第23章 空からの掃除屋
■洋館・ロビー
「……チッ。相変わらず消えるのが得意だな!」
氷川智宏は、血走った目で周囲を睨め回していた。
以前サラに撃ち抜かれた両足が痛み、彼の理性を削り取っていく。
姿の見えない敵。音のない殺意。
この広いロビーのどこかに、自分を殺そうとする「死神」が潜んでいる恐怖。
「隠れんぼは終わりだ……! 全部凍っちまえ!!」
氷川は半狂乱で叫び、残った力を振り絞って両手を広げた。
パキィィィィィィィン……!!
空気が悲鳴を上げる。
ロビー内の湿気が瞬時に凝結し、床、壁、天井、そして空間そのものが白濁した氷の結晶で埋め尽くされていく。逃げ場のない全方位飽和攻撃。
だが、氷川の狙いは殺傷だけではない。「探知」だ。
全てが凍りつく世界の中で、たった一箇所。
不自然に氷が存在しない、ぽっかりと空いた「空白の空間」が、柱の陰に浮かび上がった。
「……ハハッ! そこかよぉぉ!! 無効化したな!?」
氷川は狂喜の笑みを浮かべ、その「空白」に向けて無数の氷の刃を射出した。
ヒュンッ! ヒュンッ! ザシュッ!!
鋭利な氷刃が空白の空間を貫通し、床に突き刺さる。
——だが。
手応えがない。肉を裂く感触も、苦悶の声も、血飛沫さえも上がらない。
「……あ?」
氷川の動きが止まる。
(おかしい。確かにあそこの氷を『無効化』した反応があった。なのに、なぜ当たらない?)
焦りが氷川の額に滲む。
その時、彼の背後で、凍りついた床の上を「音もなく」滑る影があった。
音無賢人は、氷の生成を阻害することで「そこにいる」と錯覚させたのだ。
そして実体の賢人は、「音」の能力で自身の摩擦音と衣擦れを完全に消去し、無効化してぽっかり空いた空間からすぐに退避して氷の上をフィギュアスケートのように滑走して、氷川の背後へと回り込んでいた。
(……捉えた)
賢人は、氷川の無防備な背中に手を伸ばす。
狙うは心臓。直接触れて、鼓動を「無」に帰す。
賢人は氷川の背中に手を伸ばす。
(『無』。……止まれ!)
ドクン。
心臓への干渉。
「が、はっ……!?」
氷川の視界が暗転しかける。意識が遠のく。
だが、氷川は警察署で一度同じような経験をしている。ここで意識を失えば確実に負ける。
「ウオォォォォォッ!!」
背後に向けてではなく、狙いを定めない自身の身体を中心とした全方位への冷気爆発。
ドオォォォン!!
「……ぐっ!?」
賢人は舌打ちし、前方からくる冷気を無効化しつつバックステップで距離を取る。
氷の衝撃波が頬を掠め、フードが切り裂かれる。
氷川は膝をつきながら振り返った。
そこには実体化した賢人が立っていた。距離はわずか3メートル。
「ハァ、ハァ……見つけたぞ、テメェ……!」
氷川の目に、粘着質な殺意が宿る。
「今度こそ逃がさねぇ! ダルマにして売り飛ばしてやるぜ!」
氷川が腕を振り上げる。氷の生成速度が上がる。
だが、賢人の判断の方が速かった。
賢人は一気に距離を詰めると、足元の氷を『無』で溶かし、狙いを一点に定めた。
心臓ではない。氷川の弱点——サラに撃ち抜かれ、包帯が巻かれている右足のふくらはぎだ。
「もらったぁぁ!!」
ドゴォッ!!
