第4章 怯える少女の能力と狙われる幸運の文字
◾︎秋の深まる山中
色づいた木々の間を、大柄な男が一人、黙々と歩いていた。鈴木浩三だ。
彼は慣れた手つきで、けもの道に設置した箱罠の点検を行っていた。
(……ふん。今日も空振りか)
罠に獲物がかかっていないことを確認し、鈴木は小さく息を吐いた。
世間では連日、覚醒者による犯罪や、それに対する差別的なデモのニュースが流れている。だが、山で生きる鈴木にとって、自分がどう見られようと知ったことではなかった。
(俺は俺だ。文句がある奴は山まで言いに来やがれってんだ)
だが——。
鈴木の脳裏に、先日共に戦った髙橋俊明の顔が浮かぶ。彼は家族を持ち、社会の中で普通に暮らそうとしている善良な男だ。そんな彼のような人間までもが、「覚醒者」というだけで白い目で見られる現状。
(……許せねぇな)
一部の馬鹿な覚醒者が暴れるせいで、髙橋のような真面目な奴が割を食う。
郵便局の金子のような手合いを見ると、無性に腹が立つのはそのせいだった。
「……俺にできること、ねぇかな」
鈴木は誰に言うでもなく呟き、解体作業のために山小屋へと戻った。
山小屋の中、吊るされた鹿の解体作業が佳境に入った頃だった。
コンコン、と木製のドアが控えめにノックされた。
「……開いてるぞ」
鈴木が血のついたナイフを持ったまま答えると、ドアが開き、作業服姿の男がひょっこりと顔を出した。髙橋だ。
「お邪魔しますよ、鈴木さん」
「……なんだ、髙橋さんか。アンタ、『橋』の能力で転移できるんだろ? わざわざノックしなくても勝手に入ってくりゃいいのに」
鈴木が呆れたように言うと、髙橋は苦笑して手を振った。
「いやいや、それはマナー違反でしょう。それに、いきなり空間が歪んで俺が出てきたら、鈴木さんが驚いてそのナイフ投げつけてくるかもしれないじゃないですか」
「……ちげぇねぇ」
鈴木は鼻で笑い、手を拭いてパイプ椅子を勧めた。
地質調査員の髙橋とは、山で顔を合わせるうちに自然と口を聞くようになり、今では数少ない友人となっていた。
「で、今日は何の用だ? また珍しい石でも見つけたか?」
「あー、いや。今日は確認に来たんですよ。……鈴木さん、そういえば感謝状、いつ受け取りに行くんですか?」
「あん? 感謝状?」
鈴木は眉間に皺を寄せた。
「なんの話だ」
「ははは、やっぱり。……だーから言ったでしょう? たまには麓の自宅に戻って、郵便受けも確認しないとダメだって」
髙橋はやれやれといった顔で肩をすくめる。
「あの郵便局の一件ですよ。警察署長が、俺たち二人に感謝状を贈呈したいそうです。金子って強盗犯を捕まえた功績でね。で、いつ署に行くか、俺と日程を合わせたかったんですが」
「……ケッ。くだらねぇ」
鈴木は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「俺はそんなもん貰うとは言ってねぇぞ。だいたい、警察署まで行くのが面倒だ。ここから車でどれくらいかかると思ってんだ」
「まあまあ、そう言わずに。悪い話じゃないでしょう? 世間の風当たりが強い今、覚醒者が表彰されるってのは意味があることですよ」
髙橋は諭すように言い、ニカっと笑った。
「それに移動なら、俺と一緒なら『一瞬』ですから」
「……あ?」
「俺の空間転移を使えば、ここから警察署の裏口までひとっ飛びです。ガソリン代もかかりませんよ」
鈴木は少し考え込み、渋々といった様子で頷いた。
「……確かにな。アンタのタクシーなら悪くねぇ」
「タクシー扱いですか。……ま、いいでしょう」
鈴木は解体中の鹿に視線を戻した。
「いつでもいいぞ。アンタに任せる」
