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巡り巡る 〜漢字の意味が世界を変える世界〜  作者: 暇な鍼灸師


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第2章 見えざる同乗者と動き出す影の追跡者



取調室の空気は重苦しく澱んでいた。


パイプ椅子に座る金子は、数十分前の威勢の良さが嘘のように縮こまり、小刻みに震えていた。


「……おい、金子。顔色が悪いぞ。水でも飲むか?」


「い、いらねぇ……。早く……早く留置所に入れてくれ……」


そのあまりの怯えように、白川真純は眉をひそめた。


強盗未遂の現行犯とはいえ、確保時の彼はもっと野蛮で傲慢だったはずだ。それがパトカーでの移動中、急激に何かに怯え始めた。


白川は机越しに身を乗り出した。彼女は能力の発動を悟られないよう、自然な仕草で金子の目を覗き込んだ。


(——『白』。対象の嘘を暴け)


「なぁ金子。署に来るまでの車の中で、何かあったのか?」


その問いかけに、金子の肩がビクンと跳ねた。


「な、何も! 何もねぇよ! ただ……ちょっと酔っただけだ!」


瞬間。


白川の視界の中で、金子の全身がカッと白く発光した。


(……真っ白。嘘をついている)


白川は確信した。車内で何かが起きた。だが、それを指摘することはできない。


「嘘をついているな?」と詰め寄れば、「なぜ分かった?」と問われる。公務中の能力使用は厳禁。たとえ相棒の谷であっても、この秘密は明かせない。


「……そうか。ならいい」


白川は不承不承、引き下がった。


「悪い白川、ちょっと一服してくる。後の手続き頼んでいいか?」


タイミングよく、谷雄一が立ち上がった。


「はい、分かりました。どうぞ」


谷は取調室を出ると、喫煙所……ではなく、裏口から駐車場へと急いだ。


誰もいないことを確認し、自分たちが乗ってきたパトカーのドアを開ける。


(……数分前。まだ『音』は残っているはずだ)


谷は目を閉じ、意識を集中させた。


「谷」の能力。音の反響を操り、その場に残留する微かな音の残滓ざんしを拾い上げる。


『……静かにしろ……』

『……次は無い……』

『……殺す……』


(ッ!? なんだこの声は……!)


谷の額に脂汗が滲む。


金子の声ではない。自分や白川の声でもない。氷のように冷たく、低い男の声。


それが、金子の座っていた後部座席から微かに、しかし確実に響いていた。


(俺たちが運転しているすぐ後ろで、金子は誰かと喋っていた……?)


谷はタバコに火をつけることなく、急いで刑事課のデスクへと戻った。


目的は車内カメラの映像確認だ。


「あ……」

「おや?」


デスクに戻ると、ほぼ同時に白川もパソコンの前に座ろうとしていたところだった。


二人は顔を見合わせ、不自然に咳払いをした。


「……白川? 手続きはどうした?」


「い、いえ。その前に、搬送中の金子の様子が変だったので、念のため車内カメラを確認しておこうかと。谷さんこそ、タバコは?」


「あー……俺もだ。ちょっと気になることがあってな。まあ、座れよ。一緒に見よう」


二人は並んでモニターを覗き込んだ。


互いに(まさか相手も能力を使って怪しんだわけではないだろうな)と腹を探り合いながら、あくまで「通常の捜査」の顔をして再生ボタンを押す。


映像が再生される。


運転席と助手席には、前を向いて話している谷と白川。


そして後部座席の金子。


「……! おい、ここだ。止めろ」


谷の声で、白川が一時停止する。


そこに映っていたのは、異様な光景だった。


「……叫んでる?」


金子は口を限界まで大きく開け、何かを叫んでいた。


だが、音声データには何の音も記録されていない。

エンジン音と、谷たちの会話だけがクリアに聞こえているのに、金子の絶叫だけが完全に消失していた。


「故障……じゃないわね。私たちの声は入ってる」


「ああ。それに見てみろ、ここ」


谷が画面を指差す。


音のない絶叫の後、金子は急に真顔になり、何かを見えない相手に強要されるように、激しく首を縦に振ったり横に振ったりしている。


「目線の先……膝の上ね。拡大します」


白川がキーボードを叩き、映像をズーム処理する。


粗い画質の中、金子の膝の上に置かれた「何か」が浮かび上がった。


「これは……写真?」


「三枚あるな。……おい、もっと鮮明にできないか!」


画像の解析度が上がり、二人は息を呑んだ。


一枚目は、どこにでもあるような民家。


そして二枚目と三枚目。


「こ、これ……!」


白川が口元を押さえる。


「数ヶ月前の……未解決事件。音無夫妻の……」


「ああ。頸を絞められて殺された、音無夫妻だ」


谷の表情が険しくなる。


「そして、この後部座席の死角。黒いフードのようなものが僅かに見切れてる。そしてこの白く細い手……」


二人の脳裏に、一つの結論が同時に弾け飛んだ。


金子を脅していた「見えない同乗者」。


両親の写真を持ち歩き、犯人を探している者。


そして、「音」を完全に消すことができる能力者。


「……生存者だ」


谷が唸るように呟いた。


「あの事件で行方不明になっていた息子……音無賢人。彼が、この車に乗っていたんだ…そして恐らく彼は…覚醒している」


白川と谷は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


自分たちのすぐ背後に、それほど強力な覚醒者が潜んでいたことに気づけなかったことへの戦慄。そして、法に縛られた自分たちの代わりに、彼が独自の捜査を行っているという事実。


