第二話
(二)
午前四時、外はまだ暗い時間です。旦那様も奥様も、まだ寝室でお休みになっています。ですが、わたしの一日はすでに始まっています。
いつものように山手線の電車の一番後ろに連結してもらい、車両基地を出発します。そして、日によって違いはありますが、例えば、大崎駅からその日の1番列車として出発していきます。もちろん、こんな時間から電車に乗る人はあまりいません。
午前六時、奥様がお目覚めになります。そしてキッチンで朝食の支度を始めます。このくらいの時間になると、各駅で乗り降りする人も増えてきます。
あっ、ちなみにこのころの山手線の電車は10両編成でした。わたしはさらにその後ろに連結してもらっているので、11号車ということになります。一般のお客様は、1号車から10号車をご利用いただきます。11号車、つまりわたしのことですが、わたしは1両まるごと旦那様と奥様の専用なのです。
【参考】わたしが連結された、このころの山手線の編成(外回りの場合)
1号車 クハ103 (定員136名)
2号車 モハ102 (定員144名)
3号車 モハ103 (定員144名)
4号車 サハ103 (定員144名)
5号車 モハ102 (定員144名)
6号車 モハ103 (定員144名)
7号車 サハ103 (定員144名)
8号車 モハ102 (定員144名)
9号車 モハ103 (定員144名)
10号車 クハ103 (定員136名)
11号車 サハ103 852 (定員1世帯)(← わたしです)
午前七時、旦那様がお目覚めになります。そして奥様と一緒に朝食を召し上がります。旦那様は新聞の朝刊を読みながら箸と口を動かすので、よく奥様に叱られます。朝食が終わると、旦那様はスーツにお着替えになり、洗面所で髭をそって髪型を整えます。
午前八時、朝のラッシュはピークを迎え、1号車から10号車の混雑は大変なものになっています。ですが、そんな時間でも旦那様はリビングでくつろいでいらっしゃいます。時には、奥様と一緒にテレビの朝ドラをご覧になっちゃったりして。そして、私が新橋駅に到着すると、奥様に見送られ優雅に下車していかれるのです。
旦那様が出勤されると、奥様はお洗濯にお掃除と、やらなくてはならないことがたくさんあります。ちなみに、洗濯物を外に干すことはできません。もし窓を開けて洗濯物を干そうものなら、みんなどこかへ飛んで行ってしまうでしょう。万が一にも、洗濯物が架線や信号機にでも引っかかってしまっては大変です。そのため、洗濯機の横の乾燥機をお使いになります。
と、まあ、朝はいつもこんな感じです。この時点で、わたしはすでに山手線を4周ほどしています。
日によっては、かつてわたしの相方だった モハ102(今では サハ103 851 ですが)にもよく会いました。
それは、私が「外回り」で、相方だった モハ102 が「内回り」の列車に連結されている場合か、あるいはその逆の場合です。
大雑把に言えば、山手線は1周1時間です。よって、30分に1度、お互いの列車がすれ違うことになります。その都度、わたしたちは、
「やあ元気?また会ったね」
「やあ元気?また会ったね」
(以下、すれ違うたびに繰り返し)
といった具合に声を掛け合い、お互いの姿が見えなくなるまで心の中で手を振るのでした。
ちなみに、相方だった モハ102 は、改造されるときに内装が和風でまとめられました。居間も寝室も畳敷きで、居間には卓袱台が置かれました。入居したのは高齢のご夫婦でした。お爺さんが電車のことが大好きで、残りの人生をできるだけたくさん電車に乗って過ごしたいとの思いから、抽選に応募したということでした。
日中、奥様がお買いものにお出かけになることもあります。そんな時、わたしは大いに活躍します。
例えば、奥様が銀座でお買いものをされる場合、奥様が有楽町駅で下車された後、山手線をぐるっと1周して1時間後にお迎えにあがります。その時、まだ奥様がお帰りにならなければ、さらにもう1周し再度お迎えにあがります。
銀座でお買いものをされた後、新宿で別のお買いもの、なんて日もあります。そんな時は有楽町駅へお迎えにあがったあと、その足で新宿駅までお送りいたします。そして、また山手線をぐるっと回って1時間後に新宿駅へお迎えにあがります。
そうしているうちに日が暮れていきます。奥様はキッチンで夕食の支度にとりかかります。そして、わたしは新橋駅に旦那様をお迎えにあがります。
わたしがホームに到着したので、旦那様がドアから中に入ろうとすると下駄箱があり、
「ただいま、ああ今日も疲れたなあ」
なんて言いながらそこで靴を脱ぎます。
すると、エプロンをした奥様がキッチンから出てきて、
「お帰りなさい、お仕事お疲れ様でした。もうすぐ晩御飯の支度ができますけど、先にお風呂になさいます?」
なんて言いながら、帰ってきた旦那様をお迎えします。
その後、夜のラッシュも終わり、お仕事で疲れ切った方々や、お酒を飲みすぎて酔っぱらってしまった方々が、みなさん無事にお家へお帰りになったころ、わたしはひっそりと車両基地へ戻っていきます。
朝から晩まで山手線をぐるぐるぐるぐると走り続け、多い日には山手線を19周もするのでした。ですが、つらいとかしんどいとか思ったことは一度もありません。むしろ、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。
このころは、こんな日がずっと続くような気がしていました。
それから5年・・。
旦那様と奥様の間に赤ちゃんが産まれました。その子は女の子で、それはそれは可愛らしい赤ちゃんでした。お二人にとって待ち望んでやっとできた赤ちゃんだったので、とてもお喜びになって。
