第18章 法なき組織の船出と空飛ぶ空き巣
■翌朝 洋館キッチン
朝霧が立ち込める静かな森の中、洋館のキッチンだけが温かな湯気と活気に包まれていた。
トントントン、トントン。
軽快な包丁の音がリズムよく響く。幸田美咲は、少し大きめのエプロンの紐をギュッと締め直し、コンロの火加減を調整した。
「よし……お味噌汁はこれでOK。あとは……」
昨日、髙橋と白川が買い込んできた大量の食材。
余った野菜は浅漬けにし、少し硬くなったバゲットは卵液に浸してフレンチトーストに。和洋折衷だが、それぞれの好みに合わせたメニューをテキパキと仕上げていく。
(……楽しい)
美咲はふと、自分の手が震えていないことに気づいた。
昨日の惨劇が嘘のように、今は「誰かのために料理を作る」という当たり前の日常に没頭できている。それが何より嬉しかった。
ふと、開け放たれた窓の外から、元気すぎる声が飛び込んできた。
「ほら谷! 足が止まってる! 索敵は『目』だけじゃないわよ、『足裏』で地面の違和感を感じ取るの!」
「は、はいっ……! くそっ、足が棒だ……!」
窓から外を覗くと、芝生の上をスキップするような足取りで歩くサラ・コッホと、その後ろを生まれたての子鹿のようにプルプルと震えながらついていく谷雄一の姿があった。
「いい? そこの茂み。鳥が飛び立ったわね? 何かに驚いた証拠よ。風の揺れ方、虫の鳴き止むタイミング……森全体を一つの生き物として捉えなさい!」
「メ、メモ……虫の、タイミング……」
谷の顔色は土気色で、目の下には濃いクマができている。だが、その目は死んでいなかった。朦朧とする意識の中で、プロの技術を一つでも盗もうと必死に食らいついている。
(……ふふ。谷さん、凄いです)
美咲は内心でエールを送りながら、焼き上がったベーコンを皿に移した。
■二階 廊下〜食堂
「……ふわぁあ」
音無賢人は大あくびをしながら、重い瞼を擦って部屋を出た。
ふと、鼻孔をくすぐる懐かしい香りに足が止まる。
「……味噌汁の匂い?」
コンビニ弁当とカップ麺の匂いしか記憶になかった彼の嗅覚が、強烈に刺激される。
階段を降りると、ちょうど反対側から白川真純が降りてきたところだった。彼女もまた、眠そうに目をこすりながら、寝癖を指で直している。
「あ、おはよう音無君」
「……おはようございます、白川さん」
「いい匂いね。……誰かが作ってくれてるみたい」
二人が食堂に入ると、そこには既にアレックス・ターナーが座っていた。
彼はスウェット姿で、首にはタオルをかけ、水滴の滴る髪を拭いている。
「Good morning. よく眠れたか?」
「アレックスさん、早いですね……」
「ああ。早起きして周辺5キロの地形把握を兼ねてランニングしてきた。裏手の崖下以外は侵入ルートが限られるな」
涼しい顔で言うアレックスに、賢人は呆気にとられた。
「……この状況でランニングですか。タフですね」
「日課だからな。それに、美味い飯を食うには腹を空かせておかないと」
アレックスがニヤリと笑うと、庭の方からドアが開く音がした。
「ただいまー! いやー、日本の朝は空気が美味しいわね!」
「……た、ただ……いま……」
元気いっぱいに飛び込んできたサラに対し、谷は入り口で力尽き、四つん這いになっていた。
「……し、死ぬ……膝が……」
「あら谷さん、お疲れ様です! すぐにご飯にしますね!」
美咲がキッチンから顔を出し、大皿を運んでくる。
テーブルに並べられたのは、湯気を立てる炊きたてのご飯、具だくさんの豚汁、厚切りのベーコンエッグ、焼き魚、そして彩り豊かなサラダ。
「うおっ、すげぇ!」
床に這いつくばっていた谷が、ゾンビのように復活してテーブルに吸い寄せられた。
「これ、全部幸田さんが?」
「はい。あるもので作りましたけど……お口に合えば」
「いただきまーす!」
サラが一番乗りでフレンチトーストを頬張る。
「ん~! Delicious! 美咲ちゃん、スパイ辞めてシェフになれるわよ!」