「分かりました。じゃあ警察と連絡を取り合って、都合の良い日が決まったらまた教えに来ますよ」
髙橋は立ち上がり、出口へと向かう。
去り際、彼は振り返って言った。
「鈴木さんも、たまには麓に降りてきてくださいよー。ずっと山籠りじゃ、世間の空気が分からなくなりますから」
「ウルセェ~! 余計なお世話だ。さっさと帰りやがれ」
鈴木の罵声に、髙橋は笑いながら手を振り、空間の歪みの中に消えていった。
一人になった鈴木は、一仕事終えた鹿肉を冷蔵庫にしまうと、部屋の隅にある巨大な金属製の箱罠を背負い込んだ。
普通の人間なら二人掛かりでも持ち上がらない鉄塊を、彼は軽々と担ぎ上げる。
「……さて、もう一仕事行くか」
鈴木は軋むような重みを背中に感じながら、再び夜の帳が下り始めた山奥へと足を踏み入れた。
◾︎夜 麓の町。
田舎道の県道沿いにあるコンビニエンスストアの駐車場に、ふわりと陽炎が立ち、髙橋が姿を現した。
「ふぅ……。さて、タバコタバコ」
彼は手慣れた様子で気配を消して現れ、そのまま自動ドアをくぐった。
店内は明るいが、客の姿はまばらだ。
レジでタバコと缶コーヒーを買い、ふと雑誌コーナーに目をやる。
そこには、深々と帽子を目深に被り、大きなマスクをした華奢な女の子が一人、ファッション誌を立ち読みしていた。
(ん? 見ない顔だな……)
この辺りは狭いコミュニティだ。住人の顔は大体把握している髙橋にとって、その少女の纏う「他人を拒絶するような空気」は異質に映った。
高校生くらいだろうか。華奢な肩が、心なしか震えているようにも見える。
「……ま、いいか」
髙橋は店を出て、駐車場の一角でタバコの封を切ろうとした。
その時だ。
「ギャハハ! マジで?」
「超ウケるんですけどー!」
コンビニの入口付近の灰皿の前で、ヤンキー風の若者三人が地べたに座り込み、酒を飲みながらタバコをふかしていた。
どこにでもいる、田舎の不良たちだ。
髙橋は彼らを無視して、能力で家に帰ろうとした。
だが、ヤンキーの一人が店の中を指差して、下卑た声を上げた。
「おい見ろよ、あそこの女」
「あーん? 誰あれ。この辺じゃ見ねぇ顔だな」
「帽子深く被っちゃってさぁ、芸能人気取りかよ? ケケケッ」
リーダー格の男が、吸い殻を地面に捨てて立ち上がった。
「おい、ちょっとチョッカイかけてやろうぜ。暇つぶしによぉ」
「いいっすねぇ! 顔見てやりましょうよ」
彼らはニヤニヤと笑いながら、立ち読みする少女に熱視線を送っている。
(……おいおい)
髙橋は、歪ませかけた空間を元に戻した。
少女はまだ、外の不穏な空気に気づかず本を読んでいる。
(やり過ぎるようなら、止めるか……)
髙橋はコンビニの壁の陰に身を寄せ、タバコのフィルムを剥がすのに手間取っているフリをしながら、じっと様子を伺うことにした。
コンビニの雑誌コーナー。
静寂を破るように、ニヤけた男たちの声が響いた。
「へーい、そこのお姉さん。こんばんはー」
幸田美咲は肩をビクリと震わせ、恐る恐る顔を上げた。視界を塞ぐように、三人の不良が立ちふさがっている。
「……こ、こんばんは……」
「声ちっさ! つーかさ、この辺じゃ見ない顔だね。もしかして芸能人?」
「あー、ありえる! 隠れてる感じするもん!」
リーダー格の男——長根が、美咲の目深に被った帽子に手を伸ばした。
「よかったらさぁ、その帽子とマスク外して顔見せてよ」
「ひっ……! や、やめてください!」
美咲が拒否するのも構わず、長根は乱暴に帽子をひったくった。
「おー、結構可愛いじゃん!」
「マジ? 俺にも見せろよ!」
「あ、返して、返してよぉ!」