「……白川。この映像、署長に見せる前に俺たちで預かるぞ」


「……はい。公式に残せば、彼は指名手配されてしまいます」


二人は暗黙の了解で、この「証拠」を胸にしまった。


その会話の全ては、警察署の通りを挟んだ向かい側にあるカフェのテラス席にまで届いていた。


「…………」


コーヒーカップを置く手が、僅かに止まる。


黒いフードを目深にかぶった音無賢人は、自らの「音」の能力で拾い上げた二人の刑事の会話に、小さく舌打ちをした。


(そうか、俺の能力はカメラには映るのか……マズいな。少し警戒心が低すぎたか)


能力を使えないはずの警察官が、あそこまで勘鋭く真相にたどり着くとは計算外だった。


(俺の存在がバレた。……これ以上、ここにはいられない)


賢人は飲みかけのコーヒーの脇に、小銭を置いた。


「無」の能力を発動する。


存在感を希薄にし、気配を風景に溶け込ませる。


「……ありがとうございましたー」


店員がふと顔を上げた時、そこにはもう誰もいなかった。


残された温かいコーヒーと小銭だけが、ついさっきまでそこに「誰か」がいたことを証明していた。


賢人は雑踏の中に紛れ込み、灰色のビル街へと姿を消していく。


両親の仇を探す孤独な旅は、警察という新たな追っ手を生み出し、より困難なものになろうとしていた。



◾︎東京 雑居ビル



一方その頃。


ビル街の一角、雑居ビルの薄暗い一室では、無機質な電子音とタイピング音だけが響いていた。


その静寂を、サラ・コッホの鋭い声が切り裂いた。


「Hit(当たり)! ……ついに尻尾を掴んだわ!」


マグカップ片手にモニターを睨んでいたサラが、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。


「どうした、サラ。あの『幽霊』が見つかったか?」


部屋の奥から、湯気の立つコーヒーポットを持った大柄な男、アレックス・ターナーがのっそりと現れる。


「ええ。先日グレイ司令に見せられた『ヤクザ事務所の襲撃犯』……その足取りが途絶えてから数日、やっと痕跡を見つけたわ。 Nシステムや街頭防犯カメラのネットワークを経由して、署内のローカルサーバーにバックドアを仕掛けたのよ」


サラはニヤリと笑い、警察署のサーバーからハッキングしたばかりの映像を再生した。


「これを見て。日本の警察の内部データよ。パトカーの車内映像」


画面には、口を大きく開けて何かを喚き散らしている金子敦の姿。しかし、スピーカーからはエンジン音と刑事たちの会話しか聞こえてこない。


「……被疑者の声が聞こえんな。マイクの故障か?」


「いいえ、刑事たちの声はクリアだもの。見て、ここよ」


サラが映像を拡大する。後部座席の死角、黒いフードの端と、白く細い手。


「肉眼では見えていない刑事たち。音のない絶叫。そしてカメラにだけ映り込む不鮮明な姿……。間違いなく、私たちが追っているターゲットと**同一人物セイム・ガイ**よ」


