5-2 菊の乱
野菊が唇に歪んだ笑みを浮かべて朔夜をねめつけると、妖気がにわかに膨らんだ。朔夜も刀を握る手に力を込める。いまにもお互いが斬りかかりそうな空気だった。
しかし、意外なことに野菊がふっと微笑んだ。
闇に浮かぶ瞳でじっと朔夜を見据えてその笑みを深める。
「――へえ、お父上の言いつけであたしを捕えにくるとは、親孝行な息子だね。でも父には追いつけず、周りにも認めてもらえない。その心労で倒れちまったのかい。百鬼の若大将が聞いて呆れるよ」
朔夜も豆もぴくりと固まった。
どうして、そんなことを知っているのだ。
だが戸惑いを打ち消す間も与えず、野菊の冷ややかな声がつづく。
「どうせあたしを捕まえても、だれも褒めてくれやしないよ。結局、百鬼に必要なのは若大将じゃなくて総大将なんだから。あんたはいてもいなくても変わらない」
「……ずいぶん詳しいな。俺は褒められるために、戦ってるわけじゃねえ」
低く響く朔夜の声にも臆せず、野菊はからりとした笑い声を上げた。
「嘘だね。褒めてほしいだけのくせに。素直になりなよ。……それでそっちは」
野菊の瞳が豆を映した。
瞬間、背筋がぞわりと震えた。得体の知れぬものを目の前にしているような気分を味わう。まるでどこにも逃げ場がないような、百の目玉に囲まれて身体の奥深くまで覗き込まれているような、そんな感覚だ。
怖い。
そう。怖いと思った。
「そっちの豆腐小僧は――、珍しいね。半妖かい」
ひた、と豆の首を汗が伝う。
「昔から狙われることが多かったんだね。親もそのせいで死んだのか。でもあんた、たいして気にしてない。顔も覚えてないからどうでもいいってこと? 薄情だね」
笑いまじりにそう言って、「いや、ちがうか」と野菊が目を細める。
「半妖なんて面倒な生まれをもたらしてくれた親に恨みがあるんだ。自分を置いて死んだことも恨めしい。そのくせ、ときどき親が恋しくなる。はたまた自分のせいで死んでしまったのだと申し訳なくなる。愛憎渦巻いてるねえ。見た目は笑顔で繕ってるくせに、中身は腐った果実みたいだ」
「……ちがいます」
「ちがわないさ。あんたは気にしないふりをしているだけだ。本当は親のことをずっと考えているくせに。まったく、どいつもこいつも自分の心に嘘を塗りたくるんだから」
野菊の瞳に映されていると、首筋に刃を当てられたような心地になる。
ここにいたくない。
小さく灯った不安をたきつけるように、野菊のあざける声が響いた。
「半妖だから仲間はずれにされるし、いつまで経っても弱いまま。人間にも妖怪にもなれない。ずっとひとりぼっち。かわいそうだね。それなのに虚勢はって、笑顔貼りつけて、憐れでみじめで、本当にかわいそう!」
そのとき、視界に光るものが走った。朔夜の刀が部屋の灯りを跳ね返したのだ。切っ先は野菊の瞳すれすれで空をかく。
「人の心を踏み荒らすのは、いい趣味とは言えないな」
野菊と豆の間に、朔夜が割って入った。表情は見えないが、声は鋭い。
「あんた、体術の心得はないんだな。大人しく反省するなら手荒なことはしない。この賭場から手を引きな」
「反省? あたしが? ――ふざけるな。なにも知らないくせに」
朔夜のひと太刀に目を見開いていた野菊の顔に、再び燃えるような怒気が生まれた。
「あたしの邪魔をしないでおくれ」
後ろからなにかが駆けてくる気配があった。小さなそれは豆と朔夜の脇を通り抜け、野菊の肩に飛び乗る。
「野菊姉さん!」
狐だ。
栗色の毛をした狐は豆たちを見て、一瞬ひっと怯んだ。だが牙を剥きだす。瞳がぎらついたかと思うと、野菊と狐の周りに青い炎が浮かんだ。たちまち炎は大きくなり、部屋全体をなめるように覆う。
豆と朔夜が息を呑む間に、野菊は衣をひるがえして走り去る。
「待て!」