美咲が手を伸ばすが、不良たちはバスケットボールのように帽子をパス回しし始めた。
「ほーら、こっちこっち!」
「届かねーよチビ!」
「うぅ……返して……!」
美咲の目に涙が浮かんだ、その時だった。
「——いい加減にしろ」
宙を舞っていた帽子を、横から伸びた手がガシッと掴み取った。
髙橋俊明だ。
「あ? なんだオッサン」
「どけ」
髙橋は低く唸ると、不良たちの間を割って入り、美咲に帽子を差し出した。
「ほら、返すよ」
「あ、ありがとうございます……」
美咲が帽子を受け取ると、面白くなさそうに長根が髙橋の胸ぐらを掴んだ。
「おいコラ、オッサン。でしゃばってんじゃねぇよ」
「……店の人に迷惑がかかる。やるなら外だ」
「あぁ? 上等だよ。表出ろ」
四人はコンビニの自動ドアを出て、薄暗い駐車場の裏手へと向かう。
美咲は震える手で帽子を被り直しながら、心配そうに髙橋の背中を見つめていた。
駐車場の裏。街灯の光も届かない暗がりで、長根は下卑た笑みを浮かべた。
「オッサン、運が悪かったな。俺は『覚醒者』なんだよ!」
長根が地面に手を叩きつけると、アスファルトを突き破って太い植物の根が飛び出した。
「俺の名は長根! 『長』と『根』の能力で、根っこを自在に伸ばして操れる!」
ドゴゴゴ……と地鳴りのような音を立てて、無数の根が槍のように髙橋に狙いを定める。
「今更謝ったって許してやらねぇから覚悟しろよ!」
「待ってくれ」
髙橋は静かに片手を挙げた。
「ここで君が能力を使ったって、何の得にもならない。人生を棒に振るな! その力は正しい事に使え!」
一瞬の沈黙の後、不良たちは腹を抱えて笑い出した。
「ギャハハハ! 何言ってんだコイツ!」
「説教かよ! ウケる!」
「ウルセェよ!」
長根は殺意のこもった目で髙橋を睨んだ。
「ここで俺が能力を使ったってなぁ、証拠は何も残らないんだよ! オッサン一人が行方不明になるだけだ!」
ズドォォォン!
アスファルトを捲り上げながら、巨大な根が髙橋を串刺しにしようと迫る。
「……仕方ない」
髙橋は溜息をつくと、迫り来る根ではなく、長根の目の前に一瞬で移動した。
「は……?」
長根が反応するより早く、髙橋はその胸ぐらを掴んだ。
「——飛ぶぞ」
ヒュンッ!
次の瞬間、二人の姿はコンビニの駐車場から消え失せていた。
◾︎夜 麓の町 上空3000m
「う、うわあああああああああ!!??」
長根の視界が反転していた。
足元には何もない。遥か下方に、豆粒のような街の灯りが見える。
上空数千メートル。極寒の風が頬を切り裂く。
「な、なんだこれ!? 落ちてる!? 俺たち落ちてるぅぅ!?」
「ああ、落ちてるな」
一緒に落下している髙橋は、まるで散歩でもしているかのような平然とした口調だった。
「お、おっさん! こんな事をしてタダで済むと思うなよ!」
「お前もタダで済むとは思うなよ」
「ひぃっ!?」
重力加速度が増していく。死へのカウントダウン。
長根の顔から血の気が引き、涙と鼻水が風に舞う。
「ご、ごめんなさい! 助けてください! もうしません! 許して!」
「助けない」
「なんでだよぉぉぉ! このまま地面にぶつかったら死ぬぞ! この人殺し!」
長根の絶叫に対し、髙橋は冷徹に言い返した。
「人殺し? 違うな。ただ高い所から落ちただけだろ?」
「えっ……」
「さっきお前が言った通りだ。『俺が能力を使ったって証拠は何も残らんぞ』」
「い、いやだぁぁぁ! 死ぬぅぅぅ!」
地面が猛烈な勢いで迫ってくる。
長根は白目を剥き、泡を吹きながら断末魔の叫びを上げた。
「ギャアアアアアアア!!」
激突の寸前。
シュンッ!
二人の体が再び消失した。
ドサァァァッ!
