる。
「……なんだ、このおばさん?」
氷川は露骨に顔をしかめ、鼻の前で手を振った。
「うわっ、酒くせぇ〜! アル中かよ?
おいおい、こんな薄汚ねぇババアまで出てきて、対策局ってのは人材不足なのか?」
ピキッ。
その場の空気が凍りついた。
鈴木の鈴の音が一瞬ブレる。
音無賢人が、青ざめた顔で一歩下がった。
「……あ?」
田治見の顔に、不自然なほど満面の笑みが張り付いた。
こめかみに青筋を浮かべたまま、目は笑っていない、能面の笑顔。
「……今、なんつった? クソガキ」
田治見はよろめきながら氷川に近づき、後ろ手に拘束されている氷川の両手首を、上からガシッと掴んだ。
「あぁ!? なんだよオバサン!」
氷川は田治見を睨みつけた。
「男に相手にされないからって、俺の手ぇ勝手に触ってんじゃねぇよ!
欲求不満なら他所でやれ!」
「……お、おい! もうやめとけ……!」
鈴木が震える声で警告する。彼は知っているのだ。この女が「医療」と称して何をするかを。
「謝れ! 今すぐ謝るんだ氷川!」
「あぁ? なんだよ、いつぞやの黒スーツじゃねぇか」
氷川は鼻で笑った。
「やめろって何をだよ? ビビってんのか図体だけでかいクズが」
「……いや、もう遅いです」
音無が、見るに耐えないというように目を伏せた。
「手遅れだ……」
「は? 何訳わかんねぇこと言ってんだ?」
氷川は理解できなかった。
なぜ、自分を捕まえた側の人間たちが、こんなにも怯えた顔をしているのか。
田治見は、掴んだ氷川の手首を愛おしそうに撫で回しながら、鈴木を見た。
「おい鈴木。……鈴、止めろ」
「えっ!? だ、だが田治見……」
「いいから止めろ!! オペの邪魔だ!!」
鈴木は「ひぃっ」と悲鳴を上げ、慌てて鈴を止めた。
静寂。
音が止んだ瞬間、氷川の脳内に歓喜が走る。
(……バカかコイツら!!)
氷川は内心で狂喜した。
(鈴を止めやがった! 目の前には無防備なアル中女!
チャンスだ! 一瞬でコイツを氷漬けにして、人質にとってやる!
全員皆殺しにしてやるぜ!!)
氷川は意識を集中する。
手首から冷気を放出し、田治見の腕ごと凍結させるイメージを——。
「——『田』」
ボソリと、魔女が呟いた。
「——『治』、切断」
ブチブチブチッ!!!!
「……え?」
氷川が冷気を出そうとした、その刹那。
生温かい液体が顔に飛び散った。
手首から先の感覚がない。
冷気が出ない。
いや、そもそも——手がない。
「ギャ……?」
氷川が自分の腕を見る。
そこには、手首から先が骨ごと綺麗に引き抜かれ、鮮血を噴き出す断面だけがあった。
そして、田治見の手には、切り取られたばかりの「氷川の両手」が握られていた。
「……ぎ、ぎぃ……」
痛みが、遅れて脳に到達する。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
絶叫。
魂を削るような悲鳴が、洋館のホールに木霊する。
氷川はのたうち回り、血を撒き散らした。
「うっせぇな。クソガキが…」
田治見は、引き抜いた両手をシャーレへ放り投げた。
そして、血まみれの手で缶チューハイを呷る。
「……ヒッ……」
グレイでさえも、その猟奇的な光景に顔面蒼白となり、言葉を失っていた。
軍隊の拷問など生温い。これは、純粋な暴力と医術の悪魔合体だ。
田治見は、のたうち回る氷川の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「さて、患者さんよぉ。
次はどこを治して欲しい?
舌か? それとも目玉か? ……アタシは名医だからな、望み通りにしてやるよ」
「ひ、ひぐッ……! た、助け……!」
「情報は?」
「い、言います! 言いますぅぅぅ!! 許してぇぇぇ!!」
鈴木と音無は、胃の辺りを押さえて視線を逸らした。
東だけが、涼しい顔で手帳を開いた。
「……だから言っただろう。『お前の為だ』と」
洋館の夜は、まだ始まったばかりだった。
■洋館・エントランスホール(地獄絵図)
「ぎゃあああああ!! 言う! 言うからぁ!!」
氷川智宏の絶叫が、高い天井に反響する。
手首を失った腕を振り回し、床をのたうち回るその姿は、かつての傲慢な殺人鬼の面影など微塵もなかった。
「あぁ? 言うって言ってもよぉ」
田治見薫は、返り血を浴びた顔でニタリと笑い、氷川の髪を掴んで引き起こした。
「さっきから『知らねぇ』『分からねぇ』ばっかりじゃねぇか。
アタシは気が短いんだよ。……次はどこだ? 足か? 耳か?」
「本当に知らねぇんだよぉぉ!! 金剛寺がどこに行ったかも、六名って奴のことも!!