「……スパイじゃないですけど」
美咲が照れ笑いする。
賢人も豚汁を一口啜り、目を見開いた。
「……美味い。これ、実家の味に似てるかも」
「本当? よかった……」
賑やかな朝食風景。
アレックスはブラックコーヒーを飲みながら、隣でパンをかじるサラを横目で見た。
「……サラ。お前、あまり無理するなよ? 確か今日で三日目だろ?」
その言葉に、水を飲んでいた谷が盛大にむせた。
「ぶふっ! げほっ、げほっ! ……は? みっか?」
サラは平然と答えた。
「そうなのよ。留置場からこっち、アドレナリンだけで起きてるわ。変なクスリは使ってないわよ?」
「いや、そういう問題じゃねぇよ!」
谷が叫ぶ。
「お前…そういえば三日も寝てないのか。なんでそんな肌ツヤいいんだよ! 俺なんて一晩でこの有様だぞ!?」
「そうだけど……? プロなら3日くらいは稼働範囲内よ? 肌荒れは気合いでカバーするの」
サラはキョトンとして首を傾げた。
谷はガックリと項垂れた。
「……勝てねぇ。技術や知識以前に、基礎となっている生物としてのスペックが違いすぎる……」
「ふふ、鍛え方が足りないわね、刑事さん」
白川も苦笑しながら谷に水を渡す。
「谷さん、無理しないでくださいね。私たちは私たちのペースで頑張りましょう」
食後のコーヒータイム。
穏やかな空気が流れる食堂に、突如として空間の歪みが生じた。
シュンッ!
「うおっと!」
鈴木浩三がバランスを崩しながら現れ、その後ろに髙橋俊明、そしてスーツ姿の東義昭が姿を見せた。
「おはようございます。……ふむ、いい匂いが残っているな」
東が鼻を動かし、部屋を見渡す。
美咲は弾かれたように立ち上がり、キッチンへ走った。
すぐにマグカップを持って戻ってくる。
「東さん、おはようございます。……どうぞ、ブラックコーヒーです」
東は湯気の立つマグカップを受け取り、少し驚いたように眉を上げた。
「……ほう。私の好みを覚えていたか」
「はい。昨日の自己紹介の時に」
東は一口啜り、満足げに頷いた。
「……温度も香りも悪くない。礼を言う、幸田君」
「えへへ……」
鈴木もテーブルの残り物を見て目を輝かせた。
「おっ、飯か! 俺の分も残ってるか嬢ちゃん?」
「はい! 鈴木さんの分は多めにとってあります!」
「気が利くなぁ! いただきまーす!」
鈴木と髙橋も席につき、遅れてきた朝食を楽しみ始めた。
その様子を、東はコーヒー片手に静かに見守っていた。
(……悪くない雰囲気だ。急造のチームにしては、馴染んでいる)
東はカップを置き、パンパンと手を叩いて全員の注目を集めた。
「さて! 優雅な朝はここまでだ」
全員の視線が東に集まる。
鈴木は箸を止め、谷は姿勢を正し、サラとアレックスは目つきを鋭くした。
東は食堂の中央に立ち、冷徹な策士の顔で宣言した。
「全員、耳を貸せ。……これより、我々の今後の方針を伝える」
場の空気が一変する。
日常の終わり。そして、反撃の始まり。
東は懐から一枚の地図を取り出し、テーブルの中央に広げた。
「準備はいいな? ……始めようか」
朝食後の優雅なコーヒータイムは、東義昭の一言によって凍りついた。
「……なお、補足しておくと。君たちが所属する『覚醒者特別犯罪対策局』だが」
東はカップを置き、何でもないことのように言った。
「関連法案はまだ国会に提出したばかりだ。審議すら始まっていない。つまり現時点では、この組織に法的根拠は一切ない」
しん、と部屋が静まり返った。
窓の外でさえずる小鳥の声だけが、やけに大きく響く。
「……あ?」
鈴木が箸を落とした。
「ちょ、ちょっと待ってください先生!」
髙橋がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。顔面蒼白だ。
「法的根拠がないって……じゃあ、今の俺たちは身分上、何なんです!?」
「書類上は『公安の臨時協力者』だが……実態は**『ただの武装した民間人集団』**だな」