柔らかい衝撃。
二人が転移したのは、少し離れた牧場の牛舎。積み上げられた牧草ロールの上だった。
「……ふぅ」
髙橋は服についた牧草を払いながら立ち上がった。
横には、白目を剥いてピクピクと痙攣している長根が転がっている。
「おい、起きろ」
髙橋は長根の首根っこを掴んで引きずると、再びコンビニの裏手へと転移した。
「うわっ!? な、長根!?」
「お、お前ら急に消えて……何があったんだよ!」
残されていた二人の不良が腰を抜かす。
髙橋は気絶した長根を彼らに放り投げた。
「もう悪い事はするなよ?」
「ひっ……! はい!」
不良たちは泡を吹くリーダーを抱え、脱兎のごとく逃げ去っていった。
「あの、ありがとうございます……」
駐車場の隅で震えていた美咲が、蚊の鳴くような声でお礼を言った。
「怪我はないかい?」
「は、はい……」
「……夜も遅い。またあんな連中に絡まれたら大変だ。良かったら家まで送ろうか?」
美咲は少し考え、髙橋の誠実そうな目を見て、小さく頷いた。
「……よろしくお願いします」
「住所は?」
「あ、えっと……〇〇町の……」
美咲が住所を告げると、髙橋は「大体あの辺か」と頭の中で地図を描いた。
「じゃあ、行くよ」
「え? 歩いて……?」
シュンッ。
景色が一瞬で切り替わった。
目の前には、美咲の自宅の玄関。
「えっ……!? えぇっ!?」
美咲は目を丸くして、髙橋と自宅を交互に見た。
「あー、ごめんごめん。最初に言うべきだったね」
髙橋は頭をかいた。
「俺も『覚醒者』なんだ。空間を繋げる能力でね」
美咲はポカンとしていたが、やがてその表情が和らいだ。
「……初めて、優しい覚醒者さんに出会いました」
「え?」
美咲は俯き、消え入りそうな声で言った。
「……私も覚醒者なんです。でも、覚醒者ってだけで学校で差別されて……怖くて、高校辞めちゃったんです」
髙橋は優しく微笑み、美咲の肩に手を置いた。
「それは大変だったね……。でも、見ての通り、俺みたいに普通に暮らそうとしてる覚醒者もいる」
「……はい」
「今、この世の中は変わろうとしているんだ。希望を持って、強く生きるんだよ?」
美咲は顔を上げた。その瞳には、今日初めての明るい光が宿っていた。
「……はい!」
美咲は深くお辞儀をすると、家の中へと入っていった。
「さて、俺も帰るか」
髙橋は満足げに頷くと、自身の自宅前へと転移して姿を消した。
その一部始終を、闇の中からじっと見つめる男がいた。
偶然通りかかった近所の男、氷川智宏だ。
「……へぇ」
氷川はニチャリと粘着質な笑みを浮かべた。
(片方はワープで消えたが……ここの家の引きこもりお嬢さん、覚醒者だったのか)
氷川の視線が、美咲の家の表札に止まる。
『幸田』の文字。
(幸田……幸……)
氷川の脳内で、下衆な欲望が回路を繋いだ。
(覚醒者の能力は名前の漢字に関係する……。『幸田』となれば、まさか『ラッキー』が舞い込んでくる能力か?)
もしそうなら、利用価値は計り知れない。金、女、ギャンブル……。
「……もしかすると、親もそうかもな?」
氷川は舌なめずりをしながら、暗い情熱を瞳に宿し、獲物を狙うハイエナのようにその家の周りを徘徊し始めた。
「……こいつはツイてるぜ」
◾︎都内 移動中の車内
一方その頃。都内を移動中の黒塗りのバンの後部座席で、サラ・コッホは暗号化された通信機を握りしめていた。
「……こちら『ハミングバード』。ターゲット、音無賢人と思わしき痕跡を発見しました」
スピーカーの向こうから、ノイズ混じりの、しかし氷のように冷徹な男の声が響く。上官のグレイだ。
『……でかした。先日見せた「ヤクザ事務所」の件以来、ようやく尻尾を出したな』
「はい。警察の内部データと照合し、現在地周辺を特定しました」
『了解した。先方はこちらの身分を知らぬ。あくまで穏便に、しかし首尾よく確保せよ』
「了解」
サラは一度言葉を切った。
喉の奥が乾く。あの司令室で聞かされた「兵器運用」の話が脳裏をよぎる。だが、確認せずにはいられなかった。
「……グレイ司令。一つ、よろしいでしょうか」
『なんだ』
「音無を確保した後は……やはり、予定通りなのですか?」
一瞬の沈黙。
通信機越しの空気が、さらに温度を下げた気がした。
『……質問の意図が分からんな、サラ。あの時言ったはずだ。彼は貴重な検体であり、最高のステルス兵器になると』