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
溶けた部分に軸足を置き、賢人の全体重を乗せたフルスイングの蹴り上げが、傷口を直撃する。
銃創をさらにえぐり、骨に響く激痛。氷川は絶叫し、氷の上を無様に転げ回った。
「い、痛ぇぇ! 足が、足がぁぁ!!」
「まだだ!」
賢人は追撃の構えを取る。
「く、来るな! もう殺す! 殺してやる! 凍れぇぇ!!」
氷川は涙目で賢人を睨みつけ、再び冷気を練り上げる。
ロビー全体を、今度こそ絶対零度で閉ざそうとする最後の悪あがき。
新たな氷の波が、津波のように賢人に迫る。
避ければ距離が開く。防御すれば動けなくなる。
賢人は、そのどちらも選ばなかった。
(——凍らせようとするエネルギーだけを……『無』にする!)
賢人は前方へ突っ込んだ。
自分の進行方向にある氷だけをピンポイントで無効化し、トンネルを掘るように突き進む。
さらに、足元の氷はあえて残し、摩擦を消して加速装置として利用する。
「な、なんで凍らねぇんだよぉぉ!?」
氷川が叫ぶ。
自分の放った最強の冷気が、目の前の男にかき消されながら迫ってくる恐怖。
痛む足で立ち上がろうとするが、踏ん張りが効かない。
その目の前に、賢人が滑り込んだ。
賢人の脳裏に、血まみれで倒れていたアレックスの姿がよぎる。
そして、昨日教わった言葉がリフレインする。
『いいか音無。敵を無力化するなら、中途半端な情けはかけるな。
意識を断つ。脳を揺らせ。……顎の先端だ』
(……アレックスさん。教わったこと、使わせてもらいます!)
賢人は足元の氷を溶かし腰を落とし、体重を乗せた右拳を固く握りしめた。
復讐の怒りではなく、仲間を守るための鉄槌。
「……眠ってろぉぉ!!」
ガァァァン!!
突き上げるような右アッパーが、氷川の顎を正確に撃ち抜いた。
脳が強烈に揺さぶられ、氷川の意識のスイッチが強制的に切断される。
「……あ、ぶ……」
氷川は白目を剥き、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
周囲の氷が、力を失ってただの霜へと変わっていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
賢人は拳を握りしめたまま、荒い息を吐いた。
勝った。
能力に頼り切った殺人鬼を、能力と戦術と覚悟でねじ伏せた。
「……おぅ! 音無!」
ロビーの入り口から、鈴木浩三が駆け込んできた。
「無事か!?」
賢人は振り返り、息を切らしながらも、力強く親指を立てた。
震える手で作った、精一杯のグッドマーク。
「……へっ。やるじゃねぇか」
鈴木はニカっと笑うと、気絶している氷川の元へ歩み寄り、その襟首を掴んで軽々と持ち上げた。
「こいつは俺が預かる。……こんなとこに転がしておくと邪魔だ。外の空気でも吸わせてやろうぜ」
ドサァッ!
鈴木は氷川を、窓の外の庭へと放り投げた。
そして、ポケットから数種類の木の実(どんぐりや松ぼっくり)を取り出し、氷川の上にバラバラと撒いた。
「——『木』、急成長」
ボコォッ! メキョメキョメキョ……!
撒かれた木の実が瞬時に発芽し、異常な速度で成長を始める。
太い根と幹が蛇のようにのたうち回り、意識のない氷川の四肢に絡みつき、さらに幹同士が複雑に絡み合って、強固な「生きた檻」を形成した。
「よし。これで物理的に逃げられねぇ」
鈴木は手をパンパンと払い、賢人を見た。
「……後は金剛寺と…金子だな」
「はい」
賢人は窓の外、大木に飲み込まれた氷川を見て、ようやく安堵の息を漏らした。
だが、戦いはまだ終わっていない。
地下からは爆音が、外からは米軍ヘリのローター音が近づいている。
「……行きましょう、鈴木さん。まだ、みんなが戦っています」
「おうよ! 片っ端から片付けるぞ!」
賢人は再び前を向いた。
その背中は、数日前までの「逃げる少年」のものではなかった。
仲間と共に戦う、一人の「戦士」の背中だった。
■髙橋家・玄関 〜戦場から徒歩0秒〜
「ただいまー!!」
平日の昼下がり、閑静な住宅街。
玄関のドアが勢いよく開き、髙橋俊明が転がり込んできた。
肩で息をしており、額には脂汗が滲んでいる。まるでマラソンを完走した直後のようだ。
「あら? あなた?」
リビングから妻がエプロン姿で顔を出した。
「どうしたの、こんな時間に。お昼休みにしては必死な顔して……」
「いやー、ごめん! 現場でちょっとトラブルがあってさ!」
髙橋は靴も脱がずに、早口でまくし立てた。
「暖房用の燃料が切れちゃって! 現場が寒くて死にそうなんだよ!