追いかけようとした朔夜の前に、炎が立ちふさがった。すでに退路を塞がれている。このままではふたりとも火だるまだ。しかし、どこから逃げればいいのか。もはや炎の海となっているのに。
「豆」
急に腕を引かれて、はっとした。
「逃げるぞ」
「でも戸口も炎が」
「一瞬だ、息止めろ」
有無を言わせない朔夜の指示に、豆は慌てて口をつぐんだ。
朔夜が刀を構え、炎に向けてひと太刀を浴びせる。妖気を乗せた一撃だったのか、炎がまっぷたつに割れて道ができた。朔夜に手を引かれて外へ飛び出す。だがふたりを逃すまいとする炎が、豆の片腕を捉えた。焼けつくような熱を予期して目を強く閉じる。
しかしその熱が、なぜかやってこない。
――もしかして、この炎。
「大丈夫か、豆!」
社から転がるようにして逃げ出すと、朔夜が豆の肩を掴む。
「……熱くない」
「え?」
「熱くないです、この炎」
「は? そんなわけ」
訝しんだ朔夜が社に近寄り、炎に手を伸ばした。指先が炎を掴むが、朔夜は軽く眉をひそめるだけだった。
「……たしかに。ただの目くらましか」
その言葉を裏付けるように、やがて炎は小さくなって、ぷつっと消えた。社は最初からなにもなかったかのように平然と闇夜に建っている。豆は自分の腕を見たが、火傷もなかった。
「……狐は化かすのがうまいらしいな」
「そのようで。あの狐、またお説教が必要ですね」
「ああ、まったく変な縁がある。あんな炎を使えたとは知らなかったよ」
そろって重い息をつく。無事だったのはいいが、どっと疲労に襲われた。
炎は幻。
……だが、豆の心にくすぶった痛みや暗澹とした気持ちのほうは未だに消えてくれない。隠していた身の内を暴かれた心地悪さが胸の底を這っている。
「大丈夫か、豆」
今度は静かに問う朔夜に、豆は笑って「平気ですよ」と応えた。
――半妖であることが憎い。そんなの当たり前だ。
半妖なんて弱いだけでなんの役にも立たない。疎まれ、ひとりで生きる道を課せられた。それでも必死に笑顔をつくる。豆はそうやって生きてきたのだ。
親に対して思うことも、それこそたくさんあった。気にしていないなんて虚勢にすぎない。最近はとくに、琥太郎のこともあってよく考えてしまう。
野菊の言葉は、剝き出しの豆の心を確実に刺していた。あれはちぐはぐで矮小な己の言葉だ。
「野菊はサトリだな」
朔夜の言葉で思考が引き戻される。
「心を読む妖怪。あそこまで俺たちのことを知ってるそぶりで話すんだから、間違いないだろう」
「……ええ。サトリの力を使えば、加留多で勝つのも簡単でしょうね。相手の心を読んで、自分の手札を知ればいい」
「賭博は茶番だったってことか」
朔夜がやれやれと首の後ろをかく。彼も、野菊の言葉に居心地の悪さを感じているのだろう。どことなく疲れた様子だった。それでも頭をふって、仕切り直す。
「なんにしても、このまま逃がすわけにはいかないな。あいつ、なにも知らないくせにって言ってただろう。この賭博にはまだ裏がありそうだ」
「裏、ですか。……たしかにあるでしょうね」
思い出すのは、猫を抱えた少年の姿だ。
「心当たりがあるのか?」
「ええ。まだ確証に欠けますが」
「そうかい。豆が言うなら、間違いないだろうけど」
ぱん、と朔夜が自分の頬を叩く。再び豆を見たときには、真剣な眼差しがあった。
「無知だと罵られるなら、知ればいい。豆、野菊の妖気を追えるか? 今度は俺たちが、野菊の心の内を暴いてやろう」
背筋を伸ばして立つ朔夜は、百鬼の若大将の顔だった。朔夜は強い。豆もいつまでも引きずってはいられないと、目を閉じる。本当は、再び野菊と正面から向き合うのは避けたかった。しかし散々言い負かされたまま逃がすのも癪だ。
すっと目を開く。
「見つけました。まだ追いつけます」