それからというもの、日々の生活が賑やかなものになりました。赤ちゃんが泣くと、奥様がミルクを飲ませてあげます。すると、赤ちゃんはすやすやと眠りにつきます。しかし、少しするとまた眼が覚めて泣きます。今度は奥様がおしめを替えてあげます。すると、またすやすやと眠りにつきます。しかし、少しするとまた目が覚めて泣きます。今度は奥様がミルクを飲ませてあげます。すると、またすやすやと眠りにつきます。しかし、また少しすると目が覚めて泣き・・・とまあ、一日中これのくり返しです。
旦那様も、お仕事がお休みの日は赤ちゃんの世話をします。旦那様が赤ちゃんを見ている間、奥様も少しばかり息抜きができます。
もちろん、わたしも何もしないわけではありません。赤ちゃんが産まれてからというもの、それまでにも増して静かに、そして乗り心地よく走ることを心がけました。わたし自身が、大きなゆりかごになったかのように。住宅に改造された際、電装を解除し「サハ」として生まれ変わったことも、ここにきて役に立つことになりました。
その甲斐もあってか、赤ちゃんが、わたしの走行音や走行中の振動に驚いて目を覚ましてしまうようなことはありませんでした。自分で言うのもなんですが、赤ちゃんもわたしのことを気に入ってくれたようです。さすがは旦那様と奥様のお子様です。もしかすると、旦那様と奥様のように電車が大好きな人になるかもしれません。将来が楽しみです。
それから1年・・。
最初のお子様が自分の足で立って少し歩けるようになったころ、なんと二人目のお子様が産まれました。今度は男の子でした。一人目のお子様ができるまで5年でしたが、二人目はたったの1年でした。そういうこともあるのですね。
たったの1年で家族が2人も増えましたが、その点、抜かりはありません。こんなこともあろうかと、もともと子供部屋には2段ベッドを入れてあります。ありがたいことです。住宅に改造されるとき、わたしの周りに取り付いて「ああでもない、こうでもない」とやっていた方々のことが思い返されます。
・・しかし、別の問題が発生しました。
一人目の女の子は、すやすやと眠っているとき、わたしの走行音や走行中の振動で目を覚ましてしまうようなことはありませんでした。
ですが、二人目の男の子は、音や揺れにとても敏感で、眠ってもすぐに目を覚ましてしまいました。しかも、その場合はとても機嫌が悪く、いつまでも泣きやんでくれませんでした。その子にとっては、わたしの走行音や走行中の振動がストレス以外の何物でもなかったのです。
旦那様と奥様が相談し、わたしは一日を車両基地の片隅で過ごすことになりました。旦那様も奥様も、外出する際には最寄りの駅まで出て、そこから電車に乗るようになりました。もちろん、わたしも不本意でした。ですが、わたしにはどうすることもできません。
ちょうど1年前、山手線に新型の205系という車両が導入されていました。銀色のステンレスの車体に、わたしたちと同じ色の、つまり、ウグイス色の帯を巻いた車両でした。
その205系が増備され、また一編成、さらに一編成と新しく入ってくるたびに、その分だけ、わたしの仲間であった103系が、また一編成、さらに一編成と減っていきました。その様を、わたしは車両基地の片隅でただ見ていることしかできませんでした。
それからまた1年・・。
なんと、三人目のお子様が産まれました。今度は女の子でした。
子供部屋には、ベッドは二人分しかありません。
旦那様と奥様は、夜な夜なひそひそと相談をされるようになりました。何を相談されているのか、もちろん、わたしにも分かりました。
その次の年、旦那様と奥様は、お子様たちを連れて、郊外の一戸建て住宅に引っ越していきました。
わたしは、車両基地に取り残されました。
同じ年、山手線でわたしの仲間であった103系の運行が終了しました。山手線で、わたしを連結してくれる車両は無くなってしまったのでした。
そのころ、かつてわたしの相方だった モハ102(住宅改造後は サハ103 851 ですが)も、わたしと一緒に車両基地で過ごしていました。
モハ102 に入居していたのは、高齢のご夫婦でした。ですが、半年ほど前にお爺さんが体調を崩し、お婆さんと一緒に、ご親族のところへ身を寄せることになったのでした。
それ以来、かつて相方だった モハ102 とわたしは、昔のように仲良く並び、車両基地の隅っこで過ごしていました。
わたしたちは、中古住宅として売りに出されることになりました。車両基地の片隅で中古住宅として売りに出されたわたしたちの価格は、最初に売りに出された時の半分になっていました。
しかし、わたしたちを購入したいという人は、なかなか現れませんでした。ただ時間だけが過ぎていきました。
もしもこのまま新たな買い手が現れなかったら・・、その時は、わたしたちは解体されることになっていました。
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(3)へ続きます。
以下、年表です。(この章に関する部分のみ)
1980年(昭和55年) 最初の旦那様と奥様のマイホームとして運行開始。
1985年(昭和60年) 旦那様と奥様の間に一人目の子どもが生まれる。
(山手線)205系運行開始
1986年(昭和61年) 旦那様と奥様の間に二人目の子どもが生まれる。
バブル景気が始まる。
1987年(昭和62年) 国鉄 分割民営化
旦那様と奥様の間に三人目の子どもが生まれる。
1988年(昭和63年) 青函トンネル開通、寝台特急「北斗星」運行開始
旦那様と奥様が郊外の一戸建てに引っ越す。
中古住宅として売りに出される。
(山手線)103系運行終了