悪いけど、うちの灯油のポリタンク、ちょっと借りていいかな!?」
「ええ? まあ、満タン入ってるけど……」
妻は困惑しながらも、玄関脇の収納から赤いポリタンク(18リットル)を取り出した。
「はい。重いわよ?」
「ありがとう! 助かるよ! 上司も喜ぶ!」
髙橋はポリタンクをひったくるように受け取ると、愛おしそうに抱きしめた。
「容器ごと新品で返すからね! 愛してるよ!」
「ちょ、ちょっと待ってあなた」
妻が髙橋の袖を掴んだ。その目が、彼のジャケットの袖口に釘付けになる。
「その服……もうそんなボロボロだっけ? 焦げ臭いし、泥だらけじゃない」
髙橋が着ているオフィスカジュアルなジャケットは、先ほどの爆風や破片で所々が裂け、煤で黒ずんでいた。
「あ……」
髙橋の背中を冷たい汗が伝う。
(マズい。爆風で焦げたか……!)
「あー、これね! さっき山で転んで、焚き火に突っ込んじゃってさ! ハハハ、ドジだなぁ俺!」
髙橋は引きつった笑顔で誤魔化した。
「山って……地質調査ってそんなワイルドなの?」
「じゃあ、仕事に戻るからね!
あ、この服は捨てて、週末新しいの買いに行こう! 美味しいケーキも食べるぞ! じゃあね!」
髙橋は妻の返事も待たず、ポリタンクを抱えてドアの外へ飛び出した。
「いってらっしゃい……?」
妻はバタンと閉まったドアを見つめ、首を傾げた。
(……灯油? 新品で返す? ……なんか変ね)
平和な日常の中に落ちた小さな違和感。妻は頭の上に「?」マークを浮かべながら、リビングへと戻っていった。
■洋館・SUV上空
シュンッ!
空間座標が書き換わる。
髙橋が、一瞬で移動した先は——金剛寺武の、頭上5メートルの空間だった。
眼下の光景を見て、髙橋は息を呑んだ。
「音無!おとなし!オトナシをだせぇぇ!!ヒャハハハハハハ!!!」
金剛寺が狂ったように高笑いしていた。
彼は『金』の能力を全開にし、周囲に散らばる車の残骸、鉄骨、弾薬の薬莢……ありとあらゆる金属片をマシンガンのような速度で洋館の奥へと撃ち込んでいたのだ。
ダダダダダダダダッ!!
金属の礫が壁を穿ち、柱を削り取る。
奥のバリケードでは、谷や白川たちが頭を抱えて防戦一方になっていた。このままでは、遮蔽物が破壊され、全員ミンチにされるのは時間の問題だ。
「死ね! 死ね! 音無以外跡形もなく消えろォォォ!」
金剛寺は勝利を確信し、無防備に頭上を晒していた。
金属片を攻撃に回している今、上空はガラ空きだ。
髙橋は、抱えていたポリタンクの蓋を開け、叫んだ。
「——お中元だ!!」
髙橋は抱えていたポリタンクの蓋を開け、逆さまにして放り投げた。
重力に従い、赤いタンクから透明な液体がドボドボと降り注ぐ。
「なっ!? なんだ!?」
金剛寺が頭上の異変に気づき、見上げた時には遅かった。
強烈な石油臭と共に、大量の灯油が金剛寺の頭から降り注ぎ、全身を濡らす。
「液体……!? 油か!?」
「撤収!」
シュンッ!