「不審者じゃねぇか!!」
鈴木が吠えた。
「詐欺師かよアンタ! 俺たちを鉄砲玉にする気か!?」
谷雄一に至っては、頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまった。
「……終わった。俺、現職の刑事なのに……。これがバレたら懲戒免職どころか、組織犯罪処罰法で実刑だ……。退職金が……年金が……」
阿鼻叫喚のメンバーに対し、東は涼しい顔で言った。
「騒ぐな。……これは必要な手順だ」
「手順だと!?」
谷が食ってかかった。
「ふざけるな東! 俺たちは法を守る側の人間だ! 法がない状態で権力を行使するなんて、それこそ金剛寺と同じ穴の狢だろうが!」
「そうだ! 俺にも家族がいるんだ!」
髙橋も悲痛な叫びを上げる。
「もし活動中に事故が起きて、法的保護がなかったら……俺が逮捕されたら、妻や娘はどうなるんですか!」
鈴木も腕を組み、凄みを利かせた。
「俺は降りるぞ。山を守るために契約したのに、自分が犯罪者になっちゃ世話ねぇからな」
三人の猛反発。もっともな意見だ。
しかし、東は立ち上がり、冷徹な眼差しで彼らを見下ろした。
「……終わったか? 小市民的な喚き声は」
その威圧感に、三人が言葉を詰まらせる。
「いいか、よく聞け。
議会という場所は、新しいことを始めるのには向いていない。『前例がない』『リスクがある』『責任は誰が取る』……そうやって足を引っ張る無能ばかりだからだ。
まともに審議を待っていたら、法案が通る頃には半年、いや一年はかかる。
……その間に、金剛寺は何をすると思う?」
東はテーブルの地図を指差した。
「奴は追い詰められ、手負いの獣となっている。一年もあれば、日本中を火の海にできるぞ。
君たちは、法案が通るまでの間、指をくわえて被害者が増えるのを見ているつもりか?」
「そ、それは……」
谷が口ごもる。
「だから、順序を逆にするのだ」
東は拳を握りしめた。
「『法を作ってから動く』のではない。『動いて実績を作り、法を追認させる』のだ」
「実績……?」
音無が呟く。
「そうだ。
反対派の議員どもが『覚醒者に権限を与えるのは危険だ』と騒ぐ前に、**『現にこの組織は機能し、数多くの犯罪を防ぎ、国民を守っている』**という動かぬ結果を見せつける」
東はニヤリと笑った。
「そうすれば、誰も反対できん。**『この組織を否定するなら、次のテロの責任は貴様らが取れ』**と脅せるからな。
世論を味方にし、外堀を埋め、最後に法律というリボンをかけて完成させる。……それが私の戦略だ」
「……クレイジーだ」
アレックスが感嘆の息を漏らした。
「法を作るために法を破る、か。アメリカでもそこまでのブラック・オプス(非合法作戦)はそうそうないぞ」
「だが、合理的ね」
サラも頷く。
「実績さえあれば、事後承諾(事後法)でどうとでもなる。……勝てば官軍ってやつよ」
「しかし!」
髙橋はまだ納得していなかった。
「理屈は分かりますが、リスクが高すぎます! もし失敗したら……」
「だからこそ、だ」
東は全員の目を見て、静かに、しかし力強く告げた。
「最初の一手は、金剛寺ではない」
「え?」
東は資料の束を広げた。そこには、全国各地で発生している、大小様々な事件のレポートがあった。
「巷に溢れる、『はぐれ覚醒者』による一般犯罪を取り締まる」
「はぐれ覚醒者……?」
「そうだ。能力を使って強盗をする者、DVをする者、詐欺を働く者……。警察の手には負えないが、軍隊を出すほどでもない事件が山ほどある。
まずはこれらを、片っ端から解決してもらう」
東は指を一本立てた。
「数を稼ぐんだ。
『対策局のおかげで、検挙率が上がった』『被害が減った』という小さな実績を積み上げろ。
それが説得力となり、君たちを守る鎧となる。
そして何より……これは君たちの『連携訓練』も兼ねている」
東は鈴木を見た。
「鈴木君。君は犯罪者になるのが怖いと言ったな?
