第10章 痛み分けの撤退戦
◾︎警察署 ロビー
金子が顔を上げると、そこは地獄絵図だった。
目の前には、鈴を構えた鬼のような形相の鈴木(作業着)。
横には、自分をゴミのように蹴り飛ばしたうつ伏せの氷川(足から流血)。
そして、車から降りてきたのは、殺気を撒き散らす未知の大男(熊井)。
「ひ、ひいぃぃぃっ!! 殺されるぅぅ!!」
パニックに陥った金子は、半狂乱で叫び声を上げた。
その恐怖が引き金となり、彼の能力が暴走する。
「嫌だぁぁ! 近寄るなぁぁ!」
バギィッ! メキョキョキョ……!
金子が恐怖のあまり警察署の壁を触りながら立ち上がると、ロビーを支える鉄骨や鉄筋が悲鳴を上げ、飴細工のように捻じ曲がった。
建物の構造が一気に崩れる。
「……マズい!」
鈴木浩三は瞬時に状況を理解し、腰の鈴を激しく打ち鳴らした。
チリリリリリリリリ…………!!
澄んだ鈴の音がロビーに響き渡る。
その瞬間、金子の能力は強制解除され、氷川も氷を出せなくなり、熊井も「井」の圧力を封じられた。
だが、一度折れてしまった鉄骨は元には戻らない。
ズズズズズ……ドォン!!
天井の一部が崩れ落ち、ロビー内に猛烈な粉塵が舞い上がった。
「動くな!!」
「手を上げろ!」
サラとアレックスが、瓦礫の隙間から熊井たちに銃口を向け、鋭く牽制した。
しかし、舞い上がった土煙と粉塵が視界を遮り、さらに次々と落下してくる瓦礫が射線を塞いでいく。
「くっ! 視界が……!」
「アレックス! 下がれ! 天井が落ちてくる!」
サラたちは射撃を諦め、身を守るために後退せざるを得なかった。
一方、崩落の中心地。
能力を封じられ、足を撃たれて動けない氷川の元へ、金子が転がるように駆け寄ってきた。
「ア、アニキぃぃ! 助けてくれぇ! わけわかんねぇよぉ!」
金子は氷川の腕にしがみついた。そして、仁王立ちしている熊井を見て悲鳴を上げた。
「だ、誰だこの化け物ぉ! アニキ、こいつも敵か!? 殺してくれよぉ!」
「……うるせぇな、黙ってろ」
氷川は痛みに顔を歪めながら、毒づいた。
(……クソッ、あの鈴の音だ。能力が一切出せねぇ。足も動かねぇ。……完全に詰んでる)
氷川は、血走った目で立ち尽くす熊井を見上げた。
「おい、熊井! 俺とそいつ(金子)を車に乗せろ! 撤退だ!」
熊井はギロリと氷川を睨みつけた。
「あぁ!? ふざけんな氷川! 俺はあの転移使いの野郎をぶっ殺しに来たんだよ! 逃げるだと!?」
「テメェこそ状況を見ろ!!」
氷川が声を荒らげた。普段の飄々とした態度は消え失せ、必死の形相で叫ぶ。
「あの鈴の音が聞こえねぇのか!? 能力は使えねぇ! 俺は足が動かねぇ! 建物は崩れる! ……状況が最悪すぎるんだよ!!」
氷川は崩れ落ちてくる天井を指差した。
「ここで意地張ってたら全員瓦礫の下敷きだ! 生きてなきゃ復讐もできねぇだろうが! さっさと俺たちを担げ!!」
「……ぐ、ぬぅ……!」
熊井はギリギリと歯軋りをした。
目の前には、粉塵の奥で市民を守ろうと動いている髙橋や鈴木の姿が見える。あと一歩で殺せる距離だ。
だが、氷川の言う通り、自分の武器である「圧力」は封じられ、頭上からは数トンのコンクリートが迫っている。
「……クソがぁぁぁぁっ!!!」
熊井は吠えると、動けない氷川の首根っこを掴み、さらに足元で喚いている金子を米俵のように小脇に抱えた。
「おいコラ新入り! 舌噛みたくなかったら黙ってろ!」
「ひぎぃっ!?」
熊井は二人を乱暴にバンの後部座席へ放り込むと、自らも運転席に飛び乗った。
ブォォォォン!!