髙橋はタンクを手放すと同時に、自分だけサラのいる安全圏(物陰)へと転移した。
「……ふぅ! 戻りました!」
髙橋がサラの隣に現れ、膝をつく。
「Nice delivery, Papa!(ナイス配達よ、パパ!)」
サラ・コッホはふくらはぎの痛みで冷や汗をかきながらニヤリと笑い、手にしていたM320グレネードランチャー(擲弾発射器)の照準を合わせた。
「さあ、仕上げよ! Fire(発射)!」
ポンッ。
乾いた発射音と共に、40mm榴弾が放物線を描いて飛んでいく。
狙いは正確無比。灯油まみれになった金剛寺の足元へ。
ドォォォォォォン!!!
爆発の炎が、揮発性の高い灯油に引火した。
ボウッ!! という音と共に、金剛寺の周囲一帯が紅蓮の炎に包まれる。
「ぐ、うおぉぉぉぉぉッ!?」
金剛寺の絶叫が響く。
彼は炎に包まれた瞬間、反射的に防御態勢を取った。
『剛』の能力で全身の皮膚をダイヤモンド並みに硬質化し、さらに周囲の金属片を集めて全身鎧のように纏う。
だが、それが致命的なミスだった。
金属は、熱を伝えやすい。
燃え盛る灯油の熱エネルギーが、金属鎧を通して内部へと伝導し、逃げ場のない熱気が金剛寺自身を蒸し焼きにしていく。
「熱い! 熱いぃぃぃ!! なんだこれはぁぁ!!」
『寺(聖域)』で能力による干渉は防げても、物理現象である『熱』と『酸欠』は防げない。
硬化した皮膚は熱した鉄板のように赤熱し、自らの肉を焼き焦がしていく。
「氷川ぁぁ!! どこだ氷川ぁぁ!!」
金剛寺は炎の檻の中で暴れながら、頼みの綱である部下の名を叫んだ。
「氷を出せ! 俺を冷やせぇぇぇ!!」
しかし、返事はない。
頼みの氷川は、庭の大木に拘束され、顎を砕かれて白目を剥いている。
「く、そ……! なぜだ……なぜ私が……!」
呼吸をするたびに、熱風が肺を焼く。
視界が赤と黒に染まる。
金剛寺の服が燃え尽き、硬化した皮膚がひび割れていく。
「ガ、アァ…………ッ」
やがて、金剛寺の動きが止まった。
黒焦げになった金属の塊のように、その場にどうと倒れ込む。
燃え続ける灯油の炎だけが、パチパチと音を立てていた。
「……終わった、か?」
ロビーの奥から、鈴木浩三と音無賢人が戻ってきた。
二人とも煤だらけで、満身創痍だ。
「おい、さっきの音はなんだ? すげぇ爆発だったぞ」
鈴木が鼻をつまむ。
「それにこの臭い……肉が焦げる臭いか?」
サラは、まだ燃え続けている炎の中心を顎でしゃくった。
「たった今、特大のBBQが終わったところよ」
「バーベキューだと……?」
鈴木と音無が目を凝らすと、そこには火だるまになり、ピクリとも動かない金剛寺の残骸があった。
「……マジか。金剛寺を、焼き討ちにしたのか」
鈴木がゴクリと喉を鳴らす。
「髙橋さんの灯油と、サラさんの火器か……。えげつないですね」
賢人もその威力に戦慄した。能力の力押しではなく、物理現象による殺害。ある意味で一番残酷な結末だ。
だが、サラは銃を下ろさなかった。
「油断しないで」
サラの声が鋭くなる。
「相手は怪物よ。表面が焦げただけで、中は生焼けかもしれないわ」
サラは三人に目配せをした。
「鈴木、髙橋、音無。
最大限気をつけて、生死を確認しに行って。
……もし指一本でも動くようなら、遠慮なくトドメを刺して」
「了解」
「行きましょう」
三人は頷き、慎重に歩み寄る。
鈴木はポケットの木の実を握りしめ、髙橋は次の転移先(火口)をイメージし、賢人は気配を消して死角へと回る。
熱気と焦臭さが渦巻く中、黒焦げの元政治家——かつての権力者の成れの果てへと、彼らは一歩ずつ近づいていった。
■洋館・二階廊下
爆炎と轟音が去り、洋館には不気味な静寂が戻りつつあった。
だが、谷雄一だけは、まだ耳を澄ませていた。
「——『谷』、長距離聴取」
谷は窓枠に手を当て、意識を数キロ先まで飛ばす。
一般人の耳には、風の音と鳥のさえずりしか聞こえない。だが、谷の鼓膜は捉えていた。
空気を切り裂く、独特の重低音。
(……ド、ド、ド、ド……)
一定のリズム。重い機体。複数のローター音。
それは急速に、確実にこちらへ近づいている。
「……間違いない。この振動、ブラックホークだ」
谷は弾かれたように振り返り、東に向かって叫んだ。
「東先生!! 来ます!!」
「なに?」
東が顔を上げる。まだ音は聞こえていない。
「米軍のヘリです!
