7 サトリ
豆がどうにか息を整えたころ、野菊も気だるそうに身を起こした。狐のギン太を揺り動かし、意識がないと見るや両手で抱きかかえる。それは意外なほど優しい手つきだったが、豆と朔夜を睨む瞳は荒々しい。
いまにも飛び掛かってきそうな野菊に、朔夜が言った。
「おまえ、なんで破落戸なんかと手を組んでるんだ」
「手を組むだって……? ふざけるな、だれが人間となんか」
ぎりっと奥歯を噛むその表情が表すものは嫌悪だった。やはり野菊は人間を恨んでいるのだろう。とはいえ、彼女が賭場で儲けた金が破落戸に流れていることは事実なのだから、そうしなければならない理由があったはずだ。
豆は野菊に近寄り、膝を折った。
なんとなくではあるが、彼女の事情はわかってきている。
「野菊さん。あなた、人間に脅されているんですか?」
野菊の目がわずかに見開かれた。もちろん豆に心を読む力なんてないが、彼女の小さな動揺をしっかりと見た。
「神社にいた少年、彼は人間ですね。抱えている子猫のほうが妖怪でした。あなたを脅しているのはあの少年……というより破落戸たちでしょう」
妙だとは思っていたのだ。あの場に、妖怪を抱えた人間がいるなんて。それに人間を毛嫌いする野菊が人間と共にいることも。
「彼はまるで朔夜さんと野菊さんの勝負の行方を見張っているようだった。大切そうに妖怪を抱いていたのは、それが野菊さんに対する脅しだったから、ではないですか?」
「脅しねえ……。野菊、あの猫は、あんたにとってなんなんだい」
静かな風が吹き抜ける。野菊は沈黙の後、ふっと息をついた。
「家族みたいなもんさ」
すっかり諦めたのか、怒気はどこかへ消えてしまったらしい。肩を落として、ひと回り小さくなったように見える彼女は、さきほどまでとは別人に見えた。
「あたしが儲けないと、あの子が殺されちまうんだ。いや、あの子だけじゃないよ。まだ小さな妖怪たちが、ほかにも捕らえられてる」
「人間にか?」
眉をひそめる朔夜に野菊はうなずき、賭博の裏にあった真相を話し出した。
「もともとあたしは人里離れた場所で、小さな妖怪たちと一緒に暮らしていたんだ。だけどある日、あたしの噂を聞きつけた人間が子どもたちを捕まえて、あたしに言った。サトリの力でひと儲けしてくれってね」
野菊は自嘲するように笑う。その態度は、嘘が入り込んでいるようには見えない。
「せめて、みんなが捕らえられる前に人間たちと会っていたら、その企みを見抜いて逃げることもできた。だけど捕らえられたあとじゃあ、あたしにはどうしようもない。心を読んだって、みんなを取り返す力がないからね」
野菊の腕の中にいるギン太がうめいた。野菊はそっと小狐の毛並みをなで、ギン太は野菊の手に顔をこすりつけて甘えている。ギン太が言っていた「世話をしてくれる姉さん」とは野菊のことだったらしい。
「あたしは、あの子たちを守ってやらなきゃいけないのさ」
「……なるほどな」
豆と朔夜は視線を交わしたが、お互いになんとも言えない顔をしていた。人を騙したことは褒められるべきではないが、真に咎められなければならないのは子ども妖怪をさらい野菊を脅す人間のほうかもしれない。
朔夜はため息をついて頭をかく。
「だったら、最初から百鬼に相談すればよかったんだ」
「でもあんたら、人間に甘いだろう」
「たしかに百鬼は行き過ぎた妖怪の悪行を諫める。それがあんたには、人間の味方をしているように見えるんだろうが、そうじゃないぞ」
朔夜も膝を折り、野菊と目線を合わせた。
「百鬼は人も妖怪も問わず、弱い者を守るためにある」
薄暗い林に、青白い月の光が落ちる。その中に浮かび上がる朔夜の姿に、野菊が息を呑むのがわかった。そこにあるのは、若大将に相応しい朔夜の表情だ。
こうしていると、父親に似ている。
闇を背負って闇にまぎれ、しかし人を引きつける朔夜の生まれ持った資質。この男は江戸妖怪たちの若大将なのだと思い知る。
「荒ごとが苦手だっていうなら、得意なやつに任せればいいさ。使えるもんは使わないと損だぞ」
ふいにギン太の頭に手を置いた朔夜に、ギン太が「うぎゃ」と叫ぶ。朔夜は笑って小狐の頭をなでまわしてから、立ち上がった。
「よし、事情はわかった。この件、俺が手を貸そう」
「あんたが?」
「ああ。妖怪が捕らえられてるなら助け出す。当たり前のことだ。あ、だがこの件が解決したら賭場は閉めてもらうぞ。いいよな?」
「……そりゃ、好きで賭博なんてしてないから構わないけど」
「なら決まりだ」
それでも野菊の表情が硬いままなのを見ると、朔夜は自分の胸を叩いてみせた。
「信用ならないって思うなら、俺の心を読んでみな。弱みを覗くのは勘弁だが」
野菊は戸惑いに満ちた顔で朔夜を見つめた。朔夜の言葉に嘘のないことは豆にだってわかるのだから、サトリの野菊にはよく伝わるだろう。やがて、彼女は迷うように瞳を閉じて頭を下げた。
「みんなを、助けておくれ」
――弱いものの味方、か。
豆は自分の胸に手を当てる。
きっと朔夜にとっては、豆も子ども妖怪も同じような存在なのだろう。弱いから守らなくてはならないという庇護の対象なのだ。だからここまでよくしてくれる――。
「豆? どうした」
「……いえ」
曖昧に笑う豆の胸を、昼間、旦那と話していたときと同じ痛みがちくりと刺した。すこしだけ、自分の中にわだかまるものの正体に気づく。
困ったものだな、と眉を下げた。




