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2 日常へ

 江戸の町の天辺に日が昇ったころ、豆は憔悴した顔で大川沿いを歩いていた。やっと役人たちから解放されて、自分の長屋へともどる道中のことだ。


 江戸の町を網の目のように巡る水路は夏の日差しを受けて輝き、その上を小舟が人を運ぶさまは長閑なものだった。いまの豆には恨めしいほどに。


 ――ああ、朝から災難だった。


「あ。お豆! ここにいたのか。今朝は会わなかったから心配したんだぞ」


 痛む身体でふらふら歩いていると、聞きなれた声がした。親しみのこもった声色に身体から力が抜けていくのがわかる。


「柳の旦那。心配かけたようですみません。すこし面倒なことに巻き込まれまして」

「なんだい。喧嘩の巻き添えでもくったか? おまえは物腰柔らか優男が売りだろうに、似合わないことするなよ」

「いえいえ、ちがいます。……でも喧嘩のほうがましだったかもしれませんね」


 遠い目をすると、旦那はいよいよ心配そうに豆を見やった。


 柳の旦那は朝の散歩が趣味のようで、豆が早朝に豆腐を売り歩いているとよく――というより毎日、顔を合わせている男だ。もっと言えば、豆腐売りをはじめるより前、豆が幼いころからの顔なじみでもある。柳の下で会うことが多かったから、いつのまにか「柳の旦那」という呼び名が、豆と旦那の間では定着していた。


 歳は四十そこそこで背が高く、顔立ちも悪くないのだが、どうにも冴えないという不可思議な男だ。


「はあ? 岡っ引きにしょっぴかれたあ?」


 うちわで顔を仰ぎながら豆の話を聞き終えると、旦那は瞳を大きくさせる。


「そうなんです。今日は厄日ですかね」


 朝、岡っ引きに殴られて気を失ったあと、豆は役人が詰めている建物へと連れて行かれた。妙な姿勢で縛られていたため、いまも身体の節々が痛い。


「まあ、話せばわかっていただけたんですけど。俺が夜明け前から出歩いていたのは、あの長屋に住む大層早起きなお得意さんから、豆腐を所望されていただけだと」

「へー。そりゃ、災難だったな。しかし、解放されてよかったじゃねえか」

「長屋のおかみさんたちが、豆は殺しなんてしないだろうと役人に掛け合ってくれたみたいです。おかげさまですぐに自由になれました」


 もちろん、役人は豆に殺しが不可能だと裏を取った上で縄を解いてくれたのだけど。殺された女は夜明けよりも一刻ほど前に襲われていたらしい。その時刻、豆は豆腐をつくっていた。それを職人仲間が証言してくれたのだ。


 とはいえ「女連中の剣幕がすごいから、さっさと帰ってくれ」と半ば厄介払いされる形で解放されたため、おかみさんたちには感謝しなければならないだろう。


 そんな話をすると、旦那はにやりと顎をなでた。


「人気だなあ、お豆」

「いえいえ。みなさん、俺が人殺しできるような体力を持ち合わせていないと十分承知しているだけですよ」

「照れるな照れるな。豆はいい子だから人気が出て当然だ」

「いい子って……、そんな歳でもないんですが」

「俺からしたら、まだまだ子どもだよ」


 旦那は笑いながら豆の背中をばしばしと叩き、豆も「痛いです」と笑い返した。子ども扱いは恥ずかしいが、柳の旦那からされると嫌ではない。そういう不思議な魅力のある人だった。


「じゃ、そろそろ俺は行くよ。豆の顔見て安心したし。ゆっくり休めよ」

「はい――、いたっ」


 旦那は最後に豆の背をひと際強く叩いた。いつものことだ。挨拶代わりに彼はよく背を叩いてくる。気合い注入、ということらしい。


 豆は頭を下げて旦那を見送った。彼に会えたことで、ようやく日常がもどってきた気がする。すっきりした心地で自分の長屋へと帰るために歩き出した。

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