エンジンが唸りを上げる。
熊井はアクセルを床まで踏み込み、バックギアで急発進した。
「覚えてやがれクソ野郎ども! 次は全員挽肉にしてやる!」
ガシャァァァン!!
黒いバンは、粉塵と崩落する瓦礫の中を強引に突き破り、警察署の壁に空いた大穴から外へと飛び出していった。
「……逃げたか」
ロビーに残された鈴木は、鈴を鳴らし続けながら、崩れてくる巨大な柱をその剛腕で支えていた。
「……だが、深追いは無理だな。こっちが先だ!」
「ええ! 鈴木さん、そのまま支えててください! 美咲ちゃんたちを外へ!」
髙橋が瓦礫を転移させ、音無やサラたちも一般人の避難誘導に走る。
最悪の戦いは、痛み分けという形で幕を閉じた。
◾︎警察署 駐車場
半壊した警察署の駐車場は、臨時避難所兼瓦礫置き場と化していた。
サイレンの音が遠くから近づいてくる中、埃まみれの作業着を着た大男が、瓦礫の山から姿を現した。
「よっと……! 重てぇなお巡りさん、少しラーメン控えなきゃダメだぞ?」
鈴木浩三だ。彼は金子の暴走した金属によって手足を拘束され、動けなくなっていた警察職員二人を、まるで米俵のように両脇に抱えて運んできたのだ。
「す、すみません! ありがとう、鈴木さん……!」
「助かりました……! 信じられない怪力だ……」
職員たちが恐縮しながら礼を言うと、鈴木は豪快に笑い飛ばした。
「いやいや、気にすんな。あっちで水でも飲んで休んでな」
鈴木は二人を安全な場所に下ろすと、額の汗を拭う間もなく、再び崩れかけた署内へと戻っていく。
「さて、次はどいつだ? まだ埋まってる奴はいねぇか!」
その横では、髙橋俊明が悲痛な面持ちで作業を続けていた。
「——『橋』、転移」
シュンッ。
崩落しそうな巨大な天井の破片や、道を塞ぐコンクリート塊が、髙橋が触れるたびに駐車場の隅へと瞬間移動していく。
救助ルートを確保するための、迅速かつ丁寧な作業。だが、瓦礫の下から現れるのは生存者だけではなかった。
「……っ」
髙橋の手が止まる。
瓦礫の下から、氷川によって氷漬けにされ、息絶えた職員の遺体が現れたからだ。あるいは、崩落に巻き込まれて即死した者も。
「……くそっ。もっと早く、俺たちが動いていれば……」
髙橋は唇を噛み締めた。
悔しさと申し訳なさが胸を締め付ける。だが、立ち止まっている暇はない。
彼は遺体に黙祷を捧げるように一瞬だけ目を閉じ、すぐに次の瓦礫へと手を伸ばした。
「動ける人はこちらへ! 駐車場奥へ避難してください!」
「幸田さん、こっち! 足元気をつけて!」
谷雄一が声を張り上げて誘導を行い、白川真純がショック状態の幸田美咲を支えて外へ連れ出す。
「署長! 応援は!?」
谷が叫ぶと、瓦礫まみれになりながら指揮を執っていた千葉署長が答えた。
「既に手配済みだ! 騒ぎが起きた時点で近隣署と消防に連絡を入れている! もうすぐ到着するはずだ!」
その言葉通り、次々と救急車とパトカーが駐車場に滑り込んでくる。
迅速な対応のおかげで、負傷者たちは次々と搬送されていった。
そんな喧騒から少し離れた、瓦礫の影。
サラ・コッホとアレックス・ターナーは、周囲を警戒しながら無線機を握りしめていた。
「……こちらハミングバード。定期報告です」
『報告せよ』
グレイ司令の冷徹な声が響く。
「ターゲット、音無賢人の件ですが……該当する刑事、および表彰対象の一般人と接触しました。しかし、有力な情報は得られず——」
『……嘘をつくな』
グレイの声が、サラの言葉を遮った。
『私は既に、金剛寺の動きを把握している。奴が送った刺客……氷川と熊井がそちらへ向かい、警察署を破壊して逃走したそうだな?』
「ッ……!?」
サラの喉が引きつる。情報は筒抜けだった。
『なぜ、奴らとの接触報告がない? お前たちが現場にいたなら、彼らと鉢合わせているはずだ。……そこで何があった?』
「…………」
サラは言葉に詰まった。これ以上の嘘は通じない。
彼女は横にいるアレックスを見た。アレックスは静かに頷き、「言え」と目で合図を送った。
サラは覚悟を決め、震える声を抑えて告げた。
「……グレイ司令。いえ、グレイ」
