第三話
(三)
しかし、しばらくして、わたしのことを購入したいという人が現れました。
その方は中年の男性で、奥様と小学校に入学したばかりの息子さんがいらっしゃいました。
その頃、世の中は泡のような好景気に湧いていました。
その方は、若い頃に地方から上京し、下積みを経験した後、ご自身で事業を始めました。そして、それがやっと軌道に乗ってきたところでした。景気の波にうまく乗ることができた、というのもあったのでしょう。
ですが、それに飽き足らず、さらに上を目指していました。その方の夢は、事業をもっと拡大させ、お金持ちになって高級な住宅に移り住むことでした。それまでの間、いわば繋ぎとして、家族三人で暮らす手頃な家を探していました。その点、わたしなら、仕事に出かけるにも都合がよく、かつ、沿線に広がる都会の街並みを日々眺めながら、ご自身の夢を思い描き、そしてその夢を追いかけるのに都合がよかったのです。
それからとんとん拍子で話が進み、わたしはそのころ山手線の主力として活躍していた205系に連結できるよう、電気系統の改造を受けました。
205系君は、ステンレスの銀色の車体が、いかにも今時の通勤電車といった感じでした。
「今時の・・」と言いましたが、それは車体だけではありません。もっと目立たないところにも、いろいろな改良が施されていました。例えば、台車もそのうちに一つです。205系君の台車には、わたしたちの鉄道会社の通勤電車としては初めて『ボルスタレス台車』が採用されていました。『ボルスタレス』とは、その名のとおり『ボルスタ』(台車の枕梁・揺れ枕)を省略した構造のことを言います。その他にも大幅に見直され、簡素化、そして軽量化が図られていました。
そんな205系君は、わたしのような年代の電車から見れば、よく言えば若々しいとも言えますが、悪く言えば『乗りが軽い』とでもいいましょうか。
ですが、わたしはと言えば、その一番後ろに連結させてもらう立場ですから、偉そうなことは言えません。205系君にしてみれば、たかだか一両とは言え、昔ながらの重たい鋼体製の車両を後ろに連結しなければならないわけですから、迷惑だったかもしれません。
最初の日、
「ど、どうも・・」
と、ぎこちない挨拶をして、わたしは205系君の一番後ろに連結してもらいました。
とは言え、やはり線路の上を走るのは気持ちがよいものです。新しい旦那様と奥様、そして息子さんとの新しい生活が始まると、わたしはまた、充実した日々を過ごすようになりました。
ですが、一つ、気がかなりなことがありました。
それは、かつてわたしの相方だった モハ102(住宅改造後は サハ103 851 ですが)のことでした。
新しい旦那様と奥様は、相方ではなくわたしを選択なさいました。それは、わたしの内装が洋風だったから、というだけの理由でした。
相方だった モハ102 は、住宅に改造される際、内装全体が和風な感じでまとめられました。居間も寝室も畳敷きで、居間には卓袱台が置かれていました。最初に高齢のご夫婦が入居された時はむしろそれがよかったのですが、新しい旦那様と奥様は、相方とわたしを比べわたしを選択なさったのでした。
わたしと、相方だった モハ102 は、いわば双子のようなものでした。外観も同じなら、能力も同じです。違いなんてないのです。
わたしは、その日一日、どんなに充実した時間を過ごしたとしても、夜な夜な車両基地に戻ってくるたびに、なんだか申し訳ないような気持ちになってしまうのでした。
それからしばらく経ったある日、深夜になって車両基地に戻ってくると、相方だった モハ102 の姿は無くなっていました。それが相方との別れでした。
電車を解体する時は、まず車内の設備(一般的な電車であれば座席や網棚など)や床下の機器、それに窓ガラスやドアを取り外します。それらは選別され、可能なものはリサイクルへまわします。そして、車体そのものは、大きな鋏を持った重機で粉々に切り刻んでいきます。場合によっては、バーナーを使い手動で解体していくこともあります。
それは、誰もがたどる道です。わたしたち電車は、使命を終えた後、そういう道をたどります。
旦那様は、いつもお仕事で遅くなりました。お仕事と言っても、そのほとんどは、お仕事関係の方々とお酒を飲みに行って遅くなるのでした。
日によっては、そのお仲間の方々を何人も連れ、終電のわたしにご帰還になることもありました。そんな時は、終電が終わり車両基地に戻った後も、お仲間たちとどんちゃん騒ぎを続けるのでした。そのどんちゃん騒ぎは、翌朝、わたしが車両基地を出発するまで続きました。そして、わたしは、へべれけで足取りが覚束ない皆さんを、それぞれ山手線内のご都合のよい駅まで送って差し上げるのでした。
その頃、旦那様の事業は順調に拡大していました。それにつれ、日々、奥様が作る手料理も豪勢になっていきました。部屋には物が増え、テレビはひと回りもふた回りも大きなやつになりました。ですが、わたしの車体は大きくできません。よって、その分、リビングが狭くなってしまいました。
「ああ~、早くもっと大きな家に住めるような身分になりたいなあ」
「そうね、でもこの調子ならあと少しね」
旦那様と奥様は、いつもそんな会話をしていました。
近い将来、もし旦那様と奥様の夢が実現すれば、きっとわたしは、また主を失うことになるでしょう。それは分かってはいましたが、わたしは、なぜか旦那様と奥様の夢を応援していました。
それから、3年の月日が流れました。
それまで山手線の電車は10両編成だったのですが、間に1両増結され11両になりました。そのため、その一番後ろに連結してもらうわたしは、12号車ということになりました。
【参考】わたしが連結された、このころの山手線の編成(外回りの場合)
1号車 クハ204 (定員136名)
2号車 モハ204 (定員144名)
3号車 モハ205 (定員144名)