距離およそ3キロ! 速度からして、あと数分もしないうちに真上に来ます!!」
その報告を聞いた瞬間、東義昭の表情が引き締まった。
「……チッ。時間切れか!」
東はマイクに向かって怒鳴った。
「総員、警戒せよ! 米軍が来るぞ!
鈴木、髙橋、音無! 迅速かつ安全に金剛寺の生死を確認しろ!
奴が生きていれば交渉の人質になる! 死んでいればただの肉塊だ! 急げ!!」
■洋館 金剛寺の残骸前
東の指示を受け、三人が慎重に黒焦げの塊へと近づく。
「……くっせぇな。完全にウェルダンだぞ」
鈴木浩三が鼻を覆う。金属とタンパク質が焼け焦げた異臭が漂っている。
「鈴木さん、僕に触れていてください。何かが起きればすぐに転移します」
髙橋俊明が鈴木の背中に手を当て、いつでも離脱できる態勢を取る。
鈴木は意を決し、黒焦げになり、金属鎧と皮膚が癒着した金剛寺の顔に近づいた。
首筋で脈を取ろうと手を伸ばすが、放射される熱気がそれを阻む。
「……熱っ! ダメだ、熱すぎて触れねぇ」
鈴木は手を引っ込め、金剛寺の口元ギリギリに手の甲をかざした。
神経を研ぎ澄ませ、呼気の有無を探る。
「…………」
数秒の静寂。
「……ダメだ。息を感じねぇ。肺が動いてる気配もねぇな」
「死亡、ですか?」
「分からん。ただ、活動は完全に停止してる」
その時だった。
森の暗がりから、ガサガサと草をかき分ける音がした。
ふらふらとした足取りで、人影が歩み寄ってくる。
「あぁ……あぁぁ……」
金子だ。
彼は両手で頭を抱え、亡霊のように虚ろな目で現れた。
「おい、止まれ!」
鈴木と髙橋が身構える。
だが、金子には戦う意志など残っていなかった。
彼は燃え尽きた金剛寺と、庭の大木に飲み込まれ白目を剥いている氷川を交互に見て、その場に崩れ落ちた。
「アニキ……先生……。うそだろ……なんでだよ……」
絶望。
頼りにしていた「絶対的な力」が、全て無残に敗北した現実。
金子は地面に頭を擦り付け、子供のように震えだした。
その背後に、ふわりと空気が揺らぐ。
音無賢人だ。
彼は「無」で気配を消したまま金子の背後に立ち、その背中(心臓の裏)に掌を当てた。
力を込めれば、この男の心臓を一瞬で止められる。
賢人は無言のまま、実体化して視線だけを鈴木に向けた。
(……どうしますか? 始末しますか?)
鈴木は金子の哀れな姿を一瞥し、静かに首を横に振った。
(……やめとけ。戦意喪失だ)
賢人は小さく頷き、手を下ろした。
その瞬間。
ババババババババ……!!