『……なんだ』
「私は……日本が好きです。そして、故郷のアメリカも愛しています。だからこそ、両国の平和を願います。……音無賢人をあなたに渡せば、それが崩れる。私は、それを見過ごすことはできません」
無線機の向こうで、長い沈黙があった。
やがて、溜息交じりの、底冷えするような声が返ってきた。
『……そうか。残念だ、サラ。優秀な駒だったが』
ザザッ、とノイズが混じる。
『残り僅かな人生だ。好きに生きろ』
プツリ。
通信が一方的に切断された。それは、事実上の「死刑宣告」だった。
「……ははっ。切られちゃった」
サラは力が抜けたように座り込んだ。
「『残り僅か』だってさ。怖い怖い」
「ま、これでよかったんだろ」
アレックスも苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「——あなた達は、何者ですか?」
背後から声がした。
二人が振り返ると、そこにはフードを被った青年——音無賢人が立っていた。
「……聞いていたのね」
サラは観念したように微笑んだ。
「私たちはアメリカ軍の諜報員。……スパイよ」
「スパイ……」
「でも、もう『元』だけどね。音無くん、あなたを逃がすために、組織を裏切っちゃった」
アレックスがウィンクしてみせる。
「世界の破滅と、俺たち二人の破滅。天秤にかけたら、こっちの方がマシだと思ってな」
賢人は二人を真っ直ぐに見つめた。
敵国のスパイ。だが、彼らの目には一点の曇りもなかった。
そのやり取りを、避難誘導を終えた谷雄一が、少し離れた場所で聞いていた。
隣にいた白川が、谷の耳元で囁く。
「……谷さん。『白』で見ましたが、彼らの言葉に嘘はありません。本心から、音無くんと日本を守ろうとしています」
「……そうか」
谷は深く息を吐くと、瓦礫を乗り越えて三人の元へ歩み寄った。
「……おい、そこの二人」
サラとアレックスが振り返る。
谷の鋭い視線が、二人を射抜いた。
「今回の協力、感謝する。あなた達の狙撃のおかげで、氷川を止めることができた。……それは事実だ」
「あら、どういたしまして刑事さん。感謝状でもくれるのかしら?」
サラが軽口を叩く。
しかし、谷は懐から手錠を取り出した。
「だがな……多くの署員が見ているんだ。一介の新聞記者が拳銃を所持し、あまつさえ正確無比な射撃で犯人の足を撃ち抜くところをな」
谷の表情は、厳しくも、どこか哀愁を帯びていた。
「銃刀法違反、および公務執行妨害、その他諸々の容疑で逮捕する」
サラとアレックスは顔を見合わせ、ふっと笑った。
「……そうこなくっちゃね」
「日本の警察は優秀だ。……へいへい、お縄につきますよ」
二人は抵抗することなく、大人しく両手を前に突き出した。
ガチャリ。冷たい金属音が、瓦礫の山に響いた。
それは、彼らが「スパイ」から「人間」に戻った瞬間でもあった。
◾︎警察署襲撃から30分後 金剛寺事務所
金剛寺武の個人事務所は、怒号と重苦しい空気で満たされていた。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなぁぁぁっ!!」
金剛寺がデスクを拳で叩きつける。
その目の前には、ずぶ濡れのまま直立不動の熊井猛と、ソファに座り込み、撃たれた両足の手当てをしている氷川智宏がいた。
「貴様ら、何のために私がグレイに法外な金を払って情報を買ったと思っている!? 奴らより早く音無を見つけ出し、私の手駒にするためだろうが! なぜあんな大乱闘になる! バカなのか貴様らは!」
金剛寺の顔は怒りで赤黒く染まっていた。
隠密に確保するはずが、警察署を半壊させるテロ行為に発展したのだ。これでは揉み消すのにも莫大な労力がかかる。
「……申し訳ありません、先生」
熊井が頭を下げる。
「氷川が足を撃たれて身動きが取れなかったもんで……やむを得ず撤退の判断をしました」
「ハッ、笑わせるな」
ソファの氷川が、痛みに顔を歪めながら吐き捨てた。
「そもそもお前が車で突っ込んでこなけりゃ、あそこまで事は荒立たなかったんだよ。脳みそまで筋肉か? このゴリラ」