4号車 サハ205 (定員144名)
5号車 モハ204 (定員144名)
6号車 モハ205 (定員144名)
7号車 サハ205 (定員144名)
8号車 モハ204 (定員144名)
9号車 モハ205 (定員144名)
10号車 サハ204 (6扉車・座席収納時定員157名)(← 増結された車両)
11号車 クハ205 (定員136名)
12号車 サハ103 852 (定員1世帯)(← わたしです)
あとになって思えば、ちょうどそのころから、つまり、山手線の電車に1両増結されたころから、すでに景気の後退は始まっていました。ですが、そのことに気が付いていた人は、まだほんの少ししかいませんでした。もちろん、わたしにもそんなことがわかるはずはありません。
しかし、それから1年2年と経つうちに、世の中のほぼすべての人が景気の悪化を実感するようになりました。しかもそれに気がついた時には、すでにどうにもならないレベルになってしまっていました。泡のような好景気は、とっくに弾けてしまっていたのです。
旦那様は、相変わらずいつも遅くなりました。ですが、以前のように、酔っぱらって陽気に帰ってくるわけではありません。お帰りになる時、旦那様はいつも難しい顔をしていました。お仲間を連れてくることもなければ、朝までどんちゃん騒ぎを繰り広げることもありません。
次第に、奥様が作る手料理の品数が減っていきました。そして、一つ一つの食材も、ワンランク、そしてもうワンランク・・と、より質が落ちる物へとなっていきました。
少しすると、奥様もお仕事を見つけて、日中は働きに出るようになりました。
奥様が働きに出るようになると、夜になって奥様がお帰りになるまでは、学校から帰宅した息子さんが一人だけで過ごすようになりました。
そんな時、息子さんは、子ども部屋で青いプラスチェックの線路を楕円形に繋ぎ、そこにおもちゃの電車を走らせました。そのおもちゃの電車には、特急列車もあれば、通勤電車もありました。わたしと同じ、山手線のウグイス色の103系もありました。
ですが、そんなおもちゃの電車には興味がないのか、いつも息子さんは、窓外に流れる都会の街並みをただぼんやりと眺めて過ごすのでした。その間も、おもちゃの電車は、プラスチックの線路の上をぐるぐるぐるぐると走り続けていました。
夜になり、慣れないお仕事でお疲れになった奥様がお帰りになります。そして、さらに深夜、何か思いつめたような顔をして旦那様がお帰りになります。
お互いに疲れてイライラしているのでしょう、些細なことがきっかけになり言い争いが始まります。
子供部屋のベッドの中で眠りについていた息子さんも、その様子に気がつきます。そんな時、息子さんは終電までのわずかな時間を、窓外に流れる都会の灯りをぼんやりと眺めて過ごすのでした。
そしてある日、旦那様がいらっしゃらない間に、奥様は息子さんを連れ、わずかな身の回りのもの持って出て行ってしまいました。
それからというもの、旦那様は無口になり、より一層厳しい表情を見せるようになりました。きっと旦那様は、一人ぼっちになってしまった、とお感じになったのでしょう。
わたしは、毎日のように旦那様に語りかけました。
「誰にでも良い時もあれば悪い時もあります。たまたま今が悪い時なだけですよ」
「そうです! きっと、奥様も息子さんも分かってくれる時がきますよ」
そんな日々が、3年ほど続きました。
しかし、旦那様に、わたしの思いが届くことはありませんでした。
ある日、わずかに残っていた荷物をまとめ、旦那様も出て行ってしまいました。
主がいなくなってしまったわたしは、またもや中古住宅として売りに出されることになりました。車両基地の片隅で中古住宅として売りに出されたわたしの価格は、前回売りに出された時の半分、つまり最初に売りだされた時と比べると、わずか四分の一になってしまいました。
しかし、よくない出来事は重なるものです。売りに出されてから少しして、検査でわたしの台車に不具合が見つかってしまいました。
わたしの台車は、台車枠と下揺れ枕を『揺れ枕つり』という棒状の部品で繋いでいます。その揺れ枕つりと下揺れ枕を結合する部分の部品に、小さな亀裂が見つかってしまったのです。
替えの部品があればよいのですが、わたしの同型車はとっくに山手線から引退してしまっていますし、『ボルスタレス台車』の205系君には、そもそも始めからそんな部品はありません。地方の路線に行けばまだがんばっている仲間もいますが、誰が買ってくれるかもわからないわたしのために、貴重な替えの部品を提供してくれるわけはありません。
結局、わたしの販売は取りやめになりました。
相方だった モハ102 も、もういません。わたしは、車両基地の片隅で一人ぼっちになってしまいました。
「これで・・電車としての使命を終えた・・、ということなのだろうか?」
わたしは、今度こそ廃車になり、そして解体されることを覚悟しました。
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(4)へ続きます。
以下、年表です。(この章に関する部分のみ。一部、前章と重複しています)
1988年(昭和63年) 青函トンネル開通、寝台特急「北斗星」運行開始
旦那様と奥様が郊外の一戸建てに引っ越す。
中古住宅として売りに出される。
(山手線)103系運行終了
2番目の旦那様と奥様が購入する。
合わせて205系に連結可能なように改造を受ける。
ただし、車番はそのまま。
かつて相方だったモハ102(サハ103 851)解体
1991年(平成3年) バブル崩壊
(山手線)1両増結、11両編成になる。
1993年(平成5年) 奥様が子どもを連れて出ていく。
1996年(平成8年) 旦那様も出ていく。
またもや売りに出されるが、不具合が見つかり販売中止。