だが、君が人助けをして、世間から感謝されれば、それは犯罪ではなく『英雄的行為』になる。私がメディアを操作してそう仕向ける」
次に髙橋を見た。
「髙橋君。家族を守りたいなら、日本を安全にするしかない。君の力で救える命がそこにあるのに、保身のために見捨てるのか?」
最後に谷を見た。
「谷君。君は元刑事だ。目の前の犯罪を見過ごして、手続き論を優先するのが君の正義か?」
三人は押し黙った。
東の言葉は詭弁に近い。だが、そこには抗えない「真実」があった。
今の日本には、力を持つ彼らにしかできない仕事がある。
長い沈黙の後、谷が深いため息をついて頭をかきむしった。
「……あー、もう! 分かった、分かったよ!」
谷はヤケクソ気味に叫んだ。
「腹をくくるしかねぇんだろ! くそっ、毒を食らわば皿までだ! 逮捕される時は道連れにしてやるからな、東!」
「ふっ。望むところだ」
鈴木も観念したように肩をすくめた。
「……へいへい。ま、俺は元々、困ってる奴は見捨てられねぇタチだ。害獣駆除の延長だと思ってやってやるよ」
「……はぁ」
髙橋は眼鏡をかけ直した。その目には覚悟の光が宿っていた。
「分かりました。……やりましょう。娘に誇れる仕事をするためです」
全員の意志が固まった。
一枚岩となったチームを見渡し、白川が小さく微笑む。
「……皆さん、よろしくお願いします。より良い日本のために」
「ああ。やるからには徹底的にだ」
音無も静かに闘志を燃やす。
東は満足げに頷くと、最初の指令書を手に取った。
「よろしい。では、最初の任務だ。
A地区にて、風を操る空き巣犯が出没している。……行って、しょっ引いてこい」
「「「了解!!」」」
法なき正義のチームが、ついに動き出した。
まずは小さな一歩から。だがその一歩は、確実に日本の未来を変える足音だった。
■A地区 住宅街路地裏
シュンッ!
空間が歪み、髙橋俊明と数名のメンバーが姿を現した。
まずは先発隊のアレックス、鈴木、音無。続いて後発隊の谷、白川が転移してくる。
「ふぅ……。全員、搬送完了です」
髙橋が眼鏡を押し上げた。
「僕の『橋』は、直接身体に触れている対象しか運べませんからね。二回に分ける必要があってすみません」
「いや、十分だ。車で移動するより遥かに速い」
アレックスが周囲を警戒しながら答える。
現場指揮を任された谷雄一は、即座に膝をつき、地面に手を当てた。
「——『谷』。反響定位」
意識を集中させ、街全体の音の反響を探る。
(……風の音、車の音、生活音。……異常な振動や、悲鳴はなし)
「……今のところ、シロだ。異常な音はねぇ」
谷が立ち上がって首を横に振ると、アレックスが頷いた。
「OK。では作戦を決めよう」
元スパイのアレックスが、自然と戦術指揮を執る。
「この住宅街は広い。効率よく網を張る必要がある」
アレックスは指を立てて指示を出した。
「鈴木さんは、谷、白川とスリーマンセル(三人一組)で行動だ。空き巣被害の聞き込みをしつつ、捜査隊として動いてくれ。もし能力者に遭遇したら、即座に『鈴』を鳴らして二人を守れ」
「おう、分かった。ボディガードだな」
鈴木は上着のポケットに手を突っ込んだ。
そこにあるのは、愛用の古びた**『鈴』と、山で拾い集めた数種類の『木の実(どんぐりや松ぼっくり)』**だ。
「流石に街中で猟銃担いでウロウロするわけにゃいかねぇからな。……丸腰だが、こいつらがあれば十分だろ」
鈴木はジャラリと木の実を鳴らして不敵に笑った。
「音無は、そのステルス能力を活かして単独行動だ。被害のあった家の周辺や、狙われそうな豪邸の庭先を重点的に偵察してくれ」
「了解です」
音無はフードを深く被り直した。
「俺も別ルートで適当に偵察する。……そして髙橋さん」
「はい」
「あなたは一番高いビルの屋上へ。俯瞰視点で街全体を監視し、何か異常があれば即座に無線で教えて欲しい」
「分かりました。高みの見物といきますか」
役割分担が決まり、散開しようとした時、谷が不満げに口を挟んだ。
「……おい、ちょっと待てアレックス」
「なんだ?」
「なんで俺たちだけ、鈴木さん付きの三人行動なんだ? 効率を考えるなら、鈴木さんも単独で動かして範囲を広げた方がいいんじゃないか?」
アレックスは一瞬沈黙し、谷と白川の顔をじっと見た。
そして、言いづらそうに、しかしはっきりと告げた。
「……理由は二つある。一つは、元刑事であるあんた達の捜査能力が高いからだ。不審者を見抜く目、住民への聞き込み……犯人に遭遇できる確率は、このチームが一番高い」
「ふん、まあな」
谷が鼻を鳴らす。