グレイは事務的に、今日の天気を伝えるような口調で続けた。
『自我を塗り潰して忠実な工作員にするか、あるいは脳を解剖して能力を解析するか。……どちらにせよ、彼に「人間」としての権利など必要ない。あれはただの「見えないナイフ」だ』
サラは息を呑んだ。
両親の仇を探す青年の姿。それが「ナイフ」として消費される未来。
「……っ、失礼いたしました! 任務へ戻ります」
『……期待しているぞ』
プツリ。通信が切れた。
サラは大きく息を吐き出し、シートに深く沈み込んだ。その顔色は、先ほどまでとは比べ物にならないほど蒼白だった。
「ふぅ……」
運転席のアレックス・ターナーが、バックミラー越しに口笛を吹いた。
「お前、根性あるな。あの『氷のグレイ』相手によくあんなこと聞けたもんだ。俺には逆立ちしたって真似できん」
「……ねえ、アレックス」
サラはアレックスの軽口を無視し、震える手で自身の二の腕を抱いた。
「覚えてる? 5年前の……中東での『サンド・ヴァイパー作戦』」
その単語が出た瞬間、アレックスの眉間がピクリと跳ねた。車内の空気が一瞬で張り詰める。
「……よせ。思い出したくもない」
「私は忘れないわ。砂漠の地下施設で行われた、薬物による洗脳実験。……『失敗作』とされた被験者たちがどうなったか」
サラの声が恐怖で掠れる。
「グレイ司令は、あの地獄を再現しようとしている。……最初は私も、音無賢人のことを『ヤクザを襲う危険な幽霊』だと思っていたわ」
サラは膝の上で拳を握りしめた。
「でも、違った。パトカーの映像で見た彼は、ただ両親を殺されて泣いている、普通の男の子だった。……あんな子を、またあの中東の子供たちみたいに『廃人』にするなんて……私、もう嫌なの」
アレックスがハンドルを握る手に、ギリリと力がこもる。革の手袋が悲鳴を上げるほど強く。
「……俺もだ。あのアフガンの地獄で俺たちは誓った。『二度と子供を道具にはさせない』……それを破るわけにもいかん」
車内に重苦しい、しかし共有された決意が満ちる。
アレックスは何も言わず、ただ黙って前を見つめていた。だが、その瞳からは「任務遂行」という機械的な色は消え失せていた。
しばらくして、サラは顔を上げた。
「ねえ、アレックス」
「……なんだ」
「今回の任務……『音無発見ならず』のままの方が、良いんじゃないかしら」
キキーッ。
タイヤが僅かに鳴った。アレックスが思わずブレーキを踏みかけたのだ。
「お前、まさか……任務をサボタージュする気か?」
「サボタージュじゃないわ。……見つからなかった、それだけよ」
サラの声は震えていたが、瞳は真っ直ぐだった。
「彼を確保して本国へ送れば、彼は人として死ぬ。うまく洗脳出来たならそれこそ世界の危機よ。なら、私たちが『無能』だったことにして、彼を逃した方が……」
「……バレるぞ」
アレックスは冷静に指摘した。
「相手はあのグレイだ。俺たちの動きに不審な点があれば、即座に消される。軍法会議どころじゃ済まない。……破滅するぞ?」
「分かってるわ」
サラは自虐的に、しかし晴れやかに笑った。
「でも……私たちの行動一つで、世界の破滅の危機が回避できるなら……私たちが破滅するくらい、安いものじゃない?」
「サラ……」
アレックスは深く溜息をつき、しばらく腕を組んで考え込んだ。
信号が赤から青に変わる。
アレックスはアクセルを踏み込むと同時に、ニヤリと、凶暴だが人間味のある笑みを浮かべた。
「……ま、それもそうだな」
「アレックス?」
アレックスはナビの目的地設定を解除し、行き先を警察署の方角へ定め直した。
「よし、プランBだ。一応、警察署には行く。音無の情報を探るフリをして……もし万が一、奴との接点を持てたら、あるいは本人に会えたら」
「……助言するのね?」
「ああ。『身を隠せ、アメリカが狙ってる』ってな。……俺たちの命がけの告げ口だ」
サラの表情が、ようやく明るく緩んだ。それは任務の重圧から解放された、本来の彼女の笑顔だった。
「ありがとう、アレックス。……あなた、図体だけじゃなくて器も大きかったのね」
「一言多いんだよ、お前は」
二人は軽口を叩き合いながら、それぞれの決意を胸に、夜の街を走り抜けていった。
自分たちが、国という巨大な組織を敵に回したことを自覚しながら。
しかしその恐怖よりも、「人間としての誇り」を守れることへの安堵が、二人を強く結びつけていた。