「あぁ!? テメェがヘマこいて捕まりかけたから助けてやったんだろうが!」
「うるせぇよ、お陰で俺の計画は台無しだ」
二人が睨み合う中、金剛寺が一喝した。
「黙れこの能無しどもが!!」
ビリビリと部屋の窓ガラスが震える。
「言い訳など聞きたくない! ……して、どうなんだ。肝心の『音無の情報』は掴めたのか!?」
氷川は包帯を巻かれた足を指差しながら、ふてぶてしく答えた。
「ええ。掴みましたよ。……俺はあいつと相対した」
「ほう!?」
「奴は確かに『見えねぇ』し『聞こえねぇ』。だが……触れるし、血も出る生身の人間でしたよ。俺の氷で足をやった時、確かにそこに肉の感触があった」
氷川は天井を仰いだ。
「ま、俺たちがあれだけ派手に暴れた後だ。今頃は警察にガッチリ保護されてるんじゃないですかねぇ?」
「チッ……! 警察にか。厄介なことになった」
その時、デスクの上のスマートフォンが震えた。
ディスプレイに表示された名前を見て、金剛寺の表情が引きつる。
『UNKNOWN』
金剛寺は深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「……私だ」
『やあ、金剛寺先生。随分と派手にやりましたね?』
受話器の向こうから、冷ややかな皮肉が聞こえてきた。
『ニュースで見ましたよ。警察署が半壊だとか。……お怪我は大丈夫ですか?』
金剛寺はギリリと奥歯を噛んだ。
(……クソッ。もう情報が回っているのか)
「……心配無用だ。要件はなんだ、グレイ」
『単刀直入に聞きましょう。これだけ事を荒立てて……音無賢人の情報は掴めたのですか?』
金剛寺の脳裏に、先ほどの氷川の言葉がよぎる。「生身の人間」「警察に保護されている」。
これは極めて重要な情報だ。だが、これをグレイに渡せば、アメリカ軍が全力で音無を奪いに行くだろう。
音無は、私が独占しなければならない。
金剛寺は平然と嘘をついた。
「……いや。全然掴めなかった」
『ほう?』
「お前の情報に高い金を払ったのにな! 警察署にいたのはただのチンピラ共だった! とんだガセネタを掴ませてくれたな!」
数秒の沈黙。
電話の向こうで、グレイが鼻で笑った気配がした。
『……そうですか。それは失礼した』
グレイの声色が、ビジネスライクな冷たさへと変わる。
『私の情報の精度が低かったとおっしゃるなら……今後、君を振り回すわけにはいかない。よって、情報の提供はこれにて無しとしましょう』
「なっ……!? い、いや待て! そういう訳ではないんだ! まだ協力の余地は……」
『いいえ。これからはドライに行きましょう、先生』
グレイは金剛寺の言葉を遮った。
『引き続き、日本の警察への武器輸出ルートの確保をお願いしますね? 期限は……そうですね、来年の春まで。それ以上過ぎるのであれば、我々も容赦しませんよ?』
「グレイ! 待て、話を聞け!」
『それでは』
プツリ。ツーツーツー……。
一方的に通話が切られた。
「……クソがっ!!」
ガシャァァァン!!
金剛寺はスマートフォンを床に叩きつけ、粉々に粉砕した。
「ナメやがって……! アメリカごときが、私に指図をするな!」
肩で息をする金剛寺。
事務所に重苦しい沈黙が流れる。
やがて、金剛寺は怒りの表情のまま、部屋の隅で縮こまっている一人の男に視線を向けた。
熊井に担がれて連れてこられた、金子だ。
「……それで?」
金剛寺の低い声が響く。
「お前らが大暴れして、警察署を破壊して、アメリカとの関係を悪化させて……その結果手に入れてきたのが、そこのチンピラ一人だと?」
金子は金剛寺の威圧感に震え上がり、言葉も出ない。
「ひっ、あ、あの……俺は……」
氷川は、やれやれと肩をすくめた。
「まぁ……結果だけ見れば、そうなりますね」
「…………はぁ」
金剛寺は、今度は怒鳴ることさえせず、深く、長く、底の知れないため息をついた。
「……下がれ。頭が痛い」
金剛寺はドカりと椅子に座り込み、頭を抱えた。
最強の切り札(音無)を求めた結果、手元に残ったのは、使い道の分からない小物が一人だけ。
悪徳政治家の野望は、大きく後退していた。