俺はただ……金剛寺に言われてお前らを襲っただけだぁぁ!!」
氷川は涙と鼻水を垂れ流して懇願した。
嘘ではない。彼は本当に、使い捨ての駒として何も知らされていないのだ。
だが、田治見には通用しない。
「チッ。しぶといねぇ……。
口が堅い患者は嫌いだよ。……中身(内臓)見ながら話せば素直になるか?」
田治見は楽しげに、メス(に見立てた指先)を氷川の腹部に這わせた。
「う、うっぷ……」
その光景に、鈴木浩三が口元を押さえて顔を背ける。
「……キツいな、こりゃ」
音無賢人も顔面蒼白だった。
(あいつは憎い。殺したいほど憎い。……だが、これは……)
生理的な嫌悪感が、復讐心を上回ろうとしていた。
そして、その場にいたもう一人の捕虜、グレイ司令官は——。
「……あ、あ……」
ガタガタと震え、全身から冷や汗を噴き出していた。
戦場で数多の死を見てきた彼でさえ、目の前の女が「人間」だとは思えなかった。
「……Monster(化物)……。あれは人間ではない……」
「……田治見先生」
東義昭が、見るに見かねて声をかけた。
「やり過ぎるなよ? 殺しては元も子もない」
「分かってるよ。死なないギリギリを攻めるのが医者の腕だろ?」
「……フン。私は別室でグレイと話す。ここは任せるぞ」
東はグレイの腕を掴み、立たせた。
「行くぞ、司令官。……あんな目に遭いたくなければ、君は紳士的に振る舞うことだ」
グレイは抵抗しなかった。いや、腰が抜けて出来なかった。
護衛についたサラとアレックスも、氷川に同情的な視線を送りつつ、逃げるようにその場を離れた。
「……Let's go. ここにいたら私たちまでおかしくなりそうだわ」
■洋館・食堂
「……たすけて……ゆるして……」
遠くのホールから微かに響く、氷川の断末魔のような悲鳴。
食堂で一人、後片付けをしていた幸田美咲の手が止まった。
その声。
あの日、自宅のリビングで両親を殺した男の声。
あの軽薄な声が、今は無様に命乞いをしている。
(……怖い)
最初はそう思った。震えが止まらなかった。
だが、耳を澄ませているうちに、美咲の中で奇妙な変化が起きた。
(……あれ? なんでだろう)
美咲は自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動は落ち着いている。震えも止まっている。
(怖く、ない。……むしろ、これは……)
ドス黒い、熱い塊が胃の腑からせり上がってくる。
それは「同情」でも「恐怖」でもない。
(……スカッとする……?)
両親を奪った怪物が、為す術もなく泣き叫んでいる。
その事実が、傷ついた心に歪んだ安らぎを与えていた。
そして自然と氷川のいる部屋の前まで移動していた。
「……もっと」
美咲は無意識に呟いていた。
「もっと、叫べばいい」
自分の口から出た言葉にハッとして、美咲は口元を押さえた。
(私……何を考えて……)
■洋館・応接室
「……さあ、話してもらおうか」
東がソファに座ると、グレイは対面の席に崩れ落ちるように座り込んだ。
後ろには、銃を構えたサラとアレックスが控えている。
「拷問は……いらない」
グレイは虚ろな目で、聞かれてもいないことを語り始めた。
「私は……気づいたら、知らない男が隣にいたんだ。
ラフな格好の、日本人の男だ。……私は彼を『古くからの友人』だと思い込んでいた」
「友人?」
東が眉をひそめる。
「ああ。名前は……『清原』と呼んでいた気がする。
だが、なぜ友人だと思ったのか……いつ出会ったのか、記憶が霧のように霞んでいるんだ」
グレイは頭を抱えた。
「操られていたのか……? この私が?」
「……洗脳能力か」
東が呟く。
「それで? 貴様は音無君をどうするつもりだった?」
「……回収し、本国へ送るつもりだった」
グレイは懺悔するように吐き出した。
「彼のステルス能力を解析し、軍事転用する。……あるいは、制御できないなら脳を弄って、生体兵器として……売り飛ばすつもりだった」
後ろで聞いていたサラが、悲しげに目を伏せた。
「……やっぱりね。あなたはそういう人間よ、グレイ」
「だが!」
グレイは顔を上げた。
「『六名』という名前は知らない! 誓って言う!
私の記憶にあるのは、清原という男と……ぼんやりとしか思い出せないが『宗方』というフードの男だけだ…」
「宗方……」
六名の従者。転移能力者。
全ての糸がそこに繋がる。
「……分かった。情報はそれだけか?」
東が立ち上がろうとした、その時。
『——東! 大変だ!』
無線から、鈴木の焦った声が飛び込んできた。
『エントランスに……変な奴が入ってきやがった!』
「なんだと!?」
■洋館・エントランスホール
「あぁぁぁぁぁ!! いだいぃぃぃ!!」
氷川の悲鳴が続く中、田治見が「次はどこにするかねぇ」と笑っていた、その背後。
シュンッ!
何の前触れもなく。
センサーも反応せず。
空間が歪み、一人の人物が唐突に出現した。
ウインドブレーカーのフードを被り、フリルのついたエプロンをつけた人物。
「なっ……!?」
鈴木が鈴を構える。音無が身構える。
だが、その人物は襲ってくる様子もなく、丁寧にお辞儀をした。
「……お邪魔します。そしてお初にお目にかかります」
無機質で、抑揚のない声。
フードの奥から覗く、ガラス玉のような瞳が、血まみれの田治見と氷川を静かに見据えた。
「宗方です。……お取込み中、失礼致します」
最強の要塞の中心に、敵の「運び屋」が、音もなくエントリーしていた。




