1 鬼
目が覚めて最初に感じたのは、板の間の冷たさだった。寝かされているのか、頬から、手足から、冷たさが染みてくる。
自分はいま、どこにいるのだったか。
豆はまぶたを持ち上げた。格子を組んだ戸口から月明かりがうっすらと射している。狭い部屋だ。調度はなにもない。外には朱色の鳥居が見えた。どこかの神社、その社の中だろうか。
さわさわと葉擦れの音がして、それは豆の記憶まで揺らしていった。
……そうだ、自分はさらわれたのだ。
思い出すと一気に霞がかった思考が晴れた。
「起きたか」
ふっと、小さな灯りがともる。
闇の中に、ふたつの月が浮かんでいた。――いや、男の瞳が手燭を受けて金色に光っているのだ。
その男は、壁に背を預けて座っていた。
豆は勢いよく身を起こす。縛られてはいなかったため起きるのに支障はないが、眩暈がして膝をついた。気分が悪いのは、殴られて気絶していたせいだろう。それでも顔を上げ、男を見る。
「……あなたは」
男の髪は白銀だった。額からは二本の角が生えている。冴え冴えとした瞳で豆を見据え、口を開いた。
「鬼の頭領、琥月」
鬼――、美しい鬼。
ああ、そうか。この男なのだ。千鶴が惚れた鬼というのは。
白銀の髪と金の瞳は闇夜の中にあっても目を引いた。だが冷めた表情は他者を寄せつけない雰囲気がある。小さな妖怪なら彼に睨まれただけで逃げ出すだろう。豆もまたその瞳に怯んだが、相手の雰囲気に呑み込まれては不利になると自分を律した。
「あなたが、琥太郎の父親なんですね」
琥月は応えることなく、ただ豆を見ている。
――鬼に関わるなと言われたとたん、これだ。朔夜さんに怒られそうだな。
だが、やっと琥太郎の父に会えたのだ。この機会を無駄にしたくない。どうして琥太郎をさらおうとしたのか確かめない限りは、琥太郎も千鶴も不安がつづくだろう。だからこれはいい状況だ。たとえここにいるのが、なんの力ももたない豆腐小僧の己ひとりだとしても――。
琥月は刀を手に立ち上がる。豆に近づくたび、社の床がきしんだ。抜かれた刀身が手燭の灯りを鈍く跳ね返す。
「連れてこられた理由がわかるか」
ぴたりと頬にあてがわれた鋼の冷たさに身がすくむ。それでも豆は琥月と視線をぶつけた。千鶴に話を聞いたあとだからだろうか。はじめて会ったような気はしなかった。
「俺の血肉が必要だから?」
すっと刃が動き、豆の頬から血が滴る。琥月は刀に指を添わせて豆の血をすくい取ると、口に含んだ。琥月の鋭い気配が増して、肌を刺す。妖怪の力を高める己の血は、弱った鬼たちが欲する代物だ。
逃げなければ、殺されるのだろう。
「……申し訳ございませんが、俺は自分の身体を売るつもりは毛ほどもありません。豆腐ならいくらでもお売りしますが」
彼は冷めた表情のまま、鼻で嗤った。
「安心しろ。いますぐ殺しはしない」
戸口の近くに腰を落ち着けた琥月が盃を取り出す。なみなみと酒を注ぎ憂鬱そうに息をつく姿は恐ろしいはずなのに、危うげでもあった。ふらりと闇に消えてしまいそうな朧月の姿だ。
「鬼の一族の力が弱められているのは知っているな?」
「……ええ。人間に術をかけられた、と」
「いまの鬼は力も弱ければ寿命も短い。このままでは一族が滅ぶ。だからおまえには俺たちの糧となってもらう。だが一度に喰いきってしまうのは惜しい」
だから殺さない。つまり。
「俺は飼い殺される――ということですね」
血肉を得て、治癒を待ち、また喰らう。地獄だ。
どうにか逃げなければと戸口の格子から外を見つめた。
長屋で琥月に倒された百鬼の妖怪は無事だろうか。彼が朔夜に助けを求めてくれるかもしれない。仮に無事でなかったとしても、護衛が屋敷にもどらなければ朔夜はなにかがあったと勘づくだろう。
そういえば長屋にはギン太もいた。あののんきな子狐も無事だろうか――。
草木の揺れる音を聞きながら、豆は外を見つめる。
――無事、だな。うん、きっとみんな大丈夫だ。
視線を部屋へもどして、心を落ち着けた。いつのまにか頼ることのできる妖怪が増えていた。妖怪を避けていたはずなのに、どうしてこうなったのか。不思議な心地になりながら、悪くないと思う。
「……琥太郎を、千鶴のもとに帰さなかったのだな」
琥月がつぶやいた。盃に酒を注ぐ静かな音も、ここではよく響く。
「不満ですか? あなたは琥太郎をさらいたいのですよね? 百鬼のもとに琥太郎がいては不都合でしょう」
「それはもういい。百鬼にいるなら、手出しする気はない」
「え?」
琥月は豆を見てからまた視線を落とし、盃の中で酒を回す。
「百鬼夜行と正面から戦う力が、俺にはまだない。それにおまえが手に入ったのだから琥太郎にこだわる必要もなくなった」
「……あの子には、半妖の特別な力がないはずです。最初からこだわる理由がないでしょう。どうしてさらおうとしたんですか」
琥月は答えなかった。
琥太郎をさらおうとする琥月の気迫は恐ろしいものだったと、千鶴は語っていた。なのに、いまはやけにあっさりと引いている。
この男はなにを考えているのだろう。
と、そこでもうひとつ気づいた。
「いつ、俺が半妖であることを知ったんですか」
豆は出自を隠して生きてきたのだから、事情を知る者はそうそういないはずだ。百鬼夜行の中でさえ、豆が半妖だと知るのは総大将と若大将のふたりだけだった。
琥月は片方の眉をわずかに持ち上げる。
「百鬼の総大将から聞いていないのか」
「総大将?」