アレックスは食い入るように画面を見つめ、低い唸り声を上げた。


「なるほど、特徴シグネチャが完全に一致するな。……で、こいつの正体は割れたのか?」


「ええ。この手が持っている写真を見て」


サラがさらに画像を解析し、鮮明化する。


そこに映っていたのは、数ヶ月前の未解決殺人事件の被害者夫婦の写真だった。


「音無夫妻……。そして、この現場から消えた息子、音無賢人。彼こそが、私たちが探していた『幽霊』の正体よ」


「音無賢人……。殺人マシンかと思えば、親の仇を探すガキだったとはな」


アレックスは複雑そうに眉を寄せた。


サラは冷めたコーヒーを喉に流し込みながら、沈痛な面持ちで呟いた。


「グレイ司令の言っていた通りだわ。……気配と足音、そして呼吸音すら完全に消し去る能力。一度見失うと追跡は不可能に近い。まさに生けるステルス戦闘機」


「……ああ。だがあの男は、これを『おもちゃ』と呼んだ」


アレックスの表情が曇る。


「あの国がこいつを欲しがる理由は一つだ。彼を手懐けて同じ工作員として飼うか、あるいは解剖してその『完全隠蔽能力』を解析し、兵器へ転用するか」


「もし後者なら、世界の戦争の形が変わるわ。見えない、聞こえない、感知できない兵士やドローンが量産される未来……。ぞっとするわね」


サラの言葉に、アレックスは重く溜息をついた。


「……だが、俺たちはあくまで命令に従う軍人だ。ターゲットを確保し、本国へ送る。それだけが任務だ」


「分かってるわよ。個人的な感情はナシ。……ドライに行きましょう。映像のタイムスタンプは数十分前。まだ近くにいるかもしれない」


「ああ。準備する」


二人は互いに心の中に生まれた「これでいいのだろうか?」という疑念に蓋をした。


「見えない恐怖」が、具体的な「一人の青年」という形を持ったことで、任務への迷いはより色濃くなっていた。


だが、彼らはプロだ。


銃と装備を整え、慌ただしく部屋を出ていく。


バタン、と重い鉄の扉が閉まり、鍵がかけられた。


部屋には再び、サーバーの排気音だけが残された。


二人は深夜の場末、看板のライトが切れかけた古びたビジネスホテルの前を駆け抜けて行く。


そのホテルの自動ドアが開くが、誰も入ってこない。センサーの誤作動だろうか、フロントの初老の男性は欠伸を噛み殺しながら、手元のスポーツ新聞に目を落としたままだった。



◾︎深夜 ビジネスホテル



しかし、そこには確かに男がいた。


音無賢人は「無」の能力で姿を完全に消し、堂々とフロントの前を通過する。


彼はカウンターの内側に回り込むと、壁にかけられたルームキーの一つに手を伸ばした。


(305号室……空室だな)


「音無」の能力で、鍵がぶつかるチャリという音すら発生させない。


賢人はそのまま音もなく階段を上がり、305号室の前で鍵を開けた。ドアノブを回し、解錠されたことを確認すると、彼は再び来た道を戻る。


数分後。


賢人は再びフロントのカウンターの内側にいた。手に持った鍵を、元のフックに戻す。


宿泊客として記録に残らず、鍵も紛失していない。これなら朝まで誰にも気づかれることはない。


(……悪いけど、一晩だけ場所を借りるよ)


心の中でフロント係に詫びると、彼は再び305号室へと戻り、中から鍵をかけた。


部屋に入るとすぐに分厚い遮光カーテンを閉める。

僅かな光や影で外から覗かれるのを防ぐためだ。

賢人はベッドに腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取った。音量は最小、さらに自分の周囲に「音無」の結界を張り、部屋の外に音が漏れないようにする。


画面には、ニュース番組の討論コーナーが映し出されていた。


『——ですから! 長宗我部議員の提案する「覚醒者新法」は時期尚早なんです!』

『警察官の能力使用解禁など、火に油を注ぐようなものだ!』


コメンテーターが唾を飛ばして熱弁を振るっている。


『しかし、現状の法整備では凶悪化する覚醒者犯罪に対応しきれません』

『だとしても、これは事実上の白紙委任だ! 何より、法案を提出している長宗我部氏自身が、極めて強力な覚醒者だという噂もある。彼に権限を集中させるのは、独裁を招く恐れがある!』


賢人はコンビニで買った冷えたおにぎりを齧りながら、冷ややかな目で画面を見つめた。


「……独裁、か」


賢人は小さく呟く。


警察の手足が縛られている現状は、今日、目の当たりにしたばかりだ。あの刑事たち——谷と白川は優秀そうだったが、法という鎖に繋がれていた。


「警察は当てにならない。……だから俺がやるしかない」


両親を殺した犯人を見つけ出し、この手で裁く。その決意に揺らぎはない。


だが、画面の中で荒れ果てた街の映像が流れると、賢人の胸に別の感情が湧き上がってくる。


(……でも、ただ復讐すればいいってわけじゃない)


かつての、当たり前のように明日が来ると信じられた日本。


両親が生きていて、自分がただのフリーターだった、退屈だけど平和だった日々。


「……元通りになってほしいな、日本」


復讐心と同じくらいの熱量で、彼は平和を望んでいた。


矛盾しているかもしれない。殺人犯を殺そうとしている自分が、平和を願うなんて。


ふと、強烈な眠気が襲ってきた。


緊張の糸が切れたのだろう。今日一日、能力を使い続けて神経をすり減らしていた。


薄れゆく意識の中で、賢人はニュース画面に映る国会議事堂の映像を見つめた。


(長宗我部……政宗……)


新法を作ろうとする男。


反対派に「強力な覚醒者」と恐れられる男。


この国の混乱の中心にいる人物。


「……明日は、あそこに行ってみようかな」


国会議事堂。


あそこに行けば、何かが分かるかもしれない。両親の仇に繋がる何かが、あるいは、この狂った世界を元に戻すヒントが。


「……ふぁ……」


大きな欠伸が一つ。


賢人はリモコンを握ったまま、ベッドに倒れ込んだ。


テレビの画面だけが、音のない部屋でチカチカと点滅し、深く眠る青年の顔を青白く照らしていた。

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