「そして、もう一つは……」
アレックスは一呼吸置き、冷徹な事実を突きつけた。
「谷、白川。……このメンバーの中で、君たち二人が戦力的に最も不安があるからだ」
「ッ……!」
谷の顔が強張る。
「相手は『風』を使う覚醒者だ。カマイタチのような刃を飛ばしてくるかもしれない。生身の人間じゃ、反応する前に首が飛ぶぞ。……だから、鈴木さんという『盾』が必要なんだ」
「……」
白川は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに頷いた。
「……合理的です。認めます」
谷は明らかに不満な表情を見せた。刑事としてのプライドがある。
だが、脳裏に蘇るのは昨夜の光景だ。サラと共に巡回し、自分の身体能力や警戒技術が、プロの領域には程遠いことを痛感させられたばかりだった。
(……クソッ。悔しいが、事実だ。足手まといになって死ぬわけにゃいかねぇ)
谷は拳を握りしめ、息を吐いた。
「……分かった。鈴木さん、俺たちの背中を頼む」
「おうよ。俺の後ろに隠れてな!」
鈴木が胸を叩き、重苦しい空気を払拭した。
「よし、散開!」
アレックスの合図で、チームは動き出した。
■A地区 雑居ビル屋上
シュンッ。
髙橋は街で一番高いビルの屋上に転移した。
眼下には、平和な住宅街が広がっている。
「……ふぅ」
髙橋は双眼鏡を構えながら、冷や汗を拭った。
(……頼むぞ、俺。失敗は許されない)
もし、ここでヘマをして警察沙汰になれば……。
いや、それ以前に、今ここに立っていること自体が「不法侵入」だ。警備員に見つかれば即アウト。
(家族を路頭に迷わすわけにはいかない。……いつでも逃げられるように、転移のイメージは維持しておかないと)
緊張感で胃が痛くなる。だが、その緊張感が彼の集中力を極限まで高めていた。
風の動き、鳥の羽ばたき、路地裏の猫。全てがスローモーションのように見える。
その時だった。
ゴォォォォォッ!!!
「うわっ!?」
突如、髙橋の真横を、爆音と共に凄まじい突風が通り抜けた。
台風並みの風圧。髙橋は吹き飛ばされそうになる体を、必死にフェンスにしがみついて支えた。
「な、なんだ今の……!?」
慌てて風が去った方向——住宅街の上空を見る。
そこには、風を纏い、物理法則を無視して高速で空を飛ぶ「人影」があった。
「……人!? 飛んでるのか!?」
人影は、ビル風を利用して加速し、獲物を探す猛禽類のように急降下していく。
その降りた先。そこは……。
「……あっちのエリアは……!」
髙橋は震える手で無線機のスイッチを入れた。
『——緊急連絡! 全員、聞こえますか!』
『どうした髙橋!』
谷の声が返ってくる。
『出ました! 今、凄まじい風を纏った覚醒者が、上空を通過して住宅街へ降りました!』
『場所は!?』
『3ブロック先……音無くんがいるエリアです!』
『ッ!?』
全員に戦慄が走る。
最初の接敵は、単独行動中の音無だ。
■A地区 高級住宅街
無線を聞いた音無賢人は、足を止めた。
頭上から、不自然な突風が吹き降りてくるのを感じる。
(……来たか)
賢人は動揺することなく、深くフードを被り直した。
(『無』。……俺は空気だ。石ころだ)
気配を消し、音を消し、存在を希薄にする。
そして、風が吹き荒れる中心地へと、音もなく忍び寄っていった。
「……確認する」
賢人の目が、獲物を狙う「風の怪人」を捉えようとしていた。
ターゲットの男は、豪邸の門柱の上にふわりと降り立った。
周囲を警戒し、住人が不在であることを確認すると、男は換気扇のダクトカバーの僅かな隙間に身体を寄せた。
シュルルル……。
男の身体が風のように歪み、物理的に不可能なはずの狭い隙間へと、吸い込まれるように侵入していった。
物陰からその一部始終を見ていた音無賢人は、即座に無線を入れた。
「……こちら音無。ターゲットが家の中に侵入しました。窓やドアを破ったわけじゃなく……換気口の隙間から、煙みたいに入り込みました」
『はぁ? そんなバカな』
無線からアレックスの訝しげな声が響く。
『人間が換気口を通れるわけがない。幽霊か?』
『……いや、あり得ますね』
ビルの屋上にいる髙橋俊明が、冷静な声で割り込んだ。
『風を操るだけじゃなく、隙間を抜ける能力……。十中八九、犯人の名前は**「風間」**でしょう。「風」と「間(隙間)」で、風間』
『あー、なるほどな』
『分かりやすいですね』
鈴木と谷が即座に納得する。
『……?』
アレックスだけが沈黙した。
(Kaza...ma? Wind and... Gap? ……Ah! Kanji!)