谷の予言通り、強烈な爆音が空から降り注いだ。
森の木々が激しく揺れ、強烈なダウンウォッシュ(吹き下ろし風)が三人を襲う。
煙と埃が一気に吹き飛ばされ、上空に漆黒の機体が姿を現す。
米軍の特殊作戦ヘリ『ブラックホーク』だ。
機体から、降下用ロープが投げ下ろされる。
「……来たか」
東がテラスから空を睨みつける。
ヘリの拡声器から、機械的な音声が響き渡った。
『——警告する。これより、日米地位協定およびテロ対策特別措置に基づき、現場を確保する』
ヘリのサイドドアが開き、そこには冷徹な目で地上を見下ろす男——グレイ司令官の姿があった。
「……ふん。見ろ」
グレイは眼下の惨状を一瞥した。
黒焦げの鉄屑(金剛寺)、植木鉢になった氷使い(氷川)、絶望して蹲るネズミ(金子)。
そして、ロビーの中央で大の字になって倒れている、巨獣(熊井)。
「東め、時間内に『掃除』を終わらせたな。……約束だ、戦闘介入は中止する」
グレイは隣の副官に指示を出した。
「プラン変更だ。……ゴミ回収を行う」
「は?」
「あの敗残者たちは、我が軍の車両を襲撃した実行犯だ。
日本の警察になど渡さん。……生き恥を晒させるのも癪だ。秘密を知りすぎている」
グレイは東の持つ携帯電話を鳴らした。
『……見事な手際だ、対策局』
「グレイ。……何の真似だ」
東が低い声で応じる。
『約束通り、攻撃はしない。だが……そこのテロリスト(金剛寺一派)の身柄は、我々が引き取る』
「なんだと? 奴らは日本で犯罪を犯した。日本の法で裁く!」
『断る。奴らは米軍への攻撃を行った。国際テロリストだ。
……それに東、君も分かっているはずだ』
グレイの声に、取引の色が混じる。
『奴らを君たちが拘束すれば、裁判で余計なことを喋るかもしれんぞ? 我々との関係……そして、君との過去の因縁もな。
君の組織にとっても、不都合な真実が含まれているのではないか?』
「…………」
『我々に渡せば、二度と口は利けないようにしてやる。……永遠にな。
君にとっても、悪い話ではないはずだ』
東は舌打ちをした。
(……証拠隠滅か。だが、ここで米軍と押し問答をして、音無君まで連れ去られるリスクは犯せない。……金剛寺という爆弾処理を奴らに押し付けるのも、一理あるか)
「……いいだろう。持っていけ」
東の合図と共に、鈴木たちが道を開けた。
シュシュシュッ!
ヘリから完全武装の兵士たちが次々と降下してくる。
彼らは手際よく金剛寺の残骸を耐熱ボディバッグに詰め、大木の枝を切り落として氷川を回収する。
さらに、ロビーで白目を剥いて倒れている巨体——音無によって心臓を止められた熊井にもワイヤーを巻き付け、数人がかりで引きずっていく。
最後に、呆然としている金子に猿轡を噛ませて拘束した。
「あ……あぁ……?」
金子が抵抗する間もなく、全員がフックに吊り上げられていく。
「撤収!」
兵士たちが再びヘリへと戻り、敗北者たちをぶら下げたまま、ブラックホークは上昇を始めた。
グレイは窓際から、東——そしてその奥にいる音無賢人をじっと見つめた。
(……今回は預けておこう。だが、必ず回収に来る)
グレイの冷ややかな視線を残し、米軍ヘリは爆音と共に去っていった。
後に残されたのは、半壊した洋館と、傷ついた勝者たち。
そして、不気味な静寂だけだった。
「……終わった、のか?」
鈴木が空を見上げて呟く。
悪意の塊は去った。だがそれは、解決ではなく「先送り」にされただけなのかもしれない。
それでも、彼らは生き残った。
「……ああ。俺たちの勝ちだ」
賢人は、連れ去られる金子たちの影を見送りながら、深く、安堵の息を吐き出した。