数秒後、アレックスはようやく理解し、苦笑いを浮かべた。
『……なるほど、漢字の構成か。理解した』
アレックスは額の汗を拭った。
(……これが戦場なら、今の思考のラグで死んでいるな。漢字文化圏の「直感」、侮れない)
「……で、どうしますか?」
賢人は無線で指示を仰いだ。
「犯人が出てくるのを待ちますか? それとも突入しますか?」
『バカ野郎! 突入って、お前令状もねぇのに勝手に他人の家に入る気か!?』
谷が怒鳴る。
『不法侵入だぞ! 後の手続きが面倒になる!』
『いや、Noだ刑事さん』
アレックスが反論する。
『一度外に出して広大な空に逃げられたら、捕獲難易度が跳ね上がる。音無、気配を「無」にして突入し、屋内で無力化するべきだ』
『ちょっと待ってください!』
今度は髙橋が待ったをかけた。
『音無くん、君は隙間からは入れないよね? 突入するにはドアか窓を破壊するしかない。……もしそれで犯人を確保できなかったら、ただの器物損壊と住居侵入ですよ!? 我々の活動資金が賠償金で消えます!』
『ぐぬぬ……』
『確かに……』
(令状か、戦術か、予算か……!)
賢人は混乱した。チームの方針が定まらない。
「……とりあえず、出口を探します!」
賢人は気配を完全に消し、家の外周を走り回った。
(どこだ? 奴はどこから出てくる? 換気口か? それとも窓の隙間か?)
賢人が家の裏手へ回り込んだ、その時だった。
ドオォォォォン!!
表側から、爆発のような突風が巻き起こった。
「しまっ……!」
賢人が慌てて戻ると、玄関の郵便受けの隙間から突風と共に飛び出した「風間」が、戦利品を抱えて空高く舞い上がっていた。
「……無線、音無です! 逃しました! ごめんなさい!」
『謝る必要はありません!』
無線越しに、髙橋の凛とした声が響いた。
『——僕の射程圏内です』
■上空
「ヒャハハ! チョロいもんだぜ!」
風間は盗んだ宝石を懐に、風に乗って加速しようとした。
「このまま高飛びして……」
シュンッ!
突如、風間の目の前の空間が歪み、眼鏡の男——髙橋が現れた。
「え?」
「捕まえた」
髙橋の手が、風間の肩をガシッと掴む。
「な、なんだテメェ!? 空中に人が……!?」
「悪いけど、降りてもらうよ」
風間が驚愕している間に、髙橋の能力が発動する。
(転移先:座標固定、鈴木さんの隣!)
ヒュンッ!
■路地裏
一瞬で景色が変わった。
青空から、薄暗い路地裏へ。
風間の足が、地面に着地する。
「は……?」
目の前には、ポケットに手を突っ込んだ大男——鈴木浩三が立っていた。
「鈴木さん! 鈴鳴らして!!」
髙橋が叫ぶと同時に、鈴木はポケットから古びた鈴を取り出し、指で弾いた。
チリリリリリリ…………
涼やかな音色が路地に響く。
「あ? なんだこの音……」
風間は気味悪がり、再び飛び立とうと風を纏おうとした。
(『風』! ……飛べ!)
シーン……。
「……あ、れ?」
風が起きない。身体が軽くならない。
ただの生身の人間として、地面に縫い付けられている。
「な、なんで!? 俺の能力が……!」
「よそ見してんじゃねぇぞ!!」
ドガッ!!
「ぐべぇっ!?」
横から飛び出してきた谷雄一が、風間にタックルを食らわせ、地面にねじ伏せた。
「警察だ! 公務執行妨害と住居侵入、窃盗の現行犯で逮捕する!」
「い、痛ぇ! 放せ! 俺は風だぞ!」
「今はただの空き巣だ! 大人しくしろ!」
ガシャン。
風間の背中で手錠がかけられる。
「……ふぅ。確保完了だな」
鈴木が鈴をポケットにしまい、ニカっと笑った。
「ナイス連携でしたね、皆さん!」
髙橋が眼鏡を直しながら息を整える。
無線から、少し遅れて賢人の声が聞こえた。
『……すごいです。一瞬でしたね』
こうして、凸凹チームの初陣は、多少の混乱はあったものの、見事な勝利で幕を閉じた